Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

エゼキエル書の構造

エゼキエルに通告された預言の時期

・エホヤキムの第4年はネブカドネッツアルの第1年
・エホヤキンの捕囚BC597から37年間
・一人称と三人称で書かれた部分が交錯する

 ・エゼキエル個人
BC593-571まで活動していた
父はブジであり、エレミヤのようにザドク祭司の家系に在った
妻をエルサレム攻囲の始まった588年に亡くした
第一章はじめにある『第三十年』が何を意味するかは諸説あるが、タルグムの註解のヨシア王の律法の発見の時期というのは年代が一致する。
また、祭司の任官である三十歳に彼自身が達したとの説もある。
彼は度々川の畔に居るが、これはディアスポラの民が異教の地で頻繁に浄めの儀式を行う必要に応じるものであったとも。cf;フィリッポイでのパウロ
バビロニア資料によれば、ケバル川はニップールを囲むように流れていたらしい。

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1:1-3:14.第30年4月5日(捕囚の第五年BC.593)
<ネブカドネッツアルの第13年>
ケバル河畔で神のレクーヴと4個体のケルヴィムを見る<エルサレム神殿が存在していた>
エゼキエルは両面の巻物を食し、聴かない民に話すことを命じられる

 

3:15-7:27 第30年(第5年)4月12日
イスラエルの家に有責の警護者とされる
低地平原で神の栄光を見て唖者とされ次に話すのは神が語る時とされる
レンガにエルサレムを刻み攻囲する模型を作る
左腹を下に390日を寝て過ごし、右腹を下に40日を過ごし、人糞に代えて牛糞を燃料とし減らした飲食で過ごす(この430日の間妻の世話を受けることができたろう。妻の死は24:18に記される)
髪と髭を剃りそれらを三等分して火で焼き、剣で打ち、風に散らすが
それらは疫病、飢饉、剣によって三分の一ずつが滅びることを表す

 

8:1-19:14 第6年6月5日(592)
年長者らの前で神から髪を掴まれ幻視でエルサレムに連れられ、神殿で悪行を見る
六人の殺害者と一人の書記官の幻、ケルヴィムと神の栄光
一つの心と一つの霊が与えられ、ユダとイスラエルは集められる予告
エゼキエルは住居の壁に穴を空ける
自分の前に置いた糞像から立ち返れ
剣と飢饉と野獣と疫病の害を逃れる僅かな者が残される
サマリアエルサレムの売春、大鷲と大杉による周辺情勢の比喩
義なる者が義を離れるとき、その魂の罪により死ぬ

 

20:1-23:49 第7年5月10日(591)
伺いに来た年長者らの前で霊感を受け、荒野以来のイスラエルの咎の歴史が語られる
将来にイスラエルは棒の下をくぐり、悪行者は排除され、聖なる山に戻される時が来る
(南の森林の秘儀)
剣による殺戮の予告、二本の道の分かれ目で占うネブカドネッツアル
神殿を蔑み安息日を汚したイスラエルは悪行と共に散らされる
義なる者の血の罪を負うオホラとオホリバは淫行の相手によって攻められ悪行の酬いの杯を飲む

 

24:1-25:17 第9年10月10日(589)

エルサレム攻囲について広口鍋で羊を料理する例え
汚れが溶解するほどの滅びが臨む
エゼキエルは妻を失うが喪は禁じられ、捕囚民もそうなる
聖都陥落後にエゼキエルが語ることの予告
アンモン、モアブ、セイル、エドム、フィリスティアへの宣告

 

26:1-28:26 第11年1月1日(587)

ティルスへの宣告
サタンへの暗喩「わたしは神だ」
突然の崩壊とイスラエルの回復

 

29:1-30:19 第10年10月12日(588)

30:20-30:26 第11年1月7日(587)

31:1-31:18 第11年3月1日(587)

32:1-32:16 第12年12月1日(586)

32:17-33:20 第12年1月15日(586)

33:21-39:29 第12年10月5日
エルサレム陥落[4月か5月か?]の通知に応じ)
<37:1に変わり目があるかも知れない* ゼデキヤの11年;前586以後>

骨の満ちる谷の幻視

イスラエルとユダとは一つの杖となる

マゴグの地のゴグによるイスラエルの山々への攻撃とまったき敗北

 

40:1-48:35 第25年1月10日(エルサレム陥落から14年目572)

 謎の神殿の詳細にわたる寸法の記述と祭祀への指示→意味不明の箇所

前半には幻の神殿の善悪属性に疑問を感じさせる記述が混じる

(レヴィの任職にも謎の文言あり)

水量を増す川が死海を活かす

十二部族の新規の割り当て地と、『長』とされる者の卓越

(現状の地形では面積が足りずズレが生じる)

 

 

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全部で13回(14?)啓示されているが、必ずしも順に並べていない
第11年と12年にかけて3回ずつと多く、エルサレム陥落の後に終末黙示が集中している。
「第三神殿」の幻は13年隔たっており、別格に扱われている
励ます意味があったなら、どうしてこれほど待たせたか?<励まし?>

啓示順にするとどうなるか?

 *<37:1の最初の動詞がワウを伴っていない過去形で、日付が先行していた可能性が高い>

エゼキエル書ではエホヤキンを王(メレク)とし、ゼデキヤを君主(メラーコース)として区別することがある(17:12-13)但しゼデキヤを蔑んではいない。おそらく、バビロンの傀儡王の意ではないか。

何人かの識者は38・39章をエゼキエルの作とは見ていない。

 

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自由主義では20:25を律法を神自らの罠として捉えることもある

・20章からは各々が独立した断章となっている
 ・24章冒頭は前588年とされる J.Blenkinsopp"Interpretation A Bible Commentary"

エルサレム陥落後の数年間はエドムが真の敵となっていた。(25:12-14)エドムの語はセイルの赤土からきているとも、エサウが求めた赤い煮物から来ているとも、その赤ら顔にも由来があるとされる。エドムはユダ滅亡に乗じてユダに侵攻している。(35:6=Gen9:6)エドムにだけは運命の逆転は起こらない。

・37章は「YHWHの手がわたしに臨んだ」の四つの幻の第三に当たる

1.霊感の停止 2.神殿の悪行と破壊 3.骨の蘇生 4.謎の神殿 

自由主義では38-39は37に先行すべきとも言われる

・ヨセフスはエゼキエルが二つの書を残したとしている(古代史10:79-80)

・ゴグの部分は「YHWHはこう言われる」に続く七つの単元を持っている

・ゴグの正体について推測されていたのはカバラーからのバビロン、前2世紀のアンティオコス・エウパトルの幅があるが、最も云われるのはアレクサンドロス大王であるが、タルグムはローマ人に同定し、アウグスティヌスは北からのゴート族としてきた。しかし、ゴグの匿名性を打ち破るには至っていない

・「メシェクの総首長」”ローシュ・メシェク”は語源はどうあれロシアを意味しない(ルーシ「漕ぎ手」<奴隷?>は古ノルウェーの家系の属するらしい)

・ゴグは七つの他民族の軍を持つ、ペルシアを除けばすべてが創世記10に表れている ゴメルはアッシリアの碑文に見られるギミライまたキンメリアと同定されている。トガルマはアッシリアの記録ではコーカサス山麓のティルガリムであろうとも

・「北の果て」はペルシア、クシュ、プトには当てはまらない。ベトトガルマへの付加なのか結論は出ないが、繰り返されるので(38:15/39:2)象徴であろう

エルサレムは前5世紀のネヘミヤの時まで無防備であり、それは神の保護によると見做されてきた(Zec2:9)

・オペリム「通りかかる者」、アバリム「東の旅人の谷」、埋葬の後はハモン・ゴグ、「・・わたしはイスラエルの中に一つの場所をゴグに与える。それは彼の墓である。アバリムの谷・・・」と訳されるべきであろう。ヘブライ語本文では「オベリム」と読んでいる。「海の東」については意味不明。「アバリムはすべてそれらで塞がれる」これは「オベリム」を「旅人たち」と解釈したうえで語呂合わせをしており「旅人たちの道は塞がれるであろう」としている

・ハモナは街の名として唐突に表れるが、これは本題から離れて、不明の都市ハモナをゴグの大群*と説明している。<*「俗衆」の意が有ったはず>

レビヤタンの肉を食らう」Ps74:13は終末論的宴会としてラビ的表象となっている(29章)

 ・「もはやあの大群のことは聞かれない」は「それゆえ、その町の名はハモナである」が直訳になる

 Keith W.Carley"The Book of Prophet Ezekiel"1974

 

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20:25の問題は、タルグムの中で和らげられている。

『彼らは自分たちの愚かな性向に従って、本来のものでない宗教的宣言やそれによって生きることのできない法を守ったのである』

エゼキエル書にだけ『イスラエルの土地』(アドゥマス イスラエール)が存在し、18回に及んでいる。これは北イスラエルを指す語を別にすればエゼキエル書独自のものである。

エゼキエル書の捕囚の原因としては、名の清め(キドーシュ ハシーム)が関わっていることが繰り返されている。

 

 

 

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ユダヤには儀式的沐浴があり、その水は人工的に集められたものであってはならず、自然に集まった水の中に身を沈める。これを規定したトホロートはパレスチナ以外で守ることは難しい。自然に集まった水は『生きた水』という。貯水槽の水はそうは呼ばれない。泉や川から汲まれた水でなくてはならない。(Ezk.Zec.Revの水がそうでは?ヴェート ハショエバー?)

 

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人と宗教

 

人の周囲は善意ばかりで構成されている環境ではない。

むしろその人が生きることにさえ抵抗があり、競ったり、争ったり、あからさまな敵意さえ受けるのが、『この世』という、現在まで人々が逃れられなかった敵性環境である。

そこには人間相互の素っ気なさだけでなく、生まれ出たところで、諸苦が襲い掛かり、やがて老化を経て身体が劣化し、動き難くばかりか、多くの病を避けられなくなり、死に至る宿命を負わされている。

人間は、自らの存在を俯瞰して、それが儚いもの、いつ果てるとも知れない不確かなものであることを悟らざるを得ない。抽象的思考能力を持つほどに、人々は自分自身というものを省み、争いや苦しみや寿命の中に囚われていることを見出すことになる。

それであるから、人の置かれたこの境遇を変えることはできないものの、思いの中で自らに存在意義を与え、人生という空しい労役と最期の消滅を回避する方策が発生し、古来、維持されてきた。その端的なものが宗教であり、またその教義である。

したがって、宗教とは、抽象概念を把握できる人間が『この世』に生まれてくる限り、その必要を満たすために常に求められるものとなってきたが、それは無神論や不可知論であっても人生に何らかの答えを与える働きでは変わるところが無い。考えないことを信条とする場合であっても、それを自らに課す場合に、人はそのように強く念じる必要があり、それは宗教信条を守ろうとする姿勢と変わるところがない。

だが、こうした人の必要に応じた宗教や思想という心理的な人生問題の仮想解決策もそれぞれであり、共通点はあるにしても、矛盾や対立的な教義や教条が目立つものとなっている。しかも、その違いは相互の宗教なり思想なりの存立を否定し兼ねないところが避けられず、それは宗教や思想を自らの人生という問題の解決策とした人々、即ち、個々の信者の人生全体に関わる意義や、教えられて想定している死後の利益などが、単なる心に中だけの「事実」または「空想」であるとされ、その人に大きな損失をもたらしてしまい兼ねない脅威でもある。

ゆえに、人々は信仰する宗教の異なりによって、必然的に相争うことになり、この点で妥協することは、教えそのものを否定することにならざるを得ない。

多神教であれば、まだ譲歩の余地を持てるが、それでも排他性の強いもの、信じる宗教を変える者、まや辞める者への極端な扱いを躊躇しない多神教もやはり存在している。

こうして見えて来ることは、宗教はそれぞれに人々の大きな利益をその心に約束していることである。

だが、その利益そのものは未到来なものが大半を占めており、その多くが「死んでみなければ分からない」という、きわめて不確かなものなのであり、その正否の確約は誰も示すことはできず、そこが「信仰」であるとも言える。

近世フランスをはじめ、それぞれの思想信条を人権として保護する制度が始まることにより、宗教同士、信仰相互の直接的な衝突は緩和されている。それでも、宗教そのものの本質からすれば、いずれかが正しいのかは問われるべきものであり、本来、それは妥協ができないものである。

だが、その結果が倫理問題を生じさせ、人々の間に分断や差別や、紛争をもたらすとすれば、人は自らの人生の問題、『この世』の諸苦を改善するどころか、争いを増し加え、自らますます住みにくい場に周囲を変えていることになる。これが宗教最大の問題となっている。

 宗教とは押しなべて「信仰するもの」であるゆえに、本質的に心の中から具象の証明には出て来ない。この点で、科学が信仰を立証したかのように語られるのは、宗教の本質を失われることになり、そこには強制によって他者の信仰を破壊、また勝ち得ようとする精神的圧制の手段が見えているが、これは逆に非論理的なことになり、自ら宗教の信仰性という土台を攻撃してもいる愚行である。

確かに、宗教には多様性があるだけでなく、時代性も拭い得ず、人間の社会や科学の進展に即してこられていないところが散見される。そこで普遍的価値のないものは人々から関心を失われることが避けられないが、それを伝統性や地域社会性、また葬儀という避けられない儀礼制度の中に存続の活路をわずかに見出しているところもある。これは信仰の形骸化を招いており、いざ、教条への確信が問われるような事態が生じれば、短時間にそれらの宗教の存続の土台は崩れることになるように見える。

<例えれば、ユダヤ教が動物の犠牲の祭儀に立ち戻ったとしても、それはユダヤ人に農耕牧畜民族の性質を要求しており、そこにメシアの犠牲の意義が問われるなら、時代性のゆえに即座に限界の壁に直面することになろう>

