Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

Chant

・コルニドレイはティシュリ10の前の夕べに歌われる。「すべての約束(条項)」
・ニーグンは、シムハット・トーラの明けた晩にハシディームによって輪舞と共に楽しまれる母音唱である。これはアシュケナズ由来であり、古いものではない。あれか ハシディームとは思えないほど明るい<20世紀初頭の"Hava Nagila"はPS118:24に由来するともされる。「YHWHの設けられた日。我らはそれを喜び、喜び楽しむ」[נָגִ֖ילָה וְנִשְׂמְחָ֣ה]この曲にはルーマニアからウクライナにかけて残っているフリュギア旋法が聴かれるとも(d短音階から始まり第二音eが半音下がるので、ニ短調より明るく不思議な印象がある)>
ブロッホの「バール・シェム」は18世紀ウクライナのラビ・ベン・エリエゼルの通称バール・シェム・トッブに由来するが、ハシディズム創始者への尊敬と共に作曲され、即興的要素の強く瞑想的なニーグンを間に含んでいる。
・先唱者によって合唱が導かれる方法はシュナゴーグ唱法の影響であるとされる。(楽器を介在させなかったためか?)
・グレゴリアン・チャントは特に詩篇歌においてヘブライの詩文の各節の二重構造を応答唱や交唱をそのままにキリスト教に持ち込んでいるとのこと。
・グレゴリアン・チャントの旋律と旋法はスファラドやイエメンのユダヤの歌に似ているらしい。<ペーター・ワグネル(神学者の?)の発見20世紀>
・イエメンのユダヤは、バビロニアによる第一神殿の喪失直後から永らく孤立してきたという。

グレゴリアン・チャントの旋律はどう保存されてきたのか?
グレゴリウスの聖歌改革の中で、多様な聖歌が統合された。カロリング家の創作収集された聖歌も統合された
さらにグレゴリアンチャントにはアムブロジウスチャントが包含されており、現状でも4つが残っており、そのメロディも蓋然性があると


カトリックに於ける聖歌
responsorium 先唱者と斉唱による「応答唱」とも[]
antiphona 合奏隊を二手の分ける 「交唱」とも[αντιφωνα]

Ambrosian Chantはビザンティン様式を踏襲している
フォルリ・デ・ムーラのバジリカに立て籠もったアンブロジウスの一派は交唱アンティフォナの聖歌を歌って抵抗を続けたと
アンブロジオ聖歌では先唱者と合奏隊と会衆によって三段階に歌われた
但し、グレゴリア聖歌が編纂される段階からアムブロジウス聖歌は影響を受け17世紀1622までには、その特徴を失ったとも

モサラベ聖歌は、イスラムからスペインのキリスト教徒がモサラベと呼ばれてところに由来する。本来単声であり、ウィシ・ゴート時代からの様式であったため、ウィシ・ゴート聖歌とも ネウマが通常のものでないため、メロディは判別できていない。



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ラルフ・マーカス曰く
「あらゆる翻訳は、ふたつの文明の間の妥協である」
タルグムの意は翻訳であるが、それは本来ユダヤ人によって訳されたもので三つの系統がある。
タルグム・ネオフィティのGen3:15のミドラシュには、トーラに人が従うときに蛇に打ち勝ち、従わなければ蛇が優勢になると書かれている。

ヘブライのヘレニズム化が進んで、聴衆がヘレニズムの影響下に入ると、シュナゴーグの説教が影響を受け始めたという。
・セフォリスとナザレの距離は5kmであった。
ユダヤの民衆は、ギリシア化と国粋主義に挟まれていたが、貧しい者らは律法の清さを守ることはほぼ不可能であったという。

・キリストの時代、エジプトに住むユダヤ人の方が本国よりも多かったという。離散全体数は本国の四倍に達したと言われる。(和辻)
ティベリウス帝のとき、帝国人口が5500〜6000万、内のユダヤ人は400〜450万(E.Schürer: Geschichte des judischen Volkes in Zeitalter Jusu Christi 1901)Rm&Alx100 Antk50 Eph25 = 275

プトレマイオス四世のときにはセプチュアギンタが存在していたと広く認められている。前221-205位