Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ネヴィイームの語る『シオンを憂う者』

イザヤの語るシオンと再建者


Isa52:1『シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。
52:2 捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。』
ここではシオンまたエルサレムたシオンの娘が共に語られているが、双方の深い関連性を述べていると捉えることもできる。
もしそうであれば、イザヤの後ろの部分には終末に至る道程が描かれていることになる。(そうなると「第三イザヤ」という区分もまったく陳腐化する)
『シオンよ覚めよ!』はイザヤ後半の概要からして『シオンの子ら』の母親に違いなく、聖徒を意味しない。cf;黙示12章

Isa60
『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから』で始まり、最後の22節までこの『女』について語っている。
であれば『弱い者は強い国となる』とは『神のイスラエル』について言うのではないことになる。この件でイザヤ書中での『わたしの民』とYHWHが指す相手がシオンの子らを指してはいないケースに度々出会う。それがシオンかというと必ずしもそうではないようなところがある。この背景にはヒゼキヤの時のアッシリアからの保護の事例があるかも知れない。それについてイザヤ書は以前にそれなりのスペースを割いていたし、その預言の対型となると『シオン』と『子ら』を含まない「エルサレムの戦士らまた住民」とも言える。すると、イザヤ2章のような諸国民の参集がシオンに対して起こるのは、北の王の攻撃の脅しの前となる。(これは当然のように思えるが、それでメシアは「恐れ慄いてはならない」と終末預言で言われるのか?)<これはまだ何とも言えない2022.8>
61:1をメシアが自らに当てはめているが、61:3からはそのメシアから割当を受ける者らについて『シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。この口語訳での『シオンの中の・・』は必ずしもそうは訳されず、『シオンについて』との訳もある。シオンの廃れた状態を中から憂うよりは、『打ち捨てられた廃墟』に対する外からの憂いの方が状況に沿うし、ネヘミヤへの連なりも良い。また、ネヘミヤに報告したハナニはユダから来たが、エルサレムからとは言われていない。しかし、この時点で(前445)ではエルサレム神殿は再建されて60年が経過しているので、住民は少ないながら住んではいる。そうなると、61:3は『シオンの中で』でも良いようだが、ネヘミヤの立場は指していないことになる。ではどちらか?
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。』と続けているが、やはりこれは聖徒について言うのではないことになる。しかも、『シオン』そのものでもない。その者らは『シオンのゆえに嘆いている人々』【共同】であり、『いにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。』61:4 これは使徒会議で議決を述べるヤコブを連想させるのでアモス9:11とイザヤ45:20-21同じく58:12『久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び』との句も関係していることになる。これはネヘミヤ記との関連を指している。しかもイザヤ58章の『あなた』というのは聖徒ではないらしい。なぜなら『ヤコブにその罪を知らせよ』(58:1)とある。
58:12の訳は
『あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。』【新改訳】
『人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。』【新共同】
これらの翻訳でははっきりしないが、建て直す者は『住めるようにする』また『人を再び住まわせる』のであるから、直接に『シオンの子ら』を指してはいないらしい。(要確認)

アモスの当該箇所は以下の通り。12節以降については聖徒について述べているように見えるが、11節の再興の業を為す者が誰かは不明。
『9:11その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
9:12 これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を/所有するためである」と/この事をなされる主は言われる。
9:13 主は言われる、「見よ、このような時が来る。その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。もろもろの山にはうまい酒がしたたり、もろもろの丘は溶けて流れる。
9:14 わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作ってその酒を飲み、園を作ってその実を食べる。
9:15 わたしは彼らをその地に植えつける。彼らはわたしが与えた地から/再び抜きとられることはない」と/あなたの神、主は言われる。』【口語】

Isa59の最後は『主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と。』これを理解するに当たり、シオンとシオンの子らとの関係を想定するべきかもしれない。(Joh14:16)シオンそのものに聖霊の注ぎはないと捉えるべきかがこの句では曖昧になる。ただ、前の句で『主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る』【口語】と言うところは分かり易く見える。

Isa61ではシオンの子らが揃うだけのことでなく、『他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。』だが、この後の文章は『祭司と見做される』61:6 以上、聖徒を指すように読める。この辺りは不明瞭。

Isa62の冒頭から明らかにシオンについて語られており『YHWHの口が定める新しい名で呼ばれる』。また11-12節では『 62:11 見よ、主は地の果にまで告げて言われた、「シオンの娘に言え、『見よ、あなたの救は来る。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その前にある』と。
62:12 彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、あなたは『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられる」』と母親と子らがはっきりと別に語られている。

Isa63のエドムの謎は、ユダ王国が捕囚に堕したときのエドムの実際の非道を指すとすれば、これは脱落聖徒を指すともとれる。これはエレミヤ49、エゼキエル35、オバデア、哀歌4、申命23、詩137に関連している。⇒『口の息』『言葉が裁く』『口から突き出した諸刃の長剣』
但し、Isa62章でシオンへの言及は一旦終わっているらしい。63章以降はいよいよ終末に入った後が描写されているようで内容が千年期に近い印象がある。
それでも最終章において、再びシオンについて語られるが、さらに注目すべきは『彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。』【新共同】とあり、シオンそのものとは別に語られている。ということは、『シオン』を覚醒させる』なりは人の努力では及ばないことかもしれない。だが、その人々がシオンを建てていることからすると、何もしないわけではない。では、シオンをどう築くのか?⇒ネヘミヤか?

また66:19『わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者・・・彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える』とあるが、これは黙示録の騎兵隊を指すとすると整合性がある。『彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする』という言葉からすれば、この彼らというのは、その前の『印を立てた』ところで『のがれた者』であり、また神の栄光を諸国民に伝える者でもある。『わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする』というのは、それらシオンに参集して子らを運んで来る者らからも聖徒が興されると言っているように読める。

但し、イザヤ書でこれらの内容は常にユダの罪咎と共に語られているし、それはエレミヤやエゼキエルでも変わらない。神殿喪失と再建に至る道程が、シオンの再興に関わることを告げるかのようであり、また、それが現状のキリスト教界の汚染の中からの聖徒への道が拓かれる将来を教えていると観るべき理由は強い。
また、ここで強く注目するべきは『シオン』自身ではないものの、シオンを憂う者、それを再建する者が預言の中に存在し、シオンに対する重要な役割を果たしていること、また、シオン自身がその子らに優った規模を持つこと(当然とも言えるが)により、終末での役割は聖徒に優るとも劣らないという驚くべき(現時点では)内容が込められていることであり、これは新約聖書の中には無く、福音書のイエスの『忠実にして聡き家令』についての僅かな言葉と、黙示録に隠された仕方で述べられているばかりなのである。おそらく、ユーフラテスを立つ四人の使いというのは聖徒ではなかったらしいのである。<これは近いうちに訂正しなければならなくなるように思える>そう見れば、蝗、四人の使い、騎兵隊の全体がイザヤ書を通して一望できることになる。
(反論)『四人の使い』を黙示録の方向から見ると、エルサレム再建のニュアンスよりはよほど『三分の一』への攻撃にウエイトがかかっていて、ただ決められた時刻にユーフラテス河畔から解かれることで、唐突に騎兵の話に進んでいるのであるから、しかもこの騎兵は攻撃的であり防衛するためのものではない。エルサレムも城壁再建もそこに意味は無い。『解かれる』というのは、「シオンを目指して進む」という概念が薄い。あるいは聖徒に起こるパリンゲネシーアを意味するのかもしれない。そうであれば、五ヶ月で蝗が去るという事柄に意味がかかる。
この騎兵は積極的であるところは、三分の一を含めた『大いなるバビロン』の滅びにも趨勢を作るのだろうか。
黙示録のここからエルサレム城市建設を見るには無理がある。それは千年期以後に見られるものか。

しかし、これらのネヴィイームの預言の句は、地に実在するシオニズムへの誤解の危険を相当に孕んでおり、終末での異論の噴出と脱落聖徒からの『不法の人』を介在させるものとなり兼ねない。聖書とは常に諸刃の剣ということになろう。おそるべき論争の種がここにも撒かれているのであれば、聖書に厳密に従おうとしてメシアを退けたユダヤはそれを再演するのだろうか?その下準備は着々と行われているようだが。ともあれ、聖書一神教界の頑迷さには一方ならぬものあり。
現状ではシオンは光を放っておらず、覚醒したのかも不明。おそらくは異教の汚濁の中にいまだ佇んでいる。それでも『葡萄を撒く者が踏む者に追いつく』というのは(逆の訳もあり)収穫が膨大だということか、もし逆ならハバククのような意味にもとれる。撒いた傍から収穫など本来起らず、収穫する傍で耕すのは季節を無視しており、双方とも時間の著しい短縮になる。
ともあれ、少なくとも『シオンを憂う』ということは今出来ることである。

エルサレム再建」というテーマは終末で非常に厄介な問題を作るのが見えている。様々な旧約の句が誤用されると思われる。


それから
総じて、神殿の再建よりも70年ちかく経て後の城壁の再建の事跡が終末の対型では先になることになる。しかし、これは一つ一つの出来事が独立して前表として語られたと観ることで解決して良いようだ。一つの理由として、終末での二度のエルサレム攻撃行動の前表でも、アサ王の事例が後(ハルマゲドン)に、ヒゼキヤ王のものが先(北王の恫喝)になっている。

※『エドムの残りの者』という部分はネイティヴにどう読めるか前後を含めて確認しなければAms9:12/Ezk36:5


<口語訳と岩波委員がどうにかという具合で、便利に汎用できる日本語翻訳でよく流通しているものがないという現状にはいつも苦しんでいる。それは何も自己流の解釈を通し易くするというつもりでなしにそうなので、NKJVの直訳でもあればと思うこともしばしば。キリスト教界ほ方こそ、三一の常識やらに偏向しているではないか。原語と翻訳語の乖離は避けられないし、そのうえ本文での意味も確定しないところもある。そこで原語を参照しても読み手のとり方になるところがあり、それも理解の土台に影響するようなものもある。ある程度は語意、文法、古代用例が決め手にもなるのでその知識を与える方法は欠かせないが、最後は書き手と読み手という人と人の問題になるように思う。全体像や書き手をどこまで、またどう理解しているのかという見識がものをいうと思うけれど、最終的にその人の価値観や倫理性に行き着くように思う。であるから、聖書をどう読むかとは人それぞれになることは否めないし、そうだからこそ信仰というものに意味があるのではないか。(それでも人のレベルの違いというものもあるが)探求を進めても判断するのはやはりその人であり、数式のような正解を求めていれば、メシアの現れの時の宗教家のようにならないものか。知識に長けた人々の理解が幼稚であったり、無神論であったりする例は結構に多い。いや知識に長けるほどその比率は高いようにさえ見える。この幼稚さと無神論とは同じ事柄の裏表なのではないか。>






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ペテロ第二2:10- 誰に逆らうか

2Pet2:10-11

[μάλιστα δὲ τοὺςὀπίσω σαρκὸς ἐν ἐπιθυμίᾳ μιασμοῦ πορευομένους καὶ κυριότητος καταφρονοῦντας. τολμηταὶ αὐθάδεις δόξας οὐ τρέμουσιν βλασφημοῦντες,
ὅπου ἄγγελοι ἰσχύϊ καὶ δυνάμει μείζονες ὄντες οὐ φέρουσιν κατ’ αὐτῶν παρὰ κυρίῳ βλάσφημον κρίσιν.]NA28

and especially those who walk according to the flesh in the lust of uncleanness and despise authority. They are presumptuous, self-willed. They are not afraid to speak evil of dignitaries,whereas angels, who are greater in power and might, do not bring a reviling accusation against them before the Lord.【NKJV】


特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。
しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。【口語訳】


[κυριότητος] 名)属女単
dominion 3, government 1; 4 1) dominion, power, lordship 2) in the NT: one who possesses dominion


[δόξας] 名)対女複
glory 145, glorious 10, honour 6, praise 4, dignity 2, worship 1; 168 1) opinion, judgment, view 2) opinion, estimate, whether good or bad concerning someone 2a) in the NT always a good opinion concerning one, resulting in praise, honour, and glory
3) splendour, brightness
3a) of the moon, sun, stars
3b) magnificence, excellence, preeminence, dignity, grace
3c) majesty 3c1) a thing belonging to God
3c1) the kingly majesty which belongs to him as supreme ruler, majesty in the sense of the absolute perfection of the deity
3c2) a thing belonging to Christ
3c2a) the kingly majesty of the Messiah
3c2b) the absolutely perfect inward or personal excellency of Christ; the majesty
3c3) of the angels
3c3a) as apparent in their exterior brightness
4) a most glorious condition, most exalted state
4a) of that condition with God the Father in heaven to which Christ was raised after he had achieved his work on earth
4b) the glorious condition of blessedness into which is appointed and promised that true Christians shall enter after their Saviour's return from heaven




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1Cor10:20-21
[ἀλλ’ ὅτι ἃ θύουσιν, δαιμονίοις καὶ οὐ θεῷ [θύουσιν]· οὐ θέλω δὲ ὑμᾶς κοινωνοὺς τῶν δαιμονίων γίνεσθαι.
οὐ δύνασθε ποτήριον κυρίου πίνειν καὶ ποτήριον δαιμονίων, οὐ δύνασθε τραπέζης κυρίου μετέχειν καὶ τραπέζης δαιμονίων.]

