Notae ad Quartodecimani

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魂「ネフェシュ」とは何か MEMO

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聖書中では、体・霊・魂・命・息・血これらはすべてが異なるものとして描かれる  
ゲウィーヤー・ルーアハ・ネフェシュ・ハイイーム(Job10:1)・ネシャーマー・ダム


推論する前提としてヘブライ語の特性がある。
「足が走る」(箴言1:16)「目が見る(目で見るではなく)」(伝道1:8)など、肢体そのものが主体者であるかのように描かれる。
それは「霊がうめく」(ヨハネ11:33)など精神にまで及んでいる。
したがって、それは「魂」にも適用されていて「魂は(食物を)渇望する」など(申命記12:15)があるが、渇望するのは体の欲求である。「ネフェシュ」の語に「喉」の原意有り、喉は生命維持に欠かせない全供給物の入り口である。

以下、順不同

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アダムは息(霊)を吹き入れられ「生きた魂となった」(レネフェシュ) 「呼吸するもの」つまり土が生きて呼吸するものとなった。                    

(しかし、後に見るように聖書の用法はネフェシュの原義「呼吸するもの」の意味を超えてゆく)

アベルの体でも口でもなく「血」が地中から「叫んだ」。

「肉の魂は血にあるからであり、わたしはあなたがたが自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が、[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである」。Lev17:11

「あらゆる肉なるものの魂はその血であり、魂がその内にあるからである」。Lev17:14
動物にも魂があり、それで個体を数えている。
但し、犠牲に捧げられる動物が祭司の手に掛かってからは「魂」とは呼ばれていない。処理の最初に血抜きされるからであろう。
(全焼燔の捧げ物も血抜きした)

魂は血の内に在って贖罪を行う。
魂は絶たれることもあり、死してなお存在するかのようにも語られる。しかし、霊は死後は体から抜けてしまう。「霊のない体は死んだもの」霊は神の元に戻る。(Ecc12:7/Ps78:39/Job27:3.34:14-15/Isa42:5)

「魂には魂」等価報復であり殺人への殺人を以って償う。出埃21:23「命には命」とは言い換えられていない。(命が具体性にややかけるからか?)ゆえに魂を失うというのと命を失うというのは幾らか違う。

「体を打って死に至らせる」とは言わず「魂を打って死に至らせる」と言う。これは体より魂の方が命に関連した本質的なものであるように読める。

「衣服は体のため、食物は魂のため」であれば、我々は「魂」を体を通して養う必要がある。また魂は体より根源的な個人を指す用法が見られる。ネフェシュが「喉」からきた言葉であるように、喉は体を支える必要物の一切が通過する箇所である。それで、体が死ぬとき体は魂も命を失い意識も一切持たない。しかし、魂を失うのは死んだ本人であって神ではない。なぜなら、聖書は「死んだ魂」という言葉も記載している。

トーラーでは死体を指して「死んだ魂」と何度も言及している。(レヴィ21章/民数6章)これは死体の中に血が残っている状態を言うのだろうか。人体から血抜きをするという場面も概念も聖書にはない。それで人の死骸は常に「死んだ魂」なのだろうか。
もし、そうならヨシュア記などの「魂を滅びのために捧げる」は常に人間に適用されるだろうか。⇒祭壇に捧げられる動物の犠牲は「滅びのため」ではなさそうだ。(血抜きされるからか?)
そうなると、ヨシュアの裁き(軍事行動)で殺された人々に復活はあるのか?⇒これは象徴表現であるらしい。つまり、神に代って処刑を執行しているかのような正義の表現であり、実際を指してはいないようだ。

魂は血と共に朽ちて無くなるかといえば、必ずしもそうではない。「あなたの兄弟の血が地中から叫んでいる」という擬人的表現は、「血」の中の魂のことを指すだろう。キリストの血はアベルの血に勝る仕方で「語る」(代替または復讐を求める)。(Heb12:24)

「魂を込めて神を愛する」は、「思いを込め」とは別に語られている。ここでは人の一切を列挙したなかに「魂」もあるが、思いとは異なるものであるだろう。というのも「思い」が血の中にあって贖罪するとは思えない。