そして、宗教は、その教えが「人を超えたもの」を想定するほどに、時代に即応して発展するには難い性質を帯びることになり、それが却って宗教自体の不合理性を露呈してしまい兼ねない。しかし、それでも気付いた人々が宗教を離れないのは、他に代替すべきものを見出さず、惰性が働くからである。ある地域では人々は「宗教疲れ」のような精神的背景を抱えており、宗教改革以来の宗教闘争に明け暮れたことのある西欧がその例に挙げられよう。キリスト教の新旧に関わらず、「クリスチャン」に名は留めても、心底確信を教義に捧げてもいない。<だからと言って、教義を科学に摺り合わせ、宗教を現代化しようとするのは、宗教そのものを却って不確かで、本質を逸したものにする>

 

したがって、宗教は今日に在って、宗教相互の、また社会や科学の進展によって、その真偽が絶えざる吟味に曝されているのではあるが、この吟味は各個人の中で進行しているのであり、特に伝統ある宗派で、表立ってその根幹的教義が急激な批判の的とされることは起っていない。

その一方で、その実質がどう評価されようとも、古式の非合理的な教義に固執し厳格に従おうとする反動も、旧来の伝統的宗教で見られるが、これはそれらの宗教の非合理性を内心では感じつつも、それを振り払い、本来的に宗教がもたらすはずの人間につきまとう不安の払拭を願っての回帰行動なのであろう。

それであれば、宗教一般のこの根本的役割は、併存する多くの宗教の存在と、人類社会の進歩によって脆弱にされており、人々の必要に充分答えているとは云えない状況にある。

<これは16世紀にカトリックが日本への布教を行った際に、同じ性質の障碍に突き当たっている 教義そのものが理知的に吟味されるという当時には珍しい現象が起こったが、これに宣教師はたじろいだのであった 「キリスト教の常識」はそこで限界を露呈した>

 

 

 

 

 

 

マケドニア履歴


マケドニアは元はバルカンの西半分を占めるピンドス山地から東の低地平野に進出してきた移動遊牧民族で、ギリシア化はアルケラオス王によって進められた。彼はペッラにゼウクシスという高名な画家を招いて王宮を飾らせ、エウリピデスも呼ばれ、この劇作家は亡くなるまで当地で過ごしている。そのため後のアレクサンドロス大王が「メーデイア」からの句を諳んじていてパウサニアスに語ったというプルタルコスの記録も有り得たという。
先の時代、ペルシア戦争マケドニアはペルシア側についたため、戦役後にギリシアとの関係を調整する必要があった。
ギリシアアテナイを盟主とするデロス同盟につき、多くの艦船の建造を要したが、前4世紀の学者テオフラストスによると、「大工が用いるための最良の木材はマケドニア産である」としている。ピンドス山脈は良質で豊富な木材を供給することができ、この点でマケドニアギリシアの必要に応えることができた。

フィリッポスⅡ世(BC382-336)は、子供時代にテーバイの人質として過ごし、この国の軍制を学んだとされる。マケドニアのバシレイオスとなったのは前359年で先王アミュンタスⅢ世の死後帰国を許され、甥であるアミュンタスⅣ世の摂政となった後、すぐに甥を退けて即位している。しかし、甥は殺害していない。

自分の代でペッラに都したが、トラキア方面に遠征したときにトラキア人の街を攻め取り、ギリシア人を入植させて自らの名をもってフィリッポイと名付けた。(356)


彼の四番目の妻は、ピンドス山地のエペイロス地方に中にあるドドナを首都とするモロッソイ王国の王女で名はポリュクセナであった。
彼女はサモトラケの密議でフィリッポスと出会い、彼のひとめぼれで兄弟(実際は叔父)のアリュッバスを説き伏せて婚約したとプルタルコスは「英雄伝」でいう。

エペイロスではディオニュソスの崇拝が強かったが、その神はゼウスがテーバイの王女セメレーに産ませた自然の豊穣と生殖力を体現し、葡萄酒の神ともされる別名「バッカス」である。
葡萄を発見してその酒の製法を知り、キュベレーから小アジアで密議を授かった。その後、人間に葡萄の栽培を教え、自らの神性を認めさせ、その祭儀を広めたという。
まず、小アジアを征服して多くの熱狂的な信女らを得てから、葡萄の蔦を絡ませてギリシアに来た。彼にはサテュロスやシレノスが従っていた。
その熱狂的な信女らは「バッカイ」と呼ばれたが、小鹿の皮をまとい、テュルソスという蔦を巻いた杖を握る。
山野を巡り、集団で饗宴乱舞し、神や自然と一体となって恍惚に酔うという。エウリピデスの「バッコスの信女ら」に描かれるところでは、その憑依により素手で牝牛を引き裂くとも。
この女たちは、村々を襲撃してはあらゆるものを引き裂いていったが、村人が槍を投げても傷も負わず、血も流さないという。
テーバイの王ペンテウスは、母親までが信女になってしまったのでディオニュソスを取り押さえようとしたが、母親の命令を受けた女らによって八つ裂きにされたとも。(教祖ディオニュソスは人間であったらしい)
(憑依された人が異常な怪力を持つところは福音書にもある)

こうした異常な憑依による狂乱の崇拝は、ディオニュソスだけでなく他の神々(カペイロス/サバジオス)にも見られ、こうした傾向は小アジアからピンドス山脈まで広く見られたという。
サモトラケの密議はカペイロス(商人の神か?)のものであったが、ギリシア人にはまとめて「ディオニュソス崇拝」と認識されていたとのこと。


フィリッポスⅡ世がカルキディケー半島に遠征したときに、三つの福音があった。
まず、度々北辺を侵してきていたイリュリア勢力に対し、腹心の将軍パルメニオンが勝利したこと、オリュンピアードで王の馬(車)が優勝したこと、四番目の妻ポリュクセナが男児を出産したことであった。そこでポリュクセナはその慶事からオリュンピアスと改称して呼ばれることになり、その子はアレクサンドロスと名付けられた。

彼女は密議に熱心に参与しており、激しい憑依状態を愛し、長い蛇を一匹ならず飼いならしていた。それらの蛇は、人間に良く馴らされていて、踏まれても害を為さなかったという。フィリッポスⅡ世は、オリュンピアスの傍らで共に休む大蛇を見て、疎遠になったらしい。

当時のマケドニアには蛇が多く、それらをペットとすることは容易であった。

 しかし、マケドニア貴族の生活はギリシアと異なって質素であり、家内奴隷を用いず、女たちは自らパンを焼いたという。

王はたいていは一夫多妻で、フィリッポスⅡ世の場合には、政略結婚の繰り返しで最終的に七人の妻を持った。だが、七人目のクレオパトラについては政略結婚ではなく、それがオリュンピアスとの決定的な不仲と出奔を招いたとも。王位継承の危機を抱えたアレクサンドロスも母と共にマケドニアから、幼馴染のアレクサンドロスが王となっていたモロッソイに去っている。

また、多婚については、ギリシア(特にアテナイ)とは異なり、妻たちの中で正妻と側室の区別はなく、皆が正統で誰も対等の「妻」という認識であった。

アレクサンドロスの帝王教育では、フィリッポスⅡ世は母親から引き離して(母親の呪術的蒙昧教育に危惧があったか)オリュンポス山の東に位置するエミザに、当時小アジアに居たアリストテレースを招いて何人かの少年たちと共に息子を教育させた。このグループが後のアレクサンドロスを支える諸将ともなり、ディアドコイ戦役のそれぞれの領袖ともなってゆく。アレクサンドロスはこの偉大な師を生涯忘れず、書簡の往来が続いており、アリストテレースの知性的影響の大きさを物語っている。

 フィリッポスⅡ世は前338年にカイロネイアの戦いに勝利してスパルタ以外のギリシアを掌握し、コリントス同盟を締結しその盟主となる。

その後、小アジアをペルシアから解放する目論見で、ペルシア遠征を計画し、先遣隊一万を先発させている。その間に、モロッソイに退いていたオリュンピアスと息子を呼び戻すべく、息子アレクサンドロスの妹のクレオパトラをモロッソイ王となっていたオリュンピアスの弟のアレクサンドロスと結婚させることにする。これにはオリュンピアスも賛同しないわけにゆかず、フィリッポスⅡ世は、かつてマケドニアの首都であった南部のアイガイで挙式させることとした。

広範な支配地域とコリントス同盟のギリシア各地から賓客を招き、饗宴や競技会の開催が予定され、フィリッポスⅡ世は権力の絶頂にあったのだが・・

 

 

ディアドコイ戦役に至る情勢

 

 

「忠実で思慮深い奴隷」の背景

 


『忠実にして聡き奴隷』についての記述は、マタイ24:45-とルカ12:41-の二か所に有る。

Mt24:47

[amhn legw umin oti epi pasin toiV uparcousin autou katasthsei auton]

 

Lk12:42

[καὶ εἶπεν ὁ κύριος τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς οἰκονόμος ὁ φρόνιμος, ὃν καταστήσει ὁ κύριος ἐπὶ τῆς θεραπείας αὐτοῦ τοῦ διδόναι ἐν καιρῷ [τὸ] σιτομέτριον;]

 

どちらも[καταστησει]<動)直未来能3単 >語られた時点では未然


この『忠実にして聡き奴隷』については、他にダニエル11:33が関係しているのかも知れないし、ネヴィイームの中に散在している可能性も考えられが、とりあえず、イザヤの『子ら』に付随して存在している。

彼らの存在は、神の聖霊の介入なく始められる必要があると思われる。

『奴隷』に関するこれら福音書の記述では、明らかにキリストの到着以前の段階で活躍する者らのことを述べており、成功と失敗の双方の可能性が記されている。
またキリストの『誰であろうか』という問いかけは、存在することになることの確定性と共に、その働きの不確定性とを同時に示している。

そこに、キリストの帰還の時の不明性が強調されており、それはダニエルの70週の最後の一週の終りが語られないことによって分割されているところとも合致している。
即ち、『契約を保つ』メシアの最後の三時半が何時到来するのかという謎と、『あなたがたはその時を知らない』という弟子らの不可知ばかりでなく『子もまた知らず』という『天の父がその管轄する時』のことであり、『夜半になるか、明け方になるかを知らない』下僕らの置かれた、主人の『婚礼からの帰還』を待つ期間のことである。


これらは、どれもが時の不可知性を強調しており、覚醒運動以来の各派のような「年代計算」の悲劇的失望とも却って整合するものとなっている。したがって、『忠実にして聡き奴隷』と「時を予告する」という行いとは正反対のものであることになり、むしろ、『主人は遅い』と云う事態を招く必然性を帯びているし、実際にアドヴェンティスト派や、そこから派生した「ものみの塔」がそうなっている。なぜ『主人は遅い』と云うのかを問えば、自分の予想が有ったからにほかならず、それは主人中心の態度ではなく、自己本位な願望を持ったからではないか。その誘いとなっているのは「いちじくの例え」などのようである。

 『忠実にして聡き奴隷』では、時の不確定性への忠実さが強調されており、主人が何時到着してもよい姿勢は、マタイでもルカでも直前の『夜盗』の例えから繰り返されており、第二夜警時でも第三夜警時でも『篝火を焚き続けている』べき務めが求められている。『仲間の奴隷たちを打ち叩いて(強制して?)』宴会を始める者らに対しては、彼らの『まさかと思う時刻に(人の子)は来る』という。その不意打ちの原因を作っているのは彼ら自身なのである。

 したがって、『忠実さ』は時をどう待つかに強くかかっている

そのために「時の予想」はきわめて厳しく戒められているのであり、『打ち叩かれる』鞭打ちについても、これは実例が幾つか存在している以上、実現するものとして語られているとみるべきなのであろう。

 しかし、キリスト教界の伝統的な趨勢では、主人の帰還について意識も低く、むしろ再臨という事柄の発生であってさえ望ましくもないような姿を見せている。他方で、再臨によって自分たちは救われると決め付け、裁かれないものと想定している宗派もよく見かけるが、その自信の由来は、『新しい契約』に預かる『聖徒』への言葉を自分に当てはめてしまっており、あまつさえ『聖徒』の受けるべき裁きによりその多くが殉教に倒れることを無視し、キリストの地上への有難い祝福の降臨を期待してしまっている。それもキリスト自身により、地上再臨が起らないことを再三警告されているにも関わらずのことであり、これは救いの利己的願望が築いた「信仰」という以外ない。

しかし、『罪』を赦されている『聖徒』であってさえ裁かれる終末に、どうして裁かれるべき赦されていない『罪人』に向かって、神にもキリストにも最初から善意を注ぐよう強制できるだろうか。そこで彼らは「バプテスマを受けた」「道徳的であるからノアのように生き残る」「キリストの品性に倣って予審を通過した」等条件を挙げるのだが、これは「裁き」の真意を知らないからであろう。これがつまり根本的な倫理性が各人に求められる「エデンの問い」である。そこに自己保存本能の出る幕はない。全能の神がすべての人を救わない理由にこそ意識を向けるべきだからである。

それから、ひとつ謎がある。ルカの『世界の臨もうとする事柄を想うために、人々が息を失う』ときに『あなたがたの解放が近付いた』の『あなたがた』が聖徒ではないように読めるところがある。天に霊の復活を遂げているにしても、幾らかの不自然さが残る。これは『忠実にして聡き奴隷』の直前でペテロが質問したような、両者に関わる事柄として語られたのだろうか。

いや、これは明らかに聖徒のことを言っていない。これは神と人の戦闘の後になり、全聖徒が天軍に参加する以上一人も地上に居ない。この辺りを理解するには、ゲッセマネの祈りを加味する必要がある。

