・苦衷の人生への対処としての宗教
苦難に遭うと「どうすればよいか」と考えるのは自然な反応ではある。
そこで「上なるもの」に対しての自分の振る舞いを問うことになる。
それは言動への規制であったり、善悪基準に従うことであったりする。
その方法論に堕した宗教は数多い。
しかし、「上なるもの」が創造者である場合には、人間の造りも性向も承知しているはずであり、基準に従わせることそのものに矛盾が在る。
そこで基準に従うよう教える宗教と共に、「人生は試練である」という派生系も生じる道理がある。
しかし、前提として「どうすればよいか」との問いそのものに的外れなところがある。
その関心が自己に向き過ぎているのである。それは容易にパリサイ派の精神へと向かうことになる。メシア初臨の時のユダヤ教指導層の精神は、諸宗教の定式化でもある。
・人間問題の根本
倫理不全による道徳性の限界ではあるのだが
それは不道徳性で顕著に問題が生じているかのように見えて実は逆である。
人々が道徳的であると評価し、推進するところに別の不道徳が潜伏する。
ゆえに、理想主義や道徳主義や啓蒙主義などから悪質な害悪が生じている。
人間は徹頭徹尾自らの悪から逃れることができず、理想を懐いても同じである。
人の「犯罪」と一般的に呼ばれている悪行だけでなく、人それぞれに良いと思っている事柄にも害悪の淵源があり、大抵の人はそれに気付けない。
そこで社会悪が生じる結果となっている。人々は問題が大きくなりそれぞれに身に及んではじめてそれに気付き糾弾し始めるが、その連鎖には限りが無い。
確かに立法、司法、行政が存在しなければ生活は成り立たないのだが、同時にそれらが害悪の淵源となる確率は常に存在し続ける。これが「この世」の限界であり『アダムの罪』の隠しようも無い表れとなっている。
そこで人間の根本的問題を直視しようとするなら、社会常識から離れた視座に就かねば到底その本質を見極めることはできないし、却って反発することも考えられる。
『アダムの罪』の観点から見るなら、はじめから「この世」は確立できない不安定なものであることを認めなければならないからであり、それは社会の成り立ちを根底から覆す以外に解決方法がないからである。
・聖書は間違いのない書物か?
旧約にはソフェーリムのミスが在り、今日のユダヤ教はそのままに記す。
またソフェーリムが自らそれ以前の写本に手を加えた箇所が存在する
新約にはマルコとルカにそれぞれ一ヶ所ずつ本人の勘違いが明らかにされている
パウロは性急に語るところがあり、エイレナイオスは倒置法と呼ぶが、ペテロも指 摘しているように判り易い文章とはいえず、解釈の難しい箇所がある
マタイ福音は本人がヘブライ語で書いたものを後からギリシア語に直したためか 非常に判り難く誤解され易い箇所がある
結論として逐語霊感説は実態と一致しておらず、それは単純な決め付けを望む「敬虔な」信者の願望に過ぎず、自分の信仰に安心していたいための安直な動機に由来しているであろう。欠けているのは、求め続け、敲き続ける探究心であり、その熱意があるなら、聖書を巡る人間のミスを超えてでも、聖書に神の霊感の痕跡を見出せるはずである
・どうして様々な聖書解釈が存在するか
そもそも神の霊感によるか、その意図に沿って書かれたものを、人間の側からの理 解で解釈するには限界がある。ダニエルにあるように、書かれていながら秘められ ている内容もあり、その理由は誰にでも同じ理解を与えないためであり、それは個 人の裁きに関わっている。したがって、人それぞれに解釈が生じるのは神の意図す るところであり、真相は聖霊を受ける者が教えられる範囲に限られるうえ、今日に 聖霊注がれた者が居ない以上、聖書のすべてを理解することも解釈することも不可 能である。それでも、『裁きの日』に必要な事柄は聖霊注がれる弟子らによって知 らされることは明らかにされているので、聖書の言葉は、その発言の裏づけを与え るものとなり得る。その聖霊の言葉の真実性は聖書によって示される。
