Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

アウグスティヌスの神の国(支配)

神の国への見方
現実のキリスト教会とローマ帝国の二つの社会の中に『神の国』は現れて始めている。(天国は思想に無い)
例え国家というものが正義を欠いたものであってさえ、神の摂理によって社会の平和と秩序の維持が託されている。
教会も毒麦の混じった混合体であり、地上では『寄留者』に過ぎない。キリストの現れを以って教会の中に『神の国』は開始されている。
であるから、神の国家[civitas](支配)は、歴史の終りの終末になって、はじめて完成された姿を現す。
それはあらゆる存在や社会や国家が和合と調和に向けて秩序付けられる「万物の平和は、秩序の静謐である」神の国19:13「神の姿を永遠に観照するように導く、言語に絶した諧調#を備えた偉大なる詩のような世紀の流れの美しさ」手紙138 #グラデーションの語源を用いたらしい


・「神の国」第五巻(カール大帝が好んだ章句「君主の鏡」)
「わたしたちは彼らが正しく統治するならば、彼らを幸福であると呼ぼう。また、高ぶることなく、・・自分が人間に過ぎないことを覚えているならば、また神の崇拝を最大限に広めるために自己の才能を用い、神の尊厳に仕える僕とするならば、また、神を畏れ愛し崇拝するならば、・・・また、しばしば厳罰を下さざるを得ないときでも、それを寛大な憐れみと惜しみない善意とによって償うならば、また欲すれば勝手に放蕩にふけることができても、かえって一層厳しく抑制するならば、さらに如何なる民族よりも邪悪な欲望を支配しようと望み、このすべての空しい誉れの熱望のためではなく、永遠の幸福への愛のために行うならば、さらにまた、自己の罪のゆえに真の神に謙遜、懺悔、祈りという犠牲を怠りなく捧げるならば、わたしたちは彼らを幸福な者(福者?)と呼ぼう。このようなキリスト者の皇帝たちは、現在希望によって幸福であるが、わたしたちの待望するものが到来するとき、現実に幸福になる、とわたしたちは断言する」5:24
カール大帝ローマ皇帝の称号を受けたことは、彼の希望することではなかったが、教皇レオⅢの俗権の抱き込みはあったにせよ、ローマの民のローマ復活の憧憬あってのことであると。その後のローマはキリスト教帝国として甦り、神聖ローマ帝国は「神の国」の理念に基づいて形成されることになった)

アウグスティヌスプラトーンより以前にキケロ、特にホルテンシウスに大きな影響を受けている。「神の国」の中でキケロの記したスキピオの国家の定義を引用している。<同書4:4には国家形成の段階が仮定されている。この辺りは、キリスト教的というより、ほとんどラテン行政の文言が並んでおり、それにアウグスティヌスキリスト教の色合いを幾らか混ぜたくらいのものになっている>


・二つの愛
神への愛と自己への愛、この二つの愛があり、この対立によって「神の国」と「地の国」との対立が起っている。「それゆえ、二つの愛が二つの国を造ったのである。即ち、神を軽蔑する自己愛が地的な国を造り、自己を軽蔑する神への愛が天的な国を造ったのである」14:28この対立は「支配欲」と「相互愛」との違いとしても語られている。そこで国の性格は、その国民の愛によって決定される。『カインが初めて国を造った』と云われる場合、現実の国家は兄弟殺しの罪の産物で、同じことが(ロルムス・レムス)にも当てはまる。そこでそこに集う人々によってその国は二つの国に分けられる。
だから支配欲によって出来る国には本質的に正義が欠けている。犯罪に対する反動として、地上の国家さえも相対的正当性を持っているのだが、地上の平和が目指される限り、二つの国の間にはある調和が認められ、キリスト教国家の可能性は排除されていない。
プルデンティウスは、キリスト教を国教にしたテオドシウスを評価し、ローマが神の特別な恩寵を受けているという帝国神学を提唱した。
そして、アウグスティヌスも初期にはこの立場をとっていた。しかし、410年の出来事以来、歴史について熟考しはじめ、ついにはこの立場を批判するようになり、ローマ帝国神の摂理の道具ではなく、また悪魔的なものでもない、という中立的な立場をとるに至る。
以上のことから分かるように、アウグスティヌスは国家を神の国と地の国のどちらかに振り分けるのではなく、両者の混合とみなしている。
したがってアウグスティヌスにとっては、地上の教会もローマ帝国も、どちらも「神の国」と「地の国」の混合である。どちらも罪に向かう傾向性を持っており、同時にどちらも聖性の可能性を持っている。


ドナトゥス派への暴力鎮圧への使嗾「放浪修道者団」は反乱を煽動したので、アウグスティヌスは俗権の介入を要請した
バガイの司教ムクシミアヌスは、常軌を逸した過激な迫害を受けた。これに対してこのムクシミアヌスが帝国に介入を要請したが、アウグスティヌスも同意していた。
412年の「ドナトゥス派鎮圧法」を以って、教会の秩序は回復されたが、俗権介入を巡って教会批判が高まった。なぜなら、教会への俗権の介入を要請したことにより、その後は、俗権からの強制介入も許されたからであった。
アウグスティヌスとしては、『無理にでも連れて行け』というルカ14:23を根拠に、分離派を「愛の説得」で戻すことが不可能な場合には、「父が子に愛の鞭を加えるように、愛の心で強制措置がとられねばならない」と説いた。そこに「愛しなさい、そしてあなたの欲するところを行いなさい」の名言の姿勢があるとも
(だが、俗権の介入は既にコンスタンティヌス大帝によって始まっていた)
こうして、君主は教会の治安をも維持することが重要な課題とされてきたが、アウグスティヌスはそれを追認してしまい、以後の政権の介入が正当とされる根拠を与えてしまった。


■六時代説
神の人類救出計画の実現である救済史は、人祖アダムの子らに生じた神の国と地の国との対立から現実に展開し始め、創造の六日に当たる六時代を経て、神の七日目の安息に等しい歴史の終末に到達している。
1.アダムから大洪水
2.大洪水からアブラハム
3.アブラハムからダヴィ
4.ダヴィデからバビロン捕囚
5.捕囚からキリスト
6.現在進行中で世代数では測れない
(なぜなら「み父がご自分の権威によって定めた時期はあなたがたの知るところではない」による)


神の創造の業と歴史の経過とは、「永遠不変な神の計画」の内に初めから予定されていた。神の国12:15-18
六時代も「時間の秩序」として神の知恵の中に原初から存在していた。(ここで円環を巡るギリシア思想からの突破がみられると)



著書「神の国」"De Civitate Dei contra Paganos" 「その支配 異教徒に論駁して」
私見
つまるところ、ローマ帝国キリスト教を受け入れたことの正当性をくどくどと論証する目的で書かれた。
その由来からして、キリストが宣教の主題とした『神の王国』に焦点を合わせ、主に論じたのではなく、ローマがキリスト教を受け入れた時期に衰退を共にしていたことへの、異教徒への論駁を趣旨としているのであり、その中で『神の国(支配)』を包含しなければならなくなったの観が強い。
結果として、キリストの説いた『神の国』を俗権のものと融和させることが平和の静謐とされ、キリスト教を「この世のもの」とし、本来の聖書にある「この世」と対峙し、取って替わるべき意義と大変革に伴う聖徒らの犠牲を認識から削除し、こうして聖書理解を蒙昧に誤導する以後の土台を作っている。
キリスト教ローマ帝国の関係を論じるが、西ローマは以後一世紀を経ずに滅んでしまう。しかしなお、キリスト教は西欧に一式の秩序をもたらし得るほとんど唯一のものとなっていた。多神教は習合はできても、強力な統一性に欠けていた。そこでローマ司教座が西ローマ帝国玉座を継承することにより、アウグスティヌス的「神の支配」は引き続き西欧に具体化してしまった。この影響力はたいへんに大きいと言えよう。即ち、世俗権力と『淫行を犯した』キリスト教の『娼婦』としての醜態であり、その後は宗教改革を経ても、ほとんどの宗派がこのスタイルから出ていない。アウグスティヌスの以前からそうであったが、キリスト教界が地域のコミュニティの宗教を目指したところで、俗権との癒着は避けられなかった。一度、個人の宗教に解体することなど、とても不可能となっていたのであろう。
著書の中で、キリスト教が如何にローマの資質を向上させたかを強調しており、キリスト教が世俗支配のための道具となるべきことを肯定しており、その過程で聖書の『神の王国』理解が捻じ曲げられてしまった。『上位の権威』がこの世の秩序のための公僕とはなっても、それはやはり世のものであり、現世的には「神の国」とは対立するという概念をアウグスティヌスは持っておらず、関係し合う「キリスト教国家」を何とか正当化しようとする無理が冗長な論議をもたらしたように読める。彼は以前からの前千年期信奉を『神の国』の中では訂正している。それは必ずやコミュニティの宗教を目指す以外なく、ローマ帝国キリスト教化を推進しようとしたところで、キリスト教そのものを破壊せざるを得ない。彼はこの問題を終末に先送りして説明の曖昧さの中に回避している。明らかにこれがその後のヨーロッパ・キリスト教のスタイルとなった。国民皆信徒制はユダヤ教のものである。
彼の理念に、「メシアの王国」や、世俗の支配に取って代わるダニエルの啓示に見られるような神の国の像が出てこないのはそのためであろう。
曖昧にされた千年の『神の国』像は、以後容易に「心の中に存在する」ものとされる原因となっている。彼がエイレナイオスの異端反駁の第五巻の抄本の一部を意図的に破棄させたというのは、千年に関わる使徒伝承への挑戦ではないか。
それに加えて「言語に絶した諧調を備えた偉大なる詩のような世紀の流れの美しさ」などと修辞を尽くして将来のキリスト教国家の盛隆に希望託したようだが、現実は「詩的」などではなく汚濁と凄惨さの混じる歴史が刻まれ、以後の欧州史は「諧調」どころか凸凹に泥濘の悪路だった。この世とはそのようなものであり、キリスト教の感化など通用するものではない。アダムの子孫は神との対立関係にあるばかりではないか。この取澄まして無意味な美的感情はどこからきたのか。結局はラテン詩人とヘレニズム宗教の折衷人物ではないか。根底にはエジプトとカッパドキアからの「逸脱キリスト教」の流れがあるのだろう。



⇒ 西ローマ帝国末期の千年理解
quartodecimani.hatenablog.com




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アウグスティヌスの自由意志と原罪の把握

「自由意志」Ⅲで論じられたが
罪悪は「自由な意志決定によって犯した原罪から生じている」
アダムからの遺伝が強調されるのは「自然と恩恵」の中であり、ローマ5:12が根拠とされた。
神の国」では、「神は人間を従順の義務を完全に果たすならば、死は介入する事なく、天使の不死と永遠の至福とが与えられるようにと創ったのである」13:1
「人間は自分から進んで堕落し、その結果、正当に罰せられ、同じように堕落し、罰せられた子孫を生んだのである」13:14
死とは第一には、神への不服従によって霊魂(?)が神から離れることであり、第二には、霊魂が味わった「転倒した自己の自由の喜び」が引き金となって、次に肉体が霊魂から離反を生み、「もし服従に留まっていたなら、常に為しえたはずの肉の支配がまったく出来なくなった。その時から、霊に逆らう肉の貪りが始まった。このように自由意志の悪用から一連の禍が生じた」14:13-14
では、人間は罪のゆえに正しい善い者となる見込みは断たれたかといえば、信仰によって正しい者とされるという。
「神の義」とは、神が所有するものではなく、神が罪人に無償で賜る義、つまり愛である
「われらの心に注がれていると語られる神の愛とは、それによって神がわれらを愛する愛ではなく、むしろ、神がわれらをして神を愛する者と成し給う愛なのである。同様に神の義とは、それによってわれらが神の恩賞として義人とされているものであり、主の救いとは、それによってわれらを救われた者と成すものをいう」霊と文字32:56
だから、義認は義化で聖化をも含むと
それで、信仰も人間自身から出たものでなく、神の恩寵であるとも
(これはペラギウス論争による)
人は恩寵を注がれることにより、その助けによって、人の努力は善人へ、さらに聖人への生へと結実してゆく
「上昇の七段階」
Mt5の八つの幸い(真福八端)と関連付けて、魂の完成に至る七段階があり、八つ目で最初に戻るという。この七つは「キリストの教え」でも反復されている。