「血の中の魂が贖罪を為す」なら、血を抜いたなら魂は外に出たことになる。「血のままで食すな」は魂をも食さないためである。だが、血の成分の中に魂に相当するものがあるという訳では無く、人間が「魂」という抽象物を具体的に扱うことができないことからくる便宜的処置法であり、血という具象物そのものが魂ではない。
祭壇の基部の注がれた血こそが犠牲の価値を有し、体は付加物であろう。ほとんどの血は焼却も人に食されることもなく、祭壇とその基部に注ぎ出され、また垂れ幕や証しの前にはね掛けられるだけで、他の処置はなかった。しかし、血をそのままに焼き尽くす犠牲も幾らかあったが、それは罪祭で裁かれて滅ぼされる魂もあることの象徴のようである。そうして魂は専ら神のものとされた。

それは、神が創ったもの「魂」に対する不可侵を畏敬するものではないか。(!)吸血生物がいるところからすると、血の禁令は人を対象とするだけのもので、表象物を成しているようだ。そうなら、科学的に血中の「魂」を割出すことはけっして無いだろう。(Job12:10/Ezk18:4)


レヴィ族を贖った羊の血とは羊の魂であり、鴨居にかけられた血は、イスラエル人に食されず、贖いとして用いられたことの証しとなっただろう。

ヨブは魂が命のうちにあることを厭う。
すると、命の内に無い魂ということが可能か?⇒黙示録では象徴表現ながら祭壇の下に死んだ魂が叫ぶのを見る。
一方で「魂を滅びのために捧げる」という記述もある。

エスユダヤの世代を糾弾して「あらゆる預言者の血の清算が求められる」として命とは云わなかったが、ここに「魂」が込められているだろう。(Lk11:50/「アベルより優れて語るキリストの血」Heb12:24)


トロアスのエウテュコスが三階から落下した後、パウロは彼の「魂(プシュケー)は彼の内にある」と言ってから蘇生させた。
そこでは「霊」(プネウマ)とは言わなかった。当然ながら呼吸は停止していたに違いなく、パウロは血の流失がなかったことを述べたか、あるいは他の人々の感知できないことを伝えていたのであろう。⇒レヴィ記(これが関係するなら、それはまったくパウロらしい発想だろう)
この記述から生命の終わりに魂の移動があるともとれる。
(しかし、この部分を・・『抱き起してみたら、もう死んでいた。・・そこでパウロは・・彼を抱きあげて「・・まだ命がある」と言った。』と翻訳するのはどうなのだろう?死んではいなかっただけなのか?)

以上を勘案すると、伝道の書の語るような霊の移動ということからは、「霊」は個性のなく、どこにでもだれにでも同じように働く「電流」のようなものという説明は妥当なのかもしれないと思わせる。他方「魂」は個性を伴う、そのもの(性格有するその個体そのもの)であるのか?

ヘブライでは死者には意識なく、どこにも存在しない。
それでも、神のうちには再創造の可能性のうちに「保管」されているのが「霊」でも「体」でもない「魂」なのかも知れない。
⇒『わたしの魂を墓に捨て置くことなく』Ps16:10

伝道の書の「霊」は深く呼吸と関係し、体の必要に応じて提供されるものだろう。

「魂」だけは贖罪を必要としており、それは他の「魂」でなくては行うことができない。

「罪」を清めるのは「罪」のない他の「魂」の代替以外にはないようだ。
それゆえ、モーセの祭祀で動物の魂が捧げられたが、人間の贖罪を為すのは罪のない人間の魂が必要であったが、それはイエスまで待たねばならなかった。

したがって、贖罪から魂には交換される価値が伴う。

この場合もイエスの「魂」であって正確に言うと「命」ではなかったようだ。もちろん「血」のそのものではない。
しかし、「魂」を生かすのは「命」であって、これ無くして「魂」だけでは意識は戻らない。(ここに何やら深いものを感じる)

ヨム・キプル後、スッコートの七日間、シロアムの水はどこに落ちたか?これは規定外ながら相当に意味深長・・

詩篇の「命の源」の原意は?

祭壇上では体の処理が行われたのであって、「血」は焼かれることなく基部の溝に流れた。(すると祭壇の役割はむしろ基部にあったことになる)

エスが捧げたのが人間としての(命というよりは)「魂」であったなら、霊者としての魂は別になるのだろうか?
(要確認!イエスが捧げたのは何か?⇒パンと葡萄酒)
新しい契約は限定的で、イエスの血(魂)の贖いすべてが適用されるのは新しい契約の外に対してである。しかし、MtとMrで云われる「多くの人々のために」は「契約当事者」を表していることをLukが伝えている。その血は彼らに義認と浄めをもたらしたことで新約は一致して述べる。この点で『契約の血』と言うなら『多くの人々のために注ぎ出される』と訳すことに異議を感じる。⇒ Mt26:28⇒Lk7:28=Lk22:20 これらの句の[πλλον]は文脈からして、契約の血に与る「偉大な者」を指しているのであって、主の晩餐の意義からしても、全人類のための「契約の血」とは言えないから「多くの人々のために」と訳すのは、中世的キリスト教の誤謬を引き摺っている。これはダニエル9:27のヘブライ語にも言える。
[この点、契約発効に必要であった儀式の「血」と贖い代としての「魂」(命)の関係が混じっているようだ⇒要研究]

