Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

天のエルサレム、上なるエルサレム、新しいエルサレム

 『そこで彼らは、「獣であっても、山に触れたら、石で打ち殺されるように」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。
その光景が恐ろしかったのでモーセさえも「わたしは恐ろしさのあまりおののく」と言ったほどである。

 しかし、あなたがたが近づいている()のは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちのエクレシア、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲介者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語る注がれた血である。』Heb12:20-24 


 ここで、律法契約締結の場面と共に「天のエルサレム」が語られる。
この筆者の意図はどこにあったのだろうか?

 取り立てて「天のエルサレム」という言葉は強調されてはいない。
むしろ「シオンの山」の延長線上に語られたかのようである。

 そしてこの文脈ではシナイ山との対比が見られる。
つまり、ふたつの契約が対照されているのである。
 更に、この対照は上に引用した後も続いているところからすれば、律法契約に対する新しい契約の優位性を強調する中で現われたひとつの単語を成している。

 そうであれば「天のエルサレム」とひとつの言葉を取り出して、この語に定義を持ち込むことがどれほど有効かという問題には疑問も残る。


 しかしながら、天のエルサレムに関連して、聖徒たち自身がそれそのものであるとはされていない。また、「近づいていた」というからには、そこに到達しているわけでもない。(注記12’1:原本であろうヘブライ語では「到着した」と同義語になるという[なぜ訳者【ルカ?】は近付いたとしたか?パウロの指示か?]) ←ギリシア語に訳される段階でLXXから引用している、訳者がヘブライストではない可能性がたいへん高い

人の目でエルサレムを定義すると、(律法契約の)崇拝の場所であり、YHWHの座に就くダヴィデ王朝の支配する中心であった。

 これが天において共通項を持つとすれば、それは王権の座を持つ都市であり、且つ崇拝祭祀の行われる場所となるだろう。

 しかし、王は王権を受ける必要があり、天の祭司職も神殿そのものも機能を始めてはいない間は、「エルサレム」として存在しているとは言い難い。

 ではあるが、これらの条件は将来に実現する確証があり、その意味において「近づいていた」のであろう。

 この「天のエルサレム」には聖徒だけでなく、キリストはもちろんのこと、天使の大集団と神自身や、契約の血にいたるまでが含まれているように読める。すなわち「神の都」ということができるだろう。(これは慎重を要するが)

 かつて地上に在ったイスラエル民族の都に、王の宮殿と神の臨御を象徴する神殿があったように、それはキリストという王の住まいと、至高の神の住まいとがあるのだろう。

 そして、多くの廷臣たちが王宮に、また祭司たちが神殿で仕えたように、その天の都も無数の天使らの仕えるところとなるのであろう。

 加えて、ソロモン王の妻の館があったように、キリストの妻としての聖徒らがいる。彼らは王キリストと共にその分を受けるであろう。

 そこは人で賑わい、諸国の使節が訪ねたように、諸国民の富が出入りするのかもしれない。

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 では、ヨハネの記した「新しいエルサレム」とはどう異なるのか?

 黙示録の「新しいエルサレム」は子羊の花嫁であることが明記されており、それは聖徒たち以外に適用のしようもない。

 だが、こちらも都市である。ただ、内部に王宮も神殿も持たないのだが、キリストと神の臨御が存在している。

 そして諸国民の富が搬入される様は明言されている。加えて、読むところでは、諸国民(の王)が入域できるのである。

 それでは、新しいエルサレムとは天界のものではないのだろうか?

 ヨハネはこの都市は神の元から降りてくる様を描いており、象徴的であるにしろ、そこから流れる川は地上を潤し、生命の木が茂るのである。

 そうなると確かに「新しいエルサレム」は「天のエルサレム」とは異なる側面を見せている。(このあたりに第三神殿の意味が生じるのかも知れない)

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 もうひとつのパウロの言う「上なるエルサレム」という言葉は、律法契約に在ったユダヤ人を「奴隷」と位置づけ、他方でそれから逃れたイエスの教えに従う人々を「自由」とした対比の中で語られた言葉である。

 その身分は、彼ら聖徒が律法の隷属にないことを強調して、奴隷身分のハガルの子らと、自由人サラの子らの身分の差と、奴隷の子が自由な子を圧迫した故事を含めて当時の情勢に準えている。

 そしてパウロは自身を共にして、聖徒たちの母はこの「上なるエルサレム」であるという。

 「上なる」という形容は先の「天の」の語よりは天界への結びつきは強くない。
 この場面でパウロはイザヤ54章を援用しているのだが、これは打ち捨てられた女(エルサレム)が捕囚後に経験した「子らが」民となっていきなりに夫(神)と共に帰ってくるという預言を語った箇所である。(共にではないようだ/2014.10.22)

このイザヤの場合の女エルサレムとは擬人化された象徴であっても、やはり地のものであり、言わば神の祝す対象が一度寵愛を失った後に回復されることを宣告したものである。

 ではそれに相当する何者かを類推することができるだろうか?
つまり、しばらく子らを失い、夫も去った女である。都市エルサレムには人が住まなくなり70年に及んだ。
そして、ある時期に夫も子らをも受ける・・

