・人が虚無から逃れる道は、「自分の生に目的を見出すこと」とすれば、それは自己完結になり、個人の目的の達成に留まる以上、自己満足はあっても、やはり虚無のままである。たとえそれを神に与えられた目的と主張しても、その確証はないままで、自分の中の推論で終わり、虚無の域は出ない。
虚無を逃れる道は、創造者との生きた相互の関係性にあり、創造されて存在していることの意義はその創造者からもたらされなくてはならない。なぜなら、誰も自分から存在したわけではないからである。
現状で人が虚無に置かれていることの理由を含め、それを創造者がどのように見做しているのかを弁え知るところに虚無から逃れる道への門口があり、人の創造と根本的な問題を明らかにする聖書にそれが暗示的に示されている。同時にそれは無条件ではないことを聖書の記述そのものの不明性の中に示されている。
キリストが『耳ある者は聴け』と聴衆に言い添えたように、創造者はすべてを誰にでも分かるようには語らない。その理由そのものも人の創造の直後の根本的な問題の発生に起因することは暗示されているのだが、それは明言も確証もされず、拒否することもできる記述に終始している。
これは創造者の側ではなく、人間の側に問題が残っていることを示しており、ある条件に適うところで聖書が益になるという、人知を超えた知恵と原則がそこにある。
これに対して、「人は生かされている」、「自分の人生の目的を見出す」、「人を愛して生きる」などは、虚無への解答とはなっていない。
・知識で判断する人は神に裁かれる
エマオに向かう途上に在った二人の心は燃えた
しかし、それが彼らの裁きを左右するわけではない
奥義を授けられたパウロでさえ「前にあるものに手を伸ばす」という。
神の経綸に触れた感動や興奮が意味を成すかは、その心の奥底に眠るもの次第で
それは本人に分からず、周囲のある人にそれとない直感を与えることはある。
大抵の場合、言われても分からない。分かれば悔いている。
そこが神の裁きたるところ。
ヨハネが現れ「悔いよ」との一言にそれが凝縮されているのかも知れない。
キリストは『悔いて福音に信仰を持て』と言われた。ヨハネは『悔いよ』がその教えであったのは、印を伴う音信はメシアのものであったからであると思われる。
両者共に悔いは律法を通して惹起される各人の悔いであったろう。ヨハネのものが悔いのバプテスマであれば、イエスの水のバプテスマは悔いの結果としてのメシア信仰へのバプテスマであったのであろう。そのメシア信仰は律法の悔いに裏付けられたものであり、ヨハネの悔いよりも先に進んだ価値を持っている。
アレクサンドレイアから来た十人ほどのグループに聖霊が注がれていなかったのは、メシア信仰に到達していなかったことを明らかにしている。そこでメシアに関する知識を必要としたにせよ、その知識は悔いを伴い、頼るべき唯一の道としてのイエスを実感している必要があったろう。イエスは道であり、そこを通らずに神の御許に迎え入れられることはない。
水のバプテスマはヨハネによる律法への悔いに発し、キリストのものは諸国民に対してはアダムの罪への悔いに及んでいると見ることは的外れではないように思われる。
どれほど経綸への理解や洞察を持っていようとも、悔いなくしてはメシア信仰に達することはない。これが両者のバプテスマに共通する意義であろう。そのため当時のパリサイ人らはヨハネのバプテスマを受けていなかったのは、ヨハネが拒絶したと思われる。そうでなければ彼らを『まむしの子孫よ』とは呼ばなかったに違いない。
この関係は終末に於いても繰り返されると思われる。終末の象徴的ヨハネが居るとすれば、聖書や経綸に通じた者であっても、悔いなき者にバプテスマは施さないであろう。