 

また、『忠実な聡い家令』に関わる前後の記述では、何度か食事に関して述べられている。
その家令は仲間の奴隷らに定時の食事を備えており、不忠な家令は仲間を起こし、強制して宴会を始めている。
また、忠実であった家令には、主人がそのものに給仕するとも言っている。
したがって、主人の婚宴からの帰還においては食事、また宴会が行われることが二度示唆されている。マタイでは、続く25章でもやはり婚宴から帰る主人を持つ乙女らの例えが続いており、当時までのユダヤの風習を通して、不定の時刻に戻る主人と、それが何時になろうとも待ち続けるべき奴隷の務めとが描かれ、主人の帰還の時をどう迎えるかという観点が強調されている。


加えて、『主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている』ことが命じられているところは、『主の晩餐』との関連を連想させる側面を持っていると見てよいように思われる。なぜなら、共観福音書の後の過越しの場面で、イエスが『主の晩餐』を制定し、それを行ってゆくようにと使徒らに命じている。


これは使徒らに代表される『聖徒』への直接の下命であるとしても、正式な儀礼聖霊の再降下なくして行い得ない。
だが、聖徒がいきなりに登場して『主の晩餐』を祝うかと云えば、聖徒という極めて高い立場への認識ないところで、聖霊の注ぎが起るかには問題がある。あのシャヴオートの日の以前に、信仰を懐いた120人が居たから『子ら』の誕生もあったのであり、パウロは信仰による義によって聖霊で油注がれたと述べている。
即ち、メシア信仰を懐いたことにより義を得て、そこに認証である聖霊が与えられている。


そうであれば、終末の『三時半』に契約を保つメシアは、あのシャヴオートの時と同じ手順を踏むべき重要な理由があることになる。

最初の主の晩餐がキリストの臨席があり、使徒らが油注がれてはいなかったものの、やはり聖霊降下に先行してペサハが行われている。そこではシャヴオートまでの七週という期間の象徴性が意味を持つように見える。モーセを通してペサハとシャヴオートが制定されたとき、既に、大麦の『初穂』としてのキリストの復活と、その犠牲の最初の益に与る小麦の『初穂』としての聖徒らの登場とは予見されて、神の経綸とされていたことがここに明示されている。

この場合の『忠実で聡き家令』の位置付けは、エルサレムに留まり二階の間に隠棲するガリラヤの弟子であり、それを指導し使徒職を12名に整えている使徒ペテロが相当するように見える。<聖徒らに対する使徒らの優越性は、聖霊降下の前に試練をキリストと共にし、主の晩餐に預かっているところに表れている。然るに、彼らは聖徒らを吟味する立場が与えられた>彼らはシャヴオートを境にキリストの奇跡の業を聖霊によって継承し、その立場がキリストの肉と血に与る者であることを『主の晩餐』によって象徴的に示し、同時にそれは『新しい契約』への参与を自らの内に刻むことにもなったに違いない。

従って、シャブオートを待つガリラヤ人たちは、一回目の食事儀礼の後の聖霊降下を待っていた人々であったことになる。彼らは迫害の渦中であっても『エルサレムを離れずに居る』べきであった。

 では、その間どんな『定時の食事』に与っていたか?また供給者は誰であったのか?あるいは『忠実な聡い家令』とは終末に特徴的な存在なのだろうか?

 

 Mt24:45

[Τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς δοῦλος καὶ φρόνιμος ὃν κατέστησεν ὁ κύριος ἐπὶ τῆς οἰκετείας αὐτοῦ τοῦ δοῦναι αὐτοῖς τὴν τροφὴν ἐν καιρῷ;]

 Lk12:42

 [καὶ εἶπεν ὁ κύριος· τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς οἰκονόμος ὁ φρόνιμος, ὃν καταστήσει ὁ κύριος ἐπὶ τῆς θεραπείας αὐτοῦ τοῦ διδόναι ἐν καιρῷ [τὸ] σιτομέτριον; ]

 マタイではドゥーロス"Servant",ルカではオイコノモス"Steward"

『ダマスカスの人、エリエゼル』サラの独り子イサクの嫁の導き手としての

エサウは長子の権を軽んじた』Gen25:34 <脱落聖徒or旧基督教?>

エサウは双子ながら本来の相続権を持っていたが;血統上のイスラエル⇔神のイスラエル?(但し、ガラテアではイサクとイシュマエルが双方の母親を通してユダヤ教キリスト教が対照される)

”lest there be any fornicator or profane person like Esau, who for one morsel of food sold his birthright.”NKJV Heb12:16 

日本語訳では『俗悪な』(口語、新改、新共)とされるが"profane"は「神聖でない」の意があり、これは当該ギリシア語[βεβηρος]  の字義” 1) accessible, lawful to be trodden 1a) of places 2) profane 2a) unhallowed, common, public place 2b) of men, ungodly ”にも含まれている。

Isa14:1-2 『主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。』

 

Isa61:2-6 『の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。
しかし、あなたがたはの祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。』(口語)

『【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。
彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。
しかし、あなたがたは【主】の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。』(新改訳3)

『主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼ら主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。』(新共同)

 

『彼ら』という三人称の者らは『あなたがた』という二人称とは明らかに別なものとして語られている。

二人称の者らはイスラエルであり聖徒の予表であることは『祭司』の語から分かるので、その以前に語られている『彼ら』と『異国の者ら』が同じものを指していると見るのは不自然でない。だが、異邦人がシオンを嘆くか?<キュロスとペルシアはどうか?>

 

Isa66:22『「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」』(口語)

『わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる』(新共同)

『わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする』(新改3)

[וְגַם־מֵהֶ֥ם אֶקַּ֛ח לַכֹּהֲנִ֥ים לַלְוִיִּ֖ם אָמַ֥ר יְהוָֽה׃]

<選ぶに相当する単語は無い>しかし、全部がそのままというのは極めて考えにくい

 


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Ams9:9-12

『「見よ、わたしは命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。ひと粒も地に落ちることはない。
わが民の罪びと、すなわち/『災はわれわれに近づかない、われわれに臨まない』と/言う者どもはみな、つるぎで殺される。
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を/所有するためである」と/この事をなされる主は言われる。』(口語)

 

10節まではイスラエルの選別を指している。それが行われる『日には』となるが、その期間が狭く限定されているかは予断を許さないように思える。なお、荒れ跡を再興するのは神自身として語られる。だが、イザヤではそうなっていない。これは、荒れ跡を再興するのが異邦人であり、神の命によると捉えることもできる。キュロスの故事では、異邦人は荒れ跡を直接に再興してはいない。使徒会議では、聖徒への異邦人の採用がアモスに関連付けられた。だが、ヤコブが限定的に句の意味を固定したかは不明。<アモス書9:11-12/イザヤ書45:20-21>

しかし、Isa60章以降は明らかにシオンに向けた言葉が多く、それは54章辺りから始まっている。これほど聖徒前の者らに向けて語られた預言がほかにあるだろうか。

 

 

ものみの塔の統治体を検証する



 

 

教会のキリスト教についての雑録

教会のキリスト教についての雑録

 

・目的は何か

信者が神に近付き、是認や親密さを得て、信者については地獄行きを免れ、天国行きを確定させることにある。

<早速、この段階で指摘するべき誤謬が幾つも見えているが>

つまるところ、信者個人の益のための宗教である。

 

だが、教師の目的はそこにない。教師の意図は信者集めと資金獲得である。

教会堂を維持し、教団に上納し、かつ自分の生活を成り立たせるのに、日本の宗教環境ではかなり厳しい。

そのため、ますますご利益信仰の面が強められるきらいがある。また、結婚式場のチャペルでのアルバイトなど、本来のキリスト教ではない文化面を売りにする傾向は今後も続きそうに見える。但し、これは外人教師に人気がある。

仏教が葬式の宗教となっていったように、本来の部分が形骸化しつつ、派生的文化面で商業化するところは、その宗教の本質が社会に対して弱いという証と思われる。

 

・第一には、自分たちに与えられる祝福に酔っている。

これはキリストの自己犠牲の精神と同じ方向性にはない。

原因のひとつには、洗礼を受けた「クリスチャン」という身分で、キリスト教の全体を見ようとするところにある。

そこから、自分たちはお目出度く神の前に格別な存在となったと思い込む。

神がアブラハムにその意図を告げた人類の祝福という経綸の成就としてのキリスト教という理解は皆無に近い。むしろ、利己的ご利益を得ることに関心が向いている。

そこで、自分たちも裁かれる『この世』の一部であるという意識は持っていない。したがって、アダムの罪は自分たちについては既に赦されているというパウロの聖徒に関する言葉を自分に語られたものと解釈している。(『新しい契約』が『アブラハムの裔』を生み出し人類を益するという理解がないため⇒「聖徒理解)

だが、おおよそ宗教を望んで信仰する大衆の動機といえば、「信じるメリット」であり、よそよそしいこの世に在って、自分がどう扱われるかに関心が向き易いのは自然な成り行きといえる。

だが、それはキリスト自身が示した生き方でも、使徒や初期キリスト教徒の精神でもない。どこで変わったかといえば、キリスト教のコミュニティ化、また大衆化を画したローマ国教化までにははっきりしていたのであろう。

三位一体説、天国と地獄、刑具の象徴、パスカのイースター化、俗説の混入などは、目出度い自己へのメリットを中心に飾られる異教のかき集めになっている。

教会が煽るのぼせた高揚感によって幾らかの活気も演出されるが、土台に誤解がある危険で終末の裁きがどういうことになるだろうか。そこに心配があるが、言っても聴いてくれるようでもない。自分が正しいのはメリットを失いたくないからで、神に関心があるでもない。まず「終末」をどうこう言うことそのものを「異端」などと断じる教会や信者もある。

 

・聖書偶像化と通読の奨励

新教系の「クリスチャン」が聖書をほぼ絶対視するのには動かし難い目的がある。それは自己義認であり、聖書はそのための道具となっている。

「聖書に書かれた通りに行えば、その人は神の是認に入る」という前提条件を盲信しているのだが、その動機は自分を義とし(かつては旧教を断罪して)「正しいキリスト教」を実現しようとすることにあるだろう。

何が正統かを巡り論争を続ける内に聖書主義者は「ヨブの罠」に落ちて行く。ヨブ記は「義なる者が苦難に遭う理由」を説明しているのではなく、「ヨブが自分の義を高め過ぎ、神の義を否定すべきでないことを悔いた」のであり、どんなに自分が義人に思えても、詰まる所『義人はいない』事を悟り、キリストの贖いに頼るべきことを教えているのである。

そこで聖書を自分の義のための道具としたい教会員は、聖書を絶対化したい衝動に駆られ、却って神を聖書の言葉に押し込めてしまい、神は聖書でないにも関わらず、その全能性を無視することになる。これはキリストに反対した当時のユダヤ教指導層の著しく誤った轍を踏むことになる。

また、この傾向は「聖書通読の奨励」にも表れている。本来、新教派は当時の旧教の聖書への無知と異教的慣行にプロテストしていたにも関わらず、聖書通読によって「聖書の中の巡礼」を作ってしまった。通読を何度行ったかで敬虔さを測るとすれば、それは教会員の蒙昧を促進し、教師の側の聖書への無理解が露呈するのを避ける便法になってしまう。

なぜなら、聖書理解は通読によっては甚だ不十分にしか得られないからである。聖書を知ろうと思えば、集中的に部分を研読し、次いで部分と部分とを比較し、歴史資料などを参考にしなければならない。しかも、聖書を読む個人の度量によっても得られるものは違ってくるのであり、聖書ばかりを読んでいる人には、人格的問題が避けられない。「聖書だけを読んでいれば良い」という発想は「異様な人間」を作るだけのことである。その人には人格というものが育たない。実際の人間というものに目を向けないからである。

 

・「聖書を読むと分からなくなる」という原因は、自己中心のアプローチで聖書に向かうからではないのだろうか。

やはり、神に祝福されるのが、この信者らの主要な崇拝目的となっている。それに関連して硬直的な「聖書主義」もよく見られる。聖書の絶対化が自分たちの正当化に直結しているのは、神との絆がほかになくなっていることの証しでもあるが、聖書そのもので理解できるところは字面を追えるところだけだが、それも「有難い言葉」を断片的に拾っては自分に向けられた言葉として喜んでいるばかりで、聖書を貫く神の意図全体への見通しはほとんど持っていない。

しかも、キリストの犠牲は既に自分たちに適用されており、神の是認を得ていて、ひどい場合には、聖徒にのみ語られた『世の基の置かれる以前から』などの言葉を自分に当てはめてしまい、自分は神に選ばれていて、信仰を持ったのも神の選びだとまで信じ込んでいる。これは信者以外の人々への裏切りとならないものか。まして、神の意志は『地のあらゆる家族が自らを祝福する』選民を召し出すことにあるのに、自分の救いばかりを願うという、おおよそキリストに自己犠牲の精神とは真逆の利己性を教会の教えによって培っていることになる。

 

・射幸心を煽られる

ほとんどの教会で、1Col12:3等を理由にして「信仰を持ったことそのものが神の聖霊によることで、その人は神に選ばれた」と教えられているが、この教理の帰結を教師は知っていてのことだろうか?