まとめると、あちこちで魂は命と等しく語られながらも、命とは別に象徴存在しうるものでもある。
また、血と共に体から離れることがあり、朽ちて消え去る血と異なって死してなお象徴的に存在するらしい。
あるいは「魂」とは徹頭徹尾象徴ないし形而上のものを指しているのかもしれない。
それは、物質の世界の我々には実体を捉えにくい何ものかを表しているとも考えられる。つまり、測定不能の存在であるが、それでも生きる人に認められ、思考の対象とはなるものである。

それは、命よりも本質的な個人のようなもので、族長らのように死しても神の目には生きているかのように保たれている。一方で「霊」は人格性がより薄く、非個人的な「精神」や「性向」という意味では「霊」といわれる。それは個人の動的意志ではないようだ。

「ペテロの霊(使い)」はヘブライの言い伝えによる守護天使の意であり、ここで言う「霊」とは区別が要る。

「霊」は様々な働きに関わるもので、神の使役に供せられている。また、「息」と共に生命活動の原動力として描かれることも多い。
ルーアハの用法

前述のように、ヘブライ語の慣用表現には様々な意識の無い物や体の一部があたかも意識をもったり行動したりするかのように言うことがある。これはギリシア語の聖書部分にも影響がしばしば見えるという。このニュアンスとして語られている場合もありうるので注意が必要。

あなた方[兄弟たち]のがあらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように1The5:25
 ここでは、霊はけっして聖霊を表していない。また魂[ψυχη]と体[σῶμα]もが分けられている。霊と体の健全さを保つということは理解し易いが、魂を健全に保つとは何か?復活に値するものとして保つということか?

霊が個人の精神的傾向を、体が習慣や行状を表すとすれば、魂はより本質的な神との関係性に関わるように見える。即ち「信仰」か?

またイエスは、真に恐るべきことは「体も魂も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方」であると教えている。Mt10:28
これは、体が我々の現実の死を迎えるものであるのに対して、魂は体とは別に「滅ばされ得る」存在(物)であることを示しているようだ。
ただ、その滅びは神の権限の下に、体の滅びに先んじることなく起こるもののようだ。同時に滅ぶとすれば、それは神の裁きで生きたまま絶たれることを意味しよう。ヨシュアたちが「魂を滅びのために捧げた」というのは、彼らの軍事行動が神の処刑を意味していたのかも知れない。また、それを含んだ誇張表現として語っていた可能性もある。

神が『わたしの魂は・・』とあるから(レヴィ26:11)と言って神が魂であるとは言い切れないところがある。比喩また人に合わせて語ることが聖書中に多い


・魂の座が血液にあるというのはヘブライ独自の概念とも言えない。
挙例すると、アクラガスのエンペドクレス(BC490-430Ca)がいる

彼は、真の自分の場を胸でも頭でもなく、血にあるとした。
背景には、自然界を構成する四つの要素(ριζώματα)つまり「根」を想定しているところがある
四要素を結合させるのが「愛」(φιλια)であり、分離させるものは「憎」(νεῖκος)であると説いている
但し、彼は転生するものとしてのプシュケーを想定している
諸要素の結合によって生ける物は、転生を繰り返していて、それが自然界のアルケーの結果であると捉えていた
それから「原罪」の意識が極めて希薄で、真の自己を血に認めても、対価としているところは見つからない
それは残された著作がほとんどないことにもよる
(彼はパルメニデスを介してピュタゴラスの影響下にある)
この人物がかの有名なシチリアのアグリジェンドで無数のロバ革袋を使って吹き降ろす風を和らげたという
シラクサイのピタゴラスとは地理的にも近く、シチリア学派とも言えるか
彼の時代はそこそこ古いが、後にペルシアの隆盛に伴い、ミトラ崇拝(インドのミスラ)の流入により(仏教の弥勒)血を飲み、また浴びる崇拝が流入してくる。
そこでアーリア系とセム系の宗教信条には血を巡って大きな乖離を迎えることになり、それがエルサレム使徒会議を要請することに向かう
極東で血を飲むのは、死者を卑しめる目的、また動物の血の摂取は強壮剤としてであり、専ら中華圏の習慣であった。