所見;パウロの実直さとは異次元で聖書をヘレニズムで焼き直している。それと論議が半哲学的で、ロマン性と理想主義に流れている。
原罪論では、以後のキリスト教界の基礎を据えたようだが、パウロを理解し、それに付け加えたというくらいか。
ただ、義認については、聖徒への義の仮承認の理解はない。そこで信者全体に神の義が獲得可能にされている。修道制への示唆あり
だが、人を『義』とするのが『信仰』であるとするのは、パウロの字面を追っていて本質からずれている。人に『義』をもたらすのは、キリストの獲得した『義』を原資とする『神の王国』による贖罪であり、その前段階として『聖徒』への『肉の幕屋』を去ることを条件とする「義認」がある。この点ではやはり『罪の酬いは死』と言える。それゆえ『聖徒』の霊への復活は『再創造』と呼ばれるのである。
それから、アダムに求められたのが「服従」であったとするところは、以降、キリスト教界の大部分が影響の内に留まってきたが、これは根本的に間違っている。求められたのは「ヘセド」であり、敢えて訳すなら「忠節な愛」になる。[従順の義務]というのはまったく的外れで、凡庸にも「倫理」を規則化してしまう陥穽に落ちている。これほどの思想家にしてはどうなのか。


アウグスティヌスの言うような「信仰」が人からのものであく恩寵であるとするところは、信者が強烈な選民意識を持つことを助長する危険は考えなかったか。もし、神が信仰を与えるというのであれば、救いは各個人に対する神の好き嫌いで決まることになり、本人に参画する余地がなくなり、信仰を持っていないその人が何のために創造されてそこに居るのか意味がないことにされる。これは極めて排他的で自己欺瞞的教えというほかない。神も不信者も眼中になく、ただ自分を有難がっている、パリサイ的で有害な教えでしかない。
それから、キリストを神と捉えるせいか、キリスト自身が到達した義の完全性への理解は無いようだ。これは三一を採る場合には不可能なのだろう。
義認をもたらす信仰そのものが、神に発するものであるというなら(これは相当問題がある)、神を不公平だと言っていることになり、キリスト教の伝播していなかった地方の人々を考慮の外においている、(ここに理知的な日本人への宣教の失敗の根がある)また、エデンの二本の木の選択と、神の不干渉に意味がなくなるが・・ペラギウスを論駁しているうちに別の極端に流されたか(論駁するうちにバランスを失うというのは、他にも例があったが、いますぐには思い出せない)

人が努力で善人から聖人への生へと結実してゆくのなら『神の王国』の贖罪の必要はどこに出て来るか?それで彼の「神の国」のヴィジョンがあれほど曖昧なのか。理解していないことはとことん弄り回してなんとか神秘性に持ち込んでしまう。そこで著作が猛烈に長くなっているのでは。だが、論理の構造そのものは平板で、人の思惑を超える領域を主体に扱うものではなさそうだ。

アウグスティヌスの思想の主題のようなものが何かと言えば、善良さを装った神秘主義のように見える。彼は神から是認されていると思い込んでおり、神が自分を救ったと勝手に感謝を始めている。神が義化したのだから、自分は聖なる立場にいるものと思い込んでいる。これは彼自身が、旧約からの『女の裔』また『アブラハムの裔』が何者であるのかを理解していなかったことを露呈するものとなっている。エイレナイオスの千年期を否定できた背景には、聖書全体に通底する奥義を知らなかったこと、また当時には、既に聖霊が地上から去っていたこともその思い違いから明らかである。

おおよそ、彼がキリスト教界の土台の理解を作ってしまったので、この膨大量の著作の山を前に、その本質的誤謬を突くほどの一個の知性はついに現れなかった。しかし、ルネサンス以後、ヘブライ語聖典理解が進むに従い、徐々にアウグスティヌス論議の瑕疵が言われ始め、宗教改革期にはこの壁を乗り越える者らも現れたが、主流派とはならず迫害によって退けられてきた。
アウグスティヌス自身、三一の理解に苦しんでおり、的確な論理を示せず冗長な文書によってごまかしている。後の人々も「玄義」ということにして、やはり神秘主義の霧の中に隠して人に説明をしないで来た。
こうした事柄を総合すると、第四、五世紀のこの一人の神秘主義者に、キリスト教界はあまりにも寄りかかり過ぎている。そのためフィードバックが行われず、修道の闇の中に言い含められてしまった。
人を称揚することで、キリスト教そのものを更に気高いものにしたつもりだろうが、そうすることそのものがキリスト教のものではない。多くの教会で指導者を崇めるところがあるのは、実は、聖書が理解できない裏返しであろう。理解できるなら、人の解釈を必要としないからである。
そこで正しいアプローチは、不明なものを不明なままにし、人の解釈によらず、聖典と史料と文化と歴史を語学に尋ね続ける以外ない。なぜなら、現在まで聖徒が絶えて人類には聖霊が無いからである。



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アウグスティヌスの倫理観

人物
354.11/13-430.8/23 ヒッポ・タガステ生 ヒッポで没
回心と息子と共の受洗は387年、その前年「とって読め」の童謡からRm13:13-14を読む
父は371年の死の直前に受洗
同年ベルベル人の母モニカがオスティアで逝去したのを機会にアフリカに移動しつつ修道生活に近付く
391年ヒッポの司祭に396年に司教に叙品され初めて聖職を得る
410年のゴート族によるローマ占拠に端を発するキリスト教災厄論に反駁すべく『神の国』を著した

基本的に15年にわたる同棲生活と肉欲奔放のため、その対極にキリスト教を見る土台が人生に作られていた
修道的生活の希求は、その裏返しのようであり、この肉欲の対極に聖を捉えている
従って、彼はキリスト教を高徳規律の方向から見ている
加えて、著作に長文が多く、執筆しながら論旨が変化するところもあり、それが研究者の多用な解釈を生む原因となっており
特に、エラスムスとルターに於ける自由意志の論争に影を落としている
また、カルヴァンの予定説の先駆もみられ、カトリックからプロテスタントまで多種多様な論議を生む不定性の原因を作った
明解なことは、ヘブライ文化への理解が希薄なことである、また修道以外ではカッパドキア派系統の東方的な要素も薄く
エジプト由来のキリスト教から西欧カトリック精神を練り上げた始祖と言える
文章からすると、かなりのロマンティストであり、夢幻的な境地からキリスト教を見ていて、その原型にはイデア論を感じさせる


国史
その『神の国』は絶対善的な愛の国であって地上のものは教会であってもそれに到達しない
しかし、地の国に在って教会は『神の国』を代表することで優位性を持っている
教会は地の国の倫理目的のためにある、地の国は卑しいが教会に従属して神の摂理に奉仕する


自由意志
自由意志を巡る論争ではペレギウス派と争っている
世界を神による永遠不易の秩序内にあるという予定説的な見方を持ちつつ自由意志は否定されないとされることもある
人は自由意志により物事を行っている
人の自由意志は罪によって破壊されてはいないが、傾けられたものであり、その回復に神の恩寵は必須である
但し、その自由意志論は恩寵先行であるか否かの観点からすると二通りに解釈されている
<人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく「神の」自由な選びと予定である>
人間性は「無知」と「無力」のゆえに自由意志によって救いに至ることができない>
<人間はその原罪のゆえに自由意志を制限されており、信仰なくしては救いに至ることができない>
以上三つの見解はそれぞれ私論であり、本人が明言していない
ルターは原罪を自由意志を阻害するものと解釈し、ほとんど自由意志の救済の否定に走っている

その著作を読む人々から多様な見解や解釈が聞かれるところで、彼が多弁であったゆえにも曖昧なところが多いことが歴然としている。

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「何であれ自分の望んでいるものを持たない人、あるいは、たとえ望んでいるものを持っていても、それが有害なものである場合、あるいはせっかく良いものを持ってはいてもそれを望んでいない人、これらは皆、等しく幸福とはいえない」カトリック教会の道徳3:4
「人が自分の最高の善を望むと共にそれを獲得している場合」これを「愛するものを所有し」「享受している」人が幸福な人である。「わたし(本人)が最大の努力を払って探求しなければならないと思うものは、魂をもっと完全なものにするもののみである」5:8
「魂を完全にするものが徳であることを疑うような人はひとりもいない」6:9
この世に於いて徳は「われらの意志に反して奪いとられてしまう」
「われらは神を追求するとき、善い生活を送る。更に、神を獲得したなら、善い生活だけでなく、幸福な生をも送る」6:10
「神を追求するとは、幸福を望むことである。神を見出すことは幸福そのものである」11:18
「神を見出すのは、神とまったく同じものになるのではなく、神の近いものとなることによってであり、また、ある特別な知性的方法によって神を把握しつつ、その真理と聖性によって、完全に照らされて、捕えられることによってである。神は光そのものであり、われらはその光に照らされことが許されている」11:18(「至福の生」という著作もある)
「誰も我らを殺すと脅迫して神から引き離すことはできない。事実、我らがそれによって神を愛しているものは、我らが神を愛している限り死に得ないものである。なぜなら、死とは神を愛さないことにはかならず、神を愛さないとは、神よりも他のものをより愛し追求することにほかならない。」11:19
「人間の最高善とは、それに寄りすがる人を完全に幸福にするものであり、そのような善はただ神のみであり、我らが神に寄りすがることができるのは、明らかに、ただ愛、愛、愛のみによってである」
cf;「ギリシアの四元徳」節制、剛毅、賢慮、正義 ギリシアで徳(アレテー)は人を導くものとして永らく考慮されてきていた
「神、即ち、最高の善、最高の叡智、最高調和に対する愛」「神を愛する人にとって万事が益となる」
1Cor1:24を援用して「(神の知恵は)「果てから果てまで力を及ぼし、すべてのものを慈悲深く計らい、節制と正義と徳とを教える」知恵の書8:9
「われらは途上にある。けれども、この道は場所としての道はなく、心の在り方の道である。この道を過去の罪の悪徳が、謂わば生い茂った垣のようにふさいでいた。われらがその道を歩いて帰ってゆけるようにと、自らその身を道に横たえることを望まれた方に優って、寛大で憐れみに富んだ方がほかにいるだろうか。それは、すべての罪から回心したものを許し、われらの代りに十字架につけられることによって、われらの帰途を遮るものを取り除くためにほかならなかった」キリスト教の教え1:17.16 (ここにはフィロン的な知恵神学が見られると)

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所見;まず「魂を完全にする」とい発想はヘブライ的ではない。フィロンにせよ、ヘレニズムの影響を受けてのことである。ペテロの書簡に『信仰に徳を、徳に知識を』とはあるが、「徳」がキリスト教の主要な概念とはとても言えない。
なにより、このように平板な「徳」を倫理の基礎に据えるというのは、無神論の結果と共通してしまうように思える。
つまり、何が「善」か?と追及してゆくと、それが「人の益になるから」という「自己への身返り」という「徳」にどうしても吸収されてしまうのである。(この点で言えば、ギリシア文化、哲学はもちろん神話ですら「無神論的」であると思う)
そこには、「忠節な愛」という発想が生じない。なぜなら、「神」というものを、完全なものと思い込みが過ぎて、自分が『神の象り』であることは思考の範囲から消えてしまうからである。
常に、完全な神と思念するとき、その静的な完全性は、神を偶像化してしまい、人格を有し、人との関係性を問うような「生ける存在」ではなくしてしまう。
そのようにして、倫理観が神と人との双方向性を失い、ただ人がどうあるべきか、どう生きるべきかに偏ってしまう。つまり、神を人を高めるための道具とする。
これは大きな欠落ではないか。(Apヨハネが警告する偶像とはそこまで幅広い意味か)
まだ、調査していないけれども、おそらく彼は「二本の木」についても「生き方」の観点から見ているのだろうと思える。それにしても、人が「神を捉える」や「神に寄りすがる」「神を見出す」というのはどうなのか?聖徒の意義を万人のものと取り違えているうえに、神との関係性がご利益になっていないか。やはりなっている。「魂を高める」のだそうだ。本当に、エラスムスでさえその前にたじろぐとされるほどの思想家なのだろうか。(ラテン文は恐ろしいまでに美しいそうだが)
倫理を「生き方」と言い換えるのは当たっているとも外れているとも言える。それをただ益のための自分の道と見做すのか、「認識個」相互の関係性でみるのかで異なってくる。後者は特に神をも能動的選択の主体者として含めることになり、それは双方向性の関係を持つことになる。その場合、神は無表情な絶対性に塗り込まれることはない。(難しい言い回しで言いたくもないが、最も稚拙な表現がやはり楽なので)