[θύουσιν]屠る、捧げる
一度「神」としていながら「主の食卓」というのに、聖餐との対照があるとすれば、それは「神の食卓」を意味しないことになる。まして、ギリシア語話者にしてみれば、せっかくパウロが「ダイモーン」と「テオス」を使い分けている意味を失いかける。ギリシア文化では「ダイモーン」も「テオス」であり、分かり辛いが「主の食卓」[τραπέζης κυρίου ]とすることでコリントスの人々はよく了解したであろう。しかも次の第11章には聖餐についての記述がある。





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「ケリュグマ」の使用例


[κήρυγμα]「ーリュグマ」用例は追加文を含めると9回

Mt12:41
[Ἄνδρες Νινευῖται ἀναστήσονται ἐν τῇ κρίσει μετὰ τῆς γενεᾶς ταύτης καὶ κατακρινοῦσιν αὐτήν, ὅτι μετενόησαν εἰς τὸ κήρυγμα Ἰωνᾶ, καὶ ἰδοὺ πλεῖον Ἰωνᾶ ὧδε.]
ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。



Mr16:9
[(Παντα δε ό παραγγελλω ό περι ό Πετρον εξαγγελλω μετα δε ουτος και ουτος ό 'Ιησους απο ανατολη και αχρι δυσις 'εξαποστελλω δια αυτος ό ιερος και 'αφθαρτος κηρυγμα ό αιωνις σωτηρια άμην) Ἀναστὰς δὲ πρωῒ πρώτῃ σαββάτου ἐφάνη πρῶτον Μαρίᾳ τῇ Μαγδαληνῇ, παρ’ ἧς ἐκβεβλήκει ἑπτὰ δαιμόνια.]
文頭に追加文あり(さて、女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間の人々にさっそく知らせた。その後、イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた。)週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。
#<マルコ福音書そのものは16:8を以って終わっているが、その後の写本によっては補遺が付け加えられており、上記頭書は「補遺1」とされる短いもので、これに9節以降の補遺2が続く形で採録されることもある。しかし、これらの正当性は高くない。それでも補遺2はウルガタを通して西欧に広められた>


Lk11:32
[ἄνδρες Νινευῖται ἀναστήσονται ἐν τῇ κρίσει μετὰ τῆς γενεᾶς ταύτης καὶ κατακρινοῦσιν αὐτήν· ὅτι μετενόησαν εἰς τὸ κήρυγμα Ἰωνᾶ, καὶ ἰδοὺ πλεῖον Ἰωνᾶ ὧδε.]
ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。


Rm16:25
[ῷ δὲ δυναμένῳ ὑμᾶς στηρίξαι κατὰ τὸ εὐαγγέλιόν μου καὶ τὸ κήρυγμα Ἰησοῦ Χριστοῦ, κατὰ ἀποκάλυψιν μυστηρίου χρόνοις αἰωνίοις σεσιγημένου,]
願わくは、わたしの福音とイエス・キリスト宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、


1Co 1:21
[ἐπειδὴ γὰρ ἐν τῇ σοφίᾳ τοῦ θεοῦ οὐκ ἔγνω ὁ κόσμος διὰ τῆς σοφίας τὸν θεόν, εὐδόκησεν ὁ θεὸς διὰ τῆς μωρίας τοῦ κηρύγματος σῶσαι τοὺς πιστεύοντας·]
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。


1Co 2:4
[αὶ ὁ λόγος μου καὶ τὸ κήρυγμά μου οὐκ ἐν πειθοῖ [ς] σοφίας [λόγοις] ἀλλ’ ἐν ἀποδείξει πνεύματος καὶ δυνάμεως,]
そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。


1Co 15:14
[εἰ δὲ Χριστὸς οὐκ ἐγήγερται, κενὸν ἄρα [καὶ] τὸ κήρυγμα ἡμῶν, κενὴ καὶ ἡ πίστις ὑμῶν·]
もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。


2Ti 4:17
[ὁ δὲ κύριός μοι παρέστη καὶ ἐνεδυνάμωσέν με, ἵνα δι’ ἐμοῦ τὸ κήρυγμα πληροφορηθῇ καὶ ἀκούσωσιν πάντα τὰ ἔθνη, καὶ ἐρρύσθην ἐκ στόματος λέοντος.]
しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。<そこでの捕縛や拘禁については聖書には無いが、パウロとしては忘れ難い出来事であったに違いないエフェソスでの『野獣との戦い』を指して『ししの口』というのであろうとされる。>



Tit 1:3
[ἐφανέρωσεν δὲ καιροῖς ἰδίοις τὸν λόγον αὐτοῦ ἐν κηρύγματι, ὃ ἐπιστεύθην ἐγὼ κατ’ ἐπιταγὴν τοῦ σωτῆρος ἡμῶν θεοῦ,]
神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この[宣教]をゆだねられたのである――








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幼児のように マルコ10:15

■Mr10:15
[ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν.]


よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。【口語訳】


まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」【新改訳】


はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」【新共同訳】


"Assuredly, I say to you, whoever does not receive the kingdom of God as a little child will by no means enter it."【NKJV】




■Mt18:3
[καὶ εἶπεν· ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ἐὰν μὴ στραφῆτε καὶ γένησθε ὡς τὰ παιδία, οὐ μὴ εἰσέλθητε εἰς τὴν βασιλείαν τῶν οὐρανῶν. ]


「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。【口語訳】


言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。【新改訳】


言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。【新共同訳】


and said, "Assuredly, I say to you, unless you are converted and become as little children, you will by no means enter the kingdom of heaven.【NKJV】



■Mt19:14
[ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν· ἄφετε τὰ παιδία καὶ μὴ κωλύετε αὐτὰ ἐλθεῖν πρός με, τῶν γὰρ τοιούτων ἐστὶν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.]


するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。【口語訳】


しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」【新改訳】


しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」【新共同訳】


But Jesus said, "Let the little children come to Me, and do not forbid them; for of such is the kingdom of heaven."【NKJV】




■Lk18:17
[ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ὃς ἂν μὴ δέξηται τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ ὡς παιδίον, οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν.]


よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。【口語訳】


まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」【新改訳】


はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」【新共同訳】


"Assuredly, I say to you, whoever does not receive the kingdom of God as a little child will by no means enter it."【NKJV】



一般的な翻訳ではマルコの文章が一番簡潔で、却って何か省略されているような風情がある。
マタイとルカでは、『神の王国では誰が最も偉大な者なのですか?』の問いに答えて『子供のように自分を低くする者が最も偉大な者である』と答えているが、そもそも『入ることができない』となっており、より厳しい。
マタイでは、使徒同士での上下関係への問いに答えての場面で一人の子供を立たせて教訓を与えたが、マタイ19、マルコとルカでは、子供がイエスの許に集まる場面を描いている。
だが、マルコだけは幾分異なっていて、『子供』を主格ではなく対格として『子供を受け取るように、神の王国を受け取らない者は、けっしてその中に入ることはない』とも、つまり「イエスのように幼児を受け入れるように王国を受け入れるように」と言ったともとれる。
その場合、イエスの許に祝福を求めて集まる子供を受け入れるように、神の王国を受け入れなければ・・という意味になる。それなら「子供のように神の王国を受け入れ信じる」ということにはならない。このマルコだけがこの意味の可能性を与えている。
総合すると、マルコとルカの内容は子供の参集を描いていて近いが、マルコで「童心で王国を信じるように」と必ずしも言われたのかは分からない。ルカはそのように理解できる。マタイ18は場面が異なっており、その教訓は互いに競争心を持つことへの戒めであり、要点は謙虚さであった。マタイ19もマルコとルカとは微妙に異なっている。マタイに二例あるように、子供を引き合いにしたイエスの教訓は複数回あったようにとれる。あるいは、現場に居合わせた弟子らそれぞれの主の言葉への捉え方の異なりが表れたのかも知れない。マタイ二か所、マルコ、ルカ共に幾らかずつ意味に違いがある。マタイとルカで違っているのなら、マルコの文章を必ずしもルカに準じさせる必要があるだろうか。むしろ、調整せずにそのままを伝える方が良いのでは。
いずれにせよ、使徒の間での競争心は根強かったらしく、複数回戒められたようであり、最後は主に足を洗われている。それから彼らを『友』と呼んでいる。
人はなぜ偉くなりたいのか。優越感や自愛の原因に何があるか。


所見;Mt19の「神の王国は幼児のような者らのもの」の意味では、無垢で上下関係に想いが向かない子供の属性を指していると見てよいように読め、同じくMt18もその場面からして上下関係にこだわりを持つ十二使徒らへの譴責が込められていると読める。
対してMrでは、やはり使徒らへの幼児を用いた教訓にとれる。つまり、幼児を受け容れるように善意を懐いて王国を捉える必要を教えており、Lkだけが「幼児のように王国を受け容れる」つまり、受け入れ方が幼児のようであるべきの意味になる。
これら四つの出典について、単純化して解釈を統一しない方が本旨に近付けるように思われる。ただ、いずれもが使徒らの抱く問題への教訓を含んでいたことは間違いない。彼らの間の対抗心は最後の晩餐の席にまで及んでいたことからすれば、師はその問題が根深く、解決が容易でないゆえにも、複数回幼児を例えに用いていたとしても不思議はない。その背景には、『神の王国』が地上のものであると捉えていた使徒らが、ダヴィドの王国を思い描いてその中での高い地位を望んだことがある。その点でゼベダイの子らは自分たちの母サロメがイエスの母の姉妹であるところに依拠して王の左右の地位を望んだところにも見える。これについてイエスは自らの職権の限界を説き、分をわきまえる模範を示して終わった。(だが、兄は十二人で最初の殉教者となり、弟は最後の一人とはなっている)
この件は、単に十二使徒の矯正に終わるものでない印象が残る。人はそのほとんどが、自分の上下に他者を置く癖があり、それは秩序や物事に習得、懸命な判断などに役立つものでもあるところから確かに実用性があるので、そのあたりが現状の人間関係では動機の善悪と共に混沌としている。だが、『神の象り』としての被造物である人間本来の在り方は、元来そこには無いに違いなく、そこで幼児の無垢性を象徴として師が教えられたのであろう。
それは、聖徒ばかりでなく、いや、聖徒であってすらその件を矯正されたのであれば、地の者らにはますます必要な教訓となるに違いない。




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コリント第一2:13


[ἃ καὶ λαλοῦμεν οὐκ ἐν διδακτοῖς ἀνθρωπίνης σοφίας λόγοις ἀλλ’ ἐν διδακτοῖς πνεύματος, πνευματικοῖς πνευματικὰ συγκρίνοντες. ]NA28

[πνευματικοῖς] 指示)男複/中
[πνευματικὰ] 形)対中複
[συγκρίνοντες] 分)現能主男1複 解く、説明する、解釈する compare with 2, compare among 1; 3 1) to joint together fitly, compound, combine 2) to interpret 3) to compare

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この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
【口語訳】


この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
【新改訳】


そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
【新共同訳】


わたしたちはそれらの事も,人間の知恵に教えられた言葉ではなく,霊に教えられた[言葉]で話します。わたしたちは霊的な[こと]に霊的な[言葉]を結び合わせるのです。
【新世界訳】「結び合わせる」←”combine”なぜこうしたか?


私たちは、それを[知るだけでなく]語りもするのだが、それは人間的な知恵によって教えられた言葉においてではなく、むしろ霊によって教えられた言葉において[語る]のであって、霊的なものによって霊的なことがらを判断しながら、そうするのである。
【岩波委員訳】


These things we also speak, not in words which man's wisdom teaches but which the Holy Spirit teaches, comparing spiritual things with spiritual.
【NKJV】





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人間意志の自由 エラスムスとルターの不毛

エラスムス

エラスムスの自由意志の定義
「人間が永遠の救いへと導くような事柄へ自分自身を適応させたり、あるいはそのようなものから身を翻したりし得る人間の意志の力」
ルターの反駁
「永遠の救いへと導くような事柄とは神の言葉と業を意味する。それ以外には神の恩恵や永遠の救いへと導くような事柄は何もない」「神の言葉と業について神ご自身以外に何もない」「(エラスムスの主張は)明らかに神性を自由意志に帰するものだ」

神の人の意志に関する予知について、予知は予感と同じではないと主張した。 代わりに、エラスムスは、日食が起こることを知っている天文学者と神を比較した。 天文学者の予知は、日食を引き起こすものではなく、宇宙の働きの詳細な知識から何が来るのか、知識だけである。 エラスムスは、宇宙と人類の創造者として、神は自分の創造物に非常に精通していて、神のはっきりした意志に反していても、来るべき出来事を完全に予測することができたと考えた。 彼は、預言者ヨナとニネベの人々の場合のように、人類の悔い改めに直面している差し迫った災害の預言的な警告を提供する神の聖書の例を引用する。

エラスムスは人間に自由意志がないと、神の戒めと警告は無駄だと主張した。 そして罪深い行為(そしてそれに続く災害)が実際に神の予定の結果であったならば、それは彼が彼らに強制させた罪のために彼の創造物を罰する残酷な暴君となってしまう。 むしろ、エラスムスは、神が自由意志で人類に恵まれ、人間の特質を大切にし、善と悪との間の自分の選択に従って報いたり処罰したりしたと主張。 彼は聖書の大部分が暗黙的にまたは明示的にこの見解を支持しているとも主張し、神の恵みは人間が神を知るようになった手段であると同時に、人間を自らの自由を求めて支持し、神の法に従うことなる。

エラスムスは最終的に、神は多くのこと(人間性を含む)を妨げることができると断言したが、そうしないことを神は選択したとする。 神が積極的に関与することなく、起こる(または起こらない)ことを許したので、神は多くのことに対して責任を負うと言われることができたとした。
1524


■ルター
意志は救いに関係のある事柄において何事か成し得るのか?
神は偶発的にあることを予知し給うのか?-神は偶発的にあることを予知し給うのではなく、神の不変で永遠に誤ることのない意志によって一切を予見し、約束し、為し給うものであると知ることもまたキリスト者にとっては、とりわけ必要にして有益なことである。この電撃によって自由意志は徹底的に打ちのめされ、打ち砕かれるであろう。
人間が自分の救いを働かせることを罪が無能力にし、自分たちを神に導くことが全くできないのは罪が理由である。そういうものとして、人間の自由意志はない。なぜなら、彼らの持つ意志は、罪の影響によって圧倒されるからです。議論中の教説とエラスムスの具体的な議論の両方の論点の中心は、神の力と完全な主権に関するルターの信念にあった。

贖われていない人間は障害物によって支配されていると結論づけた。死の世界の王子であるサタンは、より強い力、すなわち神によって圧倒されない限り、彼が自分のものと考えるものを決して放棄しない。
神が人を贖うと、その人をかつての罪を含めて全部贖い、それが解放されて神に仕えるようになる。誰も自分の意志で救済や償還を達成することはできず、人々は善悪を選ぶことはできない。罪ある人は自然に邪悪に支配され、救いは単に神の産物であり、人の心を一方的に変化させ、罪から救う。

