Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

聖徒なき誤解

・神は現在までの人々のすべてが悔い改めることを待っている。
使徒17:30/ヘブライ8:11/ペテロ第二3:9/ヨハネ5:22-23/ゼパニヤ3:8
すべての者が悔い改めることを待てば、永遠にその時は来ない。明らかにこれらの句は別の意味を持っている。

2Pet3:9[οὐ βραδύνει κύριος τῆς ἐπαγγελίας, ὥς τινες βραδύτητα ἡγοῦνται, ἀλλὰ μακροθυμεῖ εἰς ὑμᾶς μὴ βουλόμενός τινας ἀπολέσθαι ἀλλὰ πάντας εἰς μετάνοιαν χωρῆσαι.]

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。口語

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。新改訳

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。新共同

ここには二つの裁きが混合して語られている。ペテロ第二書簡の全体はその3:17が要約しているように、聖徒内部の腐敗分子からの影響を受けて、共に裁きに陥らないようにせよとの勧告である。しかし、僅かなところでは信仰者全体に向けて語るところもあり、その辺りを聖徒をはじめ当時の人々は読んで悟れたであろうが、後代の人々が聖徒と信徒の判別をしないで読む場合には、全部を同一の立場にある弟子らへの勧告であると思えてしまうのはまず防げない。
この3:9に限って言えば、この世の全人類に関わる裁きの前に到来する聖徒の審判についての悔い改めと、聖徒が天に去った後の終末も終局の場面で人類のすべてに求められる悔い改めとが、同じ精神の延長線上で語られている。それであるから、硬直的に字句のままに解釈しようとするであろう大半の「クリスチャン」にとっては誤解を生む句であり、特にミラー主義的な年代的な終末信仰には格好の人集めの根拠を与えてしまう嫌いがある。
また、この句での『約束』とは、聖徒に関わるものであり、『あなたがたに忍耐する』とは彼らの裁きの結果、揃って契約を全うすることを言う。
そこで、この翻訳も解釈も相当に難しくなるが、すでにこれらの訳文の中にも不整合なところが見えている。


カトリック信者は、洗礼によって罪のゆるしや成聖の恩恵を受けて神と一致するのですが、さらに、魂の救いを得るために、この地上に生きている間、神を愛する心からそのおきてを守り、神の子としての生活を送らなければなりません。
中略・・
カトリック信者は自分の生活のすべてを神に対する愛の生活と考え、み旨にかなうようにいつも力を尽くします。また、他のどんなことよりもまず神を愛するところから、罪を犯して神にそむくよりはむしろすべてを捨てる覚悟をもって生活を送ります。

そして、神に対するこのような愛の生活に基づいて自分を正しく愛するのです。それは、神に対する愛によって永遠の幸福を得ることができるからです。人がこの世での幸福な生活を求めるのは当然のことですが、目先の楽しみにかられ、神の愛にそむいて罪を犯せば、自分の霊魂に損害を与えることになり、自分を正しく愛しているとは言えません。

カトリック要理の友」

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