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やはり、彼は「人間の生得的能力ではなく、神との関わりにおいて神ににた者である」とはしているが、「神が光であるように、神の光を受けて、人間も光の子となることが大切である。これをアナロギアと呼ぶ。しかし、人は神とまったく同じではなく、類似が大きくなればなるほど、非類似も大きく現れる」としている。
忠節という倫理の観点は欠けて、平板な神秘主義に終わっているようだ。
それにしても、著作が多過ぎるくらいで(やはり多過ぎ)、それぞれの年代でいくらかずつ思想が変化しているところが学びにくい。


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エゼキエル40章以降

イスラエルの地ではあっても、シオンともモリヤともしない『非常に高い山の上に』(「非常に高い」)

『エゼキエルが降ろされたのが北側であったためか、『その南側に街のように建設された物があった』としている。この「南側」とは「向かいに」の意かも知れない。であるから、エゼキエルの着地点は、更に北であった。

この40章以降の幻の内容は『あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ』と同伴の『姿が青銅のように輝いている一人の人』に命じられる。
これは、捕囚の民への慰めと解されてきたが、この書に明言は無い。

神殿は、詳細な寸法がここに示されているので、幾らか(祭司の食堂の一部)を除いて、ほぼ全部の再現が可能なほど数値に矛盾が見られないほど具体的である。

その崇拝形態は、まったく律法に属するものであり、異なるところは神殿が存在していない新たなものであること、ザドク系祭司を任命するというソロモン以降の定式であること

外壁の長さが1500mほども有って、現状のモリヤの丘陵からははみ出すこと
それでも実際の建設が不可能ではないこと

「長」また「君」と呼ばれる者の存在

東に開かずの門があるとされるが、これが解釈によって分かれる

神殿からの水の流れについては分かり難いものではないが、ここに善悪の交錯がある

この神殿はエゼキエルが見ている時点では、無人で機能前である
アアロン ハブリート、またウリム ヴェ トンミムへの言及が無い Jer3:16

割当地の記載でダン族が明記され、それも第一に言及されている(!)

シメオン族の明記がある

北限がダマスカスを遥かに超えてハマトの入り口にまで及んでいる

同じくユダとベニヤミンの相続地の位置が逆になっている
(「地境を移してはならない」)

相続地の割り当ては歴史上のものと異なる

『街』の門についてはレヴィ族が含まれ、エフライムとマナセが『ヨセフ』の門に統一されている
(「十二部族の名が有る」)

ダンの門が東に位置して優遇されている

それから「長」と「レヴィ」の相続地は律法や史実からはまったく乖離したものになっている



キリスト教関連の人々からは、おおよそ二種類の見方がある。
一つには、これがキリストを大祭司とする象徴のものであるとするもの
一つには、実際にイスラエルに建築される預言であるというもの
<「長」とは再臨のキリストである、または反キリストとも>


ユダヤ教では
ベン ザッカイらはここに夢を見ていたのでは?おそらくはアキバも
現状では神殿什器類は再現されている(但し、解放時5400を数えたという金銀の什器に相当するほど、また祭祀を継続するに足るほど整備されているかは分からない)
ユダヤ教側が神殿再建に至らない理由は、建築者がメシアでなければならず、現状では至聖所の跡地を足で踏んでしまわないために入域せず、イスラームがモスクに向かうために入域しているが、ユダヤ教側は検問を設け当然これを喜んではいない。


イスラームでは
イーサーの先駆者であるマフディがエルサレムのドームに住まうことになるとハディースに記される。(ドームというこの預言に従う場合、エゼキエル神殿の建設は難しいことになる)




だが、四十章以降の文面を読むと、幾つかの謎がある。綿密に読むと「異様」なところが散見される。
そこで上記の二種類とは異なる理解の道がほんの僅かに小さく口を空けている。それは非常に分かり難く、且つ呪いと祝福とが交錯するように述べられていると読めるので、これは余程に慎重でないと、また前提条件を付けずに考慮しないとまず見出せない。

もし、それが正しければ・・これまでの解釈と根本から異なることになる。<信仰者とは概して自分に甘過ぎる。苦行者でさえ自分に関心が向いていないか>
これは深い倫理に関わるものとなるだけでなく、時限解釈の新たな領域に踏み込むことになる。

上記の律法と異なる幾つかの点、それから相続地の異なりと、無人であったこと、またこの13年以前の『第12年第12月の1日』の啓示により骨の谷とマゴグの地のゴグによる一連の滅びの預言が先行しているが、その順序で見るとこの神殿に有る種のニュアンスが加わる。
『神を畏れるは知恵のはじめ也』とはこうしたことなのかも知れない。

ダニエルの幻に匹敵するほどの黙示であり、ネイヴィームの全体に意味深い啓示が散らされている様がますます浮彫になる。ヨハネ黙示録はその司会者のように見えるほどに、旧約が余程に雄弁であることになる。これは漸進的啓示ではなく、既に精密に仕上がった素材が聖書中に散らされているというべきか。
おおよそは把握できたが、これはどう扱うか?余りにも倫理に関わっている。


その都市 - Notae ad Quartodecimani






<本日の未明に>



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Hilarius Pictaviae

ピクタヴィウムのヒラリウス ⇒ 前記事
c.310 – c.367 B&D Pictavium

ニケアーの裁定を支持したため、「西方のアタナシウス」とも
315年にピクタヴィウムの富裕な家に生まれ、ラテン文化人として教育される
しかし「神によってわれわれに与えられた理解に相応しい生活」を追求したいと望み聖書を読み始めた。
<との事だが、実際はポワティエ市民のキリスト教徒らに推されて新プラトン主義からキリスト教に転向したとのこと>

出埃3:14の「我は有りて有る者なり」に「神の本性の神秘」を感じ、まもなく洗礼を受け、教会に迎えられた。

30歳代の半ばで、ピクタヴィウムの司教が没したが、その時に歓呼礼によって彼が司教に迎えられた。<ローマ帝政に発する歓呼礼は当時の教会でも習慣化していたので、ヒッポのアウグスティヌスなどは空位の教区には赴かないよう用心していた→アンブロジウス>

コンスタンティヌス大帝は337に崩御しており、それでなくとも三一派は迫害を受けていた。
彼はニカイアの裁定を支持したためにコンスタンティウス帝からフリュギアに追放されて、四年間ピクタヴィウムに戻れなかった。⇒聖アブラ

しかし、その追放の間に長々しい「三位一体」を著したが、それ以前の識者らの論議に通じ、且つ新たな世代の議論を再構成し「逞しい想像力を示している」
この著は神学的専門書であるが、冒頭に自身の回心の次第が記され、第一巻への議論への導入とされている。

彼は再三に「我は有りて有る者なり」を引用し、読者をこの一節に注目させることを意図している。
神を知り、神を探求する中で、神が常に「我々の思考の先に居る」ことを見出すとしている。それは「存在するという方の本性」は「実在する」ということだからである。もし何かが存在するのなら、思考であろうと言葉であろうと、それを否定することはできないからである。(PS139:8)
しかし、神の前に立つ唯一の方法は、謙った賛美に於いてである。神に関することを議論するのであれば、我々は従順を学び、敬虔さと敬意をもって神に仕えねばならない。我々の探求対象へ自らを差し出すことによって求める神を知ることができるようになる。「神は献身に於いてのみ知られ得る」

『我々が受けたのは世の霊ではなく、神からの霊である』1Cor2:12からヒラリウスは『受容』という言葉を強調した。誰もが神を理解する能力を有するが、「認識の贈り物」がその人のものとなるのは、霊の贈り物を(信仰に於いて)受け取ったときに初めてそうなる。
ヒラリウスの理解で、この「受容」とは、個人的経験のことであるとするが、それは教会の信条、洗礼式のときの式文、また福音書からの言葉Mt28:19-20が朗読されること、聖餐なのである。
ヒラリウスが意図するのは、神について考えることは聖書の中で与えられた言語、教会の実践によって形成されてきた確信(父と子と聖霊の名による洗礼)と共に始まるということである。

彼は「神と共に神が最初に居た」という謎めいた言葉の背後にキリスト教的思考を貫く真理が横たわっている。三位一体の神認識は、キリストが身体と共に到来したことの内に基礎づけられており、古代教会がオイコノミアと呼んだものであるが、これを神の秩序ある自己開示、創造まで遡ってキリストに於いて頂点に至るものを意味するとした。ひとつの神は創造されたものを通して知られるが、父と子と聖霊として知るのはオイコノミアを通してであり、神の神秘を知るのはキリストの身体を通してである としている。

ヒラリウスは、初期のキリスト教徒がシェマを毎朝朗誦していたことを認めるが、そこで使徒トマスの『我が主、我が神』の言葉を発して後、イエスが『わたしと父とはひとつである』の意味を悟ったとしている。イエスが復活することで、使徒らは神について違った風に考えさせるようにしたとも言う。復活に照らしてトマスが「信仰の神秘全体を理解するようになった」と言う。
そうして復活の後も彼らはシェマを唱えることができたが、「ひとつの神への献身を放棄することなく」キリストを神として告白することができるようになったとも言う。神はひとつではあるが、「孤独ではない」
ヒラリウスは「言葉は神であった」に依拠してキリストの神性を主張もしたが、特にオイコノミアに於いて彼の独自性がある。つまり、復活を通してキリストの神性を擁護したことにある。復活とは神だけが行い得るものであるという論拠からであった。<しかし、彼はキリストが自身で復活したとは述べていない>


Memo from
Robert Louis Wilken "The Spirit of Early Christian Thought"
2003 Yale Univ



