Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エクレシア内での信徒と聖徒

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ヨハネ17:20
Ου περι τουτων δε ερωτω μονον, αλλα και περι των πιστευοντων δια του λογου αυτων εις εμε,

「わたしは彼ら(わたしに与えてくださった者ら)のためばかりではなく彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします」。
エスの発言 ⇒ 歴代第二6:32-33(ソロモンの異邦人への執成し)


◆ルカ12:41
Ειπεν δε ο Πετρος, Κυριε, προς ημας την παραβολην ταυτην λεγεις η και προς παντας;

そのときペテロが言った「主よ、その例えはわたしたちに話していらっしゃるのですか、それとも他の者たちにもですか?」(「忠実で賢い管理人」について)


◆ローマ8:9.11
9.υμεις δε ουκ εστε εν σαρκι αλλα εν πνευματι, ειπερ πνευμα θεου οικει εν υμιν. ει δε τις πνευμα Χριστου ουκ εχει, ουτος ουκ εστιν αυτου.
しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉ではなく、霊と和しているのである。しかし、もしキリストの霊を持たない人がいるなら、その人は[キリスト]の(に属す)ものではない。


11.ει δε το πνευμα του εγειραντος τον Ιησουν εκ νεκρων οικει εν υμιν, ο εγειρας Χριστον εκ νεκρων ζωοποιησει και τα θνητα σωματα υμων δια του ενοικουντος αυτου πνευματος εν υμιν.

もし、イエスを死人の中から生き返らせた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中から生き返らせた方は、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも、生かしてくださるであろう。



◆コリント第一1:2
τη εκκλησια του θεου τη ουση εν Κορινθω, ηγιασμενοις εν Χριστω Ιησου, κλητοις αγιοις, συν πασιν τοις επικαλουμενοις το ονομα του κυριου ημων Ιησου Χριστου εν παντι τοπω, αυτων και ημων·

コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々(冠詞含)と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。(文章順注意)

コリントにある神のエクレシアへ、キリスト・イエスにあって浄められた、聖なる者と呼ばれる者(たち)、及び、その人たちの、そしてわたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々(冠詞含)へ。(自訳)
主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です』。


◆コリント第一14:16
επει εαν ευλογης [εν] πνευματι, ο αναπληρων τον τοπον του ιδιωτου πως ερει το Αμην επι τη ση ευχαριστια, επειδη τι λεγεις ουκ οιδεν;

そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心([無学な][普通の][経験浅い])者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。


◆エフェソス1:1
Παυλος αποστολος Χριστου Ιησου δια θεληματος θεου τοις αγιοις τοις ουσιν [εν Εφεσω] και πιστοις εν Χριστω Ιησου·

神の御旨によってキリスト・イエス使徒であるパウロから、(エフェソスにいる)聖なる者たち そしてキリスト・イエス信じる者たちへ。

◆同1:15
Δια τουτο καγω, ακουσας την καθ υμας πιστιν εν τω κυριω Ιησου και την αγαπην την εις παντας τους αγιους,

わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし(某訳はἀγάπηνを訳さない)


◆コロサイ1:2
τοις εν Κολοσσαις αγιοις και πιστοις αδελφοις εν Χριστω· χαρις υμιν και ειρηνη απο θεου πατρος ημων.

コロサイにいる聖なる者たちそしてキリストを信じる兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


◆テサロニケ第二1:10
οταν ελθη ενδοξασθηναι εν τοις αγιοις αυτου και θαυμασθηναι εν πασιν τοις πιστευσασιν, οτι επιστευθη το μαρτυριον ημων εφ υμας, εν τη ημερα εκεινη.

その日、イエスは降って来られ、聖なる者たち[冠詞有]の間で崇められ、信じる者たち[冠詞有]の間で驚嘆されるであろう。


◆ヘブル6:9-12
(前後の部分と人称が「わたしたち」から「あなたがた」に変化している)
9.Πεπεισμεθα δε περι υμων, αγαπητοι, τα κρεισσονα και εχομενα σωτηριας, ει και ουτως λαλουμεν·
10.ου γαρ αδικος ο θεος επιλαθεσθαι του εργου υμων και της αγαπης ης ενεδειξασθε εις το ονομα αυτου, διακονησαντες τοις αγιοις και διακονουντες.
11.επιθυμουμεν δε εκαστον υμων την αυτην ενδεικνυσθαι σπουδην προς την πληροφοριαν της ελπιδος αχρι τελους,
12.ινα μη νωθροι γενησθε, μιμηται δε των δια πιστεως και μακροθυμιας κληρονομουντων τας επαγγελιας.

しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。
神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖なる者たちに仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。
わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、
怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。


◆ペテロ第一1:2
κατὰ πρόγνωσιν θεοῦ πατρὸς ἐν ἁγιασμῷ πνεύματος εἰς ὑπακοὴν καὶ ῥαντισμὸν αἵματος Ἰησοῦ Χριστοῦ,
イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。


ヨハネ第一2:2
και αυτος ιλασμος εστιν περι των αμαρτιων ημων, ου περι των ημετερων δε μονον αλλα και περι ολου του κοσμου.
そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。しかし、わたしたちの罪だけでなく、全世界の罪のためでもあります。


ヨハネ第一2:27-
και υμεις το χρισμα ο ελαβετε απ αυτου μενει εν υμιν, και ου χρειαν εχετε ινα τις διδασκη υμας· αλλ ως το αυτου χρισμα διδασκει υμας περι παντων, και αληθες εστιν και ουκ εστιν ψευδος, και καθως εδιδαξεν υμας, μενετε εν αυτω.

あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。

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■エイレナイオス

神を恐れ、御子の到来を信じ、信仰によってその心に神の霊を迎え入れる人々こそ清い人々、神に生きる人々と呼ばれる。
人間を浄め、神の命へと導き上げる父の霊を有しているからである。
(異端反駁Ⅴ9:1-3)


■ヘゲシッポス
クレオパの子シメオンの殉教を指して)
「エクレシアはそのときまで純粋で汚れない乙女であった。
なぜならば、たとえ救い主の教えの健全な規範を歪めようとする連中が存在しても、彼らは依然として暗闇の中に身をひそめていたからである。」

しかし、使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。
彼らは、使徒たちが一人も生き残っていないことを知ると、それからは素顔のまま真実の教えに対抗し偽って知識(グノーシス)と呼ばれたものを宣べ伝えようと企てた。
(教会史Ⅲ32)


エウセビオス(Caes,)

そのためシモン(マグス)も同時代の他の者らも、この使徒時代には何の組織も作ることが出来なかった。なぜなら、真実の光と、そのころ神から出て人類を照らし、地上で活動した使徒たちに宿った聖なるロゴスは、すべてに打ち勝ち圧倒したからである。
(教会史Ⅱ14)


[使徒たちについて]
彼らは自分たちと共に働く神の霊と自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇跡を行う力だけを用いて、天の王国の知識を全世界に宣べ伝えた。
(教会史Ⅲ24)


■クレメンスRm
ローマのクレメンスは福音書を記した人々のことを「これらの聖徒で、真に聖なる霊を受けた者たち、すなわちキリストの使徒たちは、完全に潔い生活をし、・・(中略)彼らは自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇蹟を行う力だけを使って、神の王国の知識を全世界に述べ伝えた。」


(アンティオケイアのイグナティオスに言及した後で)
この当時最もよく知られたひとりはクワドラトスであったが、伝承では、彼はフィリッポスの娘たちと同様に預言の賜物でも有名であった。
この者たち以外にも、当時多くの人々が知られており、使徒たちの継承の序列の初めの方に位置していた。・・・
当時はまだ神の霊による多くの奇跡的な力が彼らを介して働いたので、大勢の人々が、皆初めて聴いただけでも、その魂に世界の創造者への敬虔な念を抱いたのである。
(教会史Ⅲ37)


(殉教者アルキビアデスの時代[二世紀中葉]について)
そのころ、フリギアではモンタノスやアルキビアデス、テオドトスとその追随者らが、その預言活動によって大きな評判を得始めていた。
なぜなら、当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々のエックレシアで行われていたので、そのために人々は彼らも預言者であると信じ込んだのである。
(教会史Ⅴ3)


■ヘルマス(Roma)
神の霊を宿した人が、神の霊への信仰に満たされた信徒たちの集まりに入り、この集まりが神に祈り始めると、その時この人を守る預言の霊を持った天使が入り、神の望む言葉を人々に語りかける。
神の霊を有している人はその生活によって見分けられる。
(牧者XI,8-10)

偽の預言者は自分を実際以上に見せかけようとする。最上の席に座ろうとし、自分の預言に対して報酬を要求する。・・
神の霊に満たされた者らの中に彼が足を踏み入れ、人々が祈り始めると、たちまち彼はからっぽになってしまう。この世の霊は恐怖にとらわれて彼から逃げ去り、この男は黙して一言も発することができなくなってしまう。
(牧者XI,13)


■「イザヤの殉教と昇天」(syria.2ndCent)
再臨が近付くと「聖霊が多くの者から遠ざかり、そのときには預言者も少なくなり、ここかしこに一人、二人というくらいになる」[Ⅲ,25-27]
ひいてはこの書の成立した第二世紀のシリア方面からの預言者の激減が預言されていたと描写。


■オリゲネス
使徒たちについて)「彼らの宣言の根拠の探求に関しては、それを聖霊の優れた賜物を受けた人々、特に聖霊から言葉と知恵と知識の恵みを得た人々に任せた」。(「諸原理について」[περι αρχων τομον])






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