Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

普遍教会の礎

      • 引用

・ロゴスの受肉
ヨハネ福音書受肉観には、イエス様ただお独りのみを通じて授与される救済と、同時にその救済が、すべての人たちにとって、それぞれ「自分の民」の救済ともなりえるという、多様な可能性が秘められています。序文の構成が、全体としてこのことを示唆しています。
 永遠の神と一つであるロゴス、このロゴスが地上に人間となって来られたということは、永遠と時間、神と人間、無限と有限、天の超在と地への内在、この二つの相反する要因が一つになることを意味します。しかしこれは、通常ではとうてい考えられない不可能な矛盾であり逆説ですパウロの言葉で言えば、「人の知恵」では思いも及ばないことです(第一コリント1章20〜21節/同2章9節)。キリスト教ではこの矛盾を「躓(つまず)き」と呼んでいます。
特にマルコ福音書では、イエス様が神とひとつであることが、「メシアの秘密」として、人の目から最後まで隠されています。イエス様が十字架で息絶えて初めて、「この人はほんとうに神の子だったのだ」とローマの兵士がつぶやくのです(マルコ15章39節)。それまでは、弟子たちもイエス様の周囲の人たちも、イエス様のなさる癒やしや不思議のしるしに驚きながらも、その「ほんとうのお姿」を洞察することができなかったとマルコ福音書は伝えています。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音」で始まりますが、エス様が「キリスト」(救い主)であり「神の子」であることは、最後まで「隠されて」いるのです。




・Atansius
『御言葉の受肉について』(De incarnation Dei)
 「実に、この方(御言葉)が人となられたのは、われわれを神とするためであった。また、この方が肉体を通してご自分を現されたのは、見えない父の認識をわれわれが得るためである。また、この方が人々の侮辱を耐え忍ばれたのは、われわれが不滅を受け継ぐためである。この方は、苦しみえぬ方、朽ちざる方、御言葉そのものである神として、いかなる点においても損なわれることのない方であったが、人々のために、これらの苦痛を耐え忍ばれたのであり、ご自分の受苦不能性によって人々を守り、救われたのである。



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フィリッポス帝の第3年
アレクサンドレイアでは16年間Epであったヘラクレスが没し、ディオニュシオスが継いだ
HE2-71p

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単性論 Monophysitism
キリストのうちに人性と神性の二つの性(ナトゥーラ)が独立して存するとするキリスト両性論に対し,受肉によって人性は神性に融合されて一つの性(神性)となったとする説。ギリシャ的神観の残滓として古代・中世にわたり長い論争を生んだ。

キリスト論をめぐる論争において5世紀前半に現れ,政治的に利用されてビザンティン帝国の東方(エジプト,シリア)の離反を促した神学説。〈キリスト単性論〉ともいう。単性論の極端な形は,提唱者ともいうべきコンスタンティノープルのエウテュケスによれば,キリストは受肉前は神性と人性の両性を有するが,受肉後は唯一の本性しかもたない,すなわち人性は神性に吸収されるとの立場である。単性論の背景として,アレクサンドリアのキュリロスにいたるまでのアレクサンドリア学派の神学が,キリストの完全な人性を無視してすら〈受肉したロゴスの唯一の本性〉を重視する,換言すればキリストをあくまで神と考えたい,との傾向をもっていたことにある。

キリスト教の正統とされたアタナシウス派の三位一体説を否定し、キリストの人性は、この世において神性と融合し(または人性は仮性で、神性のみを認めると説明する)、単一の神性をそなえた存在となったと考える、有力な異端の一つであった。
その考えは、キリストを人性と神性の両性を持った存在とする両性説(その発展したものが三位一体説)と対立した。ネストリウス派の考えに始まり、根強い支持があったが、ネストリウス派が431年のエフェソス公会議で異端とされた後、451年のカルケドン公会議では単性説そのものも異端とされた。その後、エジプトのコプト教会や、エチオピアアクスム王国)、シリア(ヤコブ派)、アルメニア教会などにひろがり、現在でも残存している。

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上記、単性論と一神論が混同されている書物は少なくないようだ。

単性論は三位一体論から派生したもので、一神論とは異なり、三位一体の中での煩雑な論争を引き起こしたものに過ぎない。
また、「一位論」という言葉は殆ど用いられておらず、「単性説」という語も上記との違いが不明瞭なようなので、今後は「一神論」「唯一神信仰」と呼ぶのがよい。

しかし、ルカ10:22-23はどういうことになるのだろうか。

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万人祭司・万人予言者・万人王
クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。C.E.ジェファソン「教会の建設」


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