所見;三位一体の主張に付き物の「在りて在る者」の援用の源はここにあった。よくもそこまで捏ね繰り回せるものだと思う。
この時期(四世紀)には、キリスト教はすっかりヘブライ文化を離れ、聖句を神秘にまで深めようとする始まりを見るかのようで、これならば哲学化は避けられないと思える。この時代ユダヤ教はアモライームの時代で、ゲマラからタルムード編纂に向かっていた。その状況で、キリスト教はヨーロッパの思想に沿って再構成されてゆき、純粋性を失い、異なるものへと変質を遂げつつ在った。
彼の場合には、先にラテン文化的な思考法が据えられたところに『有りて有る者』の句がその文化の室内で反響したのであろう。それはヘブライ的な把握とは言い難い。それが彼をして三一擁護の原動力であったことが見える。彼自身が第三世紀から流行し始めていた新プラトン主義の哲学者であり、その方向からキリスト教を見る傾向は強く、ヘブライの伝統文化から聖書を見るよりは、黙示的な言葉の綾を宗教的になっていたヘレニズムの観点で謎解きをするようなところがあり、キリストの宣教の主題である『神の王国』また、アブラハムへの約束の要素が抜け落ちているように見える。これでは、神の様態を追求はしても、人間への神の意志の方はなおざりにされる。信仰と認識、奇跡と哲学の差が見えていない。この時代には当然ながら奇跡の聖霊への理解なく、ただスピリチャルな聖人伝説が民間伝承的に行われるだけであったことに異論の余地はない。
また、オイコノミアの捉え方はエフェソス書やコロサイ書のようではなく、キリスト個人の身体について集中し、聖徒との関連が失われているように見える。
それから、聖書を神聖視し過ぎていて、その言葉の一つ一つに神秘的なまでに深い洞察が引き出せるほどの意味ある啓示がそれぞれに込められていると捉えているが、その辺りがヘレニズム神秘主義へと向かう入口にしてしまっている。ユダヤでもカバラという異様な逸脱を起こしているが、根は同じようである。この捏ね繰り回しが不当であることは、パウロが明かす奥義から脱線してゆくところに明らかに窺える。
しかし、三一を主張する動機や目的は何であったのか。パスカや律法祭祀に見えるキリストの『神の子羊』としての役割への言及が見当たらないし、この件を教会関係者に話して深く感動されたりするのも、三一を唱えている間に、メシアの重要な役割の理解が捨てられた様を確認するようなことになったからではないか。
そこで、三一派が目指したものとは何であったのか?ただ、それが「正しいから」と言うとしても、メシアの意義を見失うほどに益ある「何か」が有ったのだろうか?それが本当に正しいことなのか?
神秘論に耽溺し、神が三位かどうかと言い争っている内に当時のキリスト教界に欠けたのは『聖なる国民、王なる祭司』つまりエレミヤの予告した新約による『神の王国』ではないか?結果として三一がもたらしたのは、この新旧の契約に一貫する人類救済の手段の喪失ではないか。何という「正しさ」!
キリスト教が欧州化しながら失ったのは、旧約から一貫して受け継ぐべきメシアの王国であったというべきか。
アウグスティヌスが冗長な「神の国」を著したのも、それがキリストの宣教の中心的主題であるにも関わらず、キリスト教の担い手を自認する自分たちが、確固たる『神の王国』の見識を持たなかったところに、ローマ帝国への愛着から、ユダヤのメシア王国を二つの国家論に入れ替えることを試みたということではないのだろうか。アウグスティヌスについては、あの神秘主義と長い祈りによってキリスト教に厚い霧がかかってしまったかのようで、いよいよ宗教的になっては行ったが、絶えることのない長文で、キリスト教にただのアニミズムを行うよう呪文をかけてしまったかのようでもある。




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クルアーンの世界

◆概要

クルアーンは聖書ほどに記述がまとまっておらず、天地創世の内容もクルアーンの中に散乱して存在している。それは聖書がモーセの時代から収集され16世紀かけて綴られたのに対し、ムハンマドには四十歳から六十歳までのおよそ二十年間、その時々に天啓が与えられたことによる。
その神は聖書の神よりも超越的であり、人は『神の象りに創られた』というような記述は無い。超絶的に隔てられた神は、人間の能力によって知ることも描くこともできない絶対の不可知の神である。そのため人が自ら作り、手で触れられる偶像を強く禁忌する。
人は地上に『神の代理として創られた』とはあるが、管理運営の僕であり、主人として改変させる権威を有しない。それでも、この世界は人の利益のためであり、自然界は神の恩恵であると教える。
天地自然を創られた神は、その自然が神の存在証明の証しとなっている。神の創造の業は間断なく続いているものである。

神に創造された世界には、始りがあり、始りあるものには終りがある。この世界は有限なものであり、創造から終末へと向かう直線の中に人は位置している。神は初めから人間も有限な寿命あるものとして創られた。その時間の中にあっても創造の神は普段に新しい創造を間断なく行われている。
クルアーンでは、人は生きている間も、死んでからも神の指導と指針に即して生きることが求められている。
生命ある間は、地上で規範に従い神の意志に基づいた道徳秩序を築き上げ、死後は、天地の終末まで墓の中に眠り、終末に現世での行為の質に応じて天国と地獄の地位が決まる。
現世は有限であるが、来世は未来永劫続く無限の時間となる。来世は現世の褒賞の場でもあるが、地獄であっても修行を重ね刑罰の度合の低い層に上げられることもある。また、天国でも下層に甦った死人も、多くの善行を重ねて、神の玉座に近い上層に挙げられることもある。そこで、人間にとっては有限な現世よりは、永遠の来世こそが目標とするべき真の生きる場である。後にイスラームの中からも輪廻思想への接近も観られている。
イスラーム以前のアラビアの多神教では、現世だけが人の命のすべてであり、来世への再生という概念がなかった。ムハンマドがマッカの住民から嘲笑されたのも、人が蘇って永遠に生きるという考えに原因があった>
クルアーンは死生観を神の恩恵のひとつとして把握し、死は永遠の生に至る「通過点」と見做した。
聖書は神の経綸の進展に伴い時代に意味を与えたが、クルアーンムハンマドの召命と終末論とが深く関係している。クルアーン歴史観は、旧約の契約遵守とも、キリストの救済とも目的を異にし、神の代理人として地上に道徳的秩序を造り上げることにある。それは自然界と共に神の被造物としての秩序を保つことであり、イスラームは自然を服従させるものではない。

死生観では、遺伝子組み換え(食品)や心臓死による臓器移植は多くのイスラム諸国で行われており、コンセンサスは確立されている。
しかし、自殺が厳格に禁止されているため、安楽死尊厳死については認可されない。埋葬については、ユダヤ教のように終末の復活を期して土葬されるのが正しく、遺体を火で焼くことは火獄へ行くべき者とした処置とされる。

他方で、堕胎については、妊娠120日までは、未だ胎児に霊魂が備わっていないと判断され、許可されている。

ジハード(「努力」の意)とされる自爆テロは「殉教」かを巡る論争には普遍的で明確な答えは提出されていない。多くの法学者らが、「ジハードに名を借りた犯罪だ」としつつも、出口のない紛争の中にいる人々から見れば、現状を打破するために命を捧げた殉教者に見えるとしても仕方がない。<うち続く紛争のそのものの原因を問い、武力闘争に訴えない方法での解決を目指すという点では、イスラームに欠点があることは否めない>殉教者は穢れが無いと見做されるので、死体を洗うこともなく、そのままに埋葬される。


◆来世の楽園
人は皆、神の被造物であるから、現世の寿命が尽きると神の許に戻るべき存在である。それは「終末」に於いて起こる帰還となるが、その「帰天」こそが神の計画の成就である。
『これは重要な教訓である。神を畏れる者たちには、良い帰り場所がある。それは永遠の楽園であり、その門は彼らに開かれている』(38:49-50)
「終末」には、既に死んでいた者も、そのとき生きている者も、すべての人間は、神の前で最後の審判を受ける。神を信じ畏れる者には楽園が、多神教徒#や不信仰者には罰として火が燃え盛る火獄の苦しみが待ち受けている。<#経典の民を含んでいない>
楽園では、緑豊かな果樹園のようであり<アラブは砂漠の民>、澄み切った水をたたえる川、腐ることのないミルクの川、酔うことのない美酒の川、純粋な蜂蜜の川が流れ、果樹園にはあらゆる種類の果物が豊富に実り、住民はどれも食べ放題、飲み放題なうえ、豪華な錦の敷物の寝台が与えられて、そこに永遠の若さを保つ美少年たちが酌をして回っている。この楽園の住民には、伏し目がちの大きく輝く瞳をもった美しい乙女ら#が、現世での善行に応じた褒美として与えられるが、彼女たちは永遠に清らかな乙女である。
<このように、「楽園」には人間の持つ、食欲と性欲が限りなく満たされるのだが、この世俗性は特にキリスト教側からの攻撃に曝されてきた。しかし、イスラーム内部からも、イヴン・スィーナー(1037d)
やガザリー(1111d)、イヴン・タイミーア(1328d)などの、むしろ精神性を重要視すべきであるとする主張がなされた。しかし、初期の信者の拡大にこの教えは貢献したものと考えられているし、現代でも有効である>
この楽園観は男性の願望であることは余りに明白だが、一応は『女性の信者にも、下に川が流れる楽園に永遠に住むことを神は約束された』とも書かれている。(9:72)


◆行為者としての人

「人は善にも悪にも、信仰にも不信仰にも、服従にも不服従にも行為主であり、自己の行為に対して報われるものである。至高の神は、これらすべてに人間の能力を与えた」ワーシル・ブン・アター


◆キリスト(マシーフ)

エス(イーサー)は最も優れた預言者のひとりであることがクルアーンに記されており、処女マリア(メラヤアム)から生まれた「神の言葉」で「神の霊」であるとされている。それでもイエスは神そのものではなく、三位一体は全く否定される。
『実にメラヤアムの息子でありマシーフであるイーサーは神の使徒である。彼は神がメラヤアムに与えた御言葉であり、神からの霊である。だから神と使徒たちを信じよ、「三位」と言ってはならない。』(4:171)


ユダヤ教

ユダヤアブラハムの子イツハクを嫡子とし、献供物語があるように、クルアーンではアブラハムの長子イシュマエルこそが献供物語に登場する継嗣とされる。

ムハンマドに対するマディーナのユダヤ人の抗争事件があったように、イスラームユダヤには難問があった。
そこで初期から、イスラームと対立を強くしていたのはユダヤ教の方であった。
だがそこに、キリスト教が三位一体を掲げるようになり、そこでイスラームははっきりとキリスト教に反論を加えるようになっていった。
一方で、域内のユダヤ教徒とは和解があり、ユダヤ教徒はズュンミーとして税金さえ払えば、ユダヤ商人は自由に移動も商売も許された。ムスリム支配下では、ユダヤ商人はイスラムともマニ教徒とも、キリスト教徒とも自由に商売ができた。これは欧州におけるキリスト教徒のユダヤ教徒への扱いとは対照的であり、イスラームは寛容であったと云える。
実際、1911年までイスラーム支配下にあったパレスチナでは、宗教は並立しており、それぞれの信条を保ったまま交流することが可能で、敵対心を持つまでもなかった。そのような環境でユダヤ人は教学院を維持することができ、中世にはタルムードを生み出しているが、その過程で厳格な保守性を後にしている。こうした教学院の運営費の一半はアッバース朝地方税が当てられており、残りがユダヤ教徒献金から出されてもいた。


◆政祭一致

ユダヤ教は神に対する恐れに基いており、キリスト教は神の愛に、イスラームは神の知識に基づいている」とナスルは言う。
だが、アスランは、「イエスは『カエサルの物はカエサルに』として、人間による規範(法)と神による規範との厳格な区別を設けた。他方、ユダヤ教イスラームでは「法」は神から与えられたものであり、それを遵守することは神との聖なる契約である。西洋の人々がキリスト教を通してシャリーアの意味や役割に理解が困難なのは、この理由による」



◆終末

最終的な世の終りが何時になるかを知るのは神のみであり、天地の崩壊が始まっても多くの人々には分からない。
終末について詳しく述べるのは、クルアーンよりはハディースである。

エゼキエル書の影響を受けているようで、終末前には「ヤージュージュ」と「マージュージュ」つまり『ゴグとマゴグ』の襲来があり世界は掻き乱される。

終末期はアルダジャル、イーサー(イエス)、マフディの三者の時期がある。アルダジャルは偽マシーフであり右目が見えない#、イーサーに誅される。#Zec11:17?
しかし、イーサーはマフディがアルダジャルと戦っている時に、ダマスカスに降臨し、マフディに加勢する。
マフディはイーサーの力を借り、イスタンブールとイランのデラム山<Deylam?>を征服しイスラム教を回復させる。マフディは広い額と尖った鼻の持ち主である。彼はエルサレムとドームを住処とする。
マフディの死後、イーサーは指導者となり平和と正義が成就する。
イーサーの40年の期間の後、イーサーは死んでメディナに葬られる。
<この終末のイーサーは結婚し子を設けている>

最後に「ヤージュージュ」と「マージュージュ」が壁に穴を空け、彼らが急増する。彼らは山を下って突き進む。
カーバは破壊される

そこで神は虫を送り、彼らを殺す。




塩尻和子「イスラームの人間観、世界観」を中心に補足しつつ記載


?:アルダジャルというのはペルシア語由来では?