・律法契約の国家法の世俗、動物の犠牲を繰り返す模式性
国家維持のための権力行使、法執行のための権力行使
・教会員は、一度信仰し救われると救いは取り消されないと教えられる。
これは新しい契約への誤解から生じている。
しかし、実際には「不良クリスチャン」が居て、この固定化された救いの思考法に戸惑いがあり、教え手は何かと理由付けに苦労している。
そこである団体では「破門」や「除名」のような処置が必要となり、「正しいクリスチャン」なる陳腐な造語が現れている。
これは『新しい契約』でのメシアの裁きを必要とするものであることを新約聖書は繰り返し教えているにも関わらず、キリスト教界はそのヴィジョンを持たないために、互いを裁くという愚行に陥る。
はじめから「洗礼を受ければ一度限り救われる」と教えなければこうはならない。
どこの宗派も大抵はこの陥穽に落ちている。
これは新教系の信者らの考える「携挙」の概念とも一致しないのだが、それもまた荒唐無稽な複雑な理解となっている。
・最後の晩餐の時点で使徒らの試みが終わって十一人に信任が為されたなら、その場で聖霊の注ぎが起きても良かったか?
そうならなかった理由には、一つに五旬節に至るまでの七つの時を要した。また、十二使徒が揃っている必要についてペテロが語って対応している。
またヨハネは、イエスが栄光を受けてこそ聖霊が注がれることについて語っている。
血の注ぎ出しが無いところで契約は発効しなかったともいえる。パウロ(ヘブライ書)はそれを『契約締結人の死が備えられて契約が有効となる』と述べる。
キリストへの信任は受難の前に認められ、それに伴ってきた十一人にも仮承認が行われたゆえにパスカに与っている。ユダ・イスカリオテも聖餐の場に居たことをルカが告げているが、キリストは受難の直前の祈りの中で『滅びの子』が一人失われたことを語る。そこでユダ・イスカリオテの倍餐は、別の者の代理と取ることができ、同時に終末の脱落聖徒から偽キリストの不法の者が登場することを予示するものともなっている。
ユダ・イスカリオテの空席はマッティアスが充当したと見るべきなのは、聖霊の注ぎの場にパウロはまだ回心していなかったことによる。また、彼は生前のイエスに同行していないが、マッティアスは肉のイエスを知っており、使徒らほどでないにしても、キリストに同行したグループには含まれていた。おそらくユストと共に七十人の一人であったであろう。
・「一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」
墨翟
国家権力の本質が暴力にあるからであろう
・官無常貴而民無終賤 墨翟
この時代科挙が有ったか?有っても人の一面的判断であり、貴賎は存在してもその判断は極めて難しい。その難しさは神秘でもある。
・墨翟の上帝の絶対視と「天志」には一般的キリスト教との共通性が見える
また、そこが限界でもある
・「あなたらのただ中」[μέσος ὑμῶν] a--nm-s 形)主男単 中央の,中間の,中の Jh1:26
[ἐντὸς ὑμῶν] pg 前)属 内側を、内部に Lk17:21
・「女の胤」
[וְאֵיבָ֣ה ׀ אָשִׁ֗ית בֵּֽינְךָ֙ וּבֵ֣ין הָֽאִשָּׁ֔ה וּבֵ֥ין זַרְעֲךָ֖ וּבֵ֣ין זַרְעָ֑הּ ה֚וּא יְשׁוּפְךָ֣ רֹ֔אשׁ וְאַתָּ֖ה תְּשׁוּפֶ֥נּוּ עָקֵֽב׃ ס]
[זַרְעָ֑הּ ]ザルアハ=[σπέρματός]LXX
意訳であれば『女の胤』もある。
但し、Isa57:3に1つの別用例あり、[זֶ֥רַע]ゼラーN‑ms=[σπέρμα]
