Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

正しい事のために悪いことを行うべきか?

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キリスト教徒がキリスト教徒に最初に暴力的迫害を行ったのは、アウグスティヌスの頃からであるという。

謹厳な見方をするドナトゥス派は、意固地にさえ感じられるほど自らの義に固執した。

それは、帝国の迫害を受けた期間に権力に妥協した教師たちの処遇に関するもので、ドナトゥス派はそれら屈した教師たちの行ったバプテスマなどは無効だと言い張っていた。

つまり、自分の義の基準から一歩も退かぬことが神に正しく従うことであるとの考えを強くしたのであろう。

しかし、この考えには少々の瑕疵もある。
なぜなら、この考えでゆくとバプテスマを受ける本人よりは、授けた介添えのような人物の道徳性にスポットを当てることになり、信徒本人がバプテスマに適った歩み方をすることよりも、指導層の(彼らなりに合点のゆく)完徳に焦点を当ててしまうからである。

それは、またバプテスマそのものの儀式性や秘蹟性を強調してしまい。キリスト教の本質を行動から儀式に置き換えてしまう。


しかしながら、ドナトゥス派は侮れない勢力を構成するようになり、アウグスティヌスの居た北アフリカでは、キリスト教を二分するほどであったという。

それまでにも、様々な異端の派が現われていたが、ドナトゥス派については、その勢力の大きさといい、主張する事柄の見かけ上の道徳性には普遍教会もほとほと手を焼いた。

この論争には、権威を持つべきは誰かという問題が関係していた。
つまり、宗教権威者の正統性であり、普遍教会が叙任した者らとドナトゥス派の任命した者らとが、信徒を巻き込んで争ったのである。

アウグスティヌスキリスト教界が分裂することを望まなかったし、今後も
ドナトゥス派が自派の正当性を主張し続けるなら、これからもずっと普遍教会の不当性を言い立てるであろうし、そうなれば、争いは絶えないと予測したであろう。では、政治的方法を発動するべきか。それはキリストの方法だろうか。

義戦の引き金に手をかけた人物としてアウグスティヌスを挙げないわけにはゆかないようだ。

彼は暴力的手段であっても、異端者を「目覚めさせる」ためであれば止むを得ないと結論する。

しかし、そのような手段で異端者が我に返り目覚めることがあるのだろうか?自分の義に燃える人々が迫害に遭うなら益々殉教者の正義をまとうのであり、自分を教師に仕立て、懲らしめの鞭を振るうという「暴力的教育」の果てにあるのは単なる暴行や殺人ではないだろうか?それは悪行の最たるものである。

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それから千年以上の時を経て、普遍教会によるその手は食わないと、賢く振舞った人物がいた。何食わぬ顔でルターを保護したザクセン選帝侯フリードリヒである。

もし、この人物が普遍教会に対して無策でいれば、ルターを用いて自国領からカトリックの支配を駆逐することは出来なかったであろう。

またルターの主張にカトリックが幾らかでも自らを省みることがあったろうか。


これはつまり、「世俗の腕」と呼ばれた政治権力を用いる普遍教会を目覚めさせるにはもうひとつの「世俗の腕」を要したということではないか。
もっとも、だれも目覚めたわけでもないようで、キリストが言った「わたしの王国は(争い合う)この世のものではない」との言葉はいずれにも無縁であったように見える。


ともあれ、双方の事例に共通することは、人の正義感を力で打ち崩すことは期待できないということである。

人は自ら何が正義かを判断し、それに従う先天的権利を有するといってもよいようだ。それを力でねじ伏せることは人間性を破壊することである。

だが、宗教家というものは何かと自分の正義を他の人々に「これは正統だ」と押し付けたがる。これもまた権利を無視した強制であろう。
そこには信者囲い込みや教勢の拡大など様々な動機が働いているだろうし、どうやらそれはキリストとは関係がなさそうである。

でなければ、キリストがわざわざ世を裁き、それもひとりひとり検分することにどんな有効性が残るのだろう。

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やはり、自分が正しいと思う事柄のためには悪も辞さずとするところに、大きな罠がある。
そこで人の良心は何らかの教義に欺かれて麻痺しているだろう。
もし、その宗教の教義に染まっていなかったら自然な良識が留めたであろう異常な行動も平然と行うのである。
(これは宗教ばかりではないが)


しかし、キリスト教に関する限り、人間は元々、神の前に罪を免れない存在ではなかったか。
では、その教えが導き出すであろう謙虚さはどこにいったのか?

どんな人であっても、自分に「真理」があるなどと思っていれば高慢を免れない。それは人間の分を越えたことだからである。
間違いを犯しやすく、しかも罪ある人間に真理を持っていると誇る謂れが果たしてあるだろうか。
それとも、誰かが無謬だとでも、あるいは神に導かれていると主張するのか。

それは随分と神を考慮しない考えであり、その人の中で真の神は退けられ、地上の事物に引き下げられている。それは冒涜という領域を侵してはいないのか。

つまり、己の義で人を裁こうとするなら、その者は人間の立場を弁えてはいまい。もちろん、それは神を知らぬ行いである。






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