Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

黙示録の認知 1

小アジアのパピアスは当然ながら、この書を承知していた。
ユスティノスは使徒ヨハネが作者であると書いている。
カルタゴのキュプリアヌス
テルトゥリアヌス、ヒュッポリュトスも使徒ヨハネの作であるとしている。
ムラトーリ断片も同様。
オリゲネスは新約文書の聖典性を三分割したが、黙示録に些かの疑念を持っていない。

アレクサンドレイアのアタナシオスは「ヘー・スェオプネーストス・グラフェー」と「タ・アポクリファ」とに分類し黙示録を前者に含めた上「これらは救いの源である」とはっきり言っている。この分類が初めての新約二十七書の言及であるという。


◆東方は広範囲で退けてきた。
マルキオン、アロギー、エウセビオス(Caes)、ディオニュシオス(Alx)、テオドロス(Moeps)が反対。

エウセビオスはホモロゴメナにもアンティゴメナにも含めている。
「もし適当と思われるなら」と但し書きをつけているので、態度を決めかねた様子がある。

ディオニュシオスは第四福音書との文体の違いを指摘。
ヨハネのものでなく、けっしてアポカリュプシスでもない、不可知の厚い壁に覆われている・・作者はケリントスであると人は言う」「だが、何か深い意味が言葉に込めらていると思われ・・敢えてこれを斥けようとはしない」
(ca264没 オリゲネスの弟子でアレクサンドレイア校長にしてエピスコポス)

モエプスティアのテオドロスは、このキリキヤの城市で392年からエピスコポスを務めた人物である。(428没)元々アンティオケイアで学んだため、黙示録排撃派の属す。公会書簡も退けており、ネストリウス派は彼を師と仰ぐ。


他に
エルサレムのキュリロス(ca315-386)
ナジアンゾスのグレゴリウス(329-389)
クリュソストモス(ca347-407)
テオドレトス(シリア・キュルロスのca393-ca458)
以上、4-5世紀の東方教父らは黙示録を聖典とせず。
ラオデケイア会議(363地方会議)も同様。
ペシタ訳とアルメニア訳に黙示録は含まれず。
9世紀になってもコンスタンティノポリスのニケーフォロスは黙示録を教会に認められていない書としている。NikephorosⅠ

★こうして見ると東方では黙示録への嫌悪が強く、グノーシスのケリントスへの批難と混同されているように見える。
 黙示録忌避の背景にはグノーシスやモンタノスなど異端諸派が利用することへの恐れがあったとされる。


しかし、6世紀ころ態度は幾らか軟化している。
カパドキアのカエサレアのアンドレアスは黙示録注解を書いており、530年頃エルサレムのレオンティウスは黙示録が新約最後の書であると言っている。
★この原因は異端諸派の弱体化、あるいは西方の黙示録擁護の姿勢の定着と、神学の西方の発展があるように思える。しかし、黙示録の内容理解が進んだわけではない。


◆西方ではローマのガイウス(3c初頭)はケリントスの作として退ける。

その一方で、四世紀のアタナシオスは367年に「第39復活祭書簡」において黙示録を他書と共に「救いの源」と呼んで聖典に含めたが、これが現今の新約27書を言及した最初となっている。(上述)

ヒエロニュモスはパウリヌスへの書簡で27書を挙げ黙示録を含んでいる。(ca394)

アウグスティヌスも「キリスト教の教義」で同様の立場を見せた。この点では393年のヒッポ会議で27冊が聖典と決議されており、第三カルタゴ会議(397)の再認では彼も出席している。

アクレーイアのテュランニウス・ルフェーヌスは(410没)ギリシア語に通じ旅行家であったというが、彼も同様。

しかし、ブレシアのフィラステル(397没)はエウセビオスのような中間派的である。
「完全な者によって徳のために読まれるべきではあっても、すべての者によって読まれるべきではない」


★西方が黙示録に寛大であるのは、一時期パスカ論争で小アジアと険悪になったローマの関係修復のための譲歩であったと分析している学者もいる。

確かに、第二世紀の終わり頃にはあたかも「小アジア包囲網」のようなものが形成されていたようだ。
その原因は直接にはパスカであったけれども、その下地として小アジアユダヤ性にあったことだろう。

