Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

黙示録の認知 2

カルヴァンの評価

聖書の権威は「聖霊の内的証言」によるものであり、教会によるものではない。
自著「キリスト教要綱」に黙示録から引用しており、黙示録を排除しない。
しかし、黙示録を「暗黒の書だ」と友人に語ったという。



◆ルターの評価

「このヨハネ黙示録については、私は各人に自身の考えを持ってもらい、いかなる人をも私の見解や判断で縛ろうとは思わない。私は私の感ずるところを言う。本書に欠けているのは一再ではない。従って、私はこれを使徒的とも預言者とも考えない。何はさておきまず第一に、使徒たちは幻を取り扱わない。ペテロやパウロやキリストが福音書においてなしている如く、明瞭な言葉で預言している。というのは、象徴や幻ではなく明瞭にキリストとその働きを語るのが使徒のつとめにふさわしいからである。また、このように徹頭徹尾幻や象徴を取り扱った預言者は、新約はもちろんのこと旧約にもない。従って、私はエズラ第四書について考えるのと殆ど同じ考えを本書に対して持つ。そして、本書が(は?)聖霊によって備えられたことを何も証明することができない。・・」(黙示録の序文)


エラスムスは新約全体の要約を著したとき、黙示録だけを省いた。
その理由は、おそらくホイジンガの描く彼の慎重な性格が(コレットへの批判に見えるように)不明なものに対して恣意的に振舞うことを控えさせたのであろうと思う。つまり、ギリシア語の写本資料を黙示録だけは得られなかったからである。加えて、黙示録を要約すれば、それ以前の書との分量のバランスや雰囲気を壊しかねなかったのかも知れない。


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感想:それまでの普遍教会の歴史が永く、原語研究もスタートしたばかりの時代。原初のキリスト教への回帰を願っても16世紀の状況はそれを許さなかっただろう。つまり、「知識の鍵」を入手できなかったのだと思う。その鍵はアウグスティヌスやアムブロジウスの時代の彼方にあったのだが、ルターやカルヴァンたちはその分厚い障壁を破ることはおろか、その必要も感じなかったように見える。たとえローマの小アジアに対する、また16世紀におけるローマとドイツの政治的策動の結果であったとしても、それでも残った黙示録はその不滅性においてやはり徒ものではないだろう。

当初、ルターは自分の理解の及ばないものである黙示録を排除するつもりでいたようだが、そこにイスラエル民族の帯同のない新約の危うさが見える。新約を巡る環境は「異邦人」のものであり、ソフェーリムのような制度なく、間を取り持つLXXも幾らか語義にジャギーが出ても仕方が無い。したがって、新約を云々する者であればギリシア語上であっても「言葉の上で争う」理由は薄い。

しかし、ルターの発言ですこし気になったのは、黙示録が「聖霊によって備えられたことを何も証明することができない」と云いつつ、「使徒のつとめ」に言及している矛盾である。聖霊とは地上に居た使徒と同列にされるほど地的なものだったろうか?

それならば、黙示録の冒頭でこれが使徒の務めを超えたものであるとする言葉を彼は信用していないことになる。それは難解な書に対する先入観のもたらした矛盾ではないだろうか。
黙示録よりも解明の難しい例えをイエスは度々に語っているのであり、言葉が終末に対するものである黙示録の言葉の方が理解しやすいほどではないだろうか。
実際、旧約預言や事跡の内容に通じると黙示録の言葉には輝くものが多々ある。それはけっしてダニエル書ばかりのことではない。

また、黙示録に対する姿勢から見えるもの⇒宗教改革は同じ建物の内装工事で終わったようだ。
もし、土台から建て直したなら、その当時でも黙示録の相当なところまで見えてきたのではないか?

それにしても、黙示録とはますます神秘の書である。
人々の中には、その内容を既にローマ時代に終わったことと見做す意見もある。
もし、そうなら聖書とは今日のキリスト教そのままに、経年劣化するだけのようなものであろう。
むしろ、黙示録は聖書の最後に添付された暗号ファイルのようであり、時を経るまで封がされたかのような、いや、実際、そのような「時限ファイル」なのであろう。
ある時点に達するとどうなるのか?

わたしとしては、その中に張り巡らされた無数の旧約へのリンクが気になるところである。
黙示録は巨大なレンズのようなもので、聖書全巻の意義を時間の一点、つまり人類史のある世代に集中させ得るものではないだろうか。
それは眠りに就いた預言者たちが一斉に語り始めるかのように。黙示録はネイヴィームとイエスの語った言葉の数々へのリファレンスとなっている。


⇒ ヨハネ記述




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