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ルカ17:21 あなたがたのただ中に

Lk17:20"The kingdom of God does not come with observation;"

Lk17:21"nor will they say, 'See here!' or 'See there!' For indeed, the kingdom of God is within you." NKJV

[βασιλεία τοῦ θεοῦ ἐντὸς ὑμῶν ἐστιν.]
[ἐντὸς]=AV - within 2; 2 1) within, inside 1a) within you i.e. in the midst of you 1b) within you i.e. your soul
この「エンス」は新約中2ヶ所だけ存在する。
もう一方はMt23:26『盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい』の「内側」

エスのメシアとしての不明性についてはヨハネ福音に以下の言葉があり、信仰によって見出される必要が込められている。
[μέσος ὑμῶν ἕστηκεν ὃν ὑμεῖς οὐκ οἴδατε,]Jh1:26
「あなたがたの間に知らない人が」

パリサイ人に限ったことではないが、当時のユダヤ人の間ではメシアである人物の確証が欲しかった。
しかし、ナザレ人イエスは奇跡は行えども、聖書との整合性が彼らの望むほどに明瞭ではなく、タナイームの理解からすれば、安息日や断食、体制派教師への敬意の欠如、地の民への接触など受け入れ難いところが少なくなかったので、彼らはイエスが自分たちに判断させないでいると苦情を述べてもいる。
それに対してイエスは彼らが『自分で判断しない』ことを指摘しており、彼らの間での同調圧力があったことも窺わせている。

そこで十二人もそうであったように、王国の到来によってメシアを見分けるという逃げ道を模索した体制派が居たとしても十分に考えられる。
そのような者らは、王国の王であれば、その国の到来を見ればよいことになるので、一向に王を名乗らないイエスに『王国はどのようにして来るのか』との質問に、彼らの焦りのようなものがあったと思われる。
その一方で、民衆の中からの多くの人々は、イエスにメシア信仰を働かせ始めていたので、最後の上京ではルーラブを振って王として出迎えている。
しかし、そこで釈然としないパリサイ派も多かったに違いなく、彼らが躓いた原因は、彼らが聖書に精通しているところにあったと言える。聖霊の奇跡を見ても、聖書の言葉によってメシア信仰を引き留められていたのであり、そもそもそのような罠を聖書に仕組んだのは神自身に他ならず、それが「神の裁き」の本質であった。
救いは信仰によるとは、当時のユダヤの人々は聖書の言葉を別にしても、聖霊という神との邂逅を経験していたのであるが、言葉と力との乖離で対処に窮した。
そこで彼らは、伝統的権威の方に靡きつつも、イエスの奇跡にも捨てがたいものを感じていたのであろう。その葛藤が「天からの印を見せよ」とか過激な質問になっている。だが、そこは信仰を求めた神は、ヨナの印以上を彼らに与えなかったし、それも事後のものになっている。(この辺りは奥深い)

[ἄρα ἔφθασεν ἐφ’ ὑμᾶς ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ.]Lk11:20
「ならば、あなたがに神の王国は達したのだ」

Lk16:16「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入(殺到)している」


1Cor14:15

2Cor7:3

Mt8:12
12:22

Mr13:21


Nub11:20

Jer 14:9

Zpn3:17

むしろルカ福音の前後の文章からすれば、ユダヤ人の思い描く「王国」との差がはっきりとしている。
また、終末の偽キリストへの注意喚起もされており、キリストの発言はむしろこの点に重きを置いている。
語られた相手のパリサイ人は、ほとんど理解しなかったと思われる。
エスの発言を追うと、偽キリストへの警告の要素を強めており、逆に言うと、地上に華々しい王の来臨として現れるのがアンチクリストであることに注意を向けている。
それであるから、『神の国はあなたがたのただ中にある』を、聖アウグスティヌスの誤謬から発して「信者の心の中に神の国が宿っている」と多くの「クリスチャン」が考えるのは終末への準備である危険が考えられる。不意を突かれてユダヤ教徒の王国観に引かれて地上のメシアを喜んで迎えてしまうときに、『神の国はあなたがたのただ中にある』の意味を初めて悟ったのでは遅すぎ、偽キリストについてその意味を適用させられる誘惑に抵抗するのは非常に困難になると思われる。このようにこの句は、おそらく終末に在って再び誤解されるのだろうが、その時も文脈は無視されなくてはならない。


「あなたがたのただ中にある」の意味を含む ⇒ キリストの例え話 第一集 amazonから

キリストの例え話第一
⇒「神の王国はあなたがたのただ中にある irenaeus.blog.fc2.com 」  
                                    • -
一般的教会のドグマ ・信者だけが救われる (聖徒が新しい契約によって義が仮承認されたことを誤解) キリストを信じてバプテスマを受けないと地獄に落ちる このドグマによって、改宗させることが利他的で崇高な務めとされてきた。しかし、そのドグマの本質は「脅し」であって、人に神への関心よりも保身を促すものである。神の是認を受ける幸福を主張して、なぜ「救い」が必要になったのかを考えず、却って自己存在を危うくするものとなる。それは決して利他的ではなく、慈善の仮面の下で悪魔の性質である利己性を人に纏わせるものとなっている。 <16世紀に日本人の多くがキリスト教に躓いた理由の一つが、バプテスマを受けずに死んだ先祖に救いがないこと> 現代でも日本の教会員は異教徒である周囲の人々が救われず地獄に落ちるものを心中では考えている。 →本来のキリスト教では キリストの贖いは人類を創造された倫理上に「罪」の無い状態に復帰させるためのものであり、その贖罪にために『祭司の民』を最初に召し出し、『被造物の初穂』として最初に贖い仮に救うことが企図された。『新しい契約』とは、この『聖なる国民、王なる祭司』となる民をキリストの犠牲によって贖うためのものである。 (新約聖書の大半はこの人々について呼びかけ、書かれたものであるのに、それをただ信者への言葉と短絡しているところで、聖徒の特権を自分のものを勘違いしている上に、人類全体の救いという神の意図を、自分の救いと取り違え、利他的精神を懐くべきキリスト教を利己的で高慢な宗教にしてしまっている。それはキリストの自己犠牲の精神を悪魔の利己心に置き換えるものであり、本来「キリスト」の名を冠するべきものでもない) 「信者が救われる」とするところではどこでも、そのキリスト教はまったく間違っている。すべての人は裁かれる以前に在り、それはアダムとエヴァ以外の死者であっても変わらない。 ・そもそも、なぜ救われるべき状態に人が陥ったのか、また、救いとは何からの救いであるのかが曖昧 人間の寿命の短さ、この世の諸悪の存在の由来が、神の摂理にされてしまい、神を苛酷な吟味者に、自分たちだけを恩寵に与る者としてしまっている。 神がなぜ人を裁くかの意味を考えることよりも、自分が救われることを確保しようとしているが、これは保身目的であり、神への関心を持って信仰も崇拝もしてはいない。 総じて言えば、神やキリストとは逆の精紳を培っており、自己義認に主な関心が向いている。それがため、キリストを十字架上にうなだれる姿を好む。それは自分のために犠牲となってくれたと感じ入るためであり、キリストが自分の奉仕者であったと捉えることでもある。だが、キリストは復讐を遂げる方であり、十字架上での刑死をもたらした蛇の頭を打ち砕き、神から逸脱した『この世』を終わらせるために再臨される。そのキリストは勝利の大王となられるのであり、刑柱上での遺骸を眺めるのはサタンの悦ぶところである。そもそも、十字架という刑具を崇拝の象徴とすることが良識を逸しており、サタン的で異常な事に気付けるはずである。 <教会駁書>

ソーター篇から神名に関わるメモ

「ソーター」そのものは民数記5章に由来する、夫を拒絶し(性交を拒み)夫に不貞を疑われる妻の、夫を「避ける」の単語に由来する。

しかし、ソーター篇にはこの題目以外の内容も含まれており、ここでは特に「格別な神名」(ハシェム ハメフォラーシュ)に関わることを挙げる。


■ミシュナ6

祭司たちの祝福(Num6:24-26)--どのようになされるか
地方(神殿外の意)では、それを三つの祝福として唱えるが、神殿では一つの祝福として唱える。(聖句の三区分に応じて民の答唱が入り三つの部分に分かれるが、神殿域ではアーメン答唱は禁じられる)
聖殿では御名を書かれたままに発音される。しかし地方ではそれを婉曲法(アドナイ)で唱える。
地方で祭司は両手を肩の高さまで挙げる。だが聖殿では頭の上の方にまで挙げる。但し、大祭司は例外であり、額帯よりも高く挙げてはならない。(額の金版に御名が彫り込まれているため)
しかし、ラビ ユダは言う「大祭司も自分の両手を額帯よりも高く挙げる。聖書が言う通りである。『アロンは両手を挙げて民を祝福した』。(Lev9:22)」
この後のゲマラでは、ラビやタンナらが立つか座るかで議論を始めている・・・その中で、ラビ ナタンは申命記10:8での『の御前に立って仕え、の名によって祝福するように』とあることから、並行的な申命記18:5でも同じ祝福を類推できることを示唆し
「・・『(あなたの神、が)彼とその子らと永久に(の名によって)使える者とされた』と。これは『その子ら』と『彼』を並置して、一方から他に類推するのである」。と言う。
(ゲマラは続けて)ほかにも、タンナの権威によって教えられた「あなたはイスラエルを祝福して。次のように言いなさい」とは、格別の名(ShM)を用いて行われる。<反論>「あなたは「格別な名で」というが、あるいは婉曲法でのみ(祝福せよ)と言うのではないか?」(以下は改行するが続きか否か不明)「聖書は言う、『彼らがわたしの名を・・置く』と、この意味は、わたしの名がわたしにとって唯一であるということである。(この御名を)地方でも用いることは可能か?」ここで『彼らがわたしの名を置くためにと言われているように、あちらでも彼らがわたしの名を置くために(・・選ばれた・・)其処へ』とある。あちらで(主の名を置くところとは)主が選ばれた家であるように、こちらでもそれは主の選ばれた家である。
ラビ ヨシュアは言う
「(それを証明する)必要はない。さあ、これが言わんとすることは『わたしの名を記憶させるすべての場所で、わたしはあなたに臨み(あなたを祝福する)』と。
あなたはこの意味が「すべての場所において」であるとの思いを浮かべるのか。むしろ聖書本文は以下のように分解し直すべきだろう。
『わたしはあなたに臨み、あなたを祝福するすべての場所に於いて、そこで、わたしはわたしの名を記憶させる。』と
では、わたしがあなたに臨み。あなたを祝福するのはどこか、それはわたしが選んだ家に於いてであり、『そこでわたしは、わたしの名を記憶させる』という『そこで』とは、わたしが選んだ家に於いてである。」