その句は、当時に実際に奇跡を行う聖霊が注がれていたエクレシアの環境で、悪霊の霊感を吟味する方法として述べられたものであるにも関わらず、霊感を持つでもない一般信者に適応してしまえば、「選ばれた自分」という高慢な選民意識を免れない。だが、本来の聖霊を注がれた『聖徒』は『新しい契約』によって激しい試練と迫害を通して練り清められ、そうして後にはじめて『天でキリストと共になる』光栄に浴するのであるから、イエスも『入ろうと努めながら入れない者は多い』と言われている。即ち『多く与えられた者にはより多くが求められる』のであるが、教会はメリットは語っても、『人類の祭司にして王』となるべき者のキリストの続く地上での殉教を果たして教えるだろうか。

教会が信者一般に、「あなたが信じたのは神の選びだ」というとき、その人は自分は周囲から一等高められた意識を誘っているのであり、それは射幸心を煽るという以外なく、「パリサイ人」を作っていることになる。それを信者獲得と囲い込みの一便法としているのであれば、本来のキリスト教とは逆の方向に信者を誤導していることにもなってしまう。キリスト・イエスが『実によって見分ける』ことを言われたのであれば、射幸心を煽られたときに喜んでいてよいわけもない。それは利己主義への罠であり、そこに落ち込んだ人はパリサイのように頑なになってゆく。

今日に於いては、聖霊が初期に注がれて以来、絶えて地上にどこにも無いにも関わらず、「クリスチャン」には、聖霊が人格を持って個人の中に有り、それと共にキリストがその人の中に住むという、やはり聖徒にのみ象徴的に語られた言葉を、心理的妄想として自分の中にキリストが住んでいると思い込むが、それによって現実から遊離した道徳的潔癖症と周囲の未信者への蔑視が避けられなくなっている。キリスト信仰にない人々は地獄に堕ちるものと決め付け、パリサイ派の轍を踏みながら、実に自分たちこそ神の憤りに曝されつつあることはまず警戒しない。

 

・ハーヴェスト

ダニエル書と黙示録から終末期の情勢がどう予告されているかを探る。

おおよそは覚醒運動の流れを汲んでいる。

障碍になっているのは、欧米のキリスト教の轍を踏んでいる、というよりは、そのまま移植されたものであるので、やはり「クリスチャン」という単一の信仰者としか見ていない。

そこで拯救が信者だけに独占されるところは、他の教会的キリスト教と変わるところはない。

ユダヤ教文化への嗜好があるようで、再臨のキリストについては・・

それから、キリスト教の目的とするところが何かについての説明は弱く、一般宗教の領域に留まっているらしい。

聖書理解に思考のほとんどが費やされ、それが内外に人々に意味するところが不明瞭で、そうではないと言いつつも、やはり知識を取り入れることが宗派の目的のように見える。

どこの教会でも教えられるように、信仰とは「神が自分を守り愛して導いていると個人的な信頼を寄せることである」という。また、科学によってより深く神を知ることができるとも。

 

・SDA

十戒の絶対化からして吟味されるべきだが、人類への命令として譲らない。「十戒だけは別格」として律法契約から取分けるように考える「クリスチャン」は多い。それがごく一般的道徳律を教えているように見えるからである。

だが、そこに安息日を含んでいるところで、問題が生じた。改宗したと主張するローマ皇帝により、それまでの初期キリスト教徒の多くが採用していた「日曜安息」が法制化されたところには確かに問題があった。なぜなら、それは当時キリスト教の天敵であったユダヤ教に対抗して始められた習慣であったからであり、パウロが教えるように、キリスト教としては安息日の規定の下にない。(ローマ14:5) むしろ、安息日が示す、生きることを神に頼り、生業によって聖なる物事をなおざりにしないという精紳は日毎に抱けるものであり、且つそうすることを休暇を何時とるのかという肉的で些末な事柄に落とさないでいられるのである。

労力の多くを割いて、それを安息日に捧げる姿は、ユダヤ教のラビたちの陥った悪習を批難しながら、わざわざその同じ道に入り込むことではないのか。

 

 

・総じて

まず、「救い」や「祝福」を望むというのは、元来『この世』が人間にとっての「敵性環境」であることの証しといえる。そのため、人は強く宗教に自己存在の保全や確保を求める姿勢は人類に広く見られ、それはキリスト教ばかりのものでもないが、その傾向は一神教に強く出ている。

キリスト教の場合に、自分の救いなり永遠の命なりが確定したと信じ込んだところから、人間の貪欲が促進されているように見える。他の信条や信者への蔑視もその一つとなっているが、より明解に強い欲となって顕在するのが支配欲である。

これは情況からしてサタンの精紳そのものである。というのも、人間には『罪』のために、その存在そのものが脅かされた状態に置かれ、その境遇は『罪の奴隷』であるのだが、これがキリストの犠牲が既に自分には適用されたと思い込み、もはや自分が裁きを通過すると確信さえしている状態では、罪の道に入る前の天使であったサタンと同様に神の是認や栄光を得た立場を妄想していることになり、その人に元から宿っているアダムからの『罪』への警戒心が解かれてしまい、その人の素のままの悪しき虚栄の欲望が引き出されるのである。

人が同じく『神の象り』である人の上に立ちたいと思うのであれば、機会あれば神に対しても同じ願望を懐き得るのであり、これこそが倫理の基礎を打ち崩す元凶ではないか。

したがって、こうした神の是認を信者に請合う「キリスト教」というものは、キリストの精紳から信者を引き離し、キリストの教えに関心を払う人々をも利己心に堕落させるサタンの影響力に加担していることになる。

それはボランティアなど社会貢献や伝道を行ってさえ、実は自己に関心が向いているという内面の真実を問わない姿勢にも巧妙ではないか。

もちろん、偉くなりたいという貪欲は、十二使徒らですら払拭し難かったのではあるが、キリストはこれを再三にわたり訓戒し続けているのである。それこそはアダムからの『罪』の現れの一つであるだけでなく、そもそもサタンが陥った罪の始めであった。

この悪しき貪欲の発端となるものは二つある。第一が人が人の上に立ち、支配したいと願う悪であり、もう一つは、人が誰かの下に入りたいと願うことであり、聖書はこの双方を非としている。

宗教の信者は、当然ながら何かの教えを受け入れることで、信仰の対象に帰依する。その場合、創世記は人は「神の象り」に創られたことを記すけれども、往々にして、宗派の創唱者なりは、信者を大衆化させて自分が仕切り、教えを守らせることで支配すること欲望の陥穽に堕ちる。神の象りを支配しようとすれば、それは神を足の下にすることではないか。

また、信者は教師に自分を委ねてしまえれば、判断を怠けることができ、それでも「天国」などのご利益は確保されていると思い込むし、そうしたい欲求に駆られる。生計を立てるのも楽ではないし、楽しみ事も多ければ、誰かに一切を任せてしまえればそれほど楽なことはない。日曜毎に礼拝に行くことで自分という存在が安泰で、幾らかの友誼も楽しめれば、キリスト教の「天国保険」もまったく掛け捨てでもない。

こうして、教師と信者の相互依存が築かれる。そのうえ、キリスト教の信者は教師を支えるには不足しがちであれば、事業として「教会」を成り立たせようと、信者の乱造につながり、相互依存の傾向が強まってゆく。

何が欠けているかと云えば、自分のご利益を傍らに置いて、神の意志を探ろうとする気概なのであろう。⇒漁師アンデレのように

しかし、これを大衆に求めるのは難しい。「福音化」を望めば二律背反になる。イヴリートが「端」を意味するように、この世と神とは本来妥協できないものである。その証拠に、使徒らが『この世』を敵対するものとして語るのが、『荒野』から語る固有の神と整合している。

教会とは、やはり「世のもの」、大衆に依存するべきものなのではないか。

 

                                 .

キリスト教宣教に盛られた毒

 

特にキリスト教の場合
信者になれば、救われる、天国行き、成功できる、楽園に行ける、イエス様が自分の中に住んでくれる
などを吹聴されるとすれば、それは本来のキリスト教とは言えない。
また、神の全能性も認めてもいない。

なぜなら、神が全能であるなら、諸苦で溢れるこの世から人類を残らず救えないはずがない。
そこで、神がそうしてはいない理由があるはずであるのだが、それが単に信仰を持たせるため、人生は試練のため、人を選別するため、等々理由付けする。
そうなると、神の意図するところや、その性格が規定されてくる。
それらの教えによって、「神は、人をより分けるので、人の方から神に対して上手くコンタクトをとり、宥めた者は好意を受ける」と言っていることにもなり、神は賂を受けるというに等しい。

そこで聖書に道徳律を探し出し、それらを守ろうとして人間の実態と異なる善人を演じることも誘発されてくる。
だが、それは常に神に取入ろうとする不自然な緊張感と、差別を人々の間にもたらすことになる。その端的な例が「パリサイ人の祈り」に集約される。他者との比較によってのみ神の前の立場を実感し、それでいて、実は人間は誰も神の前にキリストの犠牲を要する罪人であることから逃れようとする。
これはキリストの犠牲の価値を卑しめるものであるばかりか、キリストの示した自己犠牲の利他性の逆の精紳を植え付けることにもなっている。
これはキリスト教界、特に新教系の宗派の中に広く見られる独善性の原因であり、その由来は「聖書主義」という一種の偶像崇拝にある。

だが、聖書は人に「正しい生き方」を教えるものではないし、人生の指南書でも、道徳の本でもない。聖書とは、より根源的な人間の問題、人類の宿痾ともなっている倫理上の欠陥を指摘し、その隷属から解き放ち、創造されたままの『神の子』の栄光に回復させるという、神の偉大な目的と、その進捗を知らせる書なのである。

それを、神の目的は「人に崇拝させるため」、また「神の主権に服させるため」やら「天に召すため」などと神中心の都合を吹聴するのは明らかに間違っている。
神は人を地上に『その象りに創られた』のであり、恰も悪魔のように人を平伏させて喜ぶとすれば、それは神が自らを卑しめるに等しいことである。
この誤謬をもたらしているのは「聖徒理解」また『聖霊』が何であるのかを把握していないところにある。そこに宗教指導者らの権威獲得の願望も絡んでいるところが問題の根を深くしている。

 

更に程度が悪いのが、『神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び』などの句を根拠に、自分たち「クリスチャン」が信仰を持ったことそのものが神の業であって、生まれる前からの定めだというものまである。

さらには、自分に対する神の処遇がどうなるかは生まれる遥か前から決まっていることで、その運命を自分でどうすることもできないとまで決め付けているものもある。

これらの教え手は、それぞれ人にどう影響し、どのような神への観念を持たせてしまうかを考えるよりは、「聖書に書いてあるからそうなのだ」という意識に凝り固まっていたのであろう。つまりはズーゴートやパリサイ派のようなものである。

 

また、キリスト教界の謬見は「この世」というものをどう見るかも関わってくることになる。
この世界が、試練の場であるとすれば、この世には神の摂理が働いていることになり、起こる諸悪も究極的には神の為すところになってくる。
これは「神がいるなら、どうしてこれほどの悪や苦しみがあるか」という問いへの簡便な解答にされてしまう。
しかし、それでは神は優れた者を好むところの、差別主義者であると言っている。「キリストの助けを得て」などと言いつつ、ますます自分を善人に仕立てつつ、「神の是認は自己努力で獲得できる」と言っているではないか。


これはパリサイ派のような優越感と周囲への蔑視を造り出すための環境として「この世」が在ることになる。
この観方は、この世に諸苦が溢れることを積極的に捉えるようでいながら、実はこの世に潜む人間自身の害悪、つまり『罪』から目を背けさせている。

 この世とは、神の創造の意図から離れた人類が、背負い込んだ倫理上の欠陥によって自ら苦難を招き、その不倫理性に対処しながら何とか秩序を与えようともがいてきた「逸脱した世界」なのであり、そこですべてに神の意志も摂理もなく、ただ法則が支配している。

しかし、その中でも、神は創造の当初の企図を成就するべく、一定の介入をしてこられたが、その記録が聖書にまとめられている。
多くのキリスト教は、この点でも大きな誤解をしている。
自分たちが実は『罪人』であることを弁えず、神がまったくの善意の内に自分たちを置き、間違いなく是認するものと思い込み、またそう教えるのが「キリスト教」と言って良いほどである。聖書は、その善意を信者に与えるために書かれたとまで決め付けている。

だが、これは危険極まりない誤謬であり、聖書を熟知し、律法の規定を守ることに於いて揺らがぬほどの自信を持っていたユダヤ教徒によってメシアが殺害されたことは、その明らかな警告となっている。

それであれば、「クリスチャン」とは、神が人を裁くことは認めざるを得ないとしても、自分は許されると決め込んでいるのであり、その傲慢こそが神から最も離れた精神的場に自ら追いやっているのである。パリサイ人という端的な学習素材を、新約聖書に於いてあれほど与えられていながら、いったい何を読んでいるのだろうか。キリスト教界の信者諸氏、所謂「クリスチャン」と称する人々のこの点での変化はまず無理に見える。パリサイ派がそうであったように、ご利益を確定させるべく利己主義に於いて妥協する余地は極めて小さいほどに凝り固まっており、教えを受けるほどにその道を正義と信じて邁進するからである。

 心を静め、自らを省みるゆとりある人がいるのだろうか。

 

 

「教会の唱える救い」と原始キリスト教の「救済」

 <いくつかの側面が有って、どのような順番でどうまとめると読みやすいか>

「このような解釈を信じると、人はどのような影響を受けるか」

「それが神の意図やキリストの精紳と合致するのか」

「その解釈によって神はどのように描き出されるのか」

「自らの解釈の絶対性を唱えることで人間能力の限界を超えてしまう」

「絶対性は神だけが唱え得る」

「教師も信徒も神を代弁していると唱えれば責をすべて負うことになる」

「そうしたい動機はどこから来ているか」

「宗教が信仰に立脚するのであれば絶対はない」

「絶対がなければ人を究極的には裁けない」

「信仰上の真理とは常に相対的なものでなくては矛盾する」

「客観的事実は信仰を必要としない」

 

 

 

「この世」という人間の生まれ出る苦悩の世界への対処として

序説試

 


