Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ユダヤに関するメモ

・イエスはハヌッカーにエルサレムに上っているjh10:22
・「世の光」と述べたときにスッコートの四つの燭台が関連していた、それは婦人の中庭の儀式だった
・婦人の中庭は二階席エズラット・ナシーム[עזרת נשים]が敷衍されたものでは1Cor14:34これを差別と呼べば律法の方がよほど差別になる
ヘロデ神殿の祭りに参加し、浄めようとしている そこは異邦人の中庭だったろう
イスラエルの中庭に入る男子は制限されたか?
・ヨム キプルの民の贖罪の儀は異邦人の中庭から異邦人を閉め出して行われたか?
・スッコートは早くもEX23:16で「取入れの祭り」(ハグ はアシーフ)と呼ばれている。
・スィムハット ベート ハ ショエヴァー での儀式については、スカーのV巻を見よ。
メシア信仰のユダヤ人には泉が開かれることを知らせるJoh7:38
(八日目の聖会だったが「シェミニ アツェレト」と呼ばれるのは?二回目のアツェレト)
・ヘロド神殿の祭壇からは水路が掘られ、神殿域南西に向かっていたと(なぜ南西か)
・キデロンに向かう水道の開口部も発見されていると
・ペテロは肉体を『幕屋』と呼ぶが、一方で『あなたがたは石となって聖なる神殿に築き上げられる』とも言う。幕屋と箱が別に存在して20年か?その間の贖罪は?箱はキルヤト・エアリムからシオンにかき上げられている。その前はベト・シェメシュにあった。ダゴン像の一件に近い時代。サムエルの存在もあって大祭司職は霞んでいたか?

・黙示録の最後の七人は幕屋の聖所から現れる(七つの災厄の間聖所が煙るのは、祭祀の開始の直前を表すのでは、なぜ神殿ではないか)
・神殿両側の谷は合流して南に向かい、その先端は死海沿岸に至る
・イエスはセデルについて二度と食さないと言われた。そこで二度目の機会は「主の晩餐」ではなくセデルなのでは?それなら、過越しの実体はなお将来ということになり「主の晩餐」はその「繋ぎ」に過ぎないことになる。では、何を過ぎ越すのだろう。
・サレムの記録は前2300年頃の「エブラ文書」の中にある。テル・マディク出土

・ニクードの由来;五世紀末からティベリア、エルサレム、バビロンに居住していたユダヤ教教師らにより、離散している民のためにミクラーを正しい発音で読めるようにと、ニクード(点を記す)の方式で母音を表記する方法が編み出された。彼らはマソラ学者と呼ばれ、十世紀頃にマソラ本文の確立も行い、読みの分割や文法の規則も知らせている。マソラーによる本文の保存ではティベリア派のアロン ベン モーシェ ベン アシェルが編み出した本文が普遍的に用いられているが、他には同じくティベリアのベン ナフタリによるものが残されており、双方の相違は875にも上るとされる。[ギンスブルク「ベン ナフタリ」]

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jh7:41
2.酷い話だ、誰がこんな事を聴いていられよう。
3.七日の間4.ナザレ人と5.モーセの弟子6.欺きの霊と7.神からの人ではない
8.世代9.回復10.統べ治めるメシア11.バルコクバ12.悪魔の誘惑13.哀しみのメシア14.三日で15.定めない時に至る割礼16.神名の喪失

この後代編と逆の話は?

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バル・コホバ[בר כוכבא‎]シモン・ベン・コスィバ
ハドリアヌス帝のアエリア・カピトリーナ案に反対して131に決起
ラビ・アキバがこれを承認、根拠としてLev24:17を示し彼をバル・コホバと呼ぶ。ハナーシーとなりエルサレムから2年半統治、貨幣鋳造、民衆の望むメシアを演じる。
135エルサレムがローマに落されるとベダルで短期間抵抗するが戦死、アキバは処刑、58万のユダヤ人が反乱で死亡、ユダは十字架の林立する砂漠となった。<実質的統治者が明確で66年の野盗連合よりは支配と言えたが、ハスモンの他に二回の中断がある>