・義神論
「神の善性および愛は完全であり、神は悪や苦しみに対する責任を持たない」また、「悪は人間の原罪によるものであり、悪のこの世への侵入は原罪および自由意志の人間の乱用による罪の持続的な存在に対する罰」という見方は平板で人間的な観点の所産ではあっても神の悪をも含めた善用の観点を持ってはいない。これがアウグスティヌスの限界であろう。
・「罪」について
「神の背を向けることだ」「神の掟を犯していることだ」
というありきたりの理解であってはそれこそ「的外れ」ではないか。
『罪』は人の不倫理性を指すのであって、他者との関係で利己的に振舞う原因となっている内面を言う。
加えて、やたらに原語の意味に拘われば聖書に書かれた真意に到達するということはない。使徒らがどれほどギリシア語に精通していたのか、また、その字義に拘ったかは分からないのであれば、それは決定的証拠とは言いがたい。
宗教関係者にはグレーな部分を尊重せずに、白黒をはっきりさせたがる傾向が強い。何かを断言すること、単純化することが「信仰」であると思うらしい。むしろ、蓋然性のある物事をより信じるのが人間の自然な傾向であり、奇跡という『父の業』をキリストが見せたのも、その傾向を用いてのことではなかったか。それは明確な信仰を惹起させ得るものでありつつ、拒むこともできる奇跡であった。即ち、グレーであったのだ。
但し、グレーにも明るいものと暗いものがある。そこで「信仰」に意味が出てくる。
それであれば、グレーはグレーとしてそのまま認められた上で「信仰」があり、決め付けるだけのことではないと言える。つまり、「自分にはどのように見えるか」なのであり、それが奇跡についても言えるのであれば、当然、原語の字義についても言えることになる。
・罪人の転向について、舌足らずなところがあった。
ペテロ、マタイ、パウロにせよ、キリストからの召しに際して転向している
したがって、ザアカイ、罪人として知られた女、ベツサダの池の病人、なども同様と云える
キリストとの邂逅は、人が転向するきっかけとなっており、後の聖霊の注ぎへの集め出しでもあったといえる。メシアが契約の使者であり、行う奇跡と感化を通してユダヤ人を救ったというのが当時の実際であったろう。
・教会では『第二の死』を「不信者への処置」としている。
もちろん、そのように単純なことではない。決定的な死は存在の抹消であり、創造の逆である。
・教会では「終末時代」に偽預言者らが現れると教え、聖徒の現れを教えないので、聖徒の発言を退ける危険が高い。つまるところ、何が偽であるのかを定めるのが社会の大衆であるとすれば、大衆化したキリスト教は龍・獣・偽預言者の煽動を受ける対象であり、適正な判断はむずかしい。
それはまた、教会が今後も聖徒を理解せず、世のものとして終わりを迎えることを予示させるものでもある。終末の裁きは、徹底して聖徒と聖霊の言葉を巡るものとなる。
・教会の信仰に関する説明は方法論に偏っていて、部分の解説に終始している。その原因の一つは、キリスト教の基本が宣教側からして理解されていないところにあり、またキリスト教が欧米宗教文化となっているために前提と目的から語られないところに原因があり、それが不信者への間口を狭めている。この入り口を広めるなら、教会員にも再考を促すことになると思われる。
・「アリウス派は、アウクセンティウスが全面的に支持していたキリストの神性を否定する異端の考えを支持していた」と言うが、「キリストの神性」の前に『あなた方は神だ』、また『あなたは神々の集いに在って裁く』ということの意味を捨て置いて良いか?いやむしろ、その『神々』たる者らを無視させるのが三一の主目的ではないのか?