人は誰も自分から意図して生まれ出るわけではない。

しかも、生まれ出た「この世」という環境は降りかかる諸苦の苦悩と寿命の制約に縛られた場であり、古今東西の人々に空しさを嘆かせてきた。

人生を満足の内に閉じることのできた人は僅かであろうし、殆んどの人は望まず死を迎えることになる。

「この世」は様々な危険に満ちていて、生まれ出る人々をそう歓迎しているとは云えず、そう長くもない人生に問題を負わせてくるものである。

幾らかの幸福を見出せたにせよ、誰にも人生の終わりが、或いは突然に、或いはじわじわと迫って来るのはどうにも避けられない。

人はただでさえこうした空しさの中で生きているにも関わらず、わざわざ苦悩を付け加えてきた。即ち、社会悪であり、また対人関係の煩いである。

個人間の争いや軋轢から、組織内での確執や不当な扱い、そして格差や差別、また政治がもたらす失政や圧政の犠牲になることまで、総じて人との関わりとは実に難しい。それらが「人が他者とどう関わって生きてゆくのか」という「倫理」の問題である。

このように生きるに難しい環境である「この世」に人が生まれてはきたのであるが、そこで、この環境をどのように生きて、諸苦に対処できるのかについての導きを人々は古来切望してきたものである。

その「生き方」の一つの回答様式が「宗教」であったと云えよう。

これは便利なもので、「この世」に投げ出されたようになっている人々に、「倫理」という他者との関わり方を教え、または規定し、同時に「死」が人生にもたらす空虚さと恐れを軽減、さらには解決してくれるものともなってきたので、実に多くの人々がすがりつき、信心に励んでもきたであろう。

それだけでなく、「宗教」は人が「この世」に生まれ出た理由まで解説し、人が知りたいところの自分の存在する不思議や人生の意義までも教えてくれ、しかもその内容が自分たちの都合や願望に沿うものであれば、大衆社会にその「ありがたい宗教」も定着してきたのである。

(この点で、多神教はスピリチャルに近く、教理が浅いため、多神教同士の並立の融通性はあっても、人間存在への理解を深める教理は持ち合わせない。ただそれぞれの民間伝承の共通性は意外に高い)

 

それでも、「宗教」に問題がないわけでもなかった。様々な宗教の教えの内容もまた様々であり、共通するところと言えば、空しい人生と苦しみ満ちるこの世への対処法ではあるとしても、その具体的対処法は合致していないので、特に一神教の於けるその違いを巡って、どの教えが正しいのかと争いが避けられなかった。

その争いは、心の中で人々にとっての人生の全てと、死後の益まで関わる「最大利権」つまり「ご利益」の得失を左右する重大問題となってしまった。

そこで、宗教紛争は政治的な争い以上に苛烈なものとなってきた歴史を見ざるを得ない。

それは今では、その反省から宗教間対話などの緩和が見られにせよ、その精神環境と云えば、社会全体に占める人々の宗教的関心の低下という趨勢の上に成り立つものであり、依然として熱烈な信心が盛んな人々に於いては、強烈な正義感と共に他の宗教信条を排撃する姿勢に変わりない。それは様々な宗教の原理主義の活動に見られる通りであり、武器を執ることを厭わない「過激派」にその典型的な姿が見える。

だが、それは本来の「宗教」の働きの目指すところからは逸脱し失敗しており、むしろ、社会悪を付け加えて憚らない結果を刈り取っている。

だが、熱心に宗教を奉じ、そこから得られる「最大利権」を確実に求めようとするなら、他の教えの存在そのものを容認することは易しいことではない。

なぜなら、自分の信奉する教えが相対的なものとなってしまい、絶対確実な「ご利益」の獲得が薄らぐからである。

そこで、人が宗教を信奉する理由が見えてくる。

それ即ち、「我欲」なのである。

 

それにしても『この世』は人に薄情で、人生の終りが近付くにつれ、ほとんどに場合、人に豊かな収穫を与えない。「裸で来たように裸で返す」ばかりか、マイナスにして返すとも言える。

『この世』にどう対処するかという重大な問題は、人間各個人に生まれながら突き付けられた剣のようであり、怯えていない者はまず居ない。

 

 

 

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Hatena Blogに移行してみると、随分面倒になった

書き込みも編集も別のソフトで行わねばならないようだ

自分の場合、商売するでもなく画像を掲示する必要もなかった

どんなSNSを張り付けるでもないから、高機能である必要がなく

ブラウザがタイムラグを持たずに読み込める方がよい

幾分ローテクの方が便利という需要はないのだろうか

即、書き込めるところでDiaryがうってつけであったが

サーヴィス終了では致し方ない

「昔はよかった」と云うのは知恵がないとソロモンは書いたが

この場合は少々違うと思う。

しかし、まあ、世話になり続けるわけであるし

文句も云えぬ。

お、自動改行はそのままだ・・

しかし、なかなか良いデザインに出合えない 

 

 

G.H

 

ゲーハーとは謎解きのようではある

ユーフラテスの水が涸れる

黙示16:12-16 / 黙示9:13-

(蛙はゾロアスターでは邪神;Lohmeyer)
(Moffat;16:15⇒3:3a-b or before3:18)
(15[βλεπωσιν]不定の人々<受動態を好まないアラム語の影響か>)



Jer51:11・13 矢を研ぎ澄まし、盾を用意せよ。主はメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。これこそ主の復讐/主の神殿の復讐だ。13 多くの水のほとりに住み、多くの財宝を持つ者よ、あなたの終りが来て、その命の糸は断たれる。


Jer51:41-44 シェシャク#(バビロン)は占領された。全世界の賛美の的であったものが捕らえられた。バビロンは国々の間に恐怖の的となった。
混沌の海がバビロンに襲いかかり/バビロンは高波のとどろきに覆われた。
町々は廃虚となり/乾ききった地、荒れ地となる。そこは住む者のない土地となり/人の子ひとり通らぬ所となる。
わたしはバビロンでベルを罰し/彼が呑み込んだものを口から吐き出させる。国々が川の流れのように/そこに集まることはもはやない。バビロンの城壁は倒れた。
#( כ→ל ש→ב に文字順を入れ替える手法でバビルを隠語化していた)


Jer51:45-46 わが民よ、その中から出よ。おのおの自分の命を救え/主の激しい怒りを逃れて。
お前たちは心挫けてはならない。この地で耳にするうわさを恐れるな。一つのうわさがこの年に来れば、別のうわさが次の年に来る。この地に不法が行われ、支配者と支配者が争うなど、と。
それゆえ、見よ、その日が来れば/わたしはバビロンの偶像を罰する。全土はうろたえ/殺された者は皆、国のただ中に倒れる。


Jer51:48-49 天と地とそのうちにあるすべてのものは/バビロンの事で喜び歌う。滅ぼす者が北の方からここに来るからであると/主は言われる。
イスラエルの殺された者たちのために、バビロンは倒れなければならない、バビロンのために全地の殺された者は倒れたのだ。


Rev17:15 天使はまた、わたしに言った。「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である。


Ezk13:22-23 あなたがたは偽りをもって正しい者の心を悩ました。わたしはこれを悩まさなかった。またあなたがたは悪人が、その命を救うために、その悪しき道から離れようとする時、それをしないように勧める。
それゆえ、あなたがたは重ねてむなしい幻を見ることができず、占いをすることができないようになる。わたしはわが民を、あなたがたの手から救い出す。そのとき、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」。


Ezk 22:19 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちがみな金滓となったので、わたしはお前たちをエルサレムの真ん中に集める。
銀、銅、鉄、鉛、錫が炉の中に集められ、火を吹きつけて溶かされるように、わたしも怒りと憤りをもってお前たちを集め、火を吹きつけて溶かす。
わたしがお前たちを集め、わたしの怒りの火を吹きつけると、お前たちはその中で溶ける。
銀が炉の中で溶けるように、お前たちもその中で溶ける。そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」



Jer6:13-15 「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。
彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/わたしが彼らを罰するとき/彼らはつまずく」と主は言われる。


Jer14:13-15 わたしは言った。「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と。」
主はわたしに言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」
それゆえ、主は預言者についてこう言われる。「彼らはわたしの名によって預言しているが、わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。



Isa 44:25-28 偽る物のしるしをむなしくし、占う者を狂わせ、賢い者をうしろに退けて、その知識を愚かにする。
わたしは、わがしもべの言葉を遂げさせ、わが使の計りごとを成らせ、エルサレムについては、『これは民の住む所となる』と言い、ユダのもろもろの町については、『ふたたび建てられる、わたしはその荒れ跡を興そう』と言い、
また淵については、『かわけ、わたしは/あなたのもろもろの川を干す』と言い、
またクロスについては、『彼はわが牧者、わが目的をことごとくなし遂げる』と言い、エルサレムについては、『ふたたび建てられる』と言い、神殿については、『あなたの基がすえられる』と言う」。



2Pet2:1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。


Mt24:24-28 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
あなたがたには前もって言っておく。
だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」


2The2:9-12 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、
また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、
こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。


Deu13:1-3 あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。


2Chr18:10-11 ケナアナの子ゼデキヤは鉄の角を造って言った、「主はこう仰せられます、『あなたはこれらの角をもってスリヤびとを突いて滅ぼし尽しなさい』」。
預言者たちは皆そのように預言して言った、「ラモテ・ギレアデに上っていって勝利を得なさい。主はそれを王の手にわたされるでしょう」。


Ps75:8-9 主の手には杯があって、よく混ぜた酒があわだっている。主がこれを注ぎ出されると、地のすべての悪しき者は/これを一滴も残さずに飲みつくすであろう。
しかしわたしはとこしえに喜び、ヤコブの神をほめうたいます。


Mic4:11-12 いま多くの国民はあなたに逆らい、集まって言う、「どうかシオンが汚されるように、われわれの目がシオンを見てあざ笑うように」と。
しかし彼らは主の思いを知らず、またその計画を悟らない。すなわち主が麦束を打ち場に集めるように、彼らを集められることを悟らない。


Lev16:32-34 贖いの儀式は、聖別の油を注がれ、父の跡を継いで正規の祭司職に任じられた祭司が行うべきである。彼は聖別した亜麻布の衣服を着け、至聖所、臨在の幕屋および祭壇を清め、祭司たちと民の全会衆のために贖いの儀式を行う。
これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。モーセは主のお命じになったとおりに行った。


Joe 3:1-2 見よ、わたしがユダとエルサレムとの幸福をもとに返すその日、その時わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。彼らがわが民を諸国民のうちに散らして、わたしの地を分かち取ったからである。


Joe3:14-15 裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。
太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。


Mic4:11-14 今、多くの国々の民がお前に敵対して集まり/「シオンを汚し、この目で眺めよう」と/言っている。
だが、彼らは主の思いを知らず/その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように/打ち場に集められたことを。
娘シオンよ、立って、脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄とし/お前のひづめを銅として/多くの国々を打ち砕かせる。お前は不正に得た彼らの富を、主に/蓄えた富を、全世界の主にささげる。
今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。


                • -

Jer50:28 バビロンの国を逃れ/脱出した人々の声がする。彼らはシオンで我々の神、主の復讐を告げる/主の神殿の復讐を。


Jer51:11 矢を研ぎ澄まし、盾を用意せよ。主はメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。これこそ主の復讐/主の神殿の復讐だ。


Isa29:7-14 アリエル#を群がって攻撃する国はすべて/夢か夜の幻のようになる。彼女を攻撃し、取り囲み/苦しめる者はすべて。
「飢えた者が夢を見た。見よ、彼は食べていた。だが目覚めてみると、彼は空腹のままであった。渇いた者が夢を見た。見よ、彼は飲んでいた。だが、目覚めてみると、疲れ果てて渇いたままだ。」シオンの山に群がって戦いを挑んだ国は/すべてこのようになる。
ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない。
主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ/お前たちの目である預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。
それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。
字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。
主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」

#[אֲרִיאֵ֣ל]そのままなら「炉床」この名称はイザヤ書のみ<この名を手掛かりに何か単一の意味を見出すことには無理があるらしい。エルサレムの二面性から二つの意味でイザヤが用いていると捉えることができる>






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太陽・天の光

[天の光] ≒ [太陽]
黙示8:12 黙示16:8

[天の光]

Isa59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。(ユダの歩みについて)


Jer4:27-28 それは主がこう言われたからだ、「全地は荒れ地となる。しかしわたしはことごとくはこれを滅ぼさない。
このために地は悲しみ、上なる天は暗くなる。わたしがすでにこれを言い、これを定めたからだ。わたしは悔いない、またそれをする事をやめない」。(エルサレムが攻囲されることを予告するなかで)


ezk7:26-27 災に災が重なりきたり、知らせに知らせが相つぐ。その時、彼らは預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える。
王は悲しみ、司は望みを失い、その地の民の手は慄きによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らを扱い、その裁きに従って彼らを裁く。(ユダの悪行への処罰として)
cf;Hos9:7 刑罰の日は来た。報いの日は来た。イスラエルはこれを知る。預言者は愚かな者、霊に感じた人は狂った者だ。これはあなたがたの不義が多く、恨みが大きいためである。


Ams5:20-21 YHWHの日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。
(イスラエルの背教、荒野で「あなたがたの王シクテをにない、あなたがたが自分で作ったあなたがたの偶像、星の神、キウンをになった。」5:26)
このAmos5:26は要注意!これだけを調査対象にするべき含蓄あり


Mic3:6 それゆえ、あなたがたには夜があっても幻がなく、暗やみがあっても占いがない。太陽はその預言者たちに没し、昼も彼らの上に暗くなる。(ヤコブの頭たちに公義がない酬いとして)



Mrc13:22-25 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。


Lk21:24-26 彼らは剣の刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。
また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。(καιで関連付けられたこの区切りで読むと聖都蹂躙の意味によくよく見えるものがある⇒Rev11:2)


Mt24:29-31 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
(この場面の成就が短時間なためか、かなり要約されているのが分かる)

NWTのMt24:7日本語訳冒頭の「というのは」の訳は、同英文と比較してもかなり問題がある。本文中の接続詞[γαλ]は、前節を説明して挿入されているのではなく、諸国民が対立する仕方を説明するためのものである。




[鉢での太陽]

Isa3:1-6 見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。
勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老、五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。
わたしは若者(幼児)を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。
人は父の家で兄弟に取りすがって言う。「お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり/この破滅の始末をしてくれ」と。
(支配の崩壊の予告だが、これは未成就では?)


