Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

キリスト教における曖昧な正当と倫理

倫理上完全でない人間が倫理的正当を称え得るか?

政治党派にせよ、宗教教派にせよそれは現実に存在するか?

殊に、宗教において信仰者は自派の正当を信じ込んでいる。
それは相対的なものでさえない。

自分たちが間違いを犯さないわけではないが、自派は正当であるという。
つまり、自分たちの教理が正しいので信じるに価するということらしい。

それがどう正しいのかについては、様々な理由を挙げるのだが、では倫理的に完成されているのかといえば、どこの宗派にもあちこちつぎはぎが目立つものである。

また他方、教理上でのミスを認めざるを得なくなると、修正したので謙遜であり、今度こそ正しいという。(これですら外部から見ると異様だが)

他に、自分たちは神から是認されているので正しいというものもある。
ではその証拠はといえば、聖霊に導かれているからであるという。
さて、間違いを犯したのは聖霊の導きが不十分だったのだろうか。

聖霊がどのように導いているのかといえば、これは外部者が納得できるような検証可能なものではない。
多くの宗派にも聖霊の導きばかりか、聖霊の注ぎや内在を称える人々も少なくはないが、どれも心理作用の域を出ず、五旬節のようなものはない。

では他の派にも聖霊が注がれているのかといえば、否定され、実は悪霊だとされたり、他派のは間違った聖霊の解釈をしているということらしい。

総じて彼らは聖霊の顕著な現われ、人類全般に明らかになるような顕現をけっして望まないだろう。聖霊のような神の意志が知らされるようなものには、自派の教えを守るためにおとなしくしていて欲しいものであり、そうして神の声も意志も聞きたくないのだろう。



これらを総合すると、彼らの唱える「聖霊」は、外部からは途方にくれるほど検証困難である。聖霊の証拠が曖昧だからである。

まして、正当の検証となると倫理面を客観的に計ることそのものに無理がある。





これでは、宗教を分析して客観的に正当を指し示すことは不可能である。
それゆえ、多くの宗派がそれぞれに自派の正当を主張し続けることができる温床がそこにある。

エスが「誰も働くことの出来ぬ夜」また、「人の子の日を見たいと願いながら見られぬとき」が来ると語っていたのだが、こうしたキリストのアプーシアの状況を述べていたのではないだろうか。

しかし、もし倫理的完全が到来するとなれば事は別である。
実は宗教家も信者もそれを望んではいまい。つまり、キリストの顕現を却って望まない。

その顕現ともなれば、自派の教えは撤回を免れない存亡の危機となり、自分たちの信じたことが無駄になるからである。
このように、信仰にあるものは却って真実の明かされることを望まないだろう。それはキリストの聖徒らへの反対行動に彼らを駆り立て、結果的に「大いなるバビロン」に属することになりかねまい。


彼らの信仰の方式に問題があったのではないか。
つまり、自己中心的信仰である。

何かを得られ、自分が得をする信仰は神の企図よりはよほど自分の必要を意識し、それに沿って教理が編まれてきている。
その危機が到来したとなれば、猛烈な勢いで教理を守ろうとするであろう。
なぜなら、自分の利害の危機だからであり、神の意志はといえば、自己の利益と同じであると信じ込んでいて、ほんの附録のようなものである。
(自分の願いを叶えてくれるのが神であるから)

こうして、信者にとって自派は「正当」なのではないか。
背後に働くのは神への愛などではなく、利己心である。

したがって、これらの人にとって、神の真正さを証す務めよりは、自派のそれを証明してみせることの方がよほどの重きを成すに違いない。

彼らの教理の危機は他宗派の教理との衝突が一番大きいのだが、やがて神の真正さが示されるときにも同じような危機と捉えられるだろう。

こうして、彼らは「神の義」に服すことを拒絶しかねない。
これは神の裁きにおいて、人が示す信仰心とは別に内心の自己心を自ら表明することになり、真に精妙である。
まさに「主よ」という者が是認に入るわけではないという言葉は、この神の裁きの術に関わるだろう。


そうであれば、人がそれぞれの宗派に分かれ、正当を主張し合い、争い合うのは、神の裁きの前段階のようなものであるのかもしれず、そうなのなら、そっとして置いた方がよさそうである。

尤も、これらの人々が人間の正当を争い、神の正当を追いやる事の非を知らせたとしても、大半は何ら気づきもせず利己心の「崇拝」に邁進するのだろう。



こうして推論すると、大娼婦「大いなるバビロン」の実体がより見えるような気がするものである。

ご利益信仰は大変な結末を迎えるようだ。

「自派正当」と「ご利益信仰」は固く結びついているようだ。
いずれも、自己本位な信仰で神を度外視している。





感想:宗教を信じている人々と接するのは非常に疲れる。
皆、本当にうなじが硬く、間断の無い緊張を強いられる。
自分はそうはなりたくないが、反論すれば同じになってしまう。
もうすこし、しっとりと人間らしく生きられぬものか。




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