所見;神殿が無く、幕屋が転々としていた時期との異なりはどう理解されていたのだろうか。最初に律法が書かれた時代は、移動生活の中であったのだから。
神殿域での祝福に託けて、御名発音を限定した動機は隠されているが、これは諸国民への差別化と聖都と聖域を高めることではなかったか?捕囚期以前には、諸国民もその発音を行っていたことが窺えるにも関わらず、民が一致して発音を限定する作法に従ったのには、神殿祭司だけでなく、ソフェリームの賛同があってのことであったように思える。こうして実際、ミシュナーの中でも議論の最中であったこと、またLXXから御名が消えることからすると、前2-1世紀頃に発音の限定が行われたようで、加えれば、時期的に壮麗なヘロデ神殿の造営もその意識を煽ったことが想像される。
それから、サマリアが御名の音を保存し得なかったのはなぜだろう?当時のユダヤ人のサマリア人への偏執的な差別意識からすれば、この発音の限定が行われるようになった頃には、サマリアも御名の音を亡失していたと思われる。あるいは、サマリアもゲリツィム神殿で御名の発音を限定していたか?それが前129年に破壊されていることは、LXXから御名ShMが消えた時代とも言える。この時代のハスモン朝は最盛期にあり、ヒュルカノスⅠ世以降は大祭司にしてユダヤ王である地位を持っていて、サマリアばかりかイドマヤまでも統治し、改宗させていた。この頃、大ヒレルがユダヤの教学院で学び始めている。強いヘレニズム文化の影響が吹き荒れる中、ユダヤ教は国際的に自らを高める必要に面していたことが窺える。様々な名を持つ神々が伝えられる中で、「至高の神」とだけ称して固有名を名乗らない方が、超越的に捉えられたのではないか。ヘレニズムやローマでは神々の習合が頻繁に行われており、YHWHもゼウスやユピテルなどに同定されかねない危惧をユダヤ人は感じたとしても不思議はない。周囲を埋め尽くす多神教の脅威に一神教が対抗するための方便であったと言うのは、的外れでもないように思えるが・・



⇒「神名浄化の至上命題 ハ シェム ハ メフォラーシュ





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古代公会議 H.Jedin

"Kleine Konziliengeshichte" Hubert Jedin からのノート ⇒ 以前のメモ

最古のシノドスとして知られるのは、第二世紀後半に小アジアで行われたモンタヌス派の諸分派に対処するために開かれた幾つかの会議である。これらと使徒会議とのつながりについては疑問の余地がある。
これらの類いの会議は、隣接地区の司教たちが各々の教区にとって悩みであった謬説や分裂について共同で議論し決議するために開いたものであると考えるのが最も当を得た見解であろう。
ローマ司教ウィクトルは197年にシノドを開催し、東方で慣習的に行われていた復活祭の日取りの決め方に反対を表明した。

第三世紀にシノドは制度として確立されていた。
256年にカルタゴ司教キプリアヌスは、異端者による洗礼は無効であると唱え支持を求めて87名のアフリカの司教を召集した。
第四世紀初頭には、イベリア半島の全司教区から19名のスペイン人司教と24名の司祭がエルビラに参集し、81ヶ条のカノンを決議したが、その内容は今日まで伝えられている。しかし、依然シノドの権威の有無は全教会からの支持を得るか否かにかかっていた。
しかし、第四世紀には制度としての確立が見られ、それはニカイアのカノン第五に年二回のシノドを開くべきことを規定しているところに表れている。
すでに、314年にはコンスタンティヌス帝により西方地域から33名の司教をアレラーテに召集し、ドナティズムと復活祭論争を討議させている。

それから十年を経て最初の普遍公会議がニカイアで開催されたが、これは最初の帝国公会議ともなった。
だが、その後のセルディカ343、東方のセレウケイアと西方のリミニで分かれて開催されたもの359-360などは普遍公会議としては実現しなかった。
その反面、帝国の東半分を対象として開かれたコンスタンティノープル会議381では、聖霊の神性という普遍的に重要性を有する教義を決定したのでローマ司教の権威に基き、西方でも普遍公会議として承認された。
大司教制と首都大司教制の成立に伴って、シノドスにもそれに相応する形式が出来上がった。総大司教シノドスと管区シノドスである。前者はアレクサンドレイアとアンティオケイア、時代が下るとコンスタンティノープルの総大司教によって召集されたもので、後者は、東方においては各管区で毎年二回開催されるべきことが定められ、司教選挙と叙階に関して決定を下し、各種の問題の解決に導く機会となった。

ゲルマン諸国家では、王が自国領内の教会に対する決定的支配権を行使したため、新しい型の教会会議、王国教会会議、国民教会会議というものが生まれた。それは一つの国家を網羅するものであり「総教会会議」とも呼ばれた。これは世俗の王国会議と結びついて開催されることもあった。中世を通してドイツの歴代の王らが帝国会議を催した際に、俗権の支配者らが出席することもしばしばあった。しかし、ブリテンではカンタベリー大司教の開催となり、俗権とは切り離されたものであった。
教会会議が支配者によって開催されたことに於いて、西ゴート、フランク、ドイツは「俗人支配」(ライエン・ヘルシャフト)を示しているということができる。
これに対してグレゴリウス改革の進展後に教皇が開催した教会会議は教皇権の自由を勝ち取る戦いの中で成功しつつあったと言える。


ローマ皇帝及び東ローマ皇帝に召集されて、帝国東部のニカイア、コンスタンティノープル、エフェソス、カルケドンで開催された八つの公会議は、その後ローマ教皇に召集されて西欧で開催されるすべての公会議に比べて著しく異なっている。
この為、年代的に観て、それらの一部分が初期中世に食い込んでいるとか、最初の四つの会議(厳密な意味での「古代の公会議」)が残りの四つに比べて重要性で卓越しているとかの相違にも関わらず、この八つの公会議を歴史的に一体と成すものとして扱うのが正しい。
教皇グレゴリウス一世は最初の四公会議を、その権威の観点から四福音書になぞらえた。これらの公会議が教会の基本的な教義である三位一体論とキリスト論に関する教えを定義したからである。この主要な機能に比べれば、取り扱われたその他の案件はいずれも二義的なものでしかない。
古代の公会議の場合、皇帝はその召集に当たってあらかじめローマの司教たちから同意、あるいはそれどころか委任さえ取り付けたかどうかという、宗教改革時代以来の、また最近では教義学者のショーベンと教会史家のフンクの間で激しく討論された問題がある。そのような同意や委任は存在しなかったということで決着がついたと考えてよかろう。しかし、それによって教皇たちが西方世界の総司教として、それも一種比類ない優越性に基いて公会議に代理を派遣したと、公会議に於いて教皇の特使が常に一種の特権的地位を享受し、時には議長を務めたこと、公会議の決義が普遍教会的効力を持つには、教皇の承認が不可欠とされたことも確かなことなのである。
コンスタンティヌス大帝は教会に自由を与えたが、また「教会を帝国に、帝国を教会に結びつけた」(シュヴァルツ)。しかし、教会と帝国とはそもそも至高者の問題、即ち創立者の位格を巡るひとつの宗教的紛争によって平安を乱されていた。
元来、教会は創立者を「主」(キュリオス)として崇拝し、創立者を神(創立者は自らを「その子である」と証言した)の側においた。また人々はイエスースの委託に従って父と子と聖霊との名に於いて洗礼を授けていた。問題は、この「主」の信仰、ならびに三位の名による洗礼式文と、キリスト教ユダヤ教から受け継いだ厳格な一神教の思考とが、どう一致しうるかというところにあった。
二世紀の末に神学的な思考が力強く興ったとき、それはこの秘儀と取り組むことになった。ロゴスと「世界形成者」(デーミウルゴス)それが神と人の間の神的・中間的存在の全段階のうちの最高位の存在という概念を提供して、この見掛け上の困難を解消し、人間理性に釈然と理解される道を拓いたかに見えたのは、ギリシア的思考であった。
三世紀の神学者たちの中には、この思考の延長線上にあって、サベリウスのように父と子と聖霊の三つの位格を一なる神の三つの現れ方だと説明する「聖子従属論」をとる人々が少なくなかった。
アレクサンドリアの司祭アレイウスは、その師アンティオケアのルキアノスからこのような見解を受継ぎ、これをさらに先鋭化した。アリウスによれば、ロゴスは「父によって創造されたもの」であり、永遠の属性を欠く「ロゴスが存在しなかった時がかつてあった」と言う。
アリウスは孤高の思索家のタイプではなかった。宗教家としての彼には、人の心を強く捉える一種の強烈な魅力と天賦の文筆の才とが備わっていたが、それで彼に傾倒する者たちが周囲に集まり、一種の共同体が形成されていた。
彼の上長の司教アレクサンドロスはある大きな教会会議で(318)アリウスを破門としたが、アリウスを支持する勢力はあまりにも大きくなりすぎていた。皇帝の信任の厚かったコルドバの司教ホシオスが調停を試みたが、徒労に終わった。この衝突が東方世界の全体を揺り動かすことになる。



■ニカイアの「三八一教父による大にして聖なる教会会議」

ロゴスの永遠性ばかりでなく、復活祭の日取りの問題など、教会内の論争が不穏な空気をかもしてしたので、コンスタンティヌスは帝国の司教たちをビティニアのニカイアに召集し、これに応じて参集する司教たちが高級官僚と同等の待遇で帝国の駅伝制度を利用できるよう命じた。
318名というが、今日その出席を確認できるのは220名余りであり、カエサリアのエウセビオスも250名を越す出席者を記すのみである。
その中では、シリア、キリキア、フェニキア、アラビアとパレスチナ、加えてエジプト、テーベ、リビアを含み、メソポタミアも居た。さらにペルシアからも一人、スキタイも欠けていない。ポントス、ガラティア、カッパドキア、アシア、フリュギア、パンヒュレイアからも派遣があった。トラキアマケドニア、アカイア、エピルスも派遣があり、ヒスパニアからは高名なホシオスも参加した。ローマはシルウェストルの高齢のため司祭たちが代理で来ていたが西方は甚だしく貧弱であった。

会議は5月20日から7月25日まで皇帝の夏宮殿内の大広間で行われた。
エウセビオス曰く、皇帝は親しく会議に臨み、平和を促すラテン語の挨拶を行ったが、討議そのものには干渉せず「公会議の議長たちに発言の権を委ねた」というのだが、この「議長たち」というのが誰かは分からない。この会議とこれに続くもうひとつの会議の記録が残されていないからである。

何人もの司教が「我らの主イエススの傷痕を身に帯びていた」というのはかつての迫害<313年以前の>迫害で毅然とした信仰を告白したからである。エウフラテス河畔のネオカエサレイアの司教パウルスは、灼熱した鉄で腱を切られ両手が萎えていた。エジプト人のパフヌティオスは、マクシミヌス帝のときの迫害で片目を失っていた。
アリウスは会議で自ら弁明に立った。彼の17名の支持者の内で最も雄弁であったのは、ニコメディアの宮廷司教エウセビオスであった。「度重なる長い審議と多くの争いと、綿密な熟慮のうちに」アンキラのマルケロス、アンティオケアのエウスタティオス、アレクサンドリア助祭アタナシオスらの指導する反アリウス派が優勢となり、彼らはカエサレアのエウセビオスの提出したカエサレア教会の洗礼用信経を改訂してニカイア信経を作成した。この信経は明確な表現を以って、ロゴスの、父への如何なる従属をも排斥している。--ロゴスは「父の本質から」出て、「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神、つくられずして生まれ給う者にして、父を本質(ホモウーシオス)の方である」。また、その付録で、アリウスの最も重要な諸命題が明確に排撃された。公会議は325年6月19日にこの信経を採択したが、二人の司教だけが署名を拒んだ。この両名はアリウスと共に教会共同体から除名され、追放に処せられた。信経は皇帝によって帝国の法として発布された。
公会議は、さらに一か月を要して他の小さい問題を扱った。復活祭の日取りは、春分の後の最初の満月の次の日曜とするということで和解(?)がなされると共に、アレクサンドレイア司教に算定が委嘱されることとなったが、この決定をも皇帝は帝国の法として採択した。
厳格なリコポリスの司教メレティオスは、ディオクラティアヌス帝の迫害に屈した人々に対するアレクサンドリア司教の処置に不満を持っていたが、公会議は彼に対してアレクサンドリア司教の権限への干渉を禁じた。
このほかに20の短い規定を定めそれらはカノンと呼ばれた。
<第2.4.6.11.20のカノンについては前記事を>
第17条は、利子収受禁止であり、これは以後の公会議で繰り返されたところを見ると、守るのが難しかったらしい。