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[πίστις]と [εὐσεβεῖα]の使い分け
エウセベイアについてはピスティスが行動に現れるところ云うのか
Act3:12 1Tim2:2 1Tim3:16 1Tim4:7.8 1Tim6:3.5.6 1Tim6:11 2Tim3:5 Tit1:1 2Pet1:3.6.7 2Pet3:11 以上エウセベイアは新約中5書15回
傾向としてギリシア色の強い第一世代晩年、しかしエフェソス・コロサイに無い
Actの用法は『自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように』他は牧会書簡とペテロ第二書限定される。第一世代晩年
在ってもよさそうな書:ヘブライパウロ書簡 ヤコブ ペテロ第一 ヘブライ ユダ 黙示録 <対応するヘブライの言葉が無いのかLXX?>
口語訳では、この二つの単語が識別できない。
ピスティスについては 1Tim19回 2Tim8回 Tit6回 1Pet5回 2Pet2回 であるから、両者は別な意味で使われたと言えるようだ。

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processus
[ἢ ἀφ’ ὑμῶν ὁ λόγος τοῦ θεοῦ ἐξῆλθεν, ἢ εἰς ὑμᾶς μόνους κατήντησεν;]
[36] an a vobis verbum Dei processit aut in vos solos pervenit

14:36 Or did the word of God come originally from you? Or was it you only that it reached?

[πᾶς λόγος σαπρὸς ἐκ τοῦ στόματος ὑμῶν μὴ ἐκπορευέσθω, ἀλλ’ εἴ τις ἀγαθὸς πρὸς οἰκοδομὴν τῆς χρείας, ἵνα δῷ χάριν τοῖς ἀκούουσιν.]
[29] omnis sermo malus ex ore vestro non procedat sed si quis bonus ad aedificationem oportunitatis ut det gratiam audientibus
4:29 Let no corrupt word proceed out of your mouth, but what is good for necessary edification, that it may impart grace to the hearers.

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ユダヤ暦では29日が六ヶ月=174、30日が六ヶ月=180 合計354日
やはり29日12時間として一年は354日
太陽暦に15日1/4足りない
360日として計算すると、毎年5日足らず6年で31日となる。
だから、二年に一度は閏月を入れないと合わないが、メトンを使うと19年に7回というから、約2.7年に一度の頻度となる。
ユダヤ人がメトンを取り入れるのは前四世紀以後に違いないが、キリストの頃には使っていただろう。

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?第一世紀に割礼を受けていないユダヤ人というものが存在したろうか?あやしい人物がひとりいる。例えればテモテのような人物もいた。しかし、彼はシュナゴーグでどう振る舞っていたのか?何か記述はないか?


Rev11:8 [πνευματικῶς]
霊の助けによって、霊によれば、霊的な
新約中出例は他一度だけIcor2:14[自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません]

エジプトとバビロンの類似は神の民を隷属させたところにあるが、
それがバビロンであればバビロンとは言わない。他のものを以って例えるのが当然であるから。エジプトとアッシリアが並べられれば、捕囚が二重に意味されるが、ここではもうひとつの側面が描写される。それが、その主体そのものの堕落傾向とその程度が厳しい処罰の対象に達していることを示している。即ち、この一句でふたつの側面が描写されている。ひとつは堕落し処罰の対象となっている状態を、もうひとつは神の民に対する圧制である。

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SlRglm


Ex19:1-エジプトを発った第三の月(シワン)の同じ日に・・シナイに入った


イスラエルの祭祀の浄めは血によるものであった Lev16:19 律法遵守ではない。これは神の前に祭儀を行う民がキリストの犠牲による清めを必要としており、律法遵守の結果として清めがなされないことを前表していたのでは
レヴィ族は祭司職であるゆえにその以前に浄められたNub8:6
民の清めについては安息日遵守があった。Ex20

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命が大切だということは分かる。
では神はなぜに死を許しているのか?
そこで命に優るものがあることが示されてはいないか?
それを一言で云えば「神との関係性」となるPS63
愛の絆なき者は生きる理由を持たない。「愛する者は死から命に入る」
命が最も大切だというなら、創造者は命に敵対していることになる。
アブラハムが息子を捧げようとしたことも、ダヴィデ王の不信仰が招いた結末を民が負ったことも、神は生命最優先とは言えない。人の命を奪う神は邪神だと旧約の神を断ずることができるだろうか?
それでも創造者は命の源であることは揺らがない。
神にとっては魂(ネフェシュ)が命に優る。それが復活の原資であり、キリストの贖いがその保証だからである。
キリスト教徒が命を最重要視するというなら、ペテロのようにキリストの死に反対することになる。一粒の麦が死ななければ一粒のままであったのだ。





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