Isa25:4-7 あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、炎暑を避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。
砂漠のひでりのように#、あなたは他国人の騒ぎを押さえ、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。
万軍のYHWHはこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除く。これはYHWHが語られたことである。
#(この5節の新改訳の翻訳は不条理で、口語など他の翻訳なら日本語として意味を成すが・・)


Isa49:8-10 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。
捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。
彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。
彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(使いは聖徒か?)



■結論として黙示8:12 と 黙示16:8は天界の光という点では共通する意味がありそうながら、異なる状況を指している。
前の句で、三分の一の世界が指導を失うが、後の句では逆に強烈で横暴な支配が行われることを暗示している。
おそらくは、キリスト教界が指導を失っても社会秩序は維持されるが、世界的政府の統治(指導)の妥当性に根本的疑念が現れてしまう場合には、強制的に服従させるより方途が無くなることを指しているように思える。その意味に解するなら、双方に共通性は残る。








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川と水源


黙示8:10 黙示16:4


Isa48:18 わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。


Isa58:11 は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない#泉となる。(口語は「焼け付く地」を省く)#「偽らない」


Jer2:13 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。


Jer2:18 あなたがナイルの水を飲もうとして、エジプトへ行くのは何のためか。またユフラテの水を飲もうとして、アッスリヤへ行くのは何のためか。


Jer8:14 何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、が我々を黙らせ/毒の水を飲ませられる。我々がに罪を犯したからだ。


Jer9:15 それゆえ、イスラエルの神、万軍のは言われる。「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。


Jer17:13 イスラエルの希望であるよ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源であるを捨てたからだ。



Ams5:6-7 を求めよ、そして生きよ。さもないとは火のように/ヨセフの家に襲いかかり火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。
裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。


Ams5:23-4 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。
正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。


2Kng5:12 ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。


מְ קור[Mekol]源=井戸 [ベエル]とは異なる


Ps78:15-16 神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた。


Isa66:12 はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。⇒Isa48:18



מַֽיִם־חַיִּים֙ [MaimHyiim] 生きた水

Ezc 47 BhSev ⇒黙示22=Ymkpr

Zec 14:8

Jh4 シャカルの井戸


1Cor11:4 = Nmb20:11
モーセが自分に由来すると唱えるべきでなかった理由






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アウグスティヌスの神の国(支配)

神の国への見方
現実のキリスト教会とローマ帝国の二つの社会の中に『神の国』は現れて始めている。(天国は思想に無い)
例え国家というものが正義を欠いたものであってさえ、神の摂理によって社会の平和と秩序の維持が託されている。
教会も毒麦の混じった混合体であり、地上では『寄留者』に過ぎない。キリストの現れを以って教会の中に『神の国』は開始されている。
であるから、神の国家[civitas](支配)は、歴史の終りの終末になって、はじめて完成された姿を現す。
それはあらゆる存在や社会や国家が和合と調和に向けて秩序付けられる「万物の平和は、秩序の静謐である」神の国19:13「神の姿を永遠に観照するように導く、言語に絶した諧調#を備えた偉大なる詩のような世紀の流れの美しさ」手紙138 #グラデーションの語源を用いたらしい


・「神の国」第五巻(カール大帝が好んだ章句「君主の鏡」)
「わたしたちは彼らが正しく統治するならば、彼らを幸福であると呼ぼう。また、高ぶることなく、・・自分が人間に過ぎないことを覚えているならば、また神の崇拝を最大限に広めるために自己の才能を用い、神の尊厳に仕える僕とするならば、また、神を畏れ愛し崇拝するならば、・・・また、しばしば厳罰を下さざるを得ないときでも、それを寛大な憐れみと惜しみない善意とによって償うならば、また欲すれば勝手に放蕩にふけることができても、かえって一層厳しく抑制するならば、さらに如何なる民族よりも邪悪な欲望を支配しようと望み、このすべての空しい誉れの熱望のためではなく、永遠の幸福への愛のために行うならば、さらにまた、自己の罪のゆえに真の神に謙遜、懺悔、祈りという犠牲を怠りなく捧げるならば、わたしたちは彼らを幸福な者(福者?)と呼ぼう。このようなキリスト者の皇帝たちは、現在希望によって幸福であるが、わたしたちの待望するものが到来するとき、現実に幸福になる、とわたしたちは断言する」5:24
カール大帝ローマ皇帝の称号を受けたことは、彼の希望することではなかったが、教皇レオⅢの俗権の抱き込みはあったにせよ、ローマの民のローマ復活の憧憬あってのことであると。その後のローマはキリスト教帝国として甦り、神聖ローマ帝国は「神の国」の理念に基づいて形成されることになった)

アウグスティヌスプラトーンより以前にキケロ、特にホルテンシウスに大きな影響を受けている。「神の国」の中でキケロの記したスキピオの国家の定義を引用している。<同書4:4には国家形成の段階が仮定されている。この辺りは、キリスト教的というより、ほとんどラテン行政の文言が並んでおり、それにアウグスティヌスキリスト教の色合いを幾らか混ぜたくらいのものになっている>


・二つの愛
神への愛と自己への愛、この二つの愛があり、この対立によって「神の国」と「地の国」との対立が起っている。「それゆえ、二つの愛が二つの国を造ったのである。即ち、神を軽蔑する自己愛が地的な国を造り、自己を軽蔑する神への愛が天的な国を造ったのである」14:28この対立は「支配欲」と「相互愛」との違いとしても語られている。そこで国の性格は、その国民の愛によって決定される。『カインが初めて国を造った』と云われる場合、現実の国家は兄弟殺しの罪の産物で、同じことが(ロルムス・レムス)にも当てはまる。そこでそこに集う人々によってその国は二つの国に分けられる。
だから支配欲によって出来る国には本質的に正義が欠けている。犯罪に対する反動として、地上の国家さえも相対的正当性を持っているのだが、地上の平和が目指される限り、二つの国の間にはある調和が認められ、キリスト教国家の可能性は排除されていない。
プルデンティウスは、キリスト教を国教にしたテオドシウスを評価し、ローマが神の特別な恩寵を受けているという帝国神学を提唱した。
そして、アウグスティヌスも初期にはこの立場をとっていた。しかし、410年の出来事以来、歴史について熟考しはじめ、ついにはこの立場を批判するようになり、ローマ帝国神の摂理の道具ではなく、また悪魔的なものでもない、という中立的な立場をとるに至る。
以上のことから分かるように、アウグスティヌスは国家を神の国と地の国のどちらかに振り分けるのではなく、両者の混合とみなしている。
したがってアウグスティヌスにとっては、地上の教会もローマ帝国も、どちらも「神の国」と「地の国」の混合である。どちらも罪に向かう傾向性を持っており、同時にどちらも聖性の可能性を持っている。


ドナトゥス派への暴力鎮圧への使嗾「放浪修道者団」は反乱を煽動したので、アウグスティヌスは俗権の介入を要請した
バガイの司教ムクシミアヌスは、常軌を逸した過激な迫害を受けた。これに対してこのムクシミアヌスが帝国に介入を要請したが、アウグスティヌスも同意していた。
412年の「ドナトゥス派鎮圧法」を以って、教会の秩序は回復されたが、俗権介入を巡って教会批判が高まった。なぜなら、教会への俗権の介入を要請したことにより、その後は、俗権からの強制介入も許されたからであった。
アウグスティヌスとしては、『無理にでも連れて行け』というルカ14:23を根拠に、分離派を「愛の説得」で戻すことが不可能な場合には、「父が子に愛の鞭を加えるように、愛の心で強制措置がとられねばならない」と説いた。そこに「愛しなさい、そしてあなたの欲するところを行いなさい」の名言の姿勢があるとも
(だが、俗権の介入は既にコンスタンティヌス大帝によって始まっていた)
こうして、君主は教会の治安をも維持することが重要な課題とされてきたが、アウグスティヌスはそれを追認してしまい、以後の政権の介入が正当とされる根拠を与えてしまった。


■六時代説
神の人類救出計画の実現である救済史は、人祖アダムの子らに生じた神の国と地の国との対立から現実に展開し始め、創造の六日に当たる六時代を経て、神の七日目の安息に等しい歴史の終末に到達している。
1.アダムから大洪水
2.大洪水からアブラハム
3.アブラハムからダヴィ
4.ダヴィデからバビロン捕囚
5.捕囚からキリスト
6.現在進行中で世代数では測れない
(なぜなら「み父がご自分の権威によって定めた時期はあなたがたの知るところではない」による)


神の創造の業と歴史の経過とは、「永遠不変な神の計画」の内に初めから予定されていた。神の国12:15-18
六時代も「時間の秩序」として神の知恵の中に原初から存在していた。(ここで円環を巡るギリシア思想からの突破がみられると)



著書「神の国」"De Civitate Dei contra Paganos" 「その支配 異教徒に論駁して」
私見
つまるところ、ローマ帝国キリスト教を受け入れたことの正当性をくどくどと論証する目的で書かれた。
その由来からして、キリストが宣教の主題とした『神の王国』に焦点を合わせ、主に論じたのではなく、ローマがキリスト教を受け入れた時期に衰退を共にしていたことへの、異教徒への論駁を趣旨としているのであり、その中で『神の国(支配)』を包含しなければならなくなったの観が強い。
結果として、キリストの説いた『神の国』を俗権のものと融和させることが平和の静謐とされ、キリスト教を「この世のもの」とし、本来の聖書にある「この世」と対峙し、取って替わるべき意義と大変革に伴う聖徒らの犠牲を認識から削除し、こうして聖書理解を蒙昧に誤導する以後の土台を作っている。
キリスト教ローマ帝国の関係を論じるが、西ローマは以後一世紀を経ずに滅んでしまう。しかしなお、キリスト教は西欧に一式の秩序をもたらし得るほとんど唯一のものとなっていた。多神教は習合はできても、強力な統一性に欠けていた。そこでローマ司教座が西ローマ帝国玉座を継承することにより、アウグスティヌス的「神の支配」は引き続き西欧に具体化してしまった。この影響力はたいへんに大きいと言えよう。即ち、世俗権力と『淫行を犯した』キリスト教の『娼婦』としての醜態であり、その後は宗教改革を経ても、ほとんどの宗派がこのスタイルから出ていない。アウグスティヌスの以前からそうであったが、キリスト教界が地域のコミュニティの宗教を目指したところで、俗権との癒着は避けられなかった。一度、個人の宗教に解体することなど、とても不可能となっていたのであろう。
著書の中で、キリスト教が如何にローマの資質を向上させたかを強調しており、キリスト教が世俗支配のための道具となるべきことを肯定しており、その過程で聖書の『神の王国』理解が捻じ曲げられてしまった。『上位の権威』がこの世の秩序のための公僕とはなっても、それはやはり世のものであり、現世的には「神の国」とは対立するという概念をアウグスティヌスは持っておらず、関係し合う「キリスト教国家」を何とか正当化しようとする無理が冗長な論議をもたらしたように読める。彼は以前からの前千年期信奉を『神の国』の中では訂正している。それは必ずやコミュニティの宗教を目指す以外なく、ローマ帝国キリスト教化を推進しようとしたところで、キリスト教そのものを破壊せざるを得ない。彼はこの問題を終末に先送りして説明の曖昧さの中に回避している。明らかにこれがその後のヨーロッパ・キリスト教のスタイルとなった。国民皆信徒制はユダヤ教のものである。
彼の理念に、「メシアの王国」や、世俗の支配に取って代わるダニエルの啓示に見られるような神の国の像が出てこないのはそのためであろう。
曖昧にされた千年の『神の国』像は、以後容易に「心の中に存在する」ものとされる原因となっている。彼がエイレナイオスの異端反駁の第五巻の抄本の一部を意図的に破棄させたというのは、千年に関わる使徒伝承への挑戦ではないか。
それに加えて「言語に絶した諧調を備えた偉大なる詩のような世紀の流れの美しさ」などと修辞を尽くして将来のキリスト教国家の盛隆に希望託したようだが、現実は「詩的」などではなく汚濁と凄惨さの混じる歴史が刻まれ、以後の欧州史は「諧調」どころか凸凹に泥濘の悪路だった。この世とはそのようなものであり、キリスト教の感化など通用するものではない。アダムの子孫は神との対立関係にあるばかりではないか。この取澄まして無意味な美的感情はどこからきたのか。結局はラテン詩人とヘレニズム宗教の折衷人物ではないか。根底にはエジプトとカッパドキアからの「逸脱キリスト教」の流れがあるのだろう。



