Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ジョン・ロックの教会考察 John Locke's Letter 1685


"A letter concerning toleration"

「ある人々は、場所や名称の古さを誇り、あるいは外に現れた礼拝の華麗さを誇り、他の人は戒律の改革を誇ります。そして誰しも自分たちの信仰の正当性(なぜならだれでも自分は正統派なのですから)を誇ります。しかしこのようなことや、これに類いする他のすべてのことは、キリストの教会の印と言うより、むしろ他の人々の上に権力と支配を求めようとする人々の印なのです。だれもこのようなこと全部を要求する権利はないのです。もしある人が全人類に対して、ですからキリスト教徒でない人々雄に対しても、一般的な愛や柔和や善意を持っていないのなら、その人は彼自身が真のキリスト教徒であるために確かに不足があるのです。「異邦の主たちは彼らの上に君臨する」「しかしあなたたちはそうであってはならない」とわたしたちの救い主は兄弟たちに言っています。真の宗教の務めはまったく別なことです。宗教的な務めを定めたのは、外見的な華麗さを作るためでもなく、教会が支配権を得るためでもなく、強制力を働かせるためでもなく、人々の生活を徳と信心の規則にしたがって調和させるためなのです。キリストの旗のもとで自分自身を登録した人は、まず第一に何にも増して自分自身の欲望と悪徳について戦わねばならないのです。生命の神聖さを無視して、清廉な態度や慈悲深い優しい精紳をもたずに、キリスト教徒と言う名称を勝手に用いても、それは無益なことです。自分自身の救いに注意を払わないように見える人が、わたしのために非常に心配しているのだとわたしを説得できるでしょうか。自分自身の胸中にキリスト教を奉じていない人々が、他の人をキリスト教徒にするために真心を込めて専心できるでしょうか。福音と使徒は信じられるとしても、思いやりも無く、強制によらず愛によって生まれる信仰なくして、キリスト教徒であることができるでしょうか。(行政が信仰の問題に立ち入るべきでないことを列挙)
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わたしは喜びを見出せない方法で金持ちになるかもしれません。わたしは信頼していない治療法で病気を治すかもしれません。だからと言って、わたしが信用していない宗教やわたしが忌み嫌っている礼拝によって救われることはできません。信仰だけが、つまり内的な誠実さだけが神を受け容れて自分のものにできるのです。最も適当な、最も定評ある治療法でも、もし患者の胃がそれを拒絶してしむなら、その患者に効果をもたらすことはできません。病人の特殊な体質が薬も毒に代えてしまうことが確実な場合、それを病人の喉に詰め込んでも無益なことでしょう。一言で云えば、宗教に於いては何かが疑わしければ、さらにはわたしが真実でないと信じているなら、その宗教はわたしにとって真でもなく、利益あるものでも有り得ないということは少なくとも確かなことです。それゆえ、統治者が自分の臣民に霊魂の救いのためと称して自分の教会の聖餐式に行くよう強制することは無益なことです。もし、臣民が信じるなら自発的に行くでしょうし、信じていないのなら、彼らが行ったとしても何の役にも立たないでしょう。
宗教のことで大騒ぎし戦争し、それがキリスト教の世界で行われたということは(たとえ認められていたとしても)意見の相違(これは避けられないことで)というよりは、むしろ異なった意見の人々に対する寛容の拒絶が生み出したことです。高位僧職者と教会の指導者は、貪欲と飽くことの無い支配欲に駆られ、行政長官の法外な野望と、軽率で欺かれ易い群衆の迷信を利用して、福音の法と愛の戒めとは逆に、自分たちと意見の違う人々に反対するように、群衆を怒りに駆り立てて煽動し、離教者と異端者とを領地から締め出し滅ぼさねばならないと説教しました。彼らはそれ自体が非常に異なる二つのもの、即ち教会と国家とを混同してきました。

1685「寛容についての手紙」"The Works of John Locke"1741 pp232-4

至言⇒宗教戦争は「むしろ異なった意見の人々に対する寛容の拒絶が生み出したことです。」

ロックは終生英国国教会に留まったが、その宗教信条は革新的であった。その蔵書には、カスティリオ、ソッツィーニ、ビッドルの著書、またラコヴィニア教理問答書が含まれていた。
1695年匿名で「キリスト教の合理性」を著している。