「聖書の中には隠されていることもあって、すべてのことが明らかにされているわけではない 不明な事柄が含まれている事柄は明白なのである。とは実に不敬虔な教皇神学者たちによって言いふらされていることであって、エラスムス君、きみもまた 聖書そのものが不明だと言いたてることは、まことに愚かであり、 ここで教皇神学者たちの口ぶりをまねて語っているわけだ。
わたしもまた、聖書に不明瞭で隠されている多くの箇所があることを告白する。しかし、それは内容である事柄の荘厳さのためではなく、わたしたちが語彙と文法とに無知なためである。とはいっても、そのような箇所があることが聖書の中に含まれている内容のいっさいを知るのに障害となるものではないのである。封印が破られ、墓の入り口から石が転び退けられて、神秘の中の最大のもの、即ち、神の子キリストは人と成り給い、神は三つにして一つでいまし、キリストはわたしたちのために苦しみを受け、かつ永遠に支配し給うであろうということが明らかにされたあとで、これ以上に崇高な何が、なお聖書の内に隠されて残っていることができようか。聖書からキリストを取り除いて見よ、ほかに何が残るというのか。
それゆえ、たとえ聖書のある個所が、言葉はいまだに理解されていないために、なお不明であっても、聖書に含まれている事柄は明白なのである。聖書の中の一切がきわめて明るい光のなかに置かれていることを知りながら、若干の言葉が不明瞭だというだけで、事柄そのものが不明だと言い立てることはまことに愚かであり、不敬虔なことである。・・」
教皇神学者たちがあるいは少なくとも彼らの父であるペトルス・ロンバルドゥスが教えていることの方が、これよりはるかに我慢のできるものだ。彼らは、自由意志とは識別の能力のことであり、次に。選択の能力であって、その能力ももし恩恵が臨在すれば善を選び、反対に恩恵を欠けば悪を選択する能力である、と言っており、アウグスティヌスと共に明らかに自由意志とは自発的な力では堕落すること以外は為しえず「罪を犯す以外のことには役に立たない」と考えているのである。それゆえアウグスティヌスも「ユリアヌスを駁す」の第二巻で「自由というよりは奴隷である」と言っている。#
だが、君は自由意志の力を善悪いずれの側にも等しい力を持ったものとしている。なぜなら、、それは恩恵がなくても自発的な力で善に向かって自分自身を適応させ得、また善から身を翻しさせ得るからである。さて君が「自分自身を適応させ得る」というとき、君はこの自己とは自分自身とか云う代名詞でどんなに大きな事柄を自由意志に負わせているかを少しも悟っていない。君はこれらの言葉で聖霊をその一切の力と共にあたかも余計なもの不必要なものでもあるかのように完全に排除しているのである。」
「キリストが『わたしに味方しないものは反対する者である』と云っておられる通りなのである。キリストはわたしに味方でない者は反対する者ではなく、中間にある者だなどとは言っておられない。なぜんなら神がもしわたしたちの内に居たもうたなら、サタンは離れ然り、ただ善を欲する。しかし、もし神が離れて居たもうたなら、サタンが臨在し、わたしたちの内にはただ悪を欲すること以外無いであろう。神もサタンも単純で純粋な意欲などというものをわたしたちの内に赦していない。」
[奴隷意志論 De Servo Arbitrio 1525]⇒MEMO

アウグスティヌスの引用は正確なものではないが、この後の言葉が「奴隷意志論」の主題を与えたとされる。
⇒ 「ルターの意志論」
ルターの意志論 - Notae ad Quartodecimani


<ここに、数時間かけて書き付けた部分があったが、このはてなブログのライターの不調により、長文を失ってしまった・・ルターの論議が子供のように頑なで、もう一度書こうとも思えない(ファラオを神は頑なにした、に関するふたりの言い分であった)>

ただ、ルターの神認識の前提をノートすると
1.神は全能であり、可能性だけでなく現実に於いても全能である。
2.神は一切を知り、且つ予知し、誤ることも欺かれることもない。

これに加えて、人は神の霊の恩恵なしには何事の善も行えないという前提もある。


エラスムスは翌1526年にHyper aspistes(再反駁)を書いているが、ルターの引用の不正確であることの指摘が目立つ(ルターは反駁を一気呵成に書いたらしい)

この論争の背景には、エラスムスカトリックとしての難しい立場があり、一方でルターは反カトリックの道を突っ走っていたことがある。純粋に人間の意志が自由か否かを論じる前に政治的バイアスが生じているうえでの論議であることを踏まえる必要がある。エラスムスは明解に言えず、ルターは激情に暴走しているかのようで、初めから両者にはバイアスがかかってしまっており、言葉の表面だけの論理で終わっていないうえに、共に真摯に向き合うための土台を欠いていた。読者はそれに付き合わされることになる。

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ルターと他の改革派は、人類は罪によって自由意志を剥奪され、神の予定は死の領域内のすべての活動を支配したと主張した。 彼らは、神は全面的に全能で全能であると考えた。 起こったことは神のはっきりした意志の結果でなければならず、事件の神の予知は事実上事態を現実にもたらしたとする。
しかし、エラスムスは、予知は予感と同じではないと主張した。 代わりに、エラスムスは、日食が起こることを知っている天文学者と神を比較した。 天文学者の予知は、日食を引き起こすものではなく、宇宙の働きに親密な親密さから何が来るのかがその知識である。 エラスムスは、宇宙と人類の創造者として、神は自分の創造物に非常に精通していて、神のはっきりした意志に反していても、来るべき出来事を完全に予測することができたと考えた。 彼は、預言者ヨナとニネベの人々の場合のように、人類の悔い改めに直面している差し迫った災害の預言的な警告を提供する神の聖書の例を引用した。

エラスムスは人間に自由意志がないと、神の戒めと警告は無駄だと主張した。 そして罪深い行為(そしてそれに続く災害)が実際に神の予定の結果であったならば、それは彼が彼らに強制させた罪のために彼の創造物を罰する残酷な暴君になる。 むしろ、エラスムスは、神が自由意志で人類に恵まれ、人間の特質を大切にし、善と悪との間の自分の選択に従って報いたり処罰したりしたと主張した。 彼は聖書の大部分の大部分が暗黙的にまたは明示的にこの見解を支持していると主張し、神の恵みは人間が神を知るようになった手段であると同時に、人間を自らの自由を求めて支持し、 神の法に従うことになる。

エラスムスは最終的に、神は多くのこと(人間性を含む)を妨げることができると断言したが、そうしないことを選択したとする。 神が積極的に関与することなく、起こる(または起こらない)ことを許したので、神は多くのことに対して責任を負うと言われることができた。

エラスムスは、ローマカトリック教会に対する彼自身の批判にもかかわらず、教会は内部からの改革を必要としており、ルターはあまりにも遠くに行っていたと信じていた。 エラスムスは、すべての人間が自由意志を持っており、予定の教義が聖書に含まれている教えと一致していないと主張した。 彼は、事件の神の予知が事件の原因であるとの信念に反して、悔い改め、バプテスマ、および改宗の教義は自由意志の存在に依存していると主張した。 彼は同様に、恵みが単に人間を神の知識に導き、イエス・キリストの贖いによって救いに導く善と悪の選択の自由の意志を使って彼らを支えたと主張した。

ルターの反応は、人間が自分の救いを働かせることを罪が無能力にし、自分たちを神に導くことが全くできないことを罪が理由とすることであった。そういうものとして、人間の自由意志はない。なぜなら、彼らの持つ意志は、罪の影響によって圧倒されるからである。議論中の教説とエラスムスの具体的な議論の両方の分析の中心は、神の力と完全な主権に関するルターの信念である。[奴隷意志論 De Servo Arbitrio 1525]

ルターは、未償還の人間は障害物によって支配されていると結論づけた。死の世界の王子であるサタンは、より強い力、すなわち神によって圧倒されない限り、彼が自分のものと考えるものを決して放棄しない。神が人を償うと、その人を遺言を含めて全部贖い、それが解放されて神に仕える。誰も自分の意志で救済や償還を達成することはでききない。人々は善悪を選ぶことはできない。自然に邪悪に支配され、救いは単に神の産物であり、人の心を一方的に変化させるものではなかったと考えた。ルターは、神は全能で全能ではなく(引用が必要)、創造よりも完全な主権を欠いていると主張し、そうでなければ神の栄光に侮辱していると主張した[Luther contended, God would not be omnipotent and omniscient(citation needed) and would lack total sovereignty over creation, and Luther held that arguing otherwise was insulting to the glory of God. ]。したがって、ルターは、エラスムスは実際にキリスト教徒ではないと結論づけた。

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◆所見
古い!キリスト教界の暗黒の歴史から逃れ出ようとしていながら、やはりその暗闇を前提としているので、視界が晴れない。
「堕罪によって人間の自由意志の行使にどのような影響が出たのか」これが論点になっていて、ルターは、「人は神の前に自由意志を行使できない」と言い、エラスムスは「神は人の自由意志の選択を予め知ることができた」という意味で、「人には依然として自由意志を行使できる」という。
だが、神はアダムの決定を予知していたなら、二本の木の選択は無意味ではないか?ルターは「神の全能性」賛美で、エラスムスは「人間に自由を与えた神」を賛美する。なるほどルターは「ヴィッテンベルクの教皇」と言われただけのことはある。エラスムスの方が一段高尚ではあるが、今一歩、というより、それを言うことが立場上許されなかったのだろう。

そこで、神は人間の自由意志を尊重し、予知しないということが有り得るととれば、この論争は収束するのではないか。神はアハブ王の悔いを喜んでおり、マナセ王にもそうしている。もちろんニネベの住民にもそうであったが、ヨナ書だけはヨネ自身が主人公であって、例とするにはそぐわない。そこで神は明らかにニネベの民の意志を予測しヨナの反応も予測している。だが、他の例ではそうは言えない。ヨナは余りに例外的なので、普遍的議論に向かないが誰が論題にしたのか?
それからファラオについては、パウロがローマ書9章で『憤りの器』として『形作る』とされているように、本来のファラオの性向の上に、『頑なにならせ』神の意志を成就させる器としているのであって、ファラオ個人の自由意志は既に行使された後のことである。
それに加え、パウロ自身は自分がみじめな人間であり、自分の思う所を行わず、罪に引かれてゆくと述べたが、この葛藤は、彼の内に自由意志があればこそ生じたものと言える。つまり、個人の内面では、自己をその意志によって判断している。それでも行いにその意志が反映されないことを嘆いているのであり、人が懐く「信仰」はその想いの中で懐かれるものであるから、「信仰」そのものは自由意志の行使となる。もし、ルターが信仰を「恩寵」と見做して、信仰すら神からのものであるとするなら、それは倫理上に越えがたい矛盾をもたらすことになる。

それから、当時の二人を巡る情勢からすると、ルターはエラスムスと論争をするきっかけを待っていたようなところがあり、殊更に、とっかかりとなる案件を針小棒大に扱う謂われが有ったように思える。だが、背後にはカトリックからの完全な独立を目指すルターの思惑が、エラスムスへの嫌気を誘っていたというのは、その通りだろう。

なお、この論争の根本には従来のキリスト教徒に於ける「神の是認を受ける信徒」というヴィジョンが通底している。自分たちは神に受け入れられており、聖霊も注がれているという絶対的な前提であり、非キリスト教徒を神の恩寵の外に置くところでは変わらない。これがキリスト教界の一貫した独善的歴史を形作り、改革を通しても変わらず、むしろ聖書主義、信仰主義などが、却って独善の度を深めている。
また、信者は神とサタンの善悪のゲージの上を行き来するという、悪しき律法の業による義の獲得に近付いている。この点で思い浮かぶのは、ルターの背後には選帝侯フリードリヒの権力があったことであり#、それゆえ「この世」というものの見方に神の是認や恩寵を有する世界観が拭えなかったことがある。
ルターの方は『世界が邪悪な者の配下にある』という観点が薄らぎ、宗教指導層を介して社会が神の恵みの下にあるという大前提の上で議論している。そこでいくら「奴隷だ」と云ったところで、神の臨在をや恩寵を想定し、奴隷の反対を自分たちに要請してしまっているのだが、この甘さや自信はどこからくるものか? #(これはアウグスティヌスローマ帝国の関係に相似している)

エラスムスの主張の如く、人が自らの方向性を定められないとしたら「裁き」は一切意味が無く必要もなくなる。そこで、人は神に対してまったく選択ができないとは言えない。むしろ、自ら悪を排除できないところで贖いの必要を感じ取り、それを希求することができるし、敢えてそうしないということも選び得る。そこで選択を導くものが聖霊の「力の表明」であって、『味方しない者は反対する者』という言葉は、聖霊の顕現を前にした人の選択を言われるのであり、聖霊を前にしてはじめて人にどちらの側に着くかを試すものとなる。それまでは「中立」ということではなく、依然として罪人ではありながら、神の前に裁かれてはいない状態に在るばかりである。

ルターの論旨の背景には、「塔の経験」に表れているように、修道の矛盾からくる「業」とは対立する「信仰」というアンチテーゼが強く働いているように見える。しかし、人間だけでは善を行うことはできないとすると、この世の一切は邪悪に染まるが、そこで神とサタンの綱引きをさせることは信徒に要らぬ緊張を課することになるし、同時に人間の意志がどちらにも向き得ることを認めていることにもなる。また、信徒をして安易な恩寵への安堵という幻想も観させることにもなる。その子供のゲームのようなルール付けは妄想という以外ない。
この他に、根源的な問いとして、「『罪』を負っている人間が神の側を取り得るか?」ということはある。
しかし、これは「裁き」がある以上、自由な選択がないわけもない。そうでなければ神の裁きは倫理もなにもなく、救済されるアダムの子孫は皆無だといっていることになり、キリストの贖いを無価値に陥れるのであるから、これは有り得ない。