⇒ 西ローマ帝国末期の千年理解
quartodecimani.hatenablog.com




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アウグスティヌスの自由意志と原罪の把握

「自由意志」Ⅲで論じられたが
罪悪は「自由な意志決定によって犯した原罪から生じている」
アダムからの遺伝が強調されるのは「自然と恩恵」の中であり、ローマ5:12が根拠とされた。
神の国」では、「神は人間を従順の義務を完全に果たすならば、死は介入する事なく、天使の不死と永遠の至福とが与えられるようにと創ったのである」13:1
「人間は自分から進んで堕落し、その結果、正当に罰せられ、同じように堕落し、罰せられた子孫を生んだのである」13:14
死とは第一には、神への不服従によって霊魂(?)が神から離れることであり、第二には、霊魂が味わった「転倒した自己の自由の喜び」が引き金となって、次に肉体が霊魂から離反を生み、「もし服従に留まっていたなら、常に為しえたはずの肉の支配がまったく出来なくなった。その時から、霊に逆らう肉の貪りが始まった。このように自由意志の悪用から一連の禍が生じた」14:13-14
では、人間は罪のゆえに正しい善い者となる見込みは断たれたかといえば、信仰によって正しい者とされるという。
「神の義」とは、神が所有するものではなく、神が罪人に無償で賜る義、つまり愛である
「われらの心に注がれていると語られる神の愛とは、それによって神がわれらを愛する愛ではなく、むしろ、神がわれらをして神を愛する者と成し給う愛なのである。同様に神の義とは、それによってわれらが神の恩賞として義人とされているものであり、主の救いとは、それによってわれらを救われた者と成すものをいう」霊と文字32:56
だから、義認は義化で聖化をも含むと
それで、信仰も人間自身から出たものでなく、神の恩寵であるとも
(これはペラギウス論争による)
人は恩寵を注がれることにより、その助けによって、人の努力は善人へ、さらに聖人への生へと結実してゆく
「上昇の七段階」
Mt5の八つの幸い(真福八端)と関連付けて、魂の完成に至る七段階があり、八つ目で最初に戻るという。この七つは「キリストの教え」でも反復されている。





所見;パウロの実直さとは異次元で聖書をヘレニズムで焼き直している。それと論議が半哲学的で、ロマン性と理想主義に流れている。
原罪論では、以後のキリスト教界の基礎を据えたようだが、パウロを理解し、それに付け加えたというくらいか。
ただ、義認については、聖徒への義の仮承認の理解はない。そこで信者全体に神の義が獲得可能にされている。修道制への示唆あり
だが、人を『義』とするのが『信仰』であるとするのは、パウロの字面を追っていて本質からずれている。人に『義』をもたらすのは、キリストの獲得した『義』を原資とする『神の王国』による贖罪であり、その前段階として『聖徒』への『肉の幕屋』を去ることを条件とする「義認」がある。この点ではやはり『罪の酬いは死』と言える。それゆえ『聖徒』の霊への復活は『再創造』と呼ばれるのである。
それから、アダムに求められたのが「服従」であったとするところは、以降、キリスト教界の大部分が影響の内に留まってきたが、これは根本的に間違っている。求められたのは「ヘセド」であり、敢えて訳すなら「忠節な愛」になる。[従順の義務]というのはまったく的外れで、凡庸にも「倫理」を規則化してしまう陥穽に落ちている。これほどの思想家にしてはどうなのか。


アウグスティヌスの言うような「信仰」が人からのものであく恩寵であるとするところは、信者が強烈な選民意識を持つことを助長する危険は考えなかったか。もし、神が信仰を与えるというのであれば、救いは各個人に対する神の好き嫌いで決まることになり、本人に参画する余地がなくなり、信仰を持っていないその人が何のために創造されてそこに居るのか意味がないことにされる。これは極めて排他的で自己欺瞞的教えというほかない。神も不信者も眼中になく、ただ自分を有難がっている、パリサイ的で有害な教えでしかない。
それから、キリストを神と捉えるせいか、キリスト自身が到達した義の完全性への理解は無いようだ。これは三一を採る場合には不可能なのだろう。
義認をもたらす信仰そのものが、神に発するものであるというなら(これは相当問題がある)、神を不公平だと言っていることになり、キリスト教の伝播していなかった地方の人々を考慮の外においている、(ここに理知的な日本人への宣教の失敗の根がある)また、エデンの二本の木の選択と、神の不干渉に意味がなくなるが・・ペラギウスを論駁しているうちに別の極端に流されたか(論駁するうちにバランスを失うというのは、他にも例があったが、いますぐには思い出せない)

人が努力で善人から聖人への生へと結実してゆくのなら『神の王国』の贖罪の必要はどこに出て来るか?それで彼の「神の国」のヴィジョンがあれほど曖昧なのか。理解していないことはとことん弄り回してなんとか神秘性に持ち込んでしまう。そこで著作が猛烈に長くなっているのでは。だが、論理の構造そのものは平板で、人の思惑を超える領域を主体に扱うものではなさそうだ。

アウグスティヌスの思想の主題のようなものが何かと言えば、善良さを装った神秘主義のように見える。彼は神から是認されていると思い込んでおり、神が自分を救ったと勝手に感謝を始めている。神が義化したのだから、自分は聖なる立場にいるものと思い込んでいる。これは彼自身が、旧約からの『女の裔』また『アブラハムの裔』が何者であるのかを理解していなかったことを露呈するものとなっている。エイレナイオスの千年期を否定できた背景には、聖書全体に通底する奥義を知らなかったこと、また当時には、既に聖霊が地上から去っていたこともその思い違いから明らかである。

おおよそ、彼がキリスト教界の土台の理解を作ってしまったので、この膨大量の著作の山を前に、その本質的誤謬を突くほどの一個の知性はついに現れなかった。しかし、ルネサンス以後、ヘブライ語聖典理解が進むに従い、徐々にアウグスティヌス論議の瑕疵が言われ始め、宗教改革期にはこの壁を乗り越える者らも現れたが、主流派とはならず迫害によって退けられてきた。
アウグスティヌス自身、三一の理解に苦しんでおり、的確な論理を示せず冗長な文書によってごまかしている。後の人々も「玄義」ということにして、やはり神秘主義の霧の中に隠して人に説明をしないで来た。
こうした事柄を総合すると、第四、五世紀のこの一人の神秘主義者に、キリスト教界はあまりにも寄りかかり過ぎている。そのためフィードバックが行われず、修道の闇の中に言い含められてしまった。
人を称揚することで、キリスト教そのものを更に気高いものにしたつもりだろうが、そうすることそのものがキリスト教のものではない。多くの教会で指導者を崇めるところがあるのは、実は、聖書が理解できない裏返しであろう。理解できるなら、人の解釈を必要としないからである。
そこで正しいアプローチは、不明なものを不明なままにし、人の解釈によらず、聖典と史料と文化と歴史を語学に尋ね続ける以外ない。なぜなら、現在まで聖徒が絶えて人類には聖霊が無いからである。



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アウグスティヌスの倫理観

人物
354.11/13-430.8/23 ヒッポ・タガステ生 ヒッポで没
回心と息子と共の受洗は387年、その前年「とって読め」の童謡からRm13:13-14を読む
父は371年の死の直前に受洗
同年ベルベル人の母モニカがオスティアで逝去したのを機会にアフリカに移動しつつ修道生活に近付く
391年ヒッポの司祭に396年に司教に叙品され初めて聖職を得る
410年のゴート族によるローマ占拠に端を発するキリスト教災厄論に反駁すべく『神の国』を著した

基本的に15年にわたる同棲生活と肉欲奔放のため、その対極にキリスト教を見る土台が人生に作られていた
修道的生活の希求は、その裏返しのようであり、この肉欲の対極に聖を捉えている
従って、彼はキリスト教を高徳規律の方向から見ている
加えて、著作に長文が多く、執筆しながら論旨が変化するところもあり、それが研究者の多用な解釈を生む原因となっており
特に、エラスムスとルターに於ける自由意志の論争に影を落としている
また、カルヴァンの予定説の先駆もみられ、カトリックからプロテスタントまで多種多様な論議を生む不定性の原因を作った
明解なことは、ヘブライ文化への理解が希薄なことである、また修道以外ではカッパドキア派系統の東方的な要素も薄く
エジプト由来のキリスト教から西欧カトリック精神を練り上げた始祖と言える
文章からすると、かなりのロマンティストであり、夢幻的な境地からキリスト教を見ていて、その原型にはイデア論を感じさせる


国史
その『神の国』は絶対善的な愛の国であって地上のものは教会であってもそれに到達しない
しかし、地の国に在って教会は『神の国』を代表することで優位性を持っている
教会は地の国の倫理目的のためにある、地の国は卑しいが教会に従属して神の摂理に奉仕する


自由意志
自由意志を巡る論争ではペレギウス派と争っている
世界を神による永遠不易の秩序内にあるという予定説的な見方を持ちつつ自由意志は否定されないとされることもある
人は自由意志により物事を行っている
人の自由意志は罪によって破壊されてはいないが、傾けられたものであり、その回復に神の恩寵は必須である
但し、その自由意志論は恩寵先行であるか否かの観点からすると二通りに解釈されている
<人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく「神の」自由な選びと予定である>
人間性は「無知」と「無力」のゆえに自由意志によって救いに至ることができない>
<人間はその原罪のゆえに自由意志を制限されており、信仰なくしては救いに至ることができない>
以上三つの見解はそれぞれ私論であり、本人が明言していない
ルターは原罪を自由意志を阻害するものと解釈し、ほとんど自由意志の救済の否定に走っている

その著作を読む人々から多様な見解や解釈が聞かれるところで、彼が多弁であったゆえにも曖昧なところが多いことが歴然としている。

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「何であれ自分の望んでいるものを持たない人、あるいは、たとえ望んでいるものを持っていても、それが有害なものである場合、あるいはせっかく良いものを持ってはいてもそれを望んでいない人、これらは皆、等しく幸福とはいえない」カトリック教会の道徳3:4
「人が自分の最高の善を望むと共にそれを獲得している場合」これを「愛するものを所有し」「享受している」人が幸福な人である。「わたし(本人)が最大の努力を払って探求しなければならないと思うものは、魂をもっと完全なものにするもののみである」5:8
「魂を完全にするものが徳であることを疑うような人はひとりもいない」6:9
この世に於いて徳は「われらの意志に反して奪いとられてしまう」
「われらは神を追求するとき、善い生活を送る。更に、神を獲得したなら、善い生活だけでなく、幸福な生をも送る」6:10
「神を追求するとは、幸福を望むことである。神を見出すことは幸福そのものである」11:18
「神を見出すのは、神とまったく同じものになるのではなく、神の近いものとなることによってであり、また、ある特別な知性的方法によって神を把握しつつ、その真理と聖性によって、完全に照らされて、捕えられることによってである。神は光そのものであり、われらはその光に照らされことが許されている」11:18(「至福の生」という著作もある)
「誰も我らを殺すと脅迫して神から引き離すことはできない。事実、我らがそれによって神を愛しているものは、我らが神を愛している限り死に得ないものである。なぜなら、死とは神を愛さないことにはかならず、神を愛さないとは、神よりも他のものをより愛し追求することにほかならない。」11:19
「人間の最高善とは、それに寄りすがる人を完全に幸福にするものであり、そのような善はただ神のみであり、我らが神に寄りすがることができるのは、明らかに、ただ愛、愛、愛のみによってである」
cf;「ギリシアの四元徳」節制、剛毅、賢慮、正義 ギリシアで徳(アレテー)は人を導くものとして永らく考慮されてきていた
「神、即ち、最高の善、最高の叡智、最高調和に対する愛」「神を愛する人にとって万事が益となる」
1Cor1:24を援用して「(神の知恵は)「果てから果てまで力を及ぼし、すべてのものを慈悲深く計らい、節制と正義と徳とを教える」知恵の書8:9
「われらは途上にある。けれども、この道は場所としての道はなく、心の在り方の道である。この道を過去の罪の悪徳が、謂わば生い茂った垣のようにふさいでいた。われらがその道を歩いて帰ってゆけるようにと、自らその身を道に横たえることを望まれた方に優って、寛大で憐れみに富んだ方がほかにいるだろうか。それは、すべての罪から回心したものを許し、われらの代りに十字架につけられることによって、われらの帰途を遮るものを取り除くためにほかならなかった」キリスト教の教え1:17.16 (ここにはフィロン的な知恵神学が見られると)

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所見;まず「魂を完全にする」とい発想はヘブライ的ではない。フィロンにせよ、ヘレニズムの影響を受けてのことである。ペテロの書簡に『信仰に徳を、徳に知識を』とはあるが、「徳」がキリスト教の主要な概念とはとても言えない。
なにより、このように平板な「徳」を倫理の基礎に据えるというのは、無神論の結果と共通してしまうように思える。
つまり、何が「善」か?と追及してゆくと、それが「人の益になるから」という「自己への身返り」という「徳」にどうしても吸収されてしまうのである。(この点で言えば、ギリシア文化、哲学はもちろん神話ですら「無神論的」であると思う)
そこには、「忠節な愛」という発想が生じない。なぜなら、「神」というものを、完全なものと思い込みが過ぎて、自分が『神の象り』であることは思考の範囲から消えてしまうからである。
常に、完全な神と思念するとき、その静的な完全性は、神を偶像化してしまい、人格を有し、人との関係性を問うような「生ける存在」ではなくしてしまう。
そのようにして、倫理観が神と人との双方向性を失い、ただ人がどうあるべきか、どう生きるべきかに偏ってしまう。つまり、神を人を高めるための道具とする。
これは大きな欠落ではないか。(Apヨハネが警告する偶像とはそこまで幅広い意味か)
まだ、調査していないけれども、おそらく彼は「二本の木」についても「生き方」の観点から見ているのだろうと思える。それにしても、人が「神を捉える」や「神に寄りすがる」「神を見出す」というのはどうなのか?聖徒の意義を万人のものと取り違えているうえに、神との関係性がご利益になっていないか。やはりなっている。「魂を高める」のだそうだ。本当に、エラスムスでさえその前にたじろぐとされるほどの思想家なのだろうか。(ラテン文は恐ろしいまでに美しいそうだが)
倫理を「生き方」と言い換えるのは当たっているとも外れているとも言える。それをただ益のための自分の道と見做すのか、「認識個」相互の関係性でみるのかで異なってくる。後者は特に神をも能動的選択の主体者として含めることになり、それは双方向性の関係を持つことになる。その場合、神は無表情な絶対性に塗り込まれることはない。(難しい言い回しで言いたくもないが、最も稚拙な表現がやはり楽なので)

