Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

タナイームとミシュナー

タナイームとミシュナー

タナイーム(תַּנָּאִים)はアラム語の「繰り返す」(タンナー)から出た単語で「繰り返す人」の意。(ヘブライ語(シャーナー)「研究」)
ヘレニズムまで、アラム語化したユダヤ人に律法を解説するのはソフェーリムの仕事であった。
ペルシアの支配下で安穏と暮したユダヤ人も前200年頃ヘレニズムの洗礼を受け、懐疑に立ち向かう必要が生じた。
特にハスモン家の支配下では、既に貿易や商業が発展しており、市民法のようなものが必要とされていた。
だからといって律法そのものに手を着けるわけにはゆかず、律法から新法を演繹する必要が生じていた。
しかし、当時のソフェーリムではそれに答えるだけの力量がなかったので、学者としての素養のある「賢者たち」(ハ ハーミーム)がこれに応じることになった。彼らは寓話を用いずギリシア的論理によって律法を説明した。その結果、古い原則から新しい解釈を導き出すこととなり、これが「ミシュナー」[משנה]と呼ばれるようになった。
ミシュナーは事実上、新法と云えるほど革新的であり、同時に無鉄砲でもあったと云われる。伝統主義ザドキームにはこれを受容れなかったが、敬虔主義ファシリームがこれを用いるようになった。これはモーセ以来の口頭伝承[תורה שבעל פה‎](トーラー・シェバアル・ペ)とも称される部分も含むことになり一体化した。(伝承が実在していたかは疑わしい)

ミシュナの構成 - Quartodecimaniのノート

前駆的にはトーラー・シェバアル・ペに責任を持ったラビはズーゴートとも呼ばれていた。


ヒレル[הלל](BC.110ca-AD.10ca)
四十歳の頃、おそらくバビロンかアレクサンドレイアからエルサレムに来た移住者。生まれは富裕な商人の家であったらしい。
しかし、エルサレム到着の後は、経済的余裕のなさから教学院の授業を受けられず、校舎の屋根で講義を聴いていたが、あるときに屋根が抜けて教室に落ち、以後は奨学金を適用されて入校を許され、優等生となったという逸話がある。
彼は、当時まだ荒削りであったミシュナーを洗練されたものに仕上げる。こうしてタナイームの盛期を迎えた。
彼のミシュナー構成の方法は「七つのミドット」と呼ばれる三段論法であった。
これは当時にしては優れたもので、例えれば「ビンヤン・アブ」と名付けられた論法はJ.Sミルの「一致法」の先駆と見られている。
彼は当時ヘレニズムで進む科学に進歩に遅れをとらないよう、心を砕いて教えたと云われる
世を去ったのは西暦紀元後10年を過ぎた辺りとされている。とすれば、最晩年の彼かあるいは息子は、12歳のイェシュアを神殿で見たのだろうか?
子はシメオン・ベン・ヒレル、孫は、後に使徒パウロとなるシャウルを教えたガマリエルⅠ、イェフダ・ナハスィは曾孫である。次いでラバンと称されたガマリエルⅡ世


イェフダ・ハナスィ[יהודה הנשיא‎] (135-220)
「ハ ナスィ」と呼ばれるだけあって、ヒレルの家系に生まれ、富裕な中で育った。
彼は天与の理性に恵まれ、学者やローマの貴族はもちろん、マルクス=アウレリウス帝とさえ親交があった。
彼はローマ法に価値を見出していたので、自国のミシュナーの編纂と制度化に取り掛かったのは自然な成り行きであった。
ユダエアでは当時までにタナイームによるミシュナーは乱造の域に入ってしまっていたが、それはミシュナーそのものの権威を損ない始めていた。
四代続くヒレル家の後継者として当たり前のようにシュネデュリオンの議長に就任したハナスィは、誰に相談するでもなく数多のミシュナーに大鉈を振るい、益の薄いミシュナーを削除し、一方で知られていなかったようなものでも有用なものと看做せばこれを拾い、こうしてミシュナーは有用且つスリムにされ、主題に応じて体系化された。
そのあまりの切り落としには周囲が瞠目するほどであったので、彼の死後には、彼に削除された有名なミシュナーのいくつかは「バライタ」や「トセフタ」という脚注とされ復帰されるに至った。それらがミシュナー本文に復さなかったのは、ハナスィが自分の編纂が終わったミシュナーを「あらゆる項目が網羅されている」と宣言し、以後の追加を認めなかったからである。
もし、彼がこのようにしてミシュナーを聖典化していなければ、ミシュナーはタルムードのように無制限に増え続けるものとなっていたと言われる。
彼によって削除された多くのミドラシュは「補遺」(トセフタ)に編纂されたが、その量はミシュナーの四倍にも上る。

「ナスィ」=貴族、王子(cf,ミカ書の「君侯」(ナスィーク))


所見:
エス到来の数百年前から、ギリシア文明との邂逅によってモーセの律法が時代の変化に応じきれないようなところが出始めていた。
既にネイヴィイムはマラキを最後に皆「眠りに就いてしまっていた」。この変化にユダヤ人は律法の終焉と「契約の使者」の到来を期待すべきところを、トーラーにミシュナーを接木してモーセを延命させ、これはタルムードへと進む。しかし、これではますます聖書の意図から離れざるを得ない。つまりナザレのイェホシュアの拒絶ということになる。彼らはバプテストのイォカナーンに対してどういうスタンスを採ったのか?
今日まで神殿祭祀が続行されていたとしたら、ユダエア人は酪農を主とすることが求められるだろう。今日のユダヤでは神殿再建の有志たちがいるというが、神の経綸が先に歩みを進めているのに、どうして過去に戻るべきだろうか。それはどこまでもイェホシュアをマーシッハとは認めないという、イェルシャライムの滅びを招来した道を歩むことではないのか。
却ってユダエアの超正統派のように、マーシッハなくして神殿なし、とする方がよほど理に適う。律法祭祀を伴う神殿再建の懐古趣味を押し留めているのは皮肉なことにイスラームの存在であろう。ユダヤ教キリスト教だけでエルサレムが満たされていれば、岩のドームを撤去して、そこに神殿を建て直す強力な障碍はまず無いだろう。だが、今更家畜を犠牲に捧げるどんな意味があるだろうか? その根拠といえば「定めない時に至るまで守るべき」とモーセが言ったというところになるのだろう。しかし、モーセもマーシッハの警告を発しており(Due18:18)それはマラキも同様で(Ma3:2)、遂にバプテストに至る。(Mt3:12)
まさしく二千年前のマーシッハによる世界宗教への脱皮は、時宜に適ったものであったと言えよう。それにも関わらず、キリスト教徒までもが、キリストの再臨を具象のエルサレムに求め、ユダヤ人の大量改宗を期待するとは、これもまたキリストのもたらした神の歩みの前進に気づいていないことを表す愚考であろう。双方共に何ら神の意図を汲まず、自分の喜ぶところだけを願望してはいないだろうか?これらは明らかにファリシームの精神的末裔であり延長であり、「反キリスト」の岐途ではないか?








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