Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ציון「ツィオン」の謎

Ps:22:27地の果ての者はみな思い出して、YHWHのみ許に戻り、もろもろの国の民は皆、み前に伏し拝むでしょう。


Ps46:10「断念して静まり、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」


Ps96「新しい歌」捕囚後、家が建てられたときに-


Ps126:2その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。そのときには、国々も言うであろう「YHWHは彼らに大いなる業を成し遂げられた」と。





同義性:ツィオン=ツィオンの山=イェルシャライム
 ツイオンの娘=イェルシャライムの娘=イスラエル
この両者は似ているようで別のものを指している。

「ツィオン」はともかく、ユダヤ人の間でも「ツィオンの娘」or「イェルシャライムの娘」の意味を量りかねているという。⇒http://en.wikipedia.org/wiki/Zion
だが、これは難しいことではない。
 イザヤ書の前半でのシオンの娘は素行が悪いが、これは聖徒となるべきであった律法下の民である。
しかし、後半に至ると救いの対象となっている。これは直接には捕囚からの帰還を指しているが、将来の帰還をも知らせるものである。
この民は諸国民の光となるべきであるが、行状の悪さゆえに捕囚の裁きを受けた。

しかし、捕囚が終わらされ、故国に戻るに当たり彼らが目指したのがこのツィオンであった。その山に向かって街道が造られ、諸国の王たちはこの民を懐に入れてツィオンに上ってくる。

一方で、ツィオンは夫と子らを失って荒野に座する女であったが、捕囚の終わりと共に突然に子らを迎えることになる。そこには夫たる神もその許に来ることになる。
つまり、契約の民として帰還したイスラエル、神殿の復興によって神の臨御の戻ることを意味している。

これは将来の事態の進行を教えるもので、今日のキリスト教界には契約に属する者が居ないが、ある日を境に再び(新しい)契約の民(聖徒)を迎え入れることを指し示している。
そこには臨御を表す聖霊が降り、神殿が象徴的に再建されることになる。そうしてキリスト教界はシオンの山がそうなったように、再び神の是認の下に置かれるものとなる。

ここにおいてツィオンとツィオンの娘とでは大きな違いがある。
ツイオンの娘が契約下にあるのに対して、ツィオンそのものはそうではない。しかし、ツィオンは契約の恩恵に預かる。(Zec9:11の「契約」が律法契約を表しているなら⇒「契約の効力を保つ」)
しかし、ツィオンには大きな誉れが臨むことになる。『暗きが地を覆い、闇が諸国を包もうとも、YHWHが輝き出てツィオンを照らす』のである。この者らこそ、黙示録12章の女であり、神の保護の対象である。

そこには諸国の民が流れのように向かい、それを受け入れるという輝かしい終末の日の栄光が授けられることになる。

この民は終末の滅びを逃れる者らであり、地を継承することになる。神の王国は彼らを治め、彼らに贖罪が施され、千年の終わりにはまったく創造のままの人類となっている。

一方で、ツィオンの娘は神の保護の対象とはならない。彼らは祭司としての清めの試練を課されており、これを通過してはじめて契約を全うし天の召しに預かることになる。その過程では多くの殉教者を出すであろう。その迫害を慫慂するのが「大いなるバビロン」である。

その復讐はまず公権力による「大いなるバビロン」の滅びとなって現れるが、『シオンの子ら』の関わる最終的復讐はハルマゲドンの戦い、「エホシャファトの谷」以降となる。そのとき「見よ!わたしはあなたを脱穀ソリ、諸刃の付いた新しい脱穀機とした。あなたは山々を踏み潰して砕き、丘を籾殻のようにするだろう」という言葉はイスラエルに当てはまることになる。


問題の句:大いなる山よ,あなたは何者か。ゼルバベルの前にあっては,[あなたも]平たんな土地[となるであろう]。そして,彼は必ず頭石を携えて来る。それに向かって,「麗しいかな,麗しいかな」という叫びが上がるであろう』」。Zek4:7
מי-אתה הר-הגדול לפני זרבבל למישר והוציא את-האבן הראשה תשאות חן חן לה
問題の所在は句読点がないこと、「大いなる山」がゼルバベルを意味するのか(マソラ)、ゼルバベルの名の後に休止が入るなら、「大いなる山も(ゼルバベルの前に)どんな意味があるのか(障碍となり得るのか)」となる。ここでは後者を採って以下のように解釈できる。
מִי-אַתָּה הַר-הַגָּדוֹל לִפְנֵי זְרֻבָּבֶל, לְמִישֹׁר; וְהוֹצִיא, אֶת-הָאֶבֶן הָרֹאשָׁה--תְּשֻׁאוֹת, חֵן חֵן לָהּ.

これを解釈すると;今日のうなじの硬く巨大なキリスト教界といえども、神殿の再建者ゼルバベルの前には障碍とはならないことを意味する。
当時の再建の儀に頭石が置かれたときのように、将来の王の臨御に伴いキリストという礎石が据えられと、そのはじめには歓声が上がるかのように祝されるであろう。
では、礎石を置くゼルバベルとは誰を表すものか?











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