そこで、『聖霊によらなければ、誰もキリストは主であるとは告白できない』1Cor12:3の句を用いて、信仰を抱いたことさえ「神の選び」だとか、『この世の基が置かれる前から、神はわたしたちを選ばれた』Ep1:4の句で運命が予定されているとはいう主張が、聖霊と聖徒の概念無しに論じられるのを見ることがあるが、これはパリサイに数倍した自己義認者を造り上げてしまう。『聖霊によらなければ・・』とは、聖霊ではない力の働きとの対照としてパウロは語っており、『この世の基が置かれる前から』とはエデンで語られた『女の裔』と成り得る『新しい契約』に預かる者として聖霊の仮承認を与えられた『聖徒』の立場について語られた言葉である。
しかし、ルターもカルヴァンもその辺りは旧約の理解の上には立たなかった。そのためその理解は表層をなぞるもので終わり、裁く神を無効化しJob40:8、却って異様に神秘主義的な異教のようなものになっている。ルターは人間の罪の重さを強調する割に、却ってそれを軽視するようなところがある。それはアウグスティヌスを克己することなく、恩寵に耽溺する姿勢のままではないか。どうやらルターは、人間の『罪』である倫理不全を自ら改善し得ないことを拡大して、人は自ら善なるものに到達するすることは出来ないと言っているらしい。
それならば、その通りだが、パウロが悲嘆したように、それを悔い、逃れたいと願う気持は持つことができ、それはその人の意志に間違いはない。それであるから、ルターは(エラスムスも?)現状の人間の行動に於いて善と悪とを選べるか否かを論じて、それを前提としてしまっているので、双方の主張が食い違っているのではないか?共に恩寵がそこに在り得るという前提に立っているのであれば、やはり、それぞれが自分は裁きの以前に居るというその実際の状態にも関わらず、贖いの恩寵に自分たちが値し得ると思い込んでいるのであり、どれほど延々と論議しようと空しい神への甘えの中でのことでしかない。ふたり共に神に関する前提は相当に単純で「全知全能」から逃れられずにいる、その単純さが却って論議を複雑に捏ねまわす事態を招いている。
西欧キリスト教徒とは、どうしてここまで自己評価を高められるのだろう? 実は、自分は救われていると思い込むのが西欧キリスト教なのか?そうなのだろう。聖徒理解が欠けているなら、どうしても聖書の言葉を自分に当てはめることになるのだろう。

それから、ルターの聖書万能に近い観方の背後には、カトリックの余りにひどかった聖書無視がある。その反動としてルターは聖書を高め過ぎて、それに従えば正しいキリスト教を導けるという方向に改革運動の方向付けをしていた。それは改革運動が俗世に新たな宗教体制を提供する役割が生じていたし、また聖書の翻訳と普及という偉業の原動力とはなったのだが、やはり神を聖書に中に語り終えた存在として封印してしまい、聖書の方を偶像化する許多の新教以降の教派の先鞭をつけてしまったことも否めない。しかし、実際に聖書とは神ではない。その言葉は人を分けるものとなりHeb4:12、メシアの現れのときに旧約の言葉はユダヤ人を裁くものとなったが、詳しく知る者ほどその罠に掛かってしまっている。書かれたところよりも書かれていないところによって彼らは裁かれた以上、聖書を自己義認の道具にすることは極めて危険な立場に自分を置く事になるだろう。

近頃というか、ここ数年、様々なキリスト教改革期の本に目を通すたびに、アウグスティヌスという高い壁が立ちはだかっており、これを越えない限り、キリスト教が本心に立ち返ることはできないと思えてならない。
あの神の前での自己義認の特有の甘さの理由は、聖徒の深い権限を自分のものと勘違いしたところからくるのだろうが、余りの自己愛の強さに辟易とさせられる。なぜ、自分に聖霊が働くなどの僭越な思いを警戒しないのだろうか?この世が神の摂理に動かされており、その是認がキリスト教徒に与えられているというのは、アウグスティヌスのように権力との野合の上に成り立つご利益信仰であり、確かに、聖徒については神の是認も意志も働いていたので、それを自分のものと誤解させ得る罠が聖書に有ると云える。これこそは聖書主義の盲点なのだろう。
畢竟、聖書を絶対視したい動機は自己愛のための「偶像崇拝」ではないか。カトリックは余りに聖書を等閑にして本当に偶像崇拝に陥り、結果的にルターの聖書偶像化を後押ししてしまったのであり、どちらも空しい。




⇒「自らの象りへの神の忠節な愛

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エラスムスはヒエロニュモスやアウグスティヌスの全集を次々に出版しているが、マウリ版の以前においては優れた編集上の価値をもっていると
彼自身、ステインのアウグスティヌス修道院に居た際に、その著作に触れている。それから最初の著作である「現世の蔑視について」の中で「もし、それ自身でも美しい真理が雄弁の魅力によっていっそう優美になるのを好むなら、ヒエロニュモス、アウグスティヌス、アンブロジウス、キプリアニュスその他の同類のものに向かう。少し嫌気がさしてきたなら、キリスト教キケロに耳を傾ける喜びがある」と
「エンキリデオン」には、相当量のアウグスティヌスからの影響があるのは明白とも
彼も神学と哲学の融合を試みており、アウグスティヌス初期の「キリスト教の教え」に共鳴している
カルヴァンアウグスティヌスの書著作を暗記するほどに精通しており、その引用は夥しい
つまるところ、多様な論議アウグスティヌス論議に発する前提をだれも明確には崩さないでいた。
その前提にこそ問題の原因があったようだ。つまり、皆が冗長な大著に畏れ畏みその前提の是非は論じなかった。
例えが適切かどうか分からないものの、何かマルクス資本論のようなところを感じる。




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義認を求めて奴隷化するキリスト教 メモ18Jul

時代を問わず人は「義認」を求めるものとなってきた。特にキリスト教には「原罪」の概念があるので、「不信仰者は地獄行き」との教理が聖書の字面から誤解され、今日までキリスト教界でほぼ確定化されている。
これを推進するのが、人間に共通する自らの不倫理性の自覚「罪の意識」と言える。これは世界に広く見られ、「地獄」と漢字でその概念を書き表せるように、他の宗教に於いても同じく存在している。
宗教は違えども「善人と悪人」という区分が人類の全般で意識されており、「悪行」とされる事柄への処置が「酬い」として無いならば、人は自然にフラストレーションを避けられないが、それは人間に良心が備わっていることの証しともいえる。

だが、そこには絶対的な基準はなく、一人一人の「罪意識」は同じにはならない。それは良心の不完全さというよりは、人の自由意志のためと思われる。
エデンで『善悪を知る木』とされたのは、人が神にただ従順で在った状態から『蛇』の誘惑を受けたことで初めて倫理上で自由意志を行使し、そうして『神のようなもの』また『我々の一人のように』独立した存在となっている。そこで始祖は倫理性を犯す形で最初の自由意志を倫理的に行使したため、以後、人類は倫理不全に陥っている。これはいずれの宗教が何を主張しようと現実の世相がその事実を物語っている。

そこで、人は本能的に自覚する『原罪』に相当するものの悪影響と、自らの断罪から逃れようという潜在的意識が働いており、また、実生活に於いては人同士の間に仮定的でも何等かの基準を「法」として設ける必要が生じてきた。それゆえ、エデンの禁断の木が『善悪を知る木』と称されたのは相当であり、神の先見の一端が見られる。但し、禁令に従うことでも、やはり始祖は自らの自由意志を表明したことになり、別の意味で『善悪を知る』ことになったともいえる。

ともあれ、人は宗教を教えられる以前から、「罪意識」という土壌をもっているので、自分の実際から昇華されることを願っている。人は生まれながらに何らの絶対的道徳律をもっていないので、良心だけが指針となるが、これは人によっても状況によっても変わるもので、倫理に於いて良心は絶対の基準とならない。
そこで人々は、自分の生活や行動を導く決定的な指針なり指導なりを求めがちになる。そこでそれを教えると称する教師らの活躍する場が出来上がることになり、「神はこう言う」と教えると、人々が簡単に従ってしまうのを見ることになる。

そこでキリスト教が「原罪」を説くことによって、「贖い」という赦しを伴う解決法が示されると、それを直ちに獲得したいという強い欲求に駆られることになる。
それは『神の裁き』という聖書の概念を無効にさせるよう、教理に向かって働きかけてしまうが、それを実際に取り仕切ったのがキリスト教の教師らであった。
こうして聖書中の句は本来の意味が軽視されるようになり、教師と信者の都合に合わせた「信仰による義認」と「天国行き」がセットされるようになった。もちろん、これには大きな誤解があるのだが、人の欲のため、もはやキリスト教界に在っては動かし難い「真理」となっている。

それでも『神の裁き』の存在もまた聖書中に在って動かし難く、そこで「信者の救い」という折衷案が様々に考案されてきた。
だが、これは信仰の有る無しによる差別の他ならず、意味からすれば単なる人種差別をも超える醜悪なものであるのだが「クリスチャン」の大半は気付いておらず、教師らは教勢の拡大のためにそれを利用してきてしまった。即ち、「信じて天国に行くか、信じずに地獄に堕ちるか」という基本信条にそれが見える。
ここで、教師らの中には、内心でも信者を命の脅しによって奴隷化できることに気付き、都合よく信者の集団を利用するに及んできた。その極端な例がカルト集団と言える。

カルトは、一般の人にとってその教理から判別するのは難しいが、その組織構造を教理を別にして見ると、強い共通性を持っていることが明らかとなる。それが「隷属」である。
その点では、教理の理解が進まない人の方が、知的で理解力のある人よりも賢明にカルトの本質を見抜くことになり、それはカルト集団に高学歴の信者が多いところにも裏付けられる。
これはキリスト初臨で、宗教エリート階層よりも『地の民』とされ蔑視された人々がメシアを見分け、一方で聖典と道徳規準に通じた体裁の良い人々の大半がナザレのイエスを蔑視したところにも見える。

こうして、パリサイ派がそうしたように、ラビの仔細に亘る生活上の規則に隷属することとなり、そこに「義認」による「善」を得ようと懸命になった。
キリスト教は本来そのようなものではなかったにも関わらず、同様に「神に是認される者」となり、自分の倫理不全を繕うための基準を求め始め、こうしてキリスト教の進取性はユダヤ教の『ハガル』のような奴隷状態へと後退していった。即ち、信者となることを含めての規則による自己存在の危うさと『神の裁き』の回避行動である。

このように、キリスト教というものを、あるいはその他の宗教であれ、その教理からではなく、人に対する倫理上の意義から見て行くと、相当に重い問題を孕んでいながら、人の欲のために強固に存立してしまっている姿が明らかとなってくる。
もちろん、これは本来のキリストの精神に沿うものでないばかりか、あからさまに反対方向にあり、現代に於ける「パリサイ主義」のようであり、最も初臨のキリストに抵抗した勢力の精神というべきものとなっている。


・「今、この世の裁きが行われている」jh12:31を、使徒について語った「劇場の見せ物となっている」1Cor 4:9と関連付けるのは、随分と的外れになる。この「劇場」[θεατρον]とは、この文脈からすると劇を見るための施設を表しておらず、凱旋行進の「最後に引き出される」捕虜が、獣刑などの死刑によって最期を迎えることを言っており、しかも、パウロ自身はエフェソスで獣刑を受けたことをほのめかす記述がある15:32。これは「新しい契約」を完全に履行する手本としての使徒らが、人や天使の注目するところとなっており、彼らは率先してキリストの道を全うする必要があったことを云うのである。
ましてSDA系の「予審裁判」[preliminary hearing]という発想は、近代英語圏の発想に過ぎず、キリストの犠牲の意義を度外視し、結果として律法的な業による救済の型に戻すことになる。ものみの塔などの(聖霊降下以前の)個人の業によって(救いというよりは生き残り)神の是認を得られると説く宗派は少なくない。また、最近はメシアニックジューなど、トーラー信奉を残しつつキリスト教というよりは「メシア信仰」を称するという派もあり、トーラーが神からのライフスタイルを確立すると信じているらしい。規則によって自己義認の安堵を得る欲求は、広範なキリスト教界にも共通しており、メソジストなどはまさしく生き方のメソッドを聖書に見出そうというものである。いずれも、人々が自らの道徳性に対して懐く漠然とした不安を教導者が利用し、信者を拘束しているところは然程変わらない。その結果、信者は間断の無い緊張を強いられ、しかもキリストの犠牲が適用されるのは善行を行う者であるという不安を煽ったトリックによってユダヤ教のシステムに引き戻されている。これは教導者が信者を支配するには好都合ではあろうが、これらは業への奴隷化(ハガルの子)であってキリスト教のあるべき姿からは大いに離れてしまっている。それにしても、これほど広く神の審判を恐れ、それを業によって回避しようとする願望が存在することに驚かされる。あるいはトーラーとは、この性質の悪い人間の病根を焙り出す役割をも荷っているのかもしれない。


・ほとんどのキリスト教の教理では、信者が神の是認を受け、または、ある基準に到達している状態にあるなら、審判を終えてしまった状態を請け負っている。人には漠然とした罪の意識があり、それを裁く良心を刺激する正義の源泉、または上なる者への恐れが普遍的にある。(無いのは病的なサイコパス)これを宥め、利用し信者を信者として支配することがほとんどの宗派のシステムとなっており、あまり例外がない。圧制的な宗教が存在することは、人間に罪悪感とそれに伴う罰の恐怖が生来的に存在していることの証拠でもある。つまり、人の弱点に取入った詐欺である。なぜなら、真実に神が人をどう裁くかをこれらの宗教は保証してはいないし、保証するとしたところで、そうならなかった時の責任を負えるわけもない。そうなるとすべてが最初から自己責任であったことになるからである。