Ps105:6『アブラハムの胤』[σπέρμα Αβρααμ ]=[זֶ֭רַע אַבְרָהָ֣ם]
[זֶ֭רַע אַבְרָהָ֣ם עַבְדּ֑וֹ בְּנֵ֖י יַעֲקֹ֣ב בְּחִירָֽיו׃]
ゼラーという用法では同じでギリシア語もヘブライ語も「種」また「精子」
もしゼラーが慣用的な単語であれば特に逆説性が無いことにはなる。
慣用的ならあまり拘ると却って勇み足になる。
もう少し学ばないといけない
・Deu29:1 WYHWHがモーセを仲介してイスラエルの子らとモアブの野で結ばせたホレブのものとは別のものである
・天界の祭司職が未成立であるように、モーセの祭司職が換えられたような「キリストの律法」は隠されている。愛の掟がキリストの律法を具体的にすべてを教えるものではなく、精神を表している。『命じたことのすべてを守り行え』とは、律法に関するものでもなく、使徒らに語られた重要な事柄について述べている。これは条文化されないだけでなく、無関係な者らには隠されている。聖霊注がれた者にとっては『新しい契約』に忠節であろうとすることにより心に証されることになるが、部外者は信者であっても類推する以上にはならない。ただ、あからさまな背きは誰からも分かるであろう。それを是認するには誰にあっても敢えてそうする以外にないであろう。
・一般の教会の原動力は信者のグレース体感にあり、因教は終生の救い
特に新教系が強く、カトリックでは秘蹟に与る安堵、東方では従順が加味される
共通して、良心の充足(却って免罪*)、社会的同調圧力、家庭や社会性の保持の誘因がある。*これが曲者
キリアストの場合は、神の経綸の伸展への待望といえる。グレース体感・安堵は無いが、予測観があり、自己義認・同調圧力は相当に避けることはできる。
・[ύψοω] ヒュプソー 上げられる、高くされる
Jh3:14 = Jh8:28 ←この翻訳に問題あり 三一を無理に読み込ませている
・「キリアスト」は同調者を示す呼称であって、新十四日派の信徒を指さないことにする。従って「キリアスト」は信条の傾向を同じくするとしても、内部者ばかりを指さない。「シオン」を構成する成員とはなっていない。同調者にも様々な段階に在り、信条の細部まで一致することは望めず、それも当派の信条の一部だけ同調しつつも、様々な外部の教理を引きずっている場合が観察される。また、神の経綸に対する態度も様々で、教理理解だけで『信仰』が形成されるわけではないのに、そのように誤解されている例は相当に多いらしい。だが、それらは新十四日派の真意ではない。
したがって「キリアスト」は信仰の同志の意味合いは有るとしても、新十四日派信徒とは言えない。「信徒」されるにはもう一段の規定を備える必要がある。しかも、「信徒」であっても『信仰』の一致を見るか否かは分からない。そこが神の裁きの猶予とも言えるが、そこまで規定することは人間にはできない。ただ、『忠節な愛』を懐く人については、不明確ながら印象はあり、それは知的能力の優越や聡いか愚かであるかまた道徳性とも別のものである。
・新改訳で地獄の用例は一ヶ所ペテロ第二2:4のみ
これはタルタロスに相当するが「ゾーフォス」になっている
「下界の暗闇」の意味
あとはすべてを「ゲヘナ」としている。
・キリストを最高位の天使としたのはエビオン派からであった。
また「イザヤの昇天」にもイエス=キリスト論が観察されるところあり
そこで大天使ミカエルをキリストとするにはグノーシスの教理に踏み込むことになり
Heb1:5-8の内容とも対立することになる。
パウロは『天使長』と『主』とを書き分けており(1Th4:16)、ダニエルもメシアとはしていない。Dan12:1はパウロと共に天使長としてミカエルの格別な役割について述べていると捉える方が全体の理に適う。
・コロサイ書中の「プレーローマ」は三回用いられているが、いずれも「キリストの内に神が満ち満ちている」の意味で用いられている。