(これを天の使いたちに適応することには様々な無理がある。陣痛の存在だけではない。例えれば、神と使いたちの間に障碍の生じる事態が起きるものであろうか?それはプトレマイオス論議になろう)


 聖徒らの身分が内定しているだけの段階では、彼らは決定的に生み出されたわけではないので、この女「上なるエルサレム」の出産はパウロの語った時点よりずっと後代に起こることになろう。

 しかしたとえ、それが当時の彼ら聖徒の身分を確定しなかったとはいえ、聖徒の母になった。あるいは妊娠したとは言えるのかもしれない。
この女は血統によらず、信仰によって子を生み出すからである。

 それは終わりの日において「子」を授かる「女」でなくてはならない。
そうなると、注目すべきは黙示録第12章の方の「女」になってくる。つまり象徴的サラであって、そこの文脈が示すように、その実体はあるいは地的なものではないのだろうか? 初穂を生み出すのは畑だからである。

つまり、聖徒の存在を最も大切にし、その神を崇めるところの「母体」のように大らかな実体である。しかも、それは律法契約の「奴隷状態」にない者である。




( ここでひとつの単語がその意味を重くしてくるであろう。
即ち「女の胤」Gen3:15である。
 ここでの「女」は含意する範囲の広大な女と名の付くもの全般を指しており、比喩的にはエヴァをも含むであろう。)←いや、これを持ち出せば混乱するだけではないか

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追記

 律法契約下にある人々をハガルということは難しい。むしろその制度を指してならそのように言える。同様に新しい契約下にある人々をサラとは到底言えない。それは「子供」だから。しかし、新しい契約の制度に対してなら、母サラと言っても問題は感じられない。では制度(あるいは象徴都市)が母かと言えば、誰かが制度そのものを具体的に迫害できるものだろうか?(黙示録12章)やはり、それは人格ある存在者以外に考えられない。つまり存在者の集団である。

 聖書の中で繰り返される「エルサレム」という言葉は、何かの大まかな概念を知らせようとしているかのように読める。

 それは支配と祭祀を司る中心であり、神の経綸を推し進める手立てであった。

 確かに律法契約において、このようなエルサレムが比喩的に神の「妻」として語られたが、だからと言ってYHWH神が妻を持つことは考えにくい。

 理由のひとつには、古代オリエント多神教で、主神とその妻の神がよく存在した。(イスラームの家族神嫌悪はここに発するのであろう)

 次に、律法契約の不履行の結果エルサレムという「妻」はまったく打ち捨てられるが、神的領域でこのような倫理的欠陥による回復可能な断絶が起こったとは思えない。(天使がアダムの贖いを必要とするだろうか?)
 さらに、「妻」が天界の使者たちの集団かと言えば、聖書の描く天使は非常に慎ましく、自発的行動はまずしない。まして、神との契約関係にあることなども聖書中に示唆されていない。

 加えて、「妻」などの比喩的表現が用いられるのは、何かの理解を助け伝える目的あってのことであり、多くの場合、隠れた実体を示そうとしているわけではない。(聖書記述の大半はこれに類するようだ)


/パウロは「上なる」という言葉を用いて、地の実体あるエルサレムに対する抽象の都市を表そうとしたのではないか?これは「天」という意味を含めるつもりがなかったのでその形容を避けたという見方である。

 つまり、ユダヤ人がエルサレムに対するように聖徒らがする「エルサレム」である。聖徒の場合は地上のどこかを意味しない都市であり、且つ、彼らのホームベースのようなものである。

聖徒たちに関して言えば、その崇拝の中央は地上になく、確かに「上」の領域になる。しかし、そうなると聖霊の発信元が類推し易くなって「天のエルサレム」と然程変わらなくなってしまう。では、なぜ初めからそう言わなかったのかという疑問が生じる。

パウロの見解が大雑把だったのか?
もし、パウロの認識が鮮明であったとしたら、この違いはまず意図的なものであろう。

「上なる」ものを巡って、彼はイザヤ54に言及しており、そう大雑把な見解を披露したようには見えない。

であれば、「上なる」としたときにイザヤ書の「女」エルサレムの対型に言及していたのであり、それならば、イザヤのその女は天のものとは成りにくい。そのエルサレムならば、子らである民の不行跡のため、子らをバビロンに奪われ夫を離れさせられた女ということができよう。

エスエルサレムを見たときに嘆いて、子らを集めることを望まず、敵に攻囲される姿を預言している。
では他方の、子らや夫を受ける象徴であるエルサレムとは何だろう?それはイエスを嘆かせた当時のエルサレムではない何ものかでなくてはならない。
それは天にあるとは思えない、なぜなら、完全者による天の崇拝の中心が何らかの不行跡や契約の違反で罰せられるとは到底考えられないからである。

追記12’2:Isa51:2「しだいに・・産んだ母サラ」これはイサクを表していない。ならば、やはり選民を生み出す「者」を指しており、下のエルサレムは奴隷以外に生み出さなかった。

補遺
その後、イザヤ書を渉猟して見えてきたものがあったので、次の記事として記す。


quartodecimani.hatenablog.com