Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

宗教と闘争

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ヘゲシッポスだったか、本来のキリスト教は教義の宗教ではなかったのが、異邦人が入り込んできて、彼らが教義をいじくり回して論争の場となったと書いたのを目にした。

これはペテロ第二の変貌に関する記述を彷彿とさせる。
そこに見えてくるのは言葉をめぐる争いから離れた、神の力の表明としての初代キリスト教ではないか。

言葉のことで争わぬことはパウロもテモテに命じたことであった。
そのような人は精神的に病んでいるとも言っている。

人が倫理的に問題を抱えた存在であることを認めるなら、何故に自分には他者を間違いの罪に断ずるするほどの正義があるなどと主張できようか。



思うに、敵を作って仲間を団結させるのは上に立つ者、集団をまとめる者の利害ではないのだろうか。だが、敵を作ったときにキリスト教は戦う宗教に変質し、この世の特性を顕示する。

人は持論を社会に認めさせるために、必ずしも反論を論破せねばならないわけではないだろう。不完全な人間に反論が生じるのを止めることはできない。もしそれができたら神である。



問題は教義論争そのものにはなく、それをもたらす人の内面の動機の方にあるだろう。これは教義よりも遥かに厄介なものであり、こちらは顕在化しないので、教義で論争する人々は、実にこの内面の厄介なもののゆえに戦っている。

そうなると、言葉の争いは教義をも超越した単なる戦いとなってしまい、同情も仁義もないヤクザの相克といくらも変わらない。
そこではキリスト教の教義も、ただの出汁か薬味、せいぜい表看板や偽名義に成り果てるだろう。
争い合うキリスト教徒は、既にその名に値しない。
そのような闘争なら、なにもキリスト教の中ではなく、どこか他所でしてほしい。


即ち争いの原因は、正当化と、そうしようとする動機にある。
つまり、不謬でないものが何かを不謬だと称えようとするところにこそ根本原因であるところの利己心や強欲があるだろう。(これが倫理上の尺度を失った人間の実相だろう)



こうして、中世期までに公会議みられる姿は、本来の初期キリスト教の姿をねじ伏せたのではなかったか。
つまりは神の力(聖霊)の表明のない時代の人間臭い迷走である。

しかも、今日のキリスト教もこれを繰り返しているのを見るのは辛いことである。禁書や交流制限や果ては敵視を上から課す方法は個人の良心を弱くし、あるいは世界全体を敵と見做させるなら、そうさせる者は自らを人の上に君臨する優秀な良心であると豪語していることにはならないだろうか。
それは人々を卑しめ、人の尊厳を踏み躙りはしないか。

目先の結果がどうあれ、それは人々に本来備わった良識と判断力を弱めるだろう。しかもそれは神に対しての判断も含めてのことである。

誰かの教義なり理解なりの無理を指摘するのは仕方はないとしても、自説を正統とし、他の人々を従えることについて倫理的問題を避けられるだろうか。


確かに、世間一般は間違いなく「世的」であって放縦ではあるが、敵意を以って戦うべき相手は自分自身の中にこそ存在する「世」ではないのか。
そうでなければ、果たして不完全な人を互いに愛すことができようか。


もし、自分のではなく神の正義を擁護したいのであれば、論議に負けても良いではないか。それは神の敗北ではない。
そうすれば、持論が正しいか否かは神の行動がいずれ決してくれようし、そのとき神に抵抗したいなどと思わないだろう。

それでも議論に勝たねばならないと思うなら、そこには神や真実を求めるのとは異なる理由や動機があるだろう。それは人間を超越した真実を自分の所有に帰させるための利己的な横暴ではないか。
あるいは、自分が神を代表しているなどと主張したいのだろうか。



しかし、現今の社会で持論を不動のものにできたところで、神の語るときにそれが何であろう。
それでもなお、自己の義に邁進することは、すなわち神への敵対であり、それはヨブが悔い改め、ヨナが苦心の上学んだことではないだろうか。

他は間違いだと言い張ったところで、それは明らかに神の観点を欠いている。我々の主張できるのは蓋然性の大小が精々ではないか。
それを各個人が判断し、それを互いに尊重すればよろしい。

もし、何かの宗教行動に社会的不都合があるというなら、公権力に事を委ねればよいではないか。それ以上の事を成そうとするのは、人を裁く立場に己を押し上げることであり、神の裁きの位に座する暴挙であろう。


しかし、人にはより蓋然性があると思えることがあるに違いない。
それであるから、持論は開陳すればよろしい。
しかし、それに正統のラベルを貼ってはいけないないだろう。
なぜなら、それは詐欺である。

倫理的欠陥があり、神から離れた人間は真実を持ち得ない一方で、自由に理性を働かせ、自分の信じられる事柄(人や組織でなく)を信じるようにできてはいないだろうか。
その自由のないところに圧制があり、詐欺があり、神の象りに造られた人への軽蔑があるだろう。

人は呼吸するように、ふんだんな自由の中で考えをめぐらすようにできている。その自由こそが、人間をより人間らしくしてきたのであり、我々現代人の多くは歴史に積み重なったその相続財産の上で恩恵を受けてきた。


初代キリスト教に、自由な教義の選択と習慣の自由があったように、現状で蓋然性があるのは是々である、という以上のことは人を超えたことであろう。

それを乗り越えるなら、神の語られるときに、少なくとも撤回する潔さが求められ、振り上げた拳が高いほど恥を忍ぶ覚悟が要るだろう。
加えて、追随者が居るなら謝罪とその贖いを免れない。
それでも、自己の義に固執するなら、結果は恐ろしいことにならないか。

まして、神からの力の証し(聖霊)無くして、自分たちを神の代理や経路などと称していたなら、その責は贖い得るものなのかどうか、わたしにはあまりに恐るべきことで見当もつかない。










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