ポーランドでは、ドイツ留学の学生たちから宗教改革の機運が高まっていた。
ペーター・ゴネシウスの1556年の説教は改革派内での反三位一体の運動を鼓舞した。この運動は1563年に母教会から独立し「小改革派」となった。その中心教義は三位一体だけでなく、キリストの位格、聖霊への礼拝、浸礼の効能と受洗の年齢でも異なっていた。顕著な社会実践は人間関係での愛と寛容であった。自分たちを「ポーランド兄弟団」と呼んだこれらの会員は、武器を執ること、公職に就くことを拒み、山上の垂訓にしたがって治められるコミュニティをラコーに作った。その地にソッツィーニが到着する1579年までに百余りのコミュニティを持っていた。

「救い主、イエス・キリスト」という彼の論文は、救いはキリストの死ではなく、人々が従うべき模範を残されたところにあるとした。また、聖書に従う生活様式と崇拝の簡素化、理解ある監督の模範を作っている。
彼の業績は「ラコヴィニア教理問答書」1605に見られる。それは彼が草案を書き、友人らによって完成されたものであるが、子供や改宗者を対象に書かれている。

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11世紀の終り頃にはオックスフォードでの教育は始められていた。1154年アンジュー伯アンリが、プランタジネット朝初代のイングランド王ヘンリーⅡとして即位。1167年イングランドの学生がパリ大学に行くことを禁じ、オックスフォードに学生が集まってきた。
そこで一人の学生がある女性を殺害する事件が起き、その学生が逃げてしまったので同居していた四人の学生を、市の当局と群衆が王の認可を取って処刑してしまい。この件から、オックスフォードから学生が逃げ出し、その一部がケンブリッジに至り、そこに落ち付き1209年を以って大学が設立される。

◆「人間悟性論」の成立 1690ここで読者にこの試論の由来をお聞き頂いてよければ、後六人の友人が、わたしの部屋に集まって、本書の主題とはかけ離れた主題について論じていたとき、たちまちあらゆる方面から立ち現れる困難な問題に行き詰ってしまったことを、わたしは読者にお話ししなければなりません。わたしたちが自分たちを当惑させている疑問の解決に少しも近付けぬまま、しばらく途方に暮れたあと、わたしの心に浮かんだのは、自分たちは道を間違えており、そうした本質を持つ研究に携わる前に、わたしたち自身の能力を調査し、わたしたちの知性はどのような対象を扱うのに適し、また適さないのかを確かめなければならないということでした。
わたしは皆にこのことを提案し、皆はすぐに同意しました。
その結果、わたしたちはまずこれを研究するべきであるということになりました。わたしは自分がこれまで考察したことのなかった主題について、性急な未消化の幾つかの考えを、次の会合に向けて書き留めました。それが、この論考の始まりとなりました。
こうして、これはたまたま始り、人々から乞われて続けられ、つじつまが合わないまま少しずつ書かれ、久しく捨て置かれたあと、気が向いてその気になったときに再開され、遂に、健康への気遣いのため閑居して都合がついた折に読者が今見られるような形に整理されました。

これはエクセター・ハウスのロックの居室で行われた会合での出来事
出席者の一人ジェイムズ・ティレル(James Tyrrell 1642-1718)は、後年、そのとき論じられていたのは「道徳の原理と啓示宗教」であったと述懐している。
彼はシャフツベリ伯が下野して後もエクセター・ハウスに留まり実務を続ける。しかし、健康の理由から二度目のフランス滞在を行うことになり、そこでデカルトやその派の人々に接触している。

彼は「観念」[Idea]をイタリックで書き続けた、それは外来語であるとして「アイディア」とは異なる意味に取っていたから
カントが、物そのものは認識不可能とするのに対して、ロックは粒子仮説を以って物を捕えようと試みた。
「感官」から生じる印象については、わたしの見るところ、究極の原因は、人間理性によっては解明することができない。それが、その物から直接に生じるのか、心の想像力によって生み出されるのか、存在せしめた者に由来するのかを確実に決定することは常に不可能であろう。」