私が思うに、東方ではユダヤ憎さ*が余って何もかも非ユダヤ化する暴走のようなものがあったと思える。例を挙げれば、安息日の不労働は宗教上の意味を持たなくなった(と思う)のに、「主日」(第八日)の安息に固執したのは東方ではなかったか。それはやがてローマ国教化に拾い上げられる下地を作っている。
(*無理からぬところ大いにあり)


パスカ問題ひとつでも、シリアは強硬であり、コリントはあからさまに対立していたようで、ポントスがこれに倣っていた。おそらくガラテア・カッパドキアもそうであろう。

そこで、アレクサンドレイアがどういう姿勢をみせるのかが問われたろうが、そこにローマが懐柔に出てきたので、パスカ問題では譲れないアレクサンドレイア=ローマは、黙示録を聖典として認めることで、小アジアに妥協を迫ったのではないだろうか。

(そこまでマークされる小アジアキリスト教は明らかに特異である⇒その象徴「ヨハネ黙示録」)


したがって、今日まで続く東方教会での黙示録嫌悪は、時計の針が止まったように、この時代の様相をそのまま残しているように見える。
つまり、東方教会使徒ヨハネによるキリスト教の完成に与らず(小アジア以外に他のどこも与らなかったが)その以前に留まったパウロ型なのではないか。それは良い意味ではなく、ギリシア神秘主義へと傾いていったパウロの教えの成れの果てである。

東方が嫌ったもの、それを原点に帰って眺めると、そこにはヤコブの率いたユダヤ人イエス派の姿が浮かび上がるように思える。シリアがこれに手を焼いた記憶は使徒言行録にあるし、アンティオケイアはティトゥスユダヤ人放逐を進言していなかったろうか。

確かにパウロキリスト教は革新的であったが、やはりイスラエルユダヤは経典の民である。多くの異邦人が書物を書き連ねたとしても、ヘブライ由来というほどの説得力は持たないだろう。その証拠に使徒ヨハネを最後に聖書に加えられるべきものは出てこない。新約で聖典の根拠とされる「使徒性」は「ヘブライ性」を伴うと言ってよいように思える。×
それも、特に聖書そのものが聖典の条件を唱えたわけでもないのに、である。ユダヤ人イエス派が消滅するのに伴って全エクレシアから聖霊の降下も収束し、ユダヤ教徒が「預言者たちは眠りに就いた」言うのと同じことがキリスト教にも始まったようだ。

黙示録の一書を考慮しないとしても、聖書の全体が人手によらず閉じられ封印されたかのようである。

(「イザヤの昇天」の証言が本物なら、聖霊降下の終了はシリアにおいて早かったのではないだろうか?)

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p47には10葉のパピルスがあり黙示録を含む(部分)
Bには黙示録がなく、カトリックの管理の悪さから散失
אは20:5を無記載
AとウルガタがChiliaを記載し、ペシタが省いている*のは上記の「政治的情勢」から頷ける、聖カタリナ寺の由来を考えるとאが同様であるところにその影を見る。やはり聖カタリナ寺からミス・ルイスによって1894年に明らかにしたシリアの聖典目録に黙示録はない。(*省くというよりは黙示録が無いのでは?ペシタ訳が複数あって黙示録を含んだ写本があるとでも・・答え⇒6世紀初頭(508)ペシタの改訂版が作られ、そこではアンチゴメナを追加していた)
ならば、Rev20:5を()書きにするのは小アジア軽視の表れか、あるいは何かよほど都合が悪いことでも別にあるのだろう。(教理の調整、科学者もするデータへの本人の都合による手入れ、況や宗教家をや)
×確かにガリラヤに関する記載の無さがあり、ルカの異邦人説が唱えられてはいるが、私見ながら、記述の一箇所(今のところ)からヘレニストなのであろうと思っている。(追記11.9/12聖書中のルカのヘレニストを思わせる部分の二つ目をActに発見/12.2/22さらにルカ9:51に発見[ちなみに福音書ユダヤ傾向についても学ぶ]*この点、動詞”Ἐστερίζω”の扱いは私の知る限り新改訳が優れる)




 ⇒ ヨハネ黙示録の認知 2





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