Notae ad Quartodecimani

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エゼキエルの文語訳に現れる「ロシ」

確かにEzk38:2と39:1と[ראש]が現れる
文語訳などではこれをそのままに「ロシ」としているために
『人の子よロシ、メセク、およびトバルの君たるマゴグの地の王ゴグに汝の顔をむけ、之にむかひて預言し、言べし主エホバかく言たまふロシ、メセク、トバルの君ゴグよ視よ我なんじを罰せん』38:2-3
『人の子よゴグにむかひ預言して言へ主エホバかく言たまふロシ、メセク、トバルの君ゴグよ視よ我汝を罰せん 我汝をひきもどし汝をみちびき汝をして北の極より上りてイスラエルの山々にいたらしめ・・』39:1-2

そのため『北の最果てから来る王』が「ロシア」と関係しているとの誤解も招いているらしい。
しかし、この「ローシュ」[ראש]とは「主要な」「第一」の意であり、多くの翻訳は『主要な君』『大君』『総首長』『大首長』と訳されてこの語[ראש]が処理されている。即ち
[נשיא ראש משך ותבל]「ナシー ローシュ メシェク ヴェ トヴァル」は
『メシェクとトヴァル(小アジア)の主要な[ר ֹאש=Prime]君侯(王子)』の意となり、ここに「ルーシ」の意味は無い。また、「ロシ」なる民族名が聖書に無いことから、ここで三つの民族に触れているようにも思えない。<なぜ幾つかの訳はこの語を別にしたか?>
「ロシ」は「君主」または「首長」とも訳され得る。そこで『(メシェクとトヴァルの)君主の長』と読むべきである。<Keith W.Carley"The Book of Prophet Ezekiel"1974>
LXX[Υἱὲ ἀνθρώπου, στήρισον τὸ πρόσωπόν σου ἐπὶ Γωγ καὶ τὴν γῆν τοῦ Μαγωγ, ἄρχοντα Ρως, Μοσοχ καὶ Θοβελ, καὶ προφήτευσον ἐπ᾽ αὐτὸν]Ezk38:2
ここから訳したティンダルによってKJVがこれを記し、それを訳した文語訳にそのまま載った、ということか。ほかには
・American Standard Version
Bible in Basic English
・Darby's English Translation
・World English Bible
・Young's Literal Translation
<ではLXXはなぜこの語を固有名詞扱いにしたか?>

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現代の世界情勢から、恰もイスラエル共和国を諸国が攻撃するとして、その趨勢を形作るのがロシアであると思い込むのは自由ながら、当該部分はそれを支持はしない。
メシェクとトヴァルが名指しされたのは『北の最果て』#の概念からではないかと思われる。それは地の中央から遠ざかっており、対抗世界覇権を指すように思われる。そこは第一の覇権から離れた諸国を束ねることのできる主要な第二覇権を集めることができる立場を表すのではないか。それで僻地の『主要な君侯』を言うのでは?
いや違う!これがハルマゲドンの戦いであれば(そう思われる)第二覇権は既に崩壊しており、『マゴグの地のゴグ』とは、全世界を巻き込み得る勢力なり存在なりということになる。
そうなれば、これは黙示であって実体を指した言葉にはならないと思われる。#これはIsa14にも有る Ps28:2 これは方角を意味しないのでは
もちろん、地上のイスラエル民族やエルサレムが本来はどうという事にならない。しかし、そうなることを期待する人々が非常に多いことは、終末の究極の宗教の罠とならないものか? そこでこの人々はユダヤ教徒イスラムと組んでその期待を成就する機会を窺い、実際に得る危険性があるように思えてならない。<もし神殿の再建でもあれば、これは焦眉の問題となる>
そうなれば、ロシアなどではなく逆の場所からゴグが現れることになる。そしてその逆の場所を「守れ」と命じるのだろうか?そうなると神軍を「ゴグ」と誤認させることになり、多くの人々が偶像の神にほだされ、義を奉じるつもりでサタンを擁護することになる。誰も自分がサタンの側に居ると思ってわざわざ行動するか?判ったときにはもう遅い。

ユダヤ教徒には、「ローマ軍との戦いは、自分たちの正義であった」と今でも信じる人々がいるという。もちろんメシアを除いたなどとはけっして思わない。まるで熱心党や野盗らが残っているかのような主張ながら、キリスト教イスラムも一緒になって地上のエルサレムでもう一度何かしらをしようとするのだろうか?
<そこに「クリスチャン」と称する人々が、キリストのエルサレムへの地上再臨をロマンチックに夢見て、ユダヤ教徒の大量改宗を期待までしているのは、非常に危険なことになる。地上再臨のメシアなど偽に違いなく『不法の人』を神の座に就かせることになる(しかし、そうなるのであろう)>



他方で、黙示録の『ゴグとマゴグ』は、このまた隠喩であり、千年の隔たりをもっているが、死者#にとっては無意識の期間が過ぎるばかりであるために、回復するサタンにも千年の隔たりも何ら違いをもたらさない。それがためにエゼキエルと黙示録との結末が異なっている。共通するのは神に無関心な大衆(ハモナ)の動向であろう。
#三位一体は四世紀から、地上再臨は近世から種が蒔かれており、イスラムは六世紀から、仏教は前五世紀から蒔いてある。周到に死者の洗脳は仕上がっており、その意識のまま復活するならば・・宗教教理が現代まで古臭いまま停滞する意味はやはりここにあったか!

<アヴェスター語「マグ」が関係するのなら、メディアのマゴイのことであることは残る。つまり「ゴグの家」としての祭司の種族>


ますます大層な事になってきたが
聖書には誤解させるための記述が点在しており、これまでにもそれで動機を抉り出された人々の記録が他ならぬ聖書そのものにある。
恐るべき書(Heb4:12/Rev19:21)
信仰があれば救われるとは何と無責任な請合いか
肝心なのは心の動機であって、口で何と言おうと神は内奥を裁く
しかも本人の納得ずくの行動の結末として自ら去って行くように仕向けられる。本人は悪気さえなく良いつもりでその道に入るか?そのような人も出るのだろう。説明しても何が悪いか分からない人も見かけるのだが・・あれは罪悪感がある方がまだ良いだろうに
そのうえ、サタンの誘惑はアダムの時のように強烈であって、その試みは、「何を食べるか」のように簡単でも単純でもない。

つづく⇒http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20161113/1479045133


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