■信経を巡る論争
ニカイアで敗北した親アリウス的な中間派は、数年後、ニコメディアのエウセビオスの指導のもとにコンスタンティヌス大帝に対する影響力を獲得し、アレクサンドリア司教に昇進していたアタナシオスへの容赦ない戦いに皇帝の力を利用した。335年アタナシオスはトリーアに追放された。(アントニウスの「伝記」は357に書かれる)
アリウス自身の教会共同体への復帰は、彼の死によって(336)かろうじて避けられた。342年のセルディカ会議は教会の統一を回復するどころか、新たな分裂を生み出した。西方の司教らはアタナシオスの廃位を不当だと訴えたが、東方の司教らは別個に会議を開いてアタナシオスの有罪を宣言し、アタナシオスを受け入れた教皇<ローマ司教>ユリウスⅠ世も排撃した。彼らはニカイア信経の「同一本質」(ホモウーシウス)の語を避けた新しい信経を作成し、子は父に「似た者」であるとか、「すべてにおいて似た者」あるいは「父と似た本質のもの」であるなどとした。
彼らはコンスタンティウスⅡ世を説得して、新たな帝国公会議を開かせ、西方ではリミニで、東方ではセレウキアでそれぞれ359年に開いたが、リミニで約400名はニカイア信経を再確認したが、セレウキアとは分裂することになった。コンスタンティウスⅡ世はトラキアのニケで起草された「聖書に従えば、父と子は似ている」という内容のニケ信経への署名を拒否した司教らを追放刑に処すると脅したが、教皇リベリウスとポワティエのヒラリウスはこれを拒み通し、このころヒエロニュモスの有名な一言が発せられた。
<このあと、著者の三一派偏重の主観的な文面があるので省略>
グラティアヌス帝とダマススによる平和政策(?)の成功を用意にしたのは、「新ニカイア派」バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリウス、ニュッサのグレゴリウスの仕事であった。彼らは「一つの本性と三つのペルソナ」という言葉でニカイアの定式文に適切な(?)理解を表現することによって、神学上の誤解(?)を一掃したのである。
もちろん、厳格な古ニカイア派(アレクサンドリアや西方)の人々が、不信の目を向けシスマの発生していたアンティオケアでは古ニカイア派のパウリノスと新ニカイア派のメリティオスの対立に関して前者に支持を与えたとしても理解できないことではない。
テオドシウス帝は、新たに帝国公会議を開くことによって、緊張を解き平和を確保する計画を持った。
この会議によって三位一体信仰に最後の要石をはめ込むはずであった。即ち、聖霊の神性に関するものであり、これにはアリウス派も半アリウス派聖霊は子の被造物であると説いてきた(?)。この人々にアタナシウスは362年と翌年の会議で論駁を加えた。ローマで開かれた幾つかの会議でこれらの「聖霊の敵対者ら」に有罪を宣したが、コンスタンティノープルの司教マケドニオスもそのような一人に含まれたので、その主張者はマケドニオス派と呼ばれる。



■著者のイェディンは、シュレジエン生まれ1900で、1924に司祭に叙階されている。その後ローマで研究を行い、宗教改革期とトレント会議に関わるアウグスティノ隠修士長ジロラーモ・セリパントについて著作を公刊している。彼の名著は「キリスト教公会議史」である。







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ペテロ第一4:6


[εἰς τοῦτο γὰρ καὶ νεκροῖς εὐηγγελίσθη, ἵνα κριθῶσιν μὲν κατὰ ἀνθρώπους σαρκί, ζῶσιν δὲ κατὰ θεὸν πνεύματι.]NA28

[εὐηγγελίσθη]動)直アオ受3単
[κριθῶσιν]動)仮アオ受3複
[ζῶσιν δὲ κατὰ θεὸν πνεύματι]


For this reason the gospel was preached also to those who are dead, that they might be judged according to men in the flesh, but live according to God in the spirit.【NKJV】


死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。【口語訳】


というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。【新改訳改訂3】


死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。【新共同訳】


このためにこそ、死者たちにも福音が告げられたのである。それは彼らが人間の目でみれば肉[体]としてさばけれても、神の目からみれば霊として生きることができるためである。【岩波委員】



所見;この『死者』というのが『霊に於いて生きる』とされていることでは、一般の死者を意味しないと解するべきように思える。つまり、この書簡が書かれた時期は、早くとも西暦60年に入っており、聖徒の世代も広くなっていて、既に初期の迫害や、老齢のために世を去っていた聖徒も少なくはないけれども、キリストの臨御の時期の復活により裁かれ、共に霊による天への召しに預かることを言う。



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使徒
[ὑπερλίαν ἀποστόλων]2Cor11:5/12:11
[ὑπερλίαν]はヘブライ語由来とのこと
偉大な、たいそうな

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サマリア

古いマケドニアの要塞としてアレクサンドロスが築いた入植地としてのサマリアはキリストの時代には存在していなかった。
ヨハナン・ヒュルカノスの時(前108-7)の攻囲によりユダヤ人によって徹底的に破壊されている。
前63年にポンペイウスは再びサマリアの街をユダヤから切り離した。
その後サマリアはガビニウスによって再建されたが、ガビニアと呼ばれていたかもしれない。
街は前25年にヘロデによって二度目に再建され街は拡大され一部は異邦人兵士の駐屯に、一部は周辺から入植者六千人が集められ、その街はセバステと命名された。そこはカエサレアのように異邦人が多く、アウグストゥス神殿とペルセフォネー聖域を備えており、サマリア人の宗教的中心ではなかった。そこのセバステーノイは半ユダヤ人であるサマリア人ではなく異邦人によって構成されていた。
ヨセフスはルカ同様サマレイティスを都市の名として使っていない。
「フィリッポスはサマリア(無冠詞)に下って行った」とではなく、エジプト史料にあるように冠詞を付け、「サマリアの首都へ下って行った」と解すべきである。だが、この解釈にも難点はある。なぜなら、ルカは一度もサマリアを町の名として使ってはいない。
シモン=マグスという人物とセバステとは宗教混淆的な環境を関連付けられると幾人かの学者は考えている。それはコレ=ペルセフォネーとゼウス(シモン)=「最初の想い」[πρωτη 'εννοια]としてのヘレネー(後代、ヘレネーはシモンの妻とされている)との間の関係を空想力豊かに関連付けることができると考えられていたためである。しかし、ルカは単に魔術師としての奇跡行為者として報告しているのであり、グノーシスの空想的思弁を読み込むべきでない。(シモンは自分をゼウスと同一視していたと見做されていたこともあり)


ゲリツィム神殿とシュカル
古いシェケムの遺跡の上にシェケムの町が再び建てられたが、前128年にヨハナン・ヒュルカノスによって神殿共々破壊され、以後歴史から姿を消す。
しかし、後72年にウェスパシアヌスによって北西1500mのところにフラウィア・ネアポリスとして再建されている。
シュカルは今日のアスカルであり、エバル山の南東の麓にある。そこは古いシェケム遺跡であるテル・バラタの北東1kmほどのところにある。この町の重要性はシェケムが無くなってから得たもので、ゲリツィム山から最も近い町であったことによる。
このシュカルがシモンの故郷とされるギッタではないかという推測は的外れで、ユスティノス以降の史料によって名前を挙げられているに過ぎない。ギッタがどこかは未だ決着がついていない。

ルカの著作
ルカはパウロの軟禁からおよそ20年から25年を経て二つの著作を書いたと思われるが、おそらく「我らの資料」つまり彼自身の手になる古いメモを用いた可能性が高い。この時間的な隔たりによって幾つかの不鮮明や間違いが説明できるが、彼の物語作者としての無頓着さをも考慮に入れなければならない。彼のこの無頓着さが批判的な学者たちによってこれほどまでに書きたてられることになろうとは、ルカも知る由もなかったろう。
ルカに学問的なレベルでの地理的な知識を要求するべきでない。・・エアランゲンの博士号を持っている神学部の女性秘書が「チュービンゲンってヘッセン州にあるんでしたっけ」と尋ねて以来、わたしは地理的な知識については驚かないようになった。(ゲヴァルト[J.Gewalt]がルカのシリアとパレスチナの地理にまったく通じていないことを立証している。G.Lüdemannは苛烈な批難をルカが地理に通じていないからと「信頼に足る歴史家として疑問」と繰り返し浴びせている1980が、それは彼には古代テクストを適切に判断する能力が無いことを証明しているだけである。)

Martin Hengel "Übersetzt unter der Genehmigung mit dem Autor"->

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今日も

Jos10:27





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メギラーからmemo

メギラー篇の補遺   ⇒ミシュナーの構成

ミシュナー2の後のゲマラ
ラビ エリエゼルは言った「わたしは人々が(捕囚から帰還した時代に、第二神殿の)聖所を建てていたとき、彼らは聖所と神殿のために幕を作ったと聞いた。しかし聖所には、幕の外側に(聖所の壁を)作り、神殿の庭の場合には幕の内側に(中庭の壁を)作った。」
ラビ ヨシュアは言った「わたしは(現在は)聖所が存在していなくても(その場所で)犠牲を捧げることができる。また(祭司たちは)幕がなくても最も神聖なる食事を摂ることができる。また聖性に於いて劣る食べ物と第二の十分の一税は、(現在エルサレムの)城壁がなくとも食べることができる、ということを聞いた。これは(ソロモンによるエルサレムの)最初の聖別は、一定の期間だけでなく、以後、永遠に亘って(エルサレムに与えられたからである)。」
(引用したミシュナーの分析)
このことからも、わたしたちはラビ エリエゼルが(エルサレムの最初の)聖別は永久的なものではなかったという見解であったことを推論することができる。
ラヴィーナはラビ アシに言った「この推論の根拠はいったい何か。そうではなくて、(エルサレムの)最初の聖別は、そのときの一時期与えられただけでなく、、恒久的に与えられたという教えについては、おそらく全員が合意したのではなかったか。そのうえである師は自分の聞いたことを報告し、別の人はまた自分の聞いたことを報告したということだ。その場合、なぜラビ エリエゼルによれば幕が必要だったのかと尋ねるならば、単に人目をはばかるためである、と答えることができる。」
たとえそうだとしても、これらのタナイームと異なっているのは次のタンナである。
というのはバライタに次のように教えられているからである。
ラビ ヨセの教え子ラビ イシュマエルは言った。「賢者たちはなぜ(特に)これらを(ヨシュアの時代から城壁に囲まれた城市の例として)数えたのか。これは離散の民が上ったとき、(ミシュナーに教えられている)これらの城市が(まだ城壁に囲まれている)のを見て、これらを聖別したからである。しかし、(他の城市は)土地が聖性を失っていたためにこの特権を失ったのである。」このことからラビ イシュマエルは最初に与えられた聖性は一時的なものであり、永久的なものでないという意見であったことが分かる。


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ユダヤ教の考え方

まず、Teffilinは Shemaを文字通りに行うことを目的としている その意味は「祈り」(テフラー)から来ているEx13:1-10、11-16、Deu6:4-9、11:13-21が4枚の羊皮紙に細かく記されている
『あなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(Deu6:8-9)
<しかし、これは目の間に置くとは額を表し、「常に念頭に置くべし」であり、手にくくりとは「行いに表すべし」と意味している。門口に記すとは「家に居る時も外出している時にも、銘記され二面性があってはならない」の意である。これを文字の表層通りにするとしたら、それは敬虔をひけらかすことではないか。>

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ユダヤ教徒の祈りへの認識

祈りは鬱積した感情を解放し、はっきりしない考えを具体化し、意志の力を奮い起こすなど、大きな精神作用を及ぼすものとなる。
祈りへの認識はユダヤ人の間でも、最大主義者と最小主義者の間に開きがある。
前者は、祈りの過程は純粋に自然なものであり、神という概念に人間が示すまったく正常な反応であるとする。後者は、神からのものに満たされ、自然の法則を遥かに超えた体験となるという。
前者は、祈りが物質的な世界に働きかけるのは人間の力によるものだ。とする一方で、後者は、人間から離れた部分や事柄にも直接の影響をもたらすとする。
超最大主義者ともいうべき人々にとって、自然のすべても神の道具に過ぎないので、奇跡も不可能でないという。
<この点で、ユダヤ教徒には広い範囲にばらつきがある。>

