Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アンブロジウスの暗躍

.Ambrosius (ca.340-397.4.4)


Ambrosはギリシアの神に由来、転じて芳香のする、佳い飲物の意。
地方長官の息子として現トリーア(アウグスタ・トレヴェロールム)生まれ

彼がローマ上京までの16年間を過ごした当地のケルト系商人は、軍団への物資供給を業として財を成していた。
これらのケルト人は単性説派を信奉していた。
ブリテンとキリスト教 - Notae ad Quartodecimani

リグリアとエミーリアの地方長官としてメディオラヌムに居た44歳(384)のときに、その城市のアリウス派のエピスコポスが死去し、次の人物を巡って一位論派と三位一体派の信徒が激しく争った。
長官として調停に乗り出したアンブロシウスは、その政治力や雄弁さを買われて三位一体派からエピスコポスに成るよう担ぎ出される。
初めは固辞し、市内から逃走も試みたが捕まってしまい、洗礼から一週間でエピスコポスとなる。

彼は以後の生涯を一貫して、政治家としての手腕をキリスト教の上に揮ったが、それは政治との混融という点でキリスト教の本質をまったく歪めるものとなり、権力行使の使嗾では本来のキリストの教えとは180度異なるものであった。

彼が聖書に関して最初に学んだのはフィロンアブラハム論)であった。以後も旧約について多くの著書や引用を残している。<行政長官であった彼が旧約に深い共感を得るのは、律法が国家法であり、国民皆信徒制であった点で、彼が司教座をどう捉えたかについては合点の行くところがある。それは一神論派にしてもコミュニティの宗教を疑問を懐かずに目指していたであろうから、遅かれ早かれ社会宗教に成らざるを得なかったろう>
彼は「ラテンのフィロン」と渾名されており、その思想的基盤がユダヤ教に近いとすれば、その後の活動の仕方からも頷ける。
また東方カッパドキア派の教えからアタナシオスの政治的キリスト教への協調がある。
しかし、彼は二人の皇帝を信徒とし、教える立場からその上に立ったことにより、ローマのダマススⅠ世を超え、それまでの誰にもないほどの政治的優位性を持った。

彼は、キリスト教が元居たユダヤ教的国教の低いレヴェルに戻し、イエスがピラトゥスの面前で『わたしの王国はこの世のものではない』とはっきり語ったことに逆行し、却って、サタンがすべての王国の栄光を見せた上で『わたしを崇拝するなら、これらのすべてを与えよう』とイエスを誘惑したまさにそのことを求めた、つまりピラトゥスが総督であった帝国の権威も栄光をもキリスト教のものにしたのは紛れも無くこのアンブロシウスに他ならない。

これを許した背景には、既に俗化していたキリスト教徒が兵士となってローマ軍に相当数居り、高級官僚にもそのまま帝国の要職に留まる信徒が増えていたことが挙げられる。

彼が二人の皇帝を操ることに成功した原因としては、当時のローマ社会の趨勢が既に出世するにはキリスト教徒であることが有利とされつつあったこと、アンブロシウスが二人の皇帝よりずっと年長であったこと(グラティアヌス+29/テオドシウス+17)、そしてアンブロシウス自身が三位一体派が即座に求めたほどに度量深く、長官として磨いた政治能力にも傑出していたからと思われる。

⇒ アンブロジウス人物補足



・グラティアヌス帝〔Flavius〕359-383Aug25(在位:375年−383年)

アルゲントヴァリア[Argentovaria]の戦い(May 378 Feb? )
グラティアヌス帝に率いられたローマ軍が、ゲルマンのレンティエンシス[Lentienses]族を制圧した戦い。
同地はフランス域内で、ドイツに面した現アルザス州。

ヴァレンスの救援に赴いたこの戦闘で、グラテティアヌスは蛮族の将プリアリウス共々四万の蛮族軍を打ち破っている。
この戦勝からグラティアヌスは「アレマンニクス マキシムス」の称号を得た。(レンティエンシスはアレマンニの支族か?アレマンニは度々北イタリアに侵入し、帝国の悩みの種であったから、この称号の威光は高い)

この後に、グラティアヌスはキリスト教に帰依している。(洗礼を受けたとすれば、ここに帝国の権威が三位一体派に屈したことになる)

379 jul メディオラヌムに帰還したときにアムブロジウスの謁見を受け、シルミウムで発令した寛容令を廃し、ローマ教会以外の礼拝を異端として禁止している。
(この年のsepにハドリアノポリスでウァランス帝がゴート族に大敗し死亡、グラティアヌスはテオドシウスをヒスパニアから大抜擢して東の皇帝(大帝)とする)

上記の背景に、アンブロシウスの送った著作がある。
「まさに戦場に赴かんとする信心深い皇帝が、私に信仰の小冊子を熱望されている。兵士の力より、皇帝の信仰によって勝利を得ることはもはや習慣になっており、それはアブラハムが家僕318人を率いて、無数の敵から戦利品を持ち帰ったように。」
(De Fide ad Gratianum Augustum.Ⅰ.p528-529)
(『剣を執る者は・・』の言葉も『この世のものではない』もキリストの言葉よりは、国家宗教であり軍隊を有したユダヤ教を肯定するほかなかったようだ。)