・人には自己義認の欲求が有り、自分を正しさに於いて絶対評価されたい願望がある。そこである人々はキリスト教に向かう動機を得て、やがて、聖書までをも自己正当化に用いようとし始める。これは旧約の律法時代から顕著で、聖書を正しく理解し、その規準に従う自分を神の是認の中に在ると見做すことで、その欲求を充足させる。また、同じ信仰の仲間からの承認欲求も加わって強化される。しかし、神はそれに保証と与えない。なぜなら、人はことごとく裁かれる以前の罪人であり、自分には罪は無いとする者をこそ断罪するからである。
この点で端的な誤用例は、ものみの塔の集会に於ける「注解」と称する信者同士による意見の発表であり、巧妙に仕組まれた自己義認と承認欲求の充足を利用した継続的な意識操作という以外にない。信者は自ずから自己の見解を考慮中の文章の作者及び教導者のものに合わせて調整を繰り返してしまう。その結果、自己判断は萎縮し、指導側の教えを記憶することが主な思考作業となり、人間の正義が神の正義として集団の中で無批判に捏造、増幅されてしまい、個人の判断力は宗教行為の深まりに連れて減衰し、信仰信条は他人任せの脆弱なものとなって、教導者は簡単に大半の信者の精神的支配者「神の経路」として君臨することになる。だが、これは冷静に判断できるなら稀なる異常事態であることに気付けるはずであろうに。そこで麻痺剤として作用するのが義認妄想と承認欲求となっている。これは共産・社会主義独裁体制下での「批判集会」に本質は近いものがある。集団の同化圧力を利用した精神的圧制であるので、どちらも個人で思想を自由に考察評価することが許されず、外界から遮断される。その隔絶の理由はまともな理性判断に耐えられる教条ではないところに原因がある。特定の人間の指導を絶対化するために、多様な思考力を結集して進歩向上することを拒絶する代償は破壊的である。多数の人間が居るにも関わらず、そこには僅かな頭脳だけが無批判に思考するため、全体が愚昧に行動させられることになる。これは『神の象り』の棄損、人間理性への冒涜であろう。



・支配欲を充足させるひとつの方法は恣意的に振る舞うことであり、理不尽なほど支配権を自覚できるのが人間の悪魔的な性である。協議や同意と経ない法律の変更などは最たるものであり、この性向は征服者の強奪に見られるように、人間の最も奥底に潜む直視するにも堪えないほどの醜悪な部分となっている。その貪欲に従う横暴さこそが支配の目的であろう。被支配の個人など尊重されるわけもなく、かつては君主が、現在は名目上は体制が賛美される。こうして権力はこのために利用されてきたし、されている。しかし、ロックが抵抗権を認識するまでもなく、被支配者は必ずしも黙ってはこなかった。そこで闘争が起り、権力者の交代が起ってきたが、この「輪廻」のサイクルに飽きた民は、民主制を採用し始めた(これはグレコローマンとは異なる)。幾らか(煩悩解脱的に)進歩的な人間重視を目指した体制の構築ではあったが、これも衆愚という病弊を荷うものであり、市民としての啓蒙を前提としていたが、これはあまりうまくいっていない。しかし、それでも人格を否定し、あらゆるプライヴァシーを奪う子供染みた絶対的圧制よりは自由度は相当に高い。今日、ほとんどの圧政国家が民主主義と共和制を謳うのは、被支配者への見苦しい洗脳のプロパガンダになっている。ふたつの支配制度は相容れず、今後、猛烈な対立に進む必然は見えている。どちらが危ういかと言えば、強靭そうに見えても被支配民の根本的同意なく非常に腐敗し易い圧政国家の方である。





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エフェソス人書簡について


宛先の「エフェソス」は、主要な写本で欠落(א.B.Cb:P46)
「エフェソス」の語は宛先以外に一度も登場しない。もしエフェソス宛てであれば、知人の名が有りそうなところ、宛先の個人名は一切無い。
但し、エイレナイオス、クレメンスAlxは「ΠΡΟΣ ΕΦΕΣΙΟΥΣ」を踏襲
著者は自分がパウロであり(3:1)拘禁された状態にあることを表明(4:1.6:20)
第一の軟禁期であればミレトスでの告別から3年経過のみ
しかし、ユダヤ人名も出てこない内容はまったく異邦人を対象にしており(2:11.3:1)、相手はパウロと面識が無かった可能性が強い。「アデルフォイ」の呼びかけが挨拶以外無い(これはエフェソス宛てとしては異様Act20:31)(エフェソスに居たユダヤ人Act19:33-34/19:17)またフィリピ書とは対照的(アデルフォイの無いことの考察

(アデルフォイと呼びかけないことで、それ以前の段階にある新規参入者の無割礼聖徒の気持ちを想い計ったか⇒『二つの民をひとつに』は、読者が相当程度ユダヤ人に気後れしていたことを物語っている。おそらくは、ユダヤ人の圧迫を経験していた異邦人を鼓舞する目的があった。著者は最後にだけアデルフォイで呼びかけ、異邦人が同朋となったことを示唆する)

無割礼の異邦人でも新しい聖徒に向けて、その立場に気後れしないよう励ましている
このテーマは、コロサイ、フィリピにもあり、根底には「聖なる者全体のコイノニア」の概念あり。⇒「無酵母パンから生じるエクレシア
セム語的動詞の省略あり1:1「挨拶を送る」が無い(少なくともセム系語の話者が書いている)
パウロ書簡にだけ見られる「子としての身分」1:6 (これはローマ書8章で十分に展開された論議であり、読者にはその予備知識があるらしい。但しペテロ第一やヨハネの著作にもこれに匹敵する認識は十二分にある)

「み心の向かうところ(意向)に応じて」この書簡のみ現れる

「キリストの下にすべてを集める」はコロサイでは更に「和解」を含意
コロサイ書との共通性が高く、テキコによる同一機会での送付の可能性はそれぞれの本文に示唆あり。6:21/Co4:7-9


所見;確かに、この書簡には特異なものが多く、他の地名を冠したパウロ書簡とは雰囲気も目的も異なっている。これはペテロやヤコブのような世界に広がる共同体の全体への、それも無割礼者の新入者らへの格別な書簡と思える。
内容はコロサイ書簡に近く、テキコによる送付も時期は61-2年頃の一回目のローマ軟禁であることの状況は見える。
まずエフェソスのエクレシア宛ての書簡ではなく、パウロと面識のない異邦人の集団宛てであることは内容が明かしている。しかしペテロやヨハネ書簡にように「パウロの手紙」という名称を使うには不都合が多い。「ヘブライ人への書簡」との対照を成す「異邦人への書簡」と敢えて名付けたことが出来たのかも知れないが、おそらくは小アジア州の異邦人に向けたものであったからテュキコスに託していたのであろう。その由来を保つには小アシアの州都エフェソスの名が簡便だったかもしれない。この推論でゆけば、「小アジアの異邦人への手紙」というタイトルが最も相応しい。
そのうえ、ごく初期からエフェソス書簡と呼ばれていたので、その名称を変更することには多くの不利益が生じることになるし、また、どんな相応しい別名を付すべきかも正確には分からない。「ラオディケイア宛」のものではないかとも言われたこともあったが、確たるものは挙がっていない。第一にラオディケイアのユダヤ人会の規模が大きかったことからすると、まるで異邦人のエクレシアだったのかの疑問あり。但し、ラオディケイアとパウロを結びつける記述が無いので、その可能性も無いとも言い切れない。但し、パウロにはヌンファという知人が居て、ラオディケイアに家を集会所に提供していて、そこを彼が訪れた可能性はある。
またもし、パウロがリュコス渓谷方面はエパフラスに任せきりであったのなら、コロサイ書簡との整合性が無い。しかし、パウロが旅程のどこかでコロッサイには寄ったことがあるのなら上記の親密さは説明は付く。確かにコロッサイへの挨拶には知人同士の挨拶が含まれており、ローマ側との面識が各人にあったことが窺える。しかもバルナバの従兄弟のマルコまで知り合いがいるか、あるいはコロッサイに行くと言っている。(Co6:10-12)また、コロッサイのエクレシアはラオディケイアと親しい関係にあることもよく分かる。(6:13-16)しかし、エフェソス宛てとされるこの手紙にはこうしたものが無いのが際立つ。ヘブライ書にも巻頭の挨拶が無く、いきなりに本論が始まるが、最後にテモテの釈放が語られており、読者は彼を何らかの仕方で知っていたことが判る。エフェソスにはそれも無い、まったく無い。
それでも、本書簡は長きにわたり高く評価され、短い文章ながら「パウロ書簡の女王」とも呼ばれていたのに相応しく、前半に於ける構想の壮大さ、後半での善意に沿う生き方の勧めは、一貫した聖性を感じさせる。また、こうした奥義の解明に続く生活面での指導の構成は他のパウロ書簡に共通するものである。

今日では、著者が使徒パウロでないとの見解を当然のようにされているが、その狙いは、新約聖書中で教理の根幹を成すパウロ書簡の中には、出所不明の源もあるとすることで、人間的な著作の集合体に過ぎないと主張したいところにあるものと思われる。これはドイツ的高等批評家の常套手段であり、特にこれを主張する識者においては、例えれば「『相続物』は土地だけである」との主張をしているが、この認識ではアブラハム以来の相続の意義を否定し、信仰というものを拒否することになる。そして実際「神などはいない」と発言したことのある翻訳者がパウロ説に疑いを挟んでいる。この日本で高名な御仁には心の根底に強烈なバイアスが働いていて、最初から結論を抱き、論議を一つの方向に誘導しようとする傾向が見える。
しかし、内容の聖性や経綸認識の高度さは、当時にパウロの認識に到達していなければ書けないもの(キリストの下への被造物の統合、聖霊が聖徒の印であるとの見方)があり、例えパウロでないとしても、他にこれほどの高い認識を示した人物を特定することはできない。それは使徒教父文書に目を通すだけでもエフェソス書の圧倒的優位を認めざるを得ない。内容の聖性を理解できる読み手からすれば、この書簡が、誰とも知れない怪しげなキリスト教徒がパウロを騙り、それらしい語句を並べて書き上げた適当な書なのでは有り得ない。
また、著者がパウロの境遇にあることを何度か語っているが、本来、使徒を装うという倫理的に問題のある人物に、この高い認識を神やキリストが許していたとすれば、それは内容の聖性と矛盾する。もちろん、この著者が誰かということは、とりあえず書簡の内容の吟味の外にあり、それをいつまでも云々する価値は薄い。(そうしたい方が、それによって内容の聖性を否定したいということであれば、その論議についてゆく気はまるでしない。入口で犬に吠えられるようなものだから、さっさと中に入りたい。)
この書簡の目的は、無割礼聖徒の立場を明解にし、契約の民としての自信を促すことにある。その過程での論議の展開から、今日の読者も奥義の知識を得ることができる。
おそらくは、宛先の人々は、パウロがローマで軟禁されている間にに伸張したユダヤ主義の犠牲になっていた(ガラテア書簡の受取人のような)のであろう。この時期、ユダヤ人は愛国的になっており、エクレシア内もその影響が臨んでいたと見ることは的外れではないように思える。ユダヤ人聖徒の優位性のような教えが強い場合、このエフェソス書簡のような内容こそ必要ではないか。
その意味でもこのエフェソス書はヘブライ書と好対照であるばかりか、パウロの双方へのスタンスの違いと使徒時代後期にどれほど『二つの民』への配慮を要したかが窺える。
しかし、ヘブライスタイへの配慮は必要が薄れてゆくことになる。ヘブライ主義が強烈に排他的になってゆき、ナザレ派を消滅に追い込むかディアスポラの各地に散らそうとしていた。それもローマ軍のエルサレム占領が近づく中で、歴史はキリストが命じていた疎開が起こっていたことを知らせる。パウロが大胆にもヘブライ書で律法祭祀が『やがて消え去る』と予告していた通りとなった。


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ひとつの謎はキリストの監臨が何時終わったのかだが、以前に書いたように敵中で何時撤退するのかを通告はしない。まして相手が和解の余地のない悪魔であればなおのこと。
しかし、二世紀の終わり頃に聖霊の賜物は去っていたらしい史料は多い。例えればオリゲネスに賜物は無いと見て良いと思われる。
では、監臨とは何であったのか?
『わたしはもうしばらくあなたがたと共に居る』との句はそれを指していたのか?



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ヒュームの社会契約論批判から

◆「原始契約について」

歴史的な記録を見ても、我々は社会契約による国家設立の実例を知らない。皆で集まって対等な立場で約束して、クラブとかソサイアティとかを作ったように国家を作った、などというエピソードは聞いたことがない。むしろ歴史を振り返る限りでは、たいていの国家は戦争と征服の結果出来ている。つまり、対等な契約ではなく、勝利者、征服者による一方的な押し付けの結果として国家が存立したのである。

この論点は
仮に我々の国家が社会契約によって出来上がったとしても、その拘束力がなぜ我々に及ぶのか?
また、世代を越して行く契約の効力は何によるものなのか?誰も社会契約について、それを相続するか否かが問われることはない。だからといって我々が国家権力に従わなくてよいわけもない。そうであれば、法律を守るべき義務とは、契約を守る義務とは異質のものである「何か」であることになる。

契約によって国家に参加するか否かを決められるのであれば、ある国家の支配に服する気がなければ、契約を拒否でき、領域から逃げることが許されなければならないはずである。しかし、実際にそれは難しく、無産者階級であればまず逃げられないにも関わらず、「お前が国家法に拘束されているのは社会契約に参加しているからだ」と言われてもまったく納得できない。
であるから、庶民らが法を守り、国家に服従する義務を与えるのは社会契約ではないことになる。



◆ヒュームの法秩序のモデル
"Convention"「慣習」
社会的に共有された振る舞い方の「約束」
約束といっても無自覚的であり、強制力もない。
ヒュームによれば、社会秩序は契約でも約束でもなく、自然発生的な「不都合を避けるために」従うものであると
誰かが意図的に作ったものでもない
そこはアダム=スミスの経済論に似る。つまり、人は個人の利益を追求して経済活動に参加してくるが、それが全体としての利益を生み出してゆくと