この点では、先立つ第二世紀のエイレナイオスの見解が遥かに優れている。この教父は『神々』がそのような者らを表しているかを把握していたが、三一論を称える者らはそれを無視しなければ立ち行かなかった。これは終末に知らされていなくてはならない奥義であるが、現在のキリスト教界は到底知ることのないものとなっている。
・ヨハネ14:27を「わたしはあなたがたに平和を与える」と訳すと大きな誤解をまねく。平和ではなく平安であるから、他者との共存を意味しない。
・エズラがエルサレムに到着したのはアルタクセルクセス王の治世7年
ネヘミヤがアルタクセルクセス王の治世20年に到着したとされている
これがアルタクセルクセス1世(紀元前465-424年)の治世であれば、エズラは紀元前458年、ネヘミヤは紀元前445年に到着したことになる。ネヘミヤ記8-9章では、(おそらく編集上の誤りにより)二人が一緒に登場しており、このシナリオを裏付けている
エズラ記にはダレイオスⅠ世の治世中の記述にアルタクセルクセスの時代の記述が混じるところあり、編集にある種の混乱があり、エズラの時代からの観点で書かれている様子が見える。エズラとネヘミヤは元々一書を構成していたが、16世紀にラビらによって分離された。どちらもダニエル書のように公文書部分はアラム語のまま記される。
LXXではエズラ記・ネヘミヤ記とエズラ記上を「エズラ記B」と「エズラ記A」としている。
第三エズラ(エスドラスα)はヒエロニュモスが外典に位置づけた。ギリシア語であるためヤブネでも除外されている。内容では一部の付加があり、そこの内容は低劣ではある。
第四エズラ(エスドラスβ)については、本編が3-14章であり、後に1-2章と15-16章が追加されたものを見做されている。キリスト教徒による作とされるが不明。一次資料ラテン語のみ
(第一章の最後にマラキ書そのものへの言及があるが、時代が合わない)
本編はダニエル書のような幻視を扱うが内容は稚拙でダニエル書追加の程度に留まる。
しかし、第二章の預言は格別の高尚さを持っている。但し、新しい啓示はほぼ無い。
エズラが預言を受けたのであれば、ラビの扱いにも格別のものがあったのではないか?
この点でエスドラスβには謎がある。
・アウグスティヌスの「告白」の冒頭からすると、彼のキリスト教信仰の目的が幸福の追求と充足感の満たしであったことになる。倫理上の問いはなく、自分が既に神との深い絆に入っているものとしている。ここに大きな問題がある。
以後の欧米の教会の基本的観念も同様で、信じた自分たちは既に神の祝福に入っていると前提している。これは契約にある聖なる者についてのみ当てはまるのだが、契約についての見識が抜け落ちており、契約にある聖徒らをそもそも想定していないところから来る誤謬であろう。
欧米型キリスト教会は終末に至って聖徒への最大で最強の反対者となるのであろう。
・米国の福音派について[Frank Schaeffer]
「アメリカの福音派の認識はこうです。
パレスチナ人の土地の回復に繋がるような行為、例えば中東和平プロセスは阻止しなけれなならない。イスラエルが古代と同じ領土を取り戻して初めてイエスの再臨が実現する。」
「アメリカの福音派の認識はこうです。
パレスチナ人の土地の回復に繋がるような行為、例えば中東和平プロセスは阻止しなけれなならない。イスラエルが古代と同じ領土を取り戻して初めてイエスの再臨が実現する。」
ハルマゲドンを待ち望んで米国政治を動かす福音派
・クリスチャン・シオニスト
神がアブラハムと結んだ「アブラハム契約」に基づき、シオン・エルサレムがアブラハムの子孫に永久の所有として与えられたとするキリスト教の教理の一つ。全教派で認められている、信じられている訳ではなく、むしろ信じている者は一部であり、キリスト教プロテスタントの福音派の一部や、ドイツルーテル教会のマリア福音姉妹会、末日聖徒イエス・キリスト教会などで信じられている教理。
そもそも欧州のキリスト教徒は中世までユダヤ人をイエス・キリストを十字架につけた民として、差別し、繰り返し迫害してきた。クリスチャン・シオニストもこの思想を前提としており、イスラエルの国民たちがキリスト教徒にならない限り「地獄に落ちる」と考えているため、実は反ユダヤ主義者であることも少なくない。