この著作のうちの最初の二巻が戦場の皇帝に届けられたが、後にこれは追加され、五巻本の「信仰論」となった。
この第三巻から第五巻は、ラティアリア(Ratiaria[ダキアのドナウ南岸])のエピスコポス、パラディウスの中傷に対して、アリウス派への反論を記録し、皇帝に納めたもの。

このパラディウス(Palladius)との論争は381年のアキュレイア会議に持ち越されたが、アムブロジウスはその議決を怖れ、グラティアヌスを説きふせ、西側の司教連に根回しを行った。
結果32名の司教のみの会議では、RatiariaのパラディウスとSingidunumのSecundianusはアナテマに置かれたが、両人は西側司教のみの会議を疑問視し、議会も東西の総会を皇帝に要請した。

この会議後も一神論派の勢いは変わらず、アムブロジウスの仕事は多かった。
メディオラヌムでは三一派のためにふたつのバジリカを確保するために、皇帝の援助を得なければならなかった。


・テオドシウス帝〔Flavius〕347Jan11-395Jan17(在位 379年 - 395年


インペラトールとしての登壇の年、ゴート族に勝利した後テッサロニケで大病をしたとき死を覚悟して(33歳頃)に当地のエピスコポスから洗礼を受けてしまったので、以後はアンブロシウスに頭が上がらなくなる。
アンブロシウスはこの帝国の東西を実質的に治めることになった自分より若い皇帝をほとんど操り人形のようにして、ローマ帝国の「キリスト教」国教化を完成させてゆく。

即位直後380Feb27/28の勅令を「カトリック信仰について」と題して発し、三位一体を有するカトリックキリスト教徒として認める。

381Jan10には、親衛隊帳エウトロピウスに対し、異端者の集会を禁じ、ニケア信条のカトリックに戻るよう鎮圧し、市の城壁外に追放するべきことを下命している。



390 Apr テッサロニッキ暴動
人気ある戦車競技の選手が当局に捕縛されたので民衆が釈放を要求して暴動となり、地方長官を含む役人たちまでが殺された事件。
テオドシウスは軍を派遣してこれを鎮圧したが、軍は民衆を競技場に閉じ込めた上でこれを無差別に殺害。
この一件で、アンブロシウスは皇帝をキリスト教徒として譴責し(諌めるのではなく)帝国権威に対するカトリックの優位を確立するに至る。


歴代皇帝に同じく、コンスタンティヌス帝はポンティフィクス・マキシムスの称号を佩帯していた帝は、アンブロシウスからポンティフィクス・マキシムスの称号を捨てるように諭された。
それは延いては、ローマ帝国の主が皇帝ではなく、キリスト教の指導者、つまりは、ローマ皇帝テオドシウスを屈服させて操るアンブロシウス本人を、実質的に広大な帝国の主人、最高の権威者と成さしめたのであった。



392年にウァレンティアヌスⅡが弑逆されて死亡してからは、テオドシウス一人で東西の帝国を治める最後の皇帝となった。彼が死去して後二年間アンブロシウスは生き長らえたので、テオドシウスの人生はすっかりアンブロシウスの掌中にあったとも言える。
(政治力の無いその息子たち、アルカディウスは東帝に、ホノリウスは西帝となる。西ローマは風前の灯となる中で、ヴァチカンは強かに行生き抜く道筋をつけて行く)

393年、オリンピアードを中止させる。


アウグスティヌス  354-430

当時の教皇
リベリウス  位352-366
ダマススⅠ   366-384
シリキウス   384-399
アタナシウスⅠ 399-401
イノケンティウスⅠ 401-417
ゾシムス     417-418
ボニファティウスⅠ 418-422
ケレスティヌスⅠ  422-432
シクストゥスⅢ  432-440
レオⅠ  440-461



シュナゴーグ破壊の補償問題では
シュナゴーグを「背信の本拠地、不信心の家」と呼び、そこを破壊することは間違ったことではないと主張した。そこで皇帝がユダヤ人に補償を行うなら信仰に背くことであると言う。
また、ユリアヌスの治下でユダヤ人はガザのバジリカを破壊しているではないかとも言う。だが、この件についてテオドシウスは返書を認めなかった。
しかし、388-9のメディオラヌム訪問でアムブロジウスはこの件を迫り、補償の却下を取り付けた。その結果シュナゴーグの存立が不安定なものとなってゆく。

彼の予型論にはこじつけ気味のものが多い
例えればDe Paradiso]におけるエデンから流れる四本の川は、それぞれ東西南北の美徳、知恵、節制、勇気と正義であるという。
このようにユダヤの教理から多くを借用していながら、彼はユダヤ人をアンチ・クリストと見做したし、それが当時のキリスト教界の趨勢であった。

アンブロジウスのカトリック教令に沿う施策
死刑宣告を行った一司法官の行いを、「義務ではないが、称賛されるべきもの」と評した。教史Ⅱ



Auxentius of Durostorum
アレクサンドレイアのデイアコノス、メルクリウスの別名あり、また、ウルフィラスの養子とも
メディオラヌムのエピスコポスAuxentiusの擁護者


Durostorum:ドナウ河畔のモエシアの重要軍事拠点(現ブルガリアのSilistra)


以上の要約「アンブロジウス 俗世との岐路に立った男
blog.livedoor.jp



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