これをグノーシスは、「天上に満ちる神」という概念に捉えようとする。
コロサイ書ではその充満が聖徒にも適用されている。Co2:10
・律法の対象
詩篇75:5
詩篇147:19-20
・凄まじい紹介文
「三位一体を信じて、天国ゆきをお望みでしたら、そのまま教会の教えのままに歩まれ、神の偉大な終末の予想外の事象を目撃なさることでしょう」。
・知識で判断する人は、神に裁かれる
エマオに向かう途上に在った二人の心は燃えた
しかし、それが裁きを左右するわけではない
パウロでさえ、「前にあるものに手を伸ばす」という。
神の経綸に触れた感動や興奮が意味を成すかは、その心の奥底に眠るもの次第
それは本人に分からず、周囲のある人にそれとない直感を与えることはある。
大抵の場合、言われても分からない。分かれば悔いている。
そこが神の裁きたるところ。
ヨハネが現れ「悔いよ」との一言にそれが凝縮されているのかも知れない。
キリストは『悔いて福音に信仰を持て』と言われた。ヨハネは『悔いよ』がその教えであったのは、印を伴う音信はメシアのものであったからであると思われる。両者共に悔いは律法を通して惹起される各人の悔いであったろう。ヨハネのものが悔いのバプテスマであれば、イエスの水のバプテスマは悔いの結果としてのメシア信仰へのバプテスマであったのであろう。そのメシア信仰は律法の悔いに裏付けられたものであり、ヨハネの悔いよりも先に進んだ価値を持っている。アレクサンドレイアから来た十人ほどのグループに聖霊が注がれていなかったのは、メシア信仰に到達していなかったことを明らかにしている。そこでメシアに関する知識を必要としたにせよ、その知識は悔いを伴い、頼るべき唯一の道としてのイエスを実感している必要があったろう。イエスは道であり、そこを通らずに神の御許に迎え入れられることはない。
・義神論
「神の善性および愛は完全であり、神は悪や苦しみに対する責任を持たない」また、「悪は人間の原罪によるものであり、悪のこの世への侵入は原罪および自由意志の人間の乱用による罪の持続的な存在に対する罰」という見方は平板で人間的な観点の所産ではあっても神の悪をも含めた善用の観点を持ってはいない。これがアウグスティヌスの限界であろう。
・「罪」について
「神の背を向けることだ」「神の掟を犯していることだ」
というありきたりの理解であってはそれこそ「的外れ」ではないか。
『罪』は人の不倫理性を指すのであって、他者との関係で利己的に振舞う原因となっている内面を言う。
加えて、やたらに原語の意味に拘われば聖書に書かれた真意に到達するということはない。使徒らがどれほどギリシア語に精通していたのか、また、その字義に拘ったかは分からないのであれば、それは決定的証拠とは言いがたい。
宗教関係者にはグレーな部分を尊重せずに、白黒をはっきりさせたがる傾向が強い。何かを断言すること、単純化することが「信仰」であると思うらしい。むしろ、蓋然性のある物事をより信じるのが人間の自然な傾向であり、奇跡という『父の業』をキリストが見せたのも、その傾向を用いてのことではなかったか。それは明確な信仰を惹起させ得るものでありつつ、拒むこともできる奇跡であった。即ち、グレーであったのだ。
但し、グレーにも明るいものと暗いものがある。そこで「信仰」に意味が出てくる。
それであれば、グレーはグレーとしてそのまま認められた上で「信仰」があり、決め付けるだけのことではないと言える。つまり、「自分にはどのように見えるか」なのであり、それが奇跡についても言えるのであれば、当然、原語の字義についても言えることになる。
・罪人の転向について、舌足らずなところがあった。
ペテロ、マタイ、パウロにせよ、キリストからの召しに際して転向している
したがって、ザアカイ、罪人として知られた女、ベツサダの池の病人、なども同様と云える