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結論として
魂(ネフェシュ)とは何かとなれば
それは霊でも体でも命でもなく、まして死後体から遊離する精神などでは在り得ない。それは、体よりも個体の「存在」に関して本質的である。

生きる限り魂は自分の中にあって、(生ける魂としては)養われる必要がある。
それは動物にも存在し、血液と関係の深い形而上のものであり、その存在の可否与奪は神が握っている。そのことにおいて各被造物存在の根源のようなもので、魂が滅ぼされない限り、死しても再び生命を受ける機会が残される。
魂の存否を決定するのは神以外無く、その理由は創造者としての当然の権利と思われる。したがって、「魂を滅ぼす」というのは象徴表現であり、神がその存在者を永遠に棄却するということを意味するのであろう。

それは、復活というヘブライの教えと深い関係をなしていて、死後地中で朽ちる体とも異なるので、土葬はしてもミイラを作るエジプトの習慣を持たせなかった。「バア」が体に戻って再生するのではなく、魂によって再生された体(ここが最も理解が難しい)に霊が送られ生命の息が吹き入れられる。ここがヘブライの復活の独自性なのではないか。

敢えて言い換えれば、ネフェシュとは、神の手中にある戸籍簿のような働きを為す被造物存在の牌のようなものではないか。被造物存在の確保がそこにあり、体の死を以ってもそれは神の前に失われない。そこで魂相互でのみ、贖いという魂の交換が可能なのであろう。ただ、体が生きている間、魂は血を介して体と共にあるようだ。しかし、それが具体的にどのように介在するかは不明。
あるいは「善悪の知識の木」のような象徴を「血」が担っている可能性も充分にある。その場合は「血」という具象の中に「魂」という抽象があり「魂」という具体物は具象の世界には存在しない。
絞め殺された動物などを考慮するとこの考え方でよいようだ。
大祭司が「血」を携え垂れ幕の中に入ったのは、彼が「魂」そのものを扱うことができなかったからであろう。そこでキリストは実際の血を携えて神の御前に出たわけではないと言える。

当然ながら、神の領域に存在する魂は、人間には抽象的であるばかりであり、それを具体的に扱い尊重することは不可能である。そこでYHWH崇拝では具象物としての血液に意義が担保されていた。
従って、『血は魂』と言っても、実際の血液が魂であるわけではない。律法契約がキリストの成就を以って終了したことにより、もはや聖書教に於いてどのような血液もまた成分も、魂を象徴する役割を終えている。エルサレム会議のヤコブの議決は、依然として毎週に街々でモーセを学び、律法順守に良心を働かせるユダヤ人の弟子らと、アーリア系ヘレニズム文化に在った異邦人の弟子とが崇拝のために共に集まることの便宜を図ったものであり、これらの背景を考慮しないと、ユダヤ教以上に極端に規則主義の「キリスト教」を作ってしまう危険があり、「ものみの塔」がその罠にすっかり嵌っている。彼らの動機には自己義認の差別化もあるように見受けられる。

「魂」に関する限り、神が生殺与奪の権限を持っていて、人は体を滅ぼすことはできても魂を滅ぼすことはできない。但し、人間には人間の、天使には天使の、動物には動物のそれぞれに異なる「魂」であろう。それでなければ、キリストは地上に来ても人間に成る必要があったろうか。⇒http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20130110/1357808939

したがって、イエスはアダムに相当する「魂」を贖いとして捧げたのであり、命を捧げたのではない。イエスの「命」はニサン15日の丸一日失われているが、「魂」は失われてはいなかったと言ってよいだろう。「魂」は贖い代として保たれる必要があった。
この違いは、我々人間にとっては気にならないとしても、どうやら神の側から見ると重大な相違なのではあるまいか。

アダムの罪は血統を介して遺伝しても、イエスによる贖いは遺伝によらない。むしろ、アダムとの魂の代替、失われたアダムの魂がイエスの人間の魂によって補填されたのだろう。(ならばアダムの魂は既に失われていたのか?あるいはキリストが魂を差し出したときに棄却されたのか?それとも依然保たれているか?←これらを問うのは無益、神の権利に属する)

簡単に言えば、アダムの魂が『罪』によって「失われた」ので、その子孫全般の魂の存在も危ういものとなった。そこでアダムの魂に代替される人間キリストの魂が捧げられることにより、人々の魂の存在が根拠を得て安定することになる。