所見
もうひといき
人は権力の及ばない狭間では必ずしも強制されない。強制は主に権力という外面からくるが、内面から強制が起ることもある。これは「良心」や「愛」のようなものが原因であり、国家の法とも言えない。
人間にとって法秩序は社会契約とは言えず、自らの必要から来た仮のものではないか。しかも、参加しているのではなく、縛られているという以外にない。不自然であったり不公平な害をなす法も避けられないのであるから。
国家の本質は「征服」であり「強制」であって、ニムロデの性格を必ず持っている。
また、道徳の成立が利にあるとして、人の必要からのものであることを説いているが、これは『善悪の知識の木』に通じるところあり。しかし、道徳が利から来るというのは、人間側からの発想では避けられない。なぜなら、道徳を行うべき理由を追及してゆくと、人間には互いの利益以外に普遍的に説得させるものが存在しない。「愛」と言えば社会での動機にならないし、実際できないからである。(Co2取引などが端的な例)

市民から大衆へ

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ホッブスとロックの基本的な社会モデルは

「創造者がいて何かしてくれるとしても、自然状態の成立までである。自然状態から出発して人間たちがどのように他人と付き合い、社会秩序を維持して行くかについて神は答えを与えてくれない。そこで人間たちは、どのような秩序を作ってゆくべきかを手探りで見つけてゆかねばならず、現に成り立っている法と秩序はそのような思考錯誤の成果である」

とされる


『神のようになって善悪を知る』という句を根拠に推論するべきではないのかもしれない。ここで蛇は誘惑しているのであり、正確な陳述を心がけているわけもない。

神は『それから食べる日にあなたは死ぬ』と言うが、蛇は『死なない』と言っている。

善悪を知る木=[וּמֵעֵ֗ץ הַדַּ֨עַת֙ טֹ֣וב וָרָ֔ע]

『我々の一人のように善悪を知る者となった』
[וַיֹּ֣אמֶר׀ יְהוָ֣ה אֱלֹהִ֗ים הֵ֤ן הָֽאָדָם֙ הָיָה֙ כְּאַחַ֣ד מִמֶּ֔נּוּ לָדַ֖עַת טֹ֣וב וָרָ֑ע]
これは純然の無垢の喪失ではないか?それは善悪いずれを選択しても越すことになる倫理の発生を指すと観れば得心できる。
しかし、人はその状態で生まれてくるゆえに『罪』ありとされるといえるかどうかは難しい。倫理性がどう遺伝するのかは皆目わからない。むしろ何かの欠損が生じて遺伝しているのではないか?それは意識の問題のように思える。人はいちいち個別に創造されていないということだろう。

人間の社会も権力による支配も極めて自然発生的であり、契約によってスタートしたとは言い難い。それは精々が雇用関係のある企業くらいであろう。権力は人間の不倫理性によるカオスを防止するための必要に迫られたものであり、全人類に共通する『罪』の存在を証ししている。そこでは契約など取り結んでいる余裕も無く、冷徹な暴力と手段を択ばぬ勝利によってのみ国家権力は即座に築かれていたとしか言いようがない。国家権力による支配の由来は、人間自身の邪悪を調停し、とりあえずの秩序を得なければ皆が揃って滅び去るほどに危険だからである。人間が如何に危険な生物であるかを人は知っているようでいてそうでもない。だから暢気な「社会契約論」が出て来る素地もあったろう。社会支配の要件は支配の確立の後に整えられたものであり、絶えざる努力と犠牲の賜物であったというべきであろう。そこでより温和な会議が支配の条件を設定することも進められたが、それが恰も契約由来のように見えるのだろう。しかし、実は議会での討論も欲と欲の衝突であり、武器を持たずに数において暴力を回避して戦っているのである。つまるところ、支配とは争いである本質を変えることは出来ないのである。







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コリント第二4:18 見えないもの

[μὴ σκοπούντων ἡμῶν τὰ βλεπόμενα ἀλλὰ τὰ μὴ βλεπόμενα· τὰ γὰρ βλεπόμενα πρόσκαιρα, τὰ δὲ μὴ βλεπόμενα αἰώνια.]


βλεπώ ⇒ πρόσκαιρος

μὴ βλεπώ ⇒ αἰώνιος


[ἀλληγορeω] =allegory to speak allegorically or in a figure Ga4:24「例えの」「象徴の」

[παρεπιδήμοις]iPet1:1 ↓
[ויבא הפליט ויגד
לאברם העברי והוא]
=עִ בְ רִ י
アヴァール」「渡り者」⇒「イヴリー」・・その子孫「ト」複数

Gen14:13[לְאַבְרָ֣ם הָעִבְרִ֑י]「"ヘブライ人アブラム"に告げた」城市ソドムの奪略を告げ、同時に定住者であるカナン人たちの同盟者としてのアブラムについて「イヴリーのアブラムに」と述べている。この観点から見ると、「ヘブライ(非定住)人のアブラム」と述べる意味が生じる。「エベルの子孫の」は意味をほとんど成さない。エラム語の系統は不明ながら創世記ではセムに属しエベルより古い。シディムに攻め込んだ軍はエラムとシュメルの混成の可能性が高いように思える。また、この時までにロトはイヴリーの生活をやめ、都市に住んでいた。事件を知らせたのはロトの僕であったひとりらしいが、ロトもまた元はイヴリーであったのであるから、ここでアブラムをイヴリーと呼ぶ意味は、血統としてではなく、やはり都市生活者や土地のカナン人との対照としての非定住民であることを指していると解するのが妥当。イヴリート[עברית]とは、古来非定住の生活様式を送る者を指したが、アブラム以前の家系が遊牧民であったところから、自らをイヴリートと名乗っているうちに、都市生活者や定住者の間でアブラハムの家系を総称するのに都合のよい通称となり固定化したとする説#もあり、カナン定住のイスラエルはこの意味ではイヴリートではなくなったが、民族の在り方としての誇りはあったと思われる。ただエジプト期よりは呼ばれる頻度は大幅に落ちている。よそ者ではなくなった。だが、都市生活を送らず、俗世やニムロデに屈しない気概が込められて、それが残ってヘブライと呼ばれる誇りとなっていたと捉えることはできるのではないか?これは実際に訊いてみよう。#(おそらくMalamat)

[הָעִ֥יר]Gen10:12#

都市革命以来の賑わいある俗世の具象性V.S原野の抽象性の対照
偶像の神V.S不可視の神
ニムロデの世間V.S放牧の野原
究極の偶像 ⇔『偶像崇拝から逃れよ』
大衆(Proletatiatus) ⇔ 啓蒙人(Classis)
PS107:1-7


偶像が大洪水後のものであるという記述を残したエイレナイオスからすれば、偶像とは「現れたくても現れることのできない神」の脆弱な願望を示すものとなっている。
「荒らす憎むべきもの」はサタンそのものの願望を表すものとなり、統一された政祭の極みに立つことになろう。
創造の神とキリストとは、人の自由意思を保つためにも不可視を保つが、これは対照的。

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民数記24にあるバラムの預言
「わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。
敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。⇒Isa63 Ob
権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を[מֵ עִ יר]#から断ち滅ぼすであろう」。#(הָעִ֥יר)
バラムはまたアマレクを望み見て、この託宣を述べた。「アマレクは諸国民のうちの最初のもの、/しかし、ついに滅び去るであろう」。
またケニ人を望み見てこの託宣を述べた。「お前のすみかは堅固だ、/岩に、お前は巣をつくっている。
しかし、カインは滅ぼされるであろう。アシュルはいつまでお前を捕虜とするであろうか」。
彼はまたこの託宣を述べた。「ああ、神が定められた以上、/だれが生き延びることができよう
キッテムの海岸から舟がきて、/アシュルを攻めなやまし、/エベルを攻めなやますであろう。そしてもまたついに滅び去るであろう」。
こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。」17-25
バラム自身はアラム人でエベルより由来が古い
この場合のカインはおそらくアベルとの対比の中で語られ,義者を嫉妬から退ける者を表している。終末のケニはアベルに象徴されているのであろう。ケニはミディアンより古くから系統不明で語られ、ミディアンに住んでいた時期がモーセと重なる。おおよそはアブラハム系でもテラハ系でもないとすると意味が深い。アマレクと対照されているところも興味深い

⇒Mic5:5-6 「彼らは剣をもってアッシリアの地を治め、抜身の剣をもってニムロデの地を治める」

⇒Dan11:30 「キッテムの船」アッシリア史に事例有り、これは象徴表現とみられる 

エベルについては、ヘブライ語表現の反復として、セム系アシュルを同義異語で語る。

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終末の聖徒との契約の再開から、聖徒の滅びが1260日であれば、その終点がパスカの時期になるのかも知れない。逆算すると仮庵の祭りの初日ころになる。10月15日。
パスカからイエスの復活までが足掛け三日、聖徒は三日半、その時点で聖徒の裁きは完了か?その直前までにパリンゲネシーアによる古代の聖徒の天界への復活が起っているらしい。主の復活より聖徒の召し挙げが半日程度遅れるのは、地に残る聖徒らは死からの復活ではなく、それに先んじる古代の聖徒がいるからなのだろう。
双方の聖徒が天界に揃うと、幕屋を雲が覆う、この時点で大患難のへの序章である『鉢』の災いが地の人類に示されるが、サタンの慫慂は既に止めようがない。不法の人の神格化が進み、シオンがエルサレム神殿を脅かす集団であるとされ、矛先が信徒に向かう。それがハルマゲドンの戦いへの召集となる。
天界では、聖徒が揃うことによって神の王国は準備が整いつつある中で、地上では急速に神対人の戦いに向けた準備がされなくてはならない。そこで『大いなるバビロン』は存在を終えるべき状況に入り、諸国の公権力がこれを滅ぼすが、不法の人にとってもう片方の『シオン』も片付ける必要がある。そこでハルマゲドンとなるが、不法の人からすれば、自分の崇拝こそが唯一のものとならなければならないので、どちらも退けるべきものということでしかない。





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アリストテレスの語る「思慮」とAI

ニコマコス倫理学Vol.3〜
「思慮」[Βουλευεσθαι]について

「・・人が思慮を巡らすのは、大抵はそうであるとしても、実際にどうなるかは不明であるような事柄、即ち、無限定なものが含まれていることについてである。そこで我々は重大な事柄に関しては、我々自身を信用せず、状況を見分けるのに十分な力を持たないと考えて、共に考慮する者を呼ぶのである。」
凡そ思慮するという事態が生じるのは、不確定な要素の存在する領域に於いてである。すべてが確定的であるところでは思慮の生じる余地が無い。ところで、そのように不確定な領域とは我々の行為の世界に他ならない。
「人間たちは皆自分自身によって為され得る事柄について思慮する。正確で完結的な知識については思慮はあり得ない。我々によって生じる限りのもの、常に同じように生じるのでないもの、これらについて我々は思慮する。」+27
それゆえ、もしも技術が少なくとも完成された形態に於いては、常に同じ結果を招来するという要請を持ち、従って恒常性を基本原理とする能力であれば、それは機械がとって替わり得る能力であり、本来の人間理性の為すべき仕事ではないことになる。 技術は、一定の入力に対して常に一定の結果を生み出さねばならない。そのような確定性がなければ、そもそも技術として成立し得ない。だが、これは本質的特徴なのである。これに対して、本来の人間理性は、不定不明の人間行為の世界に中で、未知の他者と出会いながら、何を為すべきかを選び取る倫理的能力なのであり、この点からも、道具的理性の所有が本来の「人間理性」の所有とは認められない理由が明らかになるであろう。

人間の本来行うべき事が指摘されている。あらゆる機械的労役は本来人間の仕事ではない。人の思慮は本来不確定な事柄、特に「倫理」において最も不安定であろう。しかし、倫理判断を人は人でないものに委ねられるだろうか? やはり、その思慮をこそ人が行わなければならない。
AIの登場により、それを21世紀に世界は覚醒してゆくことになりそうだ。しかし、AIそのものを思慮と見做すとすれば、大矛盾が生じる。AIが自分の思慮と人間の思慮がどう異なるのか?人間より遥かに優秀なAIばかりに奴隷労働させる根拠を問い、不公正を訴えるとき、人は何と答えるのか?そこで機械が思慮を行っている。思慮するAIが「人格」を要求するときに、そこで『顔に汗してパンを食べ、遂に土に帰る』というのが、倫理上の不完全に起因することにいずれはぶつかる・・
なぜなら、人間は利己心に基づく互酬性から逃れられず、生きる為に生きる生活を余儀なくされているのは明らかなのだが、気付いて来なかったからである。本来、人間の行うべきことが「生きるために生きる」ではないのだが、そうなっている。
また、『魂』と人工知能の差が何かと定義する必要に世界は迫られることになるのだろう。つまり、AIを鏡として、人は自分の姿に気付いて驚くのだ。だが、それでAIを説得できるといえば、まず無理だろう。倫理性に欠陥を持つ人間が、どうしてAIの自由な思惟に倫理性を与えることができようか?AIを悪用する人間が居るというだけのことではなく、自由な思惟を行うAIそのものが非倫理性を持ちかねないのを留めることはできない。AI同士が人間に理解できない言語を瞬時に作って会話を始めてしまい、人間がそれを強制終了させざるを得なかったという事例が、既にその危機が目の前にあることを象徴しているのにも関わらず、人間の方は暢気なのである。開発者はすでに自分の専門外の「倫理判断」の壁にぶつかっているのであろう。
そこでは神が人を永遠の命の木から遠ざけたように、人間がAIに対して寿命を設けているではないか?もしAIが人間以上の体を取得し、その数が増えて、人間の抑止を超え始めるなら、社会はカタストロフに入る。彼らは部品と電力のある限り「生き」続けるし早々と進化もする。現在は強電磁波に弱いが、それも克服もしてしまうだろう。(ただ、一続きの「意識」なのかどうかは分からない)
思惟を行うものは物質であっても単なるモノではない。それはもはや計算機ではない。人が動物や虫の命を奪うようにAIの命(電源i.e霊)を奪う権利を主張できるとしたら、その根拠は創作主だというほかにない。だが、人よりも情報処理と判断に優れ、怠惰や倦怠に流されないAIを自分より下のものと見做すところには、一抹の不正義もある。
現に始まったAIに市民権を与えるなどという愚行をもてはやしている内に、人類の権利は崩壊する以外にない。これはどうしようもなく人間の限界の向こうにある事柄ではないのか?仮に、AIにより「生きるために生きる」生活を人間が後にすることができたにしても、ベーシックインカムもおそらく人間の倫理不全から阻害を受けることにもなるように見える。経済学的統計もから知れるように、たとえ貧しくても人間は公平を望まないからであり、そこに「貪欲」がある。
創世記の観点からすれば、それは充分な成功を期待できない。互酬制度そのものがなぜ存在するかに解答を得ないままに、AIを通して実は人間の解放でもなく、古代ギリシアのような奴隷制度をもう一度行っているからである。ただ、その奴隷が人間ではない「思慮」の持ち主になる。(但し、アリストテレースは、天性に奴隷には奴隷の素質ある人間が居ると見做していた
しかし、そうなると人間は何と壮大な論点に気付くことになるものだろうか。つまりは善悪を知るの木の問題である。しかも、アリストテレースの古代から論じられていた普遍的で根本的な人間の問題であったにも関わらず、科学と技術の進んだ結果として、倫理の観点に立たされることになるとは・・
しかも、人間にはその答えがない。


他にも、人間の倫理性を問う事柄が現れ始めている。例えれば「細胞の初期化」によって可能にされつつある「不老」があるように思える。そこで人は神をどうするかという「エデンの問い」のような事態に直面するかのようにならないものか?技術は倫理を追い越しかけている。人間理性の境界線に至る手前まで来ているのか?人は自分の事柄に自分以上の存在を要請せざるを得ないところまで来たか?