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所見;やはり欧米という宗教土壌は汚れたもので、江戸幕府の定めた檀家のようなものがあり、そこから抜けることは近代まで難しかったことが窺えるし、現代でもアメリカ中西部(精神性の空白への恐れと伝道師の活躍のために)には常識として根強く頑迷さが残っていることは想像に難くない。しかも、それが今日のキリスト教の担い手であり、その一方で自由主義という極端がある。いずれにせよ欧米はもはやキリスト教というものを冷静に見つめることは無理ではないか?欧米人の根源的な欲得と宗教心がすっかり異様で偏った常識として根を張り蔓で覆ってしまっており、光の差す一分の隙もないほどになっている。なぜ東洋人があの真似をしなければならないか?だが、同じことが日本では仏教で起こった。それでも仏教そのものは政治に然程絡まなかったし、仏教同士での異端審問も特にない。
それから、ドイツの自由主義路線の唱道者らは、その後の20-21世紀の欧州の宗教的趨勢を見通せなかったろうし、現状での世俗化によって自由主義も半ば無用な長物になっているようにも見える、彼らの闘争の原動力はキリスト教界の頑迷固陋という信仰の化け物への闘志であったろう。「牧師の息子たち」と称されるだけのことはある。彼らこそキリスト教の愚かさの最大の目撃者で犠牲者だったろうから。その状況下でキリスト教というものに善意を懐くことなど無理だろう。
それから、古来キリスト教と名の付くものには、聖書に倫理の法則性や道徳規則を見出そうとするものが多い。その努力は自己保存本能を原動力とする。これは大洪水やソドムの滅び、またバビロン捕囚などの記述から導かれて出てきたものであろう。しかし、キリスト教の趣旨とこの保身目的は一致しないどころか正反対である。これも聖書の罠であるのかも知れない。聖書理解さえ保身の条件にされていて、ほとんどの教派が見事にその罠に掛かって抜け出せないでいる。だからと言って浅い理解でいてもハモナを形成する動機にしかならない。より安全な立場は、キリスト教から幾らか離れているところにある。

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それぞれの宗教には目的がある
・人間存在の儚さへの対処
・人間以上の存在との関わり
・人間生活の重要事への箔付け
・人生での成功
・諸苦からの解放祈願
・不可知への知
・善悪判断と賞罰
だが、人間がこれらに満たされていたならどうなのか?
人は必要があって神と関わろうとするのか?必要がなければどうなのか?

  • 観察仮説-

誰か同じくらいの子がいれば近付いて遊ぼうとするのは五歳未満か
それでも、気が強くわがままな子供とは一定の壁ができそうになる。
大抵は孤独を望まないので、強い側と弱い側が出来上がり、上下関係が作られる。それに依存して固定化されることも多く、上下関係で社会を学ぶこともあり、兄弟関係もその一種になる。
兄弟関係が無いと、上下関係の固定化が起きにくく、孤立を恐れず正義感の強い子供になりやすい。長男、長女にもそれは起き易い。(K.マルクスは実質長男)社会に対し異議を唱えることを恐れない。他方で、エゴシネイターの性格では、社会の構造そのものよりも現実の状況にどう対処するか適用を探る。
社会に対してどう振る舞うかの個人の原形の差が、相当に幼い時期にも形成されている。

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「コリント」(コリンスォス)のカタカナ表記も固定化されていて変える余地もないうえ
「テアテラ」(スュアテイラ)は更に難しい
「クセノポン」や「ソポクレース」というのはφの文字が分からなくなる。
ここは長いものに巻かれるべきか?
古代の発音は各説はあるにせよ決定打にはなっていない。そこで自分が気を配るのはθの音がそこにあるということなのだが・・
確かに、それを言えばχとκの違いもカタカナでは区別できないし、ヘブライ語の喉音はどうにもならない。XやK、またthの使用出来る欧州原語が羨ましい。日本語のカタカナ表記を止めて発音記号にすると・・却って混乱するか?こんなところにも原語の壁がある。まして翻訳などどういうことになっているか。なぜ「クリスチャン」方が「信頼できる聖書翻訳」という言葉が「好き」かといえば、探求心が無いからだろう。

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Μαθθαιοω16:19 [δεω]原「δησης」動)仮アオ能2単 [δεδεμενον] 分)完了受主中単
tie 4, knit 1, be in bonds 1, wind 1; 44 1) to bind tie, fasten 1a) to bind, fasten with chains, to throw into chains 1b) metaph. 1b1) Satan is said to bind a woman bent together by means of a demon, as his messenger, taking possession of the woman and preventing her from standing upright 1b2) to bind, put under obligation, of the law, duty etc. 1b2a) to be bound to one, a wife, a husband 1b3) to forbid, prohibit, declare to be illicit


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