Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

街道と旗印

街道とはシオンに至る道であり、これは「土を盛り上げ」造られるものである。

旗印は、その街道の進むべき方向を示すもの、またその気概を表すものであるようだ。

この両者を用いるのは、シオンという女の息子や娘、つまり聖徒である。

これらの表象は一度、バビロン捕囚からの開放という形で成就したことになろうが、言葉の詳細なところを比較すると不十分であったようにみえる。

確かに、女シオンは夫も子らも失った状態で過ごした後、いきなりに双方を回復したといえる。

しかし、地の四方から、或いは島々から、タルシュシュの船が果たして帰還者を運んだろうか?

この比喩はパウロが繰り返しているし、黙示録も相当に暗示的であるので、そして何よりも聖徒という聖霊に産み出される者たちがある以上、より高次な成就が期待されてしかるべきである。

街道はバビロンからシオンに向けて備えられ、旗印はそれに伴うもののようである。

黙示録によれば、バビロンにメシアの民は依然居り、そこから出なければならない。

そして、バビロンはシオンとの強い対照に置かれる。
つまり、淫婦バビロンと貞淑なるエルサレムであり、シオンの娘である「新しいエルサレム」は染みなく傷のない純正な処女であり、ダヴィデの根メシアの新妻となるであろう。(!PS137)



バビロンから出るに当たり、その方向を示すのが旗印ではないだろうか?
向かう先はシオン以外にない。

そして、この街道を歩む者は聖徒以外にないだろう。
かつての開放の折に、ユダヤはこの道を(態々街道が造られたとは書いていないが)自力で歩んだ(保護されたとはいえ)。

だが、イザヤの預言は、彼らを運ぶ者たちがおり、世界中から来るという。

では、その対型の目的地であるシオンとは何か?

その城壁は異国の者たちが築くという⇒cf.ネヘミヤ
その見張りは黙っていてはいけない

答えは喉まで出掛かっているのだが、今現在のところ決定的一打がない

シオンへの「街道を整備する」
「旗印を掲げる」(⇒神名に関わるか?PS20:1-)
これらは、聖霊の再降下を条件にするだろう。

それが下った時、聖徒の周囲の者の存在が要請されていないだろうか?

だが、かつてエクレシアの構成は聖徒を先にしたものであった。
それゆえエクレシアと呼ばれたのであろう。(この呼称の使用まで時間がかかったにせよ)

では、聖徒を後にするエクレシアというものが可能なのだろうか?

悔い改めのバプテスマのような、先行者つまり「大いなるヨハネ」(この言葉自体矛盾あり)のような者は起こされないのだろうか?

あるいは、マラキの先行者即ちバプテストのヨハネはイエスの言葉によって封印されたのだろうか? 三度目のエリヤは来ないのか?

では「無人のシオン」荒れ果てたエルサレムを構成するものはいったい何だろう???










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