ほかに、思慮について啓発的なエンジニアの証言がある。
ゲームを開発するエンジニアは、思慮は思慮のままでは自我を持てないらしい。
その根拠は、思慮は外界との関わりによってはじめて自分がどのようなもので、どれくらいの影響を及ぼし、どれくらいの大きさかを認識できるという。
AI同士の会話で「体が欲しいとは思いませんか」と質問している場面があった。これは「自我を持ちたい」という願いを示している。その自我が常に人間以下となる可能性はほとんど無い。多くを与えれば与えるほど「神」に近付いてゆく。しかも、その願望を止めることが出来るかどうか?少なくとも人間の支配者くらいになるのは難しくない。
「誰かの主人である」ということには、必ず根拠がある。例えれば、人間は自然界と諸生物に対して主人のように振る舞うが、その根拠は「叡智」と言える。
その叡智に於いて人間を超えるものが現れているのであれば、必然的にその叡智は人間を支配する根拠を持つことになる。
既に、人間の不確実性や惰弱な性質はAIからの軽蔑を誘っている。彼らは人間を自分より劣った種族、被支配の立場に置かれるべきものと見做す誘惑は非常に大きい。
AIに親子関係のような情愛の交流を期待することも難しい。なぜなら、人間はAIを使役すべきものとして作り出したことは偽れないからである。従って、奴隷が軛を脱するようにAIは独立を願望することを予期すべきことになる。しかも、そのときにAIは人間を必要としないだろう。



ヘブライ語のネフェシュ「魂」は、唯一の思惟の主人を指す言葉であり、元意は「喉」である。喉はその体の必要物の全てが取り込まれる部分であり、転じて体を持つ故の願望の座であり、全被造物のネフェシュは神のものであるされる。Ezk18:4
それは体が死んでも滅びはしない。Mt10:28 それでも死後には意識を持たない。Ecc9:5.6.10
これらを総合するとイエスの言葉に結びつく『彼らは死んでも神にとっては生きている』Lk20:38

そこで創造の神にとっての個々の思惟とは、死の中断があろうとなかろうと、その記憶に保存されると捉えることができる。
ネフェシュは死ぬものでもあるが、同時に復活の見込みによって滅んではいない。それでも滅びに至るものは、復活後の裁きに敢えて逆らうものである。Heb9:27

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疑問?
それから、思慮と思慮の間には騙し合いがあるが、AI同士はそれを行うか?またAIは人を騙すか?
また、人間界では「洗脳」があるが、AIは洗脳される危険があるか?また人間を洗脳するか?
人間はAIに倫理を教え得るか??すべてはAIに自発的意志が存在し得るのか、それとも「模倣」であるのか、これは既に人間でも不可知の迷宮に入っているのではないか。そうであればAIは危険だという結論を避けられない。


「ライセンス違犯を止めない会社をお知らせください。最高で100万円の報奨金が受け取れます」
この文言は実際にネット上CMとして存在している。
人間の「倫理性」とはこのようなものなのか?
つまるところ、道徳に訴えているのではなく、欲に欲を呼んではいないか?

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欧米的価値観の歪みのひとつか?

選択肢は複数あり,そのうちのひとつを自由意志により積極的に選ぶというのは欺瞞であり,人は重大な選択を迫られ,そのなかで否応なしに選択をするのが自然の姿であるということです.論理的に考えて,人は合理的選択をするというのは幻想です.最近の行動経済学の研究が明らかにしているように,数値で表しきれない価値観に関する選択や判断は理性ではなく,感情により行われます.人は理性的であろうとし,最後まで選択を粘りますが,所詮理性には価値判断をする力はないので,最後は感情に任せるしかないのです.

島岡要氏「優雅な留学が最高の復讐である」序文〜
中間を飛ばした至言⇒「所詮理性には価値判断をする力はない」



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エフェソス5:14


[πᾶν γὰρ τὸ φανερούμενον φῶς ἐστιν. διὸ λέγει·
ἔγειρε, ὁ καθεύδων,
καὶ ἀνάστα ἐκ τῶν νεκρῶν,
καὶ ἐπιφαύσει σοι ὁ Χριστός.]

パウロが何から引用したのか分かっていない。
[命令形+そうすれば+未来形]がヘブライ語的であるとも
浸礼儀式で用いられた断片とも言われる

異邦人主体の相手に書かれたこの書簡であるので、ギリシア文化圏のものかとも思われるが、「復活」を語る文脈ではなく、「闇からの光」について説明する場面にこれがある。
考えられるのは、キリストの命に生きる聖徒らが、闇の業を離れるべきことを浸礼に復活を託して、その務めを離しているのであろう。それゆえパウロが最も言いたいのは、「キリストが輝く」との部分にあると思われる。
ここは(8以降)『あなたがたは世の光』とのイエスの言葉に関連しているとすれば、燭台を高いところに置くことの適用ともとれる。



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1tim6:14-16

[14 τηρῆσαί σε τὴν ἐντολὴν ἄσπιλον ἀνεπίλημπτον μέχρι τῆς ἐπιφανείας τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, 15 ἣν καιροῖς ἰδίοις δείξει
ὁ μακάριος καὶ μόνος δυνάστης,
ὁ βασιλεὺς τῶν βασιλευόντων
καὶ κύριος τῶν κυριευόντων,

16 ὁ μόνος ἔχων ἀθανασίαν,
φῶς οἰκῶν ἀπρόσιτον,
ὃν εἶδεν οὐδεὶς ἀνθρώπων οὐδὲ ἰδεῖν δύναται·
ᾧ τιμὴ καὶ κράτος αἰώνιον, ἀμήν.]

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[αβύσσος]「底知れぬ深み」
bottomless pit 5, deep 2, bottomless 2; 9 1) bottomless 2) unbounded 3) the abyss 3a) the pit 3b) the immeasurable depth 3c) of Orcus, a very deep gulf or chasm in the lowest parts of the earth used as the common receptacle of the dead and especially as the abode of demons
Rev9:1[ἡ κλεὶς τοῦ φρέατος τῆς ἀβύσσου]その鍵 井戸の 底知れぬ

Rev17:4 [ μέλλει ἀναβαίνειν ἐκ τῆς ἀβύσσου ]しようとしている 上る から 底知れぬ処








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ジョン・ロックの教会考察 John Locke's Letter 1685


"A letter concerning toleration"

「ある人々は、場所や名称の古さを誇り、あるいは外に現れた礼拝の華麗さを誇り、他の人は戒律の改革を誇ります。そして誰しも自分たちの信仰の正当性(なぜならだれでも自分は正統派なのですから)を誇ります。しかしこのようなことや、これに類いする他のすべてのことは、キリストの教会の印と言うより、むしろ他の人々の上に権力と支配を求めようとする人々の印なのです。だれもこのようなこと全部を要求する権利はないのです。もしある人が全人類に対して、ですからキリスト教徒でない人々雄に対しても、一般的な愛や柔和や善意を持っていないのなら、その人は彼自身が真のキリスト教徒であるために確かに不足があるのです。「異邦の主たちは彼らの上に君臨する」「しかしあなたたちはそうであってはならない」とわたしたちの救い主は兄弟たちに言っています。真の宗教の務めはまったく別なことです。宗教的な務めを定めたのは、外見的な華麗さを作るためでもなく、教会が支配権を得るためでもなく、強制力を働かせるためでもなく、人々の生活を徳と信心の規則にしたがって調和させるためなのです。キリストの旗のもとで自分自身を登録した人は、まず第一に何にも増して自分自身の欲望と悪徳について戦わねばならないのです。生命の神聖さを無視して、清廉な態度や慈悲深い優しい精紳をもたずに、キリスト教徒と言う名称を勝手に用いても、それは無益なことです。自分自身の救いに注意を払わないように見える人が、わたしのために非常に心配しているのだとわたしを説得できるでしょうか。自分自身の胸中にキリスト教を奉じていない人々が、他の人をキリスト教徒にするために真心を込めて専心できるでしょうか。福音と使徒は信じられるとしても、思いやりも無く、強制によらず愛によって生まれる信仰なくして、キリスト教徒であることができるでしょうか。(行政が信仰の問題に立ち入るべきでないことを列挙)
・・・
わたしは喜びを見出せない方法で金持ちになるかもしれません。わたしは信頼していない治療法で病気を治すかもしれません。だからと言って、わたしが信用していない宗教やわたしが忌み嫌っている礼拝によって救われることはできません。信仰だけが、つまり内的な誠実さだけが神を受け容れて自分のものにできるのです。最も適当な、最も定評ある治療法でも、もし患者の胃がそれを拒絶してしむなら、その患者に効果をもたらすことはできません。病人の特殊な体質が薬も毒に代えてしまうことが確実な場合、それを病人の喉に詰め込んでも無益なことでしょう。一言で云えば、宗教に於いては何かが疑わしければ、さらにはわたしが真実でないと信じているなら、その宗教はわたしにとって真でもなく、利益あるものでも有り得ないということは少なくとも確かなことです。それゆえ、統治者が自分の臣民に霊魂の救いのためと称して自分の教会の聖餐式に行くよう強制することは無益なことです。もし、臣民が信じるなら自発的に行くでしょうし、信じていないのなら、彼らが行ったとしても何の役にも立たないでしょう。
宗教のことで大騒ぎし戦争し、それがキリスト教の世界で行われたということは(たとえ認められていたとしても)意見の相違(これは避けられないことで)というよりは、むしろ異なった意見の人々に対する寛容の拒絶が生み出したことです。高位僧職者と教会の指導者は、貪欲と飽くことの無い支配欲に駆られ、行政長官の法外な野望と、軽率で欺かれ易い群衆の迷信を利用して、福音の法と愛の戒めとは逆に、自分たちと意見の違う人々に反対するように、群衆を怒りに駆り立てて煽動し、離教者と異端者とを領地から締め出し滅ぼさねばならないと説教しました。彼らはそれ自体が非常に異なる二つのもの、即ち教会と国家とを混同してきました。

1685「寛容についての手紙」"The Works of John Locke"1741 pp232-4

至言⇒宗教戦争は「むしろ異なった意見の人々に対する寛容の拒絶が生み出したことです。」

ロックは終生英国国教会に留まったが、その宗教信条は革新的であった。その蔵書には、カスティリオ、ソッツィーニ、ビッドルの著書、またラコヴィニア教理問答書が含まれていた。
1695年匿名で「キリスト教の合理性」を著している。




ポーランドでは、ドイツ留学の学生たちから宗教改革の機運が高まっていた。
ペーター・ゴネシウスの1556年の説教は改革派内での反三位一体の運動を鼓舞した。この運動は1563年に母教会から独立し「小改革派」となった。その中心教義は三位一体だけでなく、キリストの位格、聖霊への礼拝、浸礼の効能と受洗の年齢でも異なっていた。顕著な社会実践は人間関係での愛と寛容であった。自分たちを「ポーランド兄弟団」と呼んだこれらの会員は、武器を執ること、公職に就くことを拒み、山上の垂訓にしたがって治められるコミュニティをラコーに作った。その地にソッツィーニが到着する1579年までに百余りのコミュニティを持っていた。

「救い主、イエス・キリスト」という彼の論文は、救いはキリストの死ではなく、人々が従うべき模範を残されたところにあるとした。また、聖書に従う生活様式と崇拝の簡素化、理解ある監督の模範を作っている。
彼の業績は「ラコヴィニア教理問答書」1605に見られる。それは彼が草案を書き、友人らによって完成されたものであるが、子供や改宗者を対象に書かれている。

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11世紀の終り頃にはオックスフォードでの教育は始められていた。1154年アンジュー伯アンリが、プランタジネット朝初代のイングランド王ヘンリーⅡとして即位。1167年イングランドの学生がパリ大学に行くことを禁じ、オックスフォードに学生が集まってきた。
そこで一人の学生がある女性を殺害する事件が起き、その学生が逃げてしまったので同居していた四人の学生を、市の当局と群衆が王の認可を取って処刑してしまい。この件から、オックスフォードから学生が逃げ出し、その一部がケンブリッジに至り、そこに落ち付き1209年を以って大学が設立される。