数としても、政治力としてもクリスチャン・シオニストがユダヤ人シオニストを圧倒しているという事実は、欧米諸国がイスラエルを止められない理由を理解する上で看過できない事実である。しかもクリスチャン・シオニストたちが関心を寄せているのは、あくまでも聖書に基づいて想像された「イスラエルの民」であり、現実のユダヤ人ではない
現在のクリスチャン・シオニストとは、近代的な個人主義に基づく米国の民主党的なアジェンダに耐えられず、黙示録的な共同幻想に陥っている集団なのだ。「イスラエルの民」の救済、シオニズムは、彼らの共同幻想を駆動する物語の一つに過ぎず、結局ユダヤ人は彼ら自身の救済のための駒に過ぎない。欧米の白人たち主導の共同幻想に巻き込まれて、無辜のパレスチナの人々が殺されている現状は、間違いなくあってはならない事態である。
2050年までにキリストの再臨を信じる・・
柳澤田実
「ユダヤ民族を祝福するものを神は祝福する」という約束をディスペンセーショナリストたちは字義通り受け取っており、そのためユダヤ人の国家建設を支援するようになったともいえる。
原理主義がいつのまにか福音派と呼ばれるようになる80年代後半から90年代にかけては、この集団は米国人口の25%以上を占めるようになり、福音派の大部分がこの考えを信奉するようになったこともあり、ユダヤ人を支援することで神の祝福を得ようと、イスラエル国家への支持が強まっていくようになる。ちなみに、ピュー研究所の2022年の調査によると、福音派の63%が今まさに人類は終わりの時を生きていると信じているという!
ジョン・ヘイギーによって2006年に始められた「イスラエルのためのキリスト教徒連合」(CUFI)だ。米国の福音派教会を中心に2018年には500万人だった会員もわずか2年後の2020年には1000万人を超えたといわれている。無党派の団体と謳ってはいるが、当然のことながら共和党寄りであり、7月の会議では共和党の大統領候補デサンティスが講演しており、代表のヘイギー牧師もハマス襲撃後の教会の説教のなかで明確にバイデン政権を批判した。ヘイギーの過激な終末論に導かれ、この団体は国際法的にまだ問題のあるヨルダン川西岸地区や東エルサレムを神に約束された正当なユダヤ人の土地だとみなし、積極的にユダヤ人入植の支援や福音派教会の牧師やリーダーたちのためのイスラエル旅行のプログラムを実施してきた。
加藤喜之
https://newspicks.com/news/9150846/body/
アルマゲドン(善と悪の最終戦争)やキリスト降臨といった一連の出来事すべてを含む「終末論」は旧約・新約を問わず聖書全体の様々な箇所――ダニエル書、エゼキエル書、ヨハネの黙示録など――で語られている。その一連の流れの中に「イスラエル国家の再建」が重要な一歩として含まれているのだ(たとえばエゼキエル書37章の「干からびた骨の復活」、ルカの福音書21章の「いちじくの木」など)。そのため、福音派はイスラエルを、終末に向けた「神の計画」の要となる絶対に守られるべき国とみなしている。
田尻潤子
https://agora-web.jp/archives/250617201017.html
agora-web.jp
・福音派の入植地拡大によるイスラエル国家支持によってキリストの再臨やハルマゲドンを誘発させようという企ては害悪と邪な意図がある。
ユダヤ教側もそれを承知で福音派の援助を受けてはいるが、これは分裂の火種を抱えた野合でしかない。土地を失い生業にも困る現地人を排除するところは民族浄化を聖書の名の許に正義感さえ持って推し進めている。
これらの企みが神の是認するところのものとなるはずもなく、キリストの当時にもユダヤ人がサマリア人を虐げたようなものである。
これは宗教の教理が人を狂わせる典型的な例であり、善からも愛からも遠ざかるばかりのことで、宗教の美名の許に残虐を行うことであり、人を神の象りとは見ていないことの表れではないか。