Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

太陽・天の光

[天の光] ≒ [太陽]
黙示8:12 黙示16:8

[天の光]

Isa59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。(ユダの歩みについて)


Jer4:27-28 それは主がこう言われたからだ、「全地は荒れ地となる。しかしわたしはことごとくはこれを滅ぼさない。
このために地は悲しみ、上なる天は暗くなる。わたしがすでにこれを言い、これを定めたからだ。わたしは悔いない、またそれをする事をやめない」。(エルサレムが攻囲されることを予告するなかで)


ezk7:26-27 災に災が重なりきたり、知らせに知らせが相つぐ。その時、彼らは預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える。
王は悲しみ、司は望みを失い、その地の民の手は慄きによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らを扱い、その裁きに従って彼らを裁く。(ユダの悪行への処罰として)
cf;Hos9:7 刑罰の日は来た。報いの日は来た。イスラエルはこれを知る。預言者は愚かな者、霊に感じた人は狂った者だ。これはあなたがたの不義が多く、恨みが大きいためである。


Ams5:20-21 YHWHの日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。
(イスラエルの背教、荒野で「あなたがたの王シクテをにない、あなたがたが自分で作ったあなたがたの偶像、星の神、キウンをになった。」5:26)
このAmos5:26は要注意!これだけを調査対象にするべき含蓄あり


Mic3:6 それゆえ、あなたがたには夜があっても幻がなく、暗やみがあっても占いがない。太陽はその預言者たちに没し、昼も彼らの上に暗くなる。(ヤコブの頭たちに公義がない酬いとして)



Mrc13:22-25 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。


Lk21:24-26 彼らは剣の刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。
また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。(καιで関連付けられたこの区切りで読むと聖都蹂躙の意味によくよく見えるものがある⇒Rev11:2)


Mt24:29-31 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
(この場面の成就が短時間なためか、かなり要約されているのが分かる)

NWTのMt24:7日本語訳冒頭の「というのは」の訳は、同英文と比較してもかなり問題がある。本文中の接続詞[γαλ]は、前節を説明して挿入されているのではなく、諸国民が対立する仕方を説明するためのものである。




[鉢での太陽]

Isa3:1-6 見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。
勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老、五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。
わたしは若者(幼児)を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。
人は父の家で兄弟に取りすがって言う。「お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり/この破滅の始末をしてくれ」と。
(支配の崩壊の予告だが、これは未成就では?)


Isa25:4-7 あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、炎暑を避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。
砂漠のひでりのように#、あなたは他国人の騒ぎを押さえ、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。
万軍のYHWHはこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除く。これはYHWHが語られたことである。
#(この5節の新改訳の翻訳は不条理で、口語など他の翻訳なら日本語として意味を成すが・・)


Isa49:8-10 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。
捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。
彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。
彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(使いは聖徒か?)



■結論として黙示8:12 と 黙示16:8は天界の光という点では共通する意味がありそうながら、異なる状況を指している。
前の句で、三分の一の世界が指導を失うが、後の句では逆に強烈で横暴な支配が行われることを暗示している。
おそらくは、キリスト教界が指導を失っても社会秩序は維持されるが、世界的政府の統治(指導)の妥当性に根本的疑念が現れてしまう場合には、強制的に服従させるより方途が無くなることを指しているように思える。その意味に解するなら、双方に共通性は残る。








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