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やはり、彼は「人間の生得的能力ではなく、神との関わりにおいて神ににた者である」とはしているが、「神が光であるように、神の光を受けて、人間も光の子となることが大切である。これをアナロギアと呼ぶ。しかし、人は神とまったく同じではなく、類似が大きくなればなるほど、非類似も大きく現れる」としている。
忠節という倫理の観点は欠けて、平板な神秘主義に終わっているようだ。
それにしても、著作が多過ぎるくらいで(やはり多過ぎ)、それぞれの年代でいくらかずつ思想が変化しているところが学びにくい。


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エゼキエル40章以降

イスラエルの地ではあっても、シオンともモリヤともしない『非常に高い山の上に』(「非常に高い」)

『エゼキエルが降ろされたのが北側であったためか、『その南側に街のように建設された物があった』としている。この「南側」とは「向かいに」の意かも知れない。であるから、エゼキエルの着地点は、更に北であった。

この40章以降の幻の内容は『あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ』と同伴の『姿が青銅のように輝いている一人の人』に命じられる。
これは、捕囚の民への慰めと解されてきたが、この書に明言は無い。

神殿は、詳細な寸法がここに示されているので、幾らか(祭司の食堂の一部)を除いて、ほぼ全部の再現が可能なほど数値に矛盾が見られないほど具体的である。

その崇拝形態は、まったく律法に属するものであり、異なるところは神殿が存在していない新たなものであること、ザドク系祭司を任命するというソロモン以降の定式であること

外壁の長さが1500mほども有って、現状のモリヤの丘陵からははみ出すこと
それでも実際の建設が不可能ではないこと

「長」また「君」と呼ばれる者の存在

東に開かずの門があるとされるが、これが解釈によって分かれる

神殿からの水の流れについては分かり難いものではないが、ここに善悪の交錯がある

この神殿はエゼキエルが見ている時点では、無人で機能前である
アアロン ハブリート、またウリム ヴェ トンミムへの言及が無い Jer3:16

割当地の記載でダン族が明記され、それも第一に言及されている(!)

シメオン族の明記がある

北限がダマスカスを遥かに超えてハマトの入り口にまで及んでいる

同じくユダとベニヤミンの相続地の位置が逆になっている
(「地境を移してはならない」)

相続地の割り当ては歴史上のものと異なる

『街』の門についてはレヴィ族が含まれ、エフライムとマナセが『ヨセフ』の門に統一されている
(「十二部族の名が有る」)

ダンの門が東に位置して優遇されている

それから「長」と「レヴィ」の相続地は律法や史実からはまったく乖離したものになっている



キリスト教関連の人々からは、おおよそ二種類の見方がある。
一つには、これがキリストを大祭司とする象徴のものであるとするもの
一つには、実際にイスラエルに建築される預言であるというもの
<「長」とは再臨のキリストである、または反キリストとも>


ユダヤ教では
ベン ザッカイらはここに夢を見ていたのでは?おそらくはアキバも
現状では神殿什器類は再現されている(但し、解放時5400を数えたという金銀の什器に相当するほど、また祭祀を継続するに足るほど整備されているかは分からない)
ユダヤ教側が神殿再建に至らない理由は、建築者がメシアでなければならず、現状では至聖所の跡地を足で踏んでしまわないために入域せず、イスラームがモスクに向かうために入域しているが、ユダヤ教側は検問を設け当然これを喜んではいない。


イスラームでは
イーサーの先駆者であるマフディがエルサレムのドームに住まうことになるとハディースに記される。(ドームというこの預言に従う場合、エゼキエル神殿の建設は難しいことになる)




だが、四十章以降の文面を読むと、幾つかの謎がある。綿密に読むと「異様」なところが散見される。
そこで上記の二種類とは異なる理解の道がほんの僅かに小さく口を空けている。それは非常に分かり難く、且つ呪いと祝福とが交錯するように述べられていると読めるので、これは余程に慎重でないと、また前提条件を付けずに考慮しないとまず見出せない。

もし、それが正しければ・・これまでの解釈と根本から異なることになる。<信仰者とは概して自分に甘過ぎる。苦行者でさえ自分に関心が向いていないか>
これは深い倫理に関わるものとなるだけでなく、時限解釈の新たな領域に踏み込むことになる。

上記の律法と異なる幾つかの点、それから相続地の異なりと、無人であったこと、またこの13年以前の『第12年第12月の1日』の啓示により骨の谷とマゴグの地のゴグによる一連の滅びの預言が先行しているが、その順序で見るとこの神殿に有る種のニュアンスが加わる。
『神を畏れるは知恵のはじめ也』とはこうしたことなのかも知れない。

ダニエルの幻に匹敵するほどの黙示であり、ネイヴィームの全体に意味深い啓示が散らされている様がますます浮彫になる。ヨハネ黙示録はその司会者のように見えるほどに、旧約が余程に雄弁であることになる。これは漸進的啓示ではなく、既に精密に仕上がった素材が聖書中に散らされているというべきか。
おおよそは把握できたが、これはどう扱うか?余りにも倫理に関わっている。


その都市 - Notae ad Quartodecimani






<本日の未明に>



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Hilarius Pictaviae

ピクタヴィウムのヒラリウス ⇒ 前記事
c.310 – c.367 B&D Pictavium

ニケアーの裁定を支持したため、「西方のアタナシウス」とも
315年にピクタヴィウムの富裕な家に生まれ、ラテン文化人として教育される
しかし「神によってわれわれに与えられた理解に相応しい生活」を追求したいと望み聖書を読み始めた。
<との事だが、実際はポワティエ市民のキリスト教徒らに推されて新プラトン主義からキリスト教に転向したとのこと>

出埃3:14の「我は有りて有る者なり」に「神の本性の神秘」を感じ、まもなく洗礼を受け、教会に迎えられた。

30歳代の半ばで、ピクタヴィウムの司教が没したが、その時に歓呼礼によって彼が司教に迎えられた。<ローマ帝政に発する歓呼礼は当時の教会でも習慣化していたので、ヒッポのアウグスティヌスなどは空位の教区には赴かないよう用心していた→アンブロジウス>

コンスタンティヌス大帝は337に崩御しており、それでなくとも三一派は迫害を受けていた。
彼はニカイアの裁定を支持したためにコンスタンティウス帝からフリュギアに追放されて、四年間ピクタヴィウムに戻れなかった。⇒聖アブラ

しかし、その追放の間に長々しい「三位一体」を著したが、それ以前の識者らの論議に通じ、且つ新たな世代の議論を再構成し「逞しい想像力を示している」
この著は神学的専門書であるが、冒頭に自身の回心の次第が記され、第一巻への議論への導入とされている。

彼は再三に「我は有りて有る者なり」を引用し、読者をこの一節に注目させることを意図している。
神を知り、神を探求する中で、神が常に「我々の思考の先に居る」ことを見出すとしている。それは「存在するという方の本性」は「実在する」ということだからである。もし何かが存在するのなら、思考であろうと言葉であろうと、それを否定することはできないからである。(PS139:8)
しかし、神の前に立つ唯一の方法は、謙った賛美に於いてである。神に関することを議論するのであれば、我々は従順を学び、敬虔さと敬意をもって神に仕えねばならない。我々の探求対象へ自らを差し出すことによって求める神を知ることができるようになる。「神は献身に於いてのみ知られ得る」

『我々が受けたのは世の霊ではなく、神からの霊である』1Cor2:12からヒラリウスは『受容』という言葉を強調した。誰もが神を理解する能力を有するが、「認識の贈り物」がその人のものとなるのは、霊の贈り物を(信仰に於いて)受け取ったときに初めてそうなる。
ヒラリウスの理解で、この「受容」とは、個人的経験のことであるとするが、それは教会の信条、洗礼式のときの式文、また福音書からの言葉Mt28:19-20が朗読されること、聖餐なのである。
ヒラリウスが意図するのは、神について考えることは聖書の中で与えられた言語、教会の実践によって形成されてきた確信(父と子と聖霊の名による洗礼)と共に始まるということである。

彼は「神と共に神が最初に居た」という謎めいた言葉の背後にキリスト教的思考を貫く真理が横たわっている。三位一体の神認識は、キリストが身体と共に到来したことの内に基礎づけられており、古代教会がオイコノミアと呼んだものであるが、これを神の秩序ある自己開示、創造まで遡ってキリストに於いて頂点に至るものを意味するとした。ひとつの神は創造されたものを通して知られるが、父と子と聖霊として知るのはオイコノミアを通してであり、神の神秘を知るのはキリストの身体を通してである としている。

ヒラリウスは、初期のキリスト教徒がシェマを毎朝朗誦していたことを認めるが、そこで使徒トマスの『我が主、我が神』の言葉を発して後、イエスが『わたしと父とはひとつである』の意味を悟ったとしている。イエスが復活することで、使徒らは神について違った風に考えさせるようにしたとも言う。復活に照らしてトマスが「信仰の神秘全体を理解するようになった」と言う。
そうして復活の後も彼らはシェマを唱えることができたが、「ひとつの神への献身を放棄することなく」キリストを神として告白することができるようになったとも言う。神はひとつではあるが、「孤独ではない」
ヒラリウスは「言葉は神であった」に依拠してキリストの神性を主張もしたが、特にオイコノミアに於いて彼の独自性がある。つまり、復活を通してキリストの神性を擁護したことにある。復活とは神だけが行い得るものであるという論拠からであった。<しかし、彼はキリストが自身で復活したとは述べていない>


Memo from
Robert Louis Wilken "The Spirit of Early Christian Thought"
2003 Yale Univ



所見;三位一体の主張に付き物の「在りて在る者」の援用の源はここにあった。よくもそこまで捏ね繰り回せるものだと思う。
この時期(四世紀)には、キリスト教はすっかりヘブライ文化を離れ、聖句を神秘にまで深めようとする始まりを見るかのようで、これならば哲学化は避けられないと思える。この時代ユダヤ教はアモライームの時代で、ゲマラからタルムード編纂に向かっていた。その状況で、キリスト教はヨーロッパの思想に沿って再構成されてゆき、純粋性を失い、異なるものへと変質を遂げつつ在った。
彼の場合には、先にラテン文化的な思考法が据えられたところに『有りて有る者』の句がその文化の室内で反響したのであろう。それはヘブライ的な把握とは言い難い。それが彼をして三一擁護の原動力であったことが見える。彼自身が第三世紀から流行し始めていた新プラトン主義の哲学者であり、その方向からキリスト教を見る傾向は強く、ヘブライの伝統文化から聖書を見るよりは、黙示的な言葉の綾を宗教的になっていたヘレニズムの観点で謎解きをするようなところがあり、キリストの宣教の主題である『神の王国』また、アブラハムへの約束の要素が抜け落ちているように見える。これでは、神の様態を追求はしても、人間への神の意志の方はなおざりにされる。信仰と認識、奇跡と哲学の差が見えていない。この時代には当然ながら奇跡の聖霊への理解なく、ただスピリチャルな聖人伝説が民間伝承的に行われるだけであったことに異論の余地はない。
また、オイコノミアの捉え方はエフェソス書やコロサイ書のようではなく、キリスト個人の身体について集中し、聖徒との関連が失われているように見える。
それから、聖書を神聖視し過ぎていて、その言葉の一つ一つに神秘的なまでに深い洞察が引き出せるほどの意味ある啓示がそれぞれに込められていると捉えているが、その辺りがヘレニズム神秘主義へと向かう入口にしてしまっている。ユダヤでもカバラという異様な逸脱を起こしているが、根は同じようである。この捏ね繰り回しが不当であることは、パウロが明かす奥義から脱線してゆくところに明らかに窺える。
しかし、三一を主張する動機や目的は何であったのか。パスカや律法祭祀に見えるキリストの『神の子羊』としての役割への言及が見当たらないし、この件を教会関係者に話して深く感動されたりするのも、三一を唱えている間に、メシアの重要な役割の理解が捨てられた様を確認するようなことになったからではないか。
そこで、三一派が目指したものとは何であったのか?ただ、それが「正しいから」と言うとしても、メシアの意義を見失うほどに益ある「何か」が有ったのだろうか?それが本当に正しいことなのか?
神秘論に耽溺し、神が三位かどうかと言い争っている内に当時のキリスト教界に欠けたのは『聖なる国民、王なる祭司』つまりエレミヤの予告した新約による『神の王国』ではないか?結果として三一がもたらしたのは、この新旧の契約に一貫する人類救済の手段の喪失ではないか。何という「正しさ」!
キリスト教が欧州化しながら失ったのは、旧約から一貫して受け継ぐべきメシアの王国であったというべきか。
アウグスティヌスが冗長な「神の国」を著したのも、それがキリストの宣教の中心的主題であるにも関わらず、キリスト教の担い手を自認する自分たちが、確固たる『神の王国』の見識を持たなかったところに、ローマ帝国への愛着から、ユダヤのメシア王国を二つの国家論に入れ替えることを試みたということではないのだろうか。アウグスティヌスについては、あの神秘主義と長い祈りによってキリスト教に厚い霧がかかってしまったかのようで、いよいよ宗教的になっては行ったが、絶えることのない長文で、キリスト教にただのアニミズムを行うよう呪文をかけてしまったかのようでもある。




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