律法中で「魂には魂」が求められたとき、実際には「命」への報復であったにも関わらず「命」と語られなかった背景には、この「魂」特有の事情があり、それをイスラエルに特に伝えていたのではないだろうか。おそらくそれは、キリストの犠牲の適用法に注意を喚起させることでもあったろう。

「魂」は神の神性に関わることであり、生命という観点を超えて創造物を有らしめた創造神の存続させる権利を表すものである。
『すべての魂はわたしのものである。罪を犯せる魂が死ぬ』(Ezk18:8)

「魂」と呼ばれるとき、そこには神の有らしめた生ける個体存在それぞれを大切にする神の愛と権利が表明されている。そしてその象徴が「血」であり、動物の血抜きをして「魂」を尊重し扱うことが、神の創造物すべてへの不可侵の愛と権利への認識を示すことになるだろう。これは人間だけが行える行為である。
つまり、被造物は互いを滅する権限を持たず、その権限を有するのは唯一創造者だけである!殺人のような「血の罪」が重いのは人間の心情的問題ではなく、聖書的に見ると「魂」が介在し創造神の権限を侵す動機がそこにあるからである。ゆえにそれが「血の罪」と呼ばれるのなら論理は整合する。

つまり、創造者の作ったもの(魂)を、誰も滅ばす権利を持たない。その神に属する権利を創造者以外は誰であれ尊重するべき理由がある。同時に、魂と魂との贖いを認める権限も神以外に持ち得ないだろう。その理由は、創造者であるということに尽きる!

したがって「キリストの贖い」という主題は、「魂」の概念の上に確固として立脚しており、ノアの禁令も、鴨居の血も、契約締結の血も、律法祭祀の血も、みな「魂」を通しての「キリストの贖い」という聖書の主題を際立たせるものであった。

したがって、キリスト教徒にとって「魂」は「命」にまさって貴重なものである。それは時に「命」を失ってすら守るべきものとなる。つまり、神の愛の下に留まることによってである。
まさに、これを示したのがキリスト・イエスであった。



  ⇒「魂」(ネフェシュ)翻訳の実態
付記
アダムの魂は何時失われたか、あるいは今も存在するか?
これについては、アダムの死と共に失われたのではないだろうか?そのため以後、人類全体は命の根を失っていた。
人類は、大本の魂の無い命の中にあるが、イエスの魂がすべての魂の基礎に据えられるだろう。
しかし、このことが具体的に何をもたらすのかは不明。

あるいは、イエスの魂によって罪の遺伝は義の遺伝と変わるのだろうか?「永遠の父」の称号はそのためか?
では、千年期の大半は何のためか?

キリストの死が地上で為されるべき理由は、アダムに相当する魂の贖いであったということなのだろうか?
すると、死を通しても人間イエスの魂は滅されることなく、様々な意義がキリストの死に包含されているにしても、魂に関する限り、死は魂を提出するための必要な通過事項であったことにならないだろうか?

以上の要約⇒「命に優る魂
⇒「魂という死生観
「Memo「魂」用例」
キリストの体と魂について

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「魂」についての教会員(福音派)の誤解

「動物には魂はないが人間にはある」
⇒ 律法の記述と真っ向から衝突する。
創造者を認識できる創造物には創造者との関係性が求められる、それは『神の象り』とされる。その者らには創造者が永遠であるように永遠の関係性が本来的に備わる。神はひとたび人間を死ぬものとしたが、その存在は『魂』として担保され、復活を期することができる。しかし、魂は神の覚えであれば現存するものではない。であるから「人間には魂がある」という文言は必ずしも正しくはない。神がそれを持つ。自然物のように「人間に魂がある」とすると、誤解を生じさせるばかりか、まず本人も誤解しているだろう。それが単純な「霊魂不滅」説であり、「死後の世界」「天国と地獄」など異教のイメージを信仰するまでに堕落させている。他方で聖書中で動物も魂と呼ばれている。しかし、その魂に霊が与えられて復活することは述べられていない。また理由も明言されていない。おそらくは神との関係性によるのであろう。


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エレン・ホワイト SDA = ものみの塔
人間のたましいも肉体もひとつである。人間はたましいを持っているというよりも、人間自体がたましいであるという意味である。だから肉体の死と同時にたましいも消滅する。
⇒マタイ10の説明がつかない。血の犠牲の贖いが不可能となる



















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