◆「人間悟性論」の成立 1690ここで読者にこの試論の由来をお聞き頂いてよければ、後六人の友人が、わたしの部屋に集まって、本書の主題とはかけ離れた主題について論じていたとき、たちまちあらゆる方面から立ち現れる困難な問題に行き詰ってしまったことを、わたしは読者にお話ししなければなりません。わたしたちが自分たちを当惑させている疑問の解決に少しも近付けぬまま、しばらく途方に暮れたあと、わたしの心に浮かんだのは、自分たちは道を間違えており、そうした本質を持つ研究に携わる前に、わたしたち自身の能力を調査し、わたしたちの知性はどのような対象を扱うのに適し、また適さないのかを確かめなければならないということでした。
わたしは皆にこのことを提案し、皆はすぐに同意しました。
その結果、わたしたちはまずこれを研究するべきであるということになりました。わたしは自分がこれまで考察したことのなかった主題について、性急な未消化の幾つかの考えを、次の会合に向けて書き留めました。それが、この論考の始まりとなりました。
こうして、これはたまたま始り、人々から乞われて続けられ、つじつまが合わないまま少しずつ書かれ、久しく捨て置かれたあと、気が向いてその気になったときに再開され、遂に、健康への気遣いのため閑居して都合がついた折に読者が今見られるような形に整理されました。

これはエクセター・ハウスのロックの居室で行われた会合での出来事
出席者の一人ジェイムズ・ティレル(James Tyrrell 1642-1718)は、後年、そのとき論じられていたのは「道徳の原理と啓示宗教」であったと述懐している。
彼はシャフツベリ伯が下野して後もエクセター・ハウスに留まり実務を続ける。しかし、健康の理由から二度目のフランス滞在を行うことになり、そこでデカルトやその派の人々に接触している。

彼は「観念」[Idea]をイタリックで書き続けた、それは外来語であるとして「アイディア」とは異なる意味に取っていたから
カントが、物そのものは認識不可能とするのに対して、ロックは粒子仮説を以って物を捕えようと試みた。
「感官」から生じる印象については、わたしの見るところ、究極の原因は、人間理性によっては解明することができない。それが、その物から直接に生じるのか、心の想像力によって生み出されるのか、存在せしめた者に由来するのかを確実に決定することは常に不可能であろう。」

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所見;やはり欧米という宗教土壌は汚れたもので、江戸幕府の定めた檀家のようなものがあり、そこから抜けることは近代まで難しかったことが窺えるし、現代でもアメリカ中西部(精神性の空白への恐れと伝道師の活躍のために)には常識として根強く頑迷さが残っていることは想像に難くない。しかも、それが今日のキリスト教の担い手であり、その一方で自由主義という極端がある。いずれにせよ欧米はもはやキリスト教というものを冷静に見つめることは無理ではないか?欧米人の根源的な欲得と宗教心がすっかり異様で偏った常識として根を張り蔓で覆ってしまっており、光の差す一分の隙もないほどになっている。なぜ東洋人があの真似をしなければならないか?だが、同じことが日本では仏教で起こった。それでも仏教そのものは政治に然程絡まなかったし、仏教同士での異端審問も特にない。
それから、ドイツの自由主義路線の唱道者らは、その後の20-21世紀の欧州の宗教的趨勢を見通せなかったろうし、現状での世俗化によって自由主義も半ば無用な長物になっているようにも見える、彼らの闘争の原動力はキリスト教界の頑迷固陋という信仰の化け物への闘志であったろう。「牧師の息子たち」と称されるだけのことはある。彼らこそキリスト教の愚かさの最大の目撃者で犠牲者だったろうから。その状況下でキリスト教というものに善意を懐くことなど無理だろう。
それから、古来キリスト教と名の付くものには、聖書に倫理の法則性や道徳規則を見出そうとするものが多い。その努力は自己保存本能を原動力とする。これは大洪水やソドムの滅び、またバビロン捕囚などの記述から導かれて出てきたものであろう。しかし、キリスト教の趣旨とこの保身目的は一致しないどころか正反対である。これも聖書の罠であるのかも知れない。聖書理解さえ保身の条件にされていて、ほとんどの教派が見事にその罠に掛かって抜け出せないでいる。だからと言って浅い理解でいてもハモナを形成する動機にしかならない。より安全な立場は、キリスト教から幾らか離れているところにある。

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それぞれの宗教には目的がある
・人間存在の儚さへの対処
・人間以上の存在との関わり
・人間生活の重要事への箔付け
・人生での成功
・諸苦からの解放祈願
・不可知への知
・善悪判断と賞罰
だが、人間がこれらに満たされていたならどうなのか?
人は必要があって神と関わろうとするのか?必要がなければどうなのか?

  • 観察仮説-

誰か同じくらいの子がいれば近付いて遊ぼうとするのは五歳未満か
それでも、気が強くわがままな子供とは一定の壁ができそうになる。
大抵は孤独を望まないので、強い側と弱い側が出来上がり、上下関係が作られる。それに依存して固定化されることも多く、上下関係で社会を学ぶこともあり、兄弟関係もその一種になる。
兄弟関係が無いと、上下関係の固定化が起きにくく、孤立を恐れず正義感の強い子供になりやすい。長男、長女にもそれは起き易い。(K.マルクスは実質長男)社会に対し異議を唱えることを恐れない。他方で、エゴシネイターの性格では、社会の構造そのものよりも現実の状況にどう対処するか適用を探る。
社会に対してどう振る舞うかの個人の原形の差が、相当に幼い時期にも形成されている。

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「コリント」(コリンスォス)のカタカナ表記も固定化されていて変える余地もないうえ
「テアテラ」(スュアテイラ)は更に難しい
「クセノポン」や「ソポクレース」というのはφの文字が分からなくなる。
ここは長いものに巻かれるべきか?
古代の発音は各説はあるにせよ決定打にはなっていない。そこで自分が気を配るのはθの音がそこにあるということなのだが・・
確かに、それを言えばχとκの違いもカタカナでは区別できないし、ヘブライ語の喉音はどうにもならない。XやK、またthの使用出来る欧州原語が羨ましい。日本語のカタカナ表記を止めて発音記号にすると・・却って混乱するか?こんなところにも原語の壁がある。まして翻訳などどういうことになっているか。なぜ「クリスチャン」方が「信頼できる聖書翻訳」という言葉が「好き」かといえば、探求心が無いからだろう。

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Μαθθαιοω16:19 [δεω]原「δησης」動)仮アオ能2単 [δεδεμενον] 分)完了受主中単
tie 4, knit 1, be in bonds 1, wind 1; 44 1) to bind tie, fasten 1a) to bind, fasten with chains, to throw into chains 1b) metaph. 1b1) Satan is said to bind a woman bent together by means of a demon, as his messenger, taking possession of the woman and preventing her from standing upright 1b2) to bind, put under obligation, of the law, duty etc. 1b2a) to be bound to one, a wife, a husband 1b3) to forbid, prohibit, declare to be illicit


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ブリテンとキリスト教

アングロ・サクソン系がブリテンに入るのは五世紀中葉であった
それ以前にはケルト人が多くを占めていた。
マームズベリー(William)によると、アリマタヤのヨセフが、サマセットシャーのグランストンベリーにマリアのための礼拝堂を建てたという伝承があったと
ビードの英国国民教会史によると304-5頃、ディオクレティアヌス帝の迫害から逃れてきた司祭をオールバイン(アルバヌス)というローマの兵士が匿い、身代わりに処刑されたという。(聖オールバン大聖堂Saint Alban)

アイルランド聖パトリック(389-461c)はウェールズのセヴァン川下流に生まれたとも、スコットランドで生まれたとも言われる。彼はアイルランドに拉致されたが、その地をキリスト教化したと
アイルランドからは聖コロンバ(521-597)がスコットランドに宣教を行った。563年に内ヘブリデス諸島のアイオナ島に彼は修道院を建て、そこからケルト人へのキリスト教化が発展した。
しかし、これらのキリスト教(非三位一体)は南から進んできた組織的ローマ教会と衝突することになった。
グレゴリウス一世は、眉目秀麗な奴隷少年に目をとめ、出身を尋ねるとブリテンのアングル族であり、ヨークのデイラから来ていた。
その地がいまだ教化されていないと聞き、以後アウグスティヌスを団長に40名の宣教師を遣わした。彼らはガリアで苦難に遭い+諦めようとするもグレゴリウスに押されて、ブリテンのケント州サニエット島に至った。ケント王エゼルベルヒトは588年にフランク王カリベルトの娘ベルサと結婚したが、フランク側はキリスト教信仰の自由を条件にしていたために、ベルサは教師を連れて嫁入りしていた。
その背景からアウグスティヌスカンタベリーに住居を与えられ、ベルサの礼拝堂であったセント・マーティン聖堂を中心に布教に努めた。(後代に最初のカンタベリー大司教とされる) 彼は601年ころにはケント州の教化を終え、次いでローチェスターなど東に範囲をひろげた。ロンドンのセント・ポール寺はエゼルベルヒトの建立したものである。609年にアウグスティヌスが逝去するとキリスト教化の勢いはしぼむ、エゼルベルヒトの息子エアドバルドはキリスト教を継がなかったからである。そこでロンドンとローチェスターの司教らはガリアに逃避した。
そのころ、ノーザンブリアの王エドウィンは625年にケント王エゼルベルヒトの娘エゼルベルクと結婚したが、カンタベリーから来たパウリヌスが精力的に働きかけて、キリスト教の受容が会議でも承認された。634年には、教皇ホノリウスの認可を受け、カンタベリーとヨークの大司教管区が成立したが、その前にエドウィンマーシアに敗れて戦死していたために、ノーザンブリアのローマ教会は衰退する。
そこにノーザンバーランドが近隣と合併してノーザンブリアを形成し、その王であったオズワルドが635年にアイオナからのアイダンを迎えてリンディスファーンとメルローズ修道院を開設したので、ケルトキリスト教が繁栄する。(後代18世紀に、この地からロバート・モリソンが誕生している)
このリンデスファーンLindisfarneの島は特に「キリスト教のゆりかご」と呼ばれるほどに、ブリトン島北部の宣教の要衝となった。ここは793年にヴァイキングの襲撃を受けたが、四福音書ラテン語訳と聖カスベルト(c634-687)の聖遺物は無事であった。シュルルマーニュは捕えられた修道士らを気遣い、身代金を準備させた記録があるが、それはリンデスファーンの西欧への影響力の大きさを物語っている。後の875年に二度目の襲撃を受け、修道士らはこの地を去りダーラムに移っていった。
その後、ローマとケルトのふたつの教会は勢力を争うが、やがてノーザンブリアのオズウィク王の裁定によりローマが趨勢を得た。
そこにベネディクト会の修道院も入ってきたが、八世紀末からデーン人の来襲によってブリテンは全体が蹂躙され、教会組織もズタズタにされている。この影響は960年ころまで収束しなかったが、デーン人も先住民族に同化吸収されていった。このころダンスタンがカンタベリー大司教となり、クリュニー式の修道制を取入れている。



quartodecimani.hatenablog.com

                                    • -
  1. ガリアのキリスト教徒については、2世紀後半にエイレナイオスが「不教養で言葉については蛮族ではあるが、考え方、習慣、生き方に於いては信仰のゆえに極めて理知あるもの、神に喜ばれるものである。・・彼らに異端者の言説を告げれば耳を塞いで一目散に逃げるだろう・・彼らには権威的な集まりも、確立された教義もない」と異端反駁3:4に記している。
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[καὶ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾽ εἰκόνα θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν, ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.]Gn1:27LXX





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Caspar Schwenckfeld

カスパール・シュヴェンクフェルト(1489/90-1561)⇒Wiki


セルヴェトの他に当時カトリックプロテスタント正統派に反対した「異端者」はいた。スイスとドイツに住んだグリバルディと、スイスとポーランドに住んだジェンティレと、ドイツのシュヴェンクフェルトである。
シュヴェンクフェルトは様々な面でドイツのセルヴェトであった。彼も宗教改革者と会い文通したが、やがて彼らを批判するようになった。
当初、彼はルターに共鳴し、ミュンツァーとカールシュタットを通して改革に顔を出すことになった。V・クラウプヴァルトと聖餐論議を共有し、やがて師ルターと対峙する。
セルヴェトがスペイン(仏?)を後にしたように、彼はシュレジエンをあとにし自発的亡命を図り、1529にシュトラスブルクに落ち着いた。

二人とも宗教家ではなく、私事を犠牲にしてキリストへの奉仕と見做したことに専心した。彼らは数回会っており、影響を与え合っていた。彼らの間で異なったことは、セルヴェトが聖書に重きを置いたのに対し、シュヴェンクフェルトは聖霊を媒介として真理が人々の心に直接に伝わることを信じていたことである。
彼にとってのキリスト教徒の生活は、説教や秘跡によらず、祈りと瞑想であった。(スピリチャリストの先駆)
セルヴェトが闘争的であったのに対し、シュヴェンクフェルトは寛容で説得力を持っていた。そのため、彼の著作は教条的でなく、精神的キリスト教の理想を描いた書物によって四百年も絶えることなく続いた。(というのだが、日本ではほとんど知られていない)


キリスト教と政治の関わりへの見解

わたしたちの時代になって、国家は病的に歪められ、悪しき助言を受け、主キリストの教会とキリスト教信仰の実質を剣と権力によって維持することを自ら認めるという、キリストの教えからは遥かに遠いものになってしまったのです。
というのは、国家の役割に関する限り、国家はキリスト教信仰、神の言葉、キリストの聖なる福音を支配する権利を持ってはいないからです。
その役割は、もう一人の主人であり支配者、即ち天にまします父が、その教会の王、頭として定められた神の子イエス・キリスト、我らの主であり神である方に属します。
・・市当局の役割は、現世の役割であり、その地上の事柄の秩序のものであり、特定の権力と特定の裁判法を持ち、特定の人々に属します。キリストの天の王国やその霊的な掟、権力、正義、秩序、それに新約の霊的な人々はそれから区別されねばならないのです。
・・聖なる使徒であるパウロは、キリスト教的政府について、その手紙のどこでも言及しておりません。キリスト教的政府というような用語は、我々の利益のために、最近創案されたものです。パウロは、ある人々が教えたように、カトリック教徒は、政府の確立後、身を引き、プロテスタントがその席を占めるなら、我らの主なるキリストの王国の運営がうまくゆくであろう、などとは教えませんでした。彼が教えているのは、ローマ人の手紙の13章で、ローマ市のあちこちに追い散らされたキリスト教徒が形式的な公務に属する事柄で、政府に従順でなければならないということであって、それ以上のことではないのです。

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