ユダヤ教では、一挙手一投足男子に律法の日々の規律を厳格に求めるが、女性に対してはほとんどを免除する。この理由として、家事への影響があると唱える人もいる。男子のように律法に縛られていては、家事が停滞することは目に見えているという。

男子は一日に三度の正式な礼拝(シャハリート・ミンハー・マアリヴ)を守るべきであり(ミンヤンが必要)、ティフェリンを外すまで食事を採ることができない。
生活のすべての場面で祝祷を持つことが命じられているので、彼らはその節目節目で神名を思い起こさねばならない。(当然、発音は求められない。しかし何と念じるか?)
朝に覚醒してから、どんな事を行い、どんな知らせを受けても、その都度短いながらでも祝祷されなくてはならない。それは床に就くまで継続する。(cf: パウロの書簡中の祈り)

ミシュナー・トゼファタ・タルムードのベラホートには「食前の祈りなしには何も食してはならない」これはユダヤ教徒には厳重な戒め(戒律)とされている。
そこで、イエスの祈りが感謝の色彩の勝った神の救いを想起させるものであるという見解には何の根拠も残されない。

<この習慣性が却って神との関係を無意識的なものにしたことをイエスは論駁したのでは?>

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דודקמחי ダヴィド・キムヒ (1160–1235) ラダクの略称で呼ばれる
プロヴァンスのナルボンヌ生まれで父ヨセフと兄モーシェはユダヤ教学者で彼は末息子
ヘブライ語作品の研究と文法の学者としてその著作は広くキリスト教徒にも用いられた。
代表作”Sefer Hashorashim”[ספר השורשים] これはKJV訳者らに有益と見做され用いられていた。
マイモニデスが父の世代に近くほぼ同時代とも言えるが、彼はマイモニデスの忠節なシンパであった。
彼はキリスト教徒との討論にも参加し、解釈についてユダヤ教ヘブライ語の観点から議論している。
その過程でキリスト教徒にゲーヒンノムの実体について教えている。
<その情報は彼以前からのものと思われるが未確認>

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EX25:29
וְעָשִׂ֨יתָ קְּעָרֹתָ֜יו וְכַפֹּתָ֗יו וּקְשֹׂותָיו֙ וּמְנַקִּיֹּתָ֔יו אֲשֶׁ֥ר יֻסַּ֖ךְ בָּהֵ֑ן זָהָ֥ב טָהֹ֖ור תַּעֲשֶׂ֥ה אֹתָֽם

[וּקְ שׂ!תָ יו]⇒ そして彼のための聖杯 "chalice" 
[וּמְ נַקִּ יֹּ תָ יו]⇒そして(彼が)注ぐための鍋"waste-pan"

注ぎ出す捧げ物のための「鉢」(液体容器、水差)

捧げ物用の鉢は純金で
香の祭壇の灰を処理する器具の鉢は銅で(EX27:3)

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新教徒との論程

・聖書に正しく従えばその人は正しいか?
自分たちは聖書に正しく従っているので正しい
ならば、正しく行う者は他の派でも皆正しいことになる
いや、正しく行えているのは自分たちだけである
では、どのように正しく行えているか
聖書が命じていることを正しく解釈し全てそのままに行っている
では、それは「行いの義」か
いや、聖書を信仰しているのでその通りに行う
聖書を信仰するとは聖書が信仰の対象なのか
いや、聖書は神の言葉なので神を信仰している
聖書は絶対なのか
神の言葉は霊感されているので間違いがない
では、ユダヤの指導者層が聖書に従ってイエスを殺害したのはなぜか
彼らは聖書に人間の命令を付け加えていた
メシアがナザレから来るというのは付け加えではなく不足だ
いや、聖書は真の崇拝者に必要な事は全て書かれている
その証拠は何か
幾つかの聖句にそう書いてある
では、なぜ自分たちだけが聖書の通りにできて他はできないのか
神の是認がないからだ
なぜ、是認がないのか
聖霊が注がれていないからだ
では、なぜ他には聖霊が注がれないのか
正しく聖書を理解しその命じることを行わないからだ
では、他も聖書に正しく従えば聖霊を受けるか
他は聖書の通りに行うことはできない
なぜか
神の是認がないからだ
なぜ、是認がないのか
聖霊が注がれていないからだ
では、神の是認や正しさは聖書に従うかではなく、まず聖霊の注ぎから始まっているではないか 
つまり正しさとは人の行動に由来せず神からのものと云える
だから実際はともかく、あなたは「自分が聖書に従っているから正しい」というのではなく「聖霊が注がれているから正しい」と言うべきだったのだ

「我々は正しく行為したからといって、必ずしも正しくはなりはせぬ。義とされているからこそ、正しきことを為すのである。
ルター「哲学者への抗議」奴隷意志論

だが、あなたはその結論を心外に思うだろう
その原因といえば、神の言葉を神以上のものにしてしまったところにある
神の言葉は神そのものではないからだ

多くの「クリスチャン」が聖書を絶対視するのは
それだけ自分と神が隔たっていることを認めてしまっているのだ

神との聖霊を介した繋がりを証明できず、自ら不安視していることが聖書への傾倒に出てしまっている。
ほかに頼れるものが無いからだ。






まして
聖書には多くの罠が仕組まれている
ヘセドやアガペーに反する者を捕えるための









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クレメンスのコリント人への手紙からmemo

クレーメース[Κλήμης] 召す者
伝統的にPhi4:3に登場する人物とされている。使徒ヨハネとほぼ同世代でトラヤヌス治世下で投獄されたとも
写本は1873年テオフィロス・ブリュンニオスによりコンスタンティノープルディダケーや第二の手紙と共に見出された。第一書は真筆と評価されている。第二書は挨拶なくそのまま講話が始まっており、書簡らしい体裁ではなく識者の間では本人の著作ではないと見られてはいる。しかし第二書では筆者がタナハへの知識に通じていることを示しており、ユダヤの背景を窺わせる。
ヘブライ人書簡の文体に似るともされるが、実際に「指導者」(ヘグーメノイ)という語彙は両者に共通している。Heb13:7・13:24


以下、おそらく96年に成立したとされるコリント第一書について

「ローマに居留する神のエクレシアから、コリントスに居留する神のエクレシアへ、我らの主イエス・キリストを通し神の御旨によって聖化された召されたる者たちへ」(ペテロの挨拶に近似)
1:1「わたしたちに突然に、また次々と降りかかって来た不運や災難のために愛する者たちよ(アガペトイ)君たちの間で論じられている事柄についてわたしたちが注意を向けるのが少々遅くなってしまったと思っている。」(これはドミティアヌス81-96の迫害とされる)

2:2「聖霊は君たちすべてに溢れんばかりに注がれていた。」+ 4「また、神に選ばれた者の数全部が君たちの憐れみと良心を通して救われるよう、すべての兄弟#のために骨折っていた。」(+パウロコリントスへの評価に一致 #ペテロの用語?)

第四章以降、アベルから始めて信仰の人々を挙例

6劇中人物のダイナデス、デュルカイを描写

12章ラハブの件を取り上げ、赤い紐を主の血と関連付けている。

25不死鳥フェニックスに言及、この時代詩篇92:12(LXX)の異音同語の誤解からキリスト教徒にも権威づけとして当時よく語られていたという

・40:5-41:4には
律法の神殿祭祀の手順の適用がある。ではこの手紙の成立年代は?単に終わったものとして描かなかっただけか。

そのほか、ヨブやイザヤからの引用が多い
レヴィのキリスト教職への敷衍もある
旧約の人々を讃えるところはパウロヘブライ人書簡を思わせ、著者はタナハにも通じており、相手方にもヘブライ文化が分かる者が居る

45:1からとうとう本音が出た(ここまで長く語りながら本論が終わり近くとは・・ステファノスの弁明か?)
「君たちは論争好きだ!」
46:5「なぜ争い、憤激、不和、分裂、戦争が君たちの間にあるのか?」
46:7「なぜキリストの肢体を寸断し、切り裂くのか?自分自身の身体に向かって反乱を起こし、たいへんな狂気に走って、わたしたちが互いに一つの身体の肢体であることを忘れるまでになっているのか?」
47:1「使徒なる至福者パウロの手紙を取り上げよう」2「彼は福音のはじめに君たちに何と書いたか?」3「彼は真実に基づき霊に満たされ、自分自身、またケファ、アポロに関して指示を与えた。あの当時にも君たちは党派を作っていたためだった。」4「しかし、あの当時の党派は、君たちより軽い罪をもたらすような程度だった。なぜなら、立派な評判の使徒たち、また彼らに是認されたひとたちを選り好んで党派を作ったからなのだ。」5「だがこの度は考えてもみよ、いったい誰が君たちを邪道に導き、誰が君たちの知れ渡った兄弟愛の評判を減じたか」6「愛する者たちよ(アガペトイ)、一人か二人のために堅固で古きコリントスのエクレシアが長老たちに背いたと噂されるようなことがあれば恥ずべきことだ。実際非常に恥ずべきことだ。」7「・・その結果、君たちは主の御名に冒涜を加えている。また君たち自身にも危険をもたらしている。」

49 使徒らのような愛の優越を説く部分あり。
ダニエル書正典と詩編118の引用あり

55はっきりとユデト書の内容を書いてエステルと並べているので、当時にはLXXが自由に読まれていた状況を示す。
57:1「騒乱のもとをつくりあげた者たちは長老たちに服従し、悔い改めに至る懲戒を受けよ!」2「服従することを学ぶが良い。君たちの舌の自慢たらしげな、また高慢な気負いを除くがよい。」

58:1-で彼は神について至聖なる荘厳な御名とし、神、キリスト・聖霊を分けて書き、イエスを神が「愛する僕」であること、選ばれた者らの数がある事についても語っている。
また、律法順守についての訓戒と思られる句もあり、ユダヤ教の痕跡もみられる。

64:1「諸々の霊の主なる、全ての肉なる者の主であられる神、イエス・キリストを選び、彼を通してわたしたちを彼の選びの民と成して下さったこのお方が、その壮大な聖なる御名を呼ぶすべての魂に信仰と怖れと平和と忍耐と我慢強さ、克己、純潔、節度をお与えなさるように、そうしてわたしたちの大祭司、また警護者なるイエス・キリストを通して、彼らが彼の御名の意に適うためである・・」(ヘブライ的で三位一体がまるで無い)
65:1「我々の許から遣わされたクラウディウス・エフェブスとワレリウス・ビトをフォルトゥナトゥス共々、平和の内に喜びを携えてすみやかに送り返してくれるように。彼らが、わたしたちの祈り且つ望んだ平和と一致をできるだけ早くわたしたちに報告し、わたしたちも君たちの良き秩序ぶりをできるだけ早く喜ぶことのできるためだ。」

(以上、小河 陽 氏訳から)

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ペテロやパウロのように、エクレシアに呼びかけるときに「聖なる者たちへ」または「召された者たちへ」と書く習慣が使徒後教父の初期段階で残っていたことは明白
例:ローマのクレメンスのコリント人への書簡(時期は使徒ヨハネの晩年に相当)
『聖化され、召されたる者たちへ』-コリント人への第一の手紙の冒頭の挨拶-

またクレメンスは、使徒ヨハネのように『愛する者たちよ』とも呼びかける。(コリント第一1:1)
「兄弟たち」(アデルフォイ)とは呼びかけないところは異邦人型であり、少なくともディアスポラの特徴を示す

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所見;使徒ヨハネの著作群とほとんど同時代(96年頃)、エイレナイオスより二世代は古い。ヨハネドミティアヌスの迫害でパトモス流罪となったが、彼はその後のトラヤヌスの迫害で投獄されているので、ヨハネよりは若いらしい。
冒頭で述べられている『不運や災難』というのは、時期的にドミティアヌスの迫害を言うらしい。このときローマでは91年に執政官に就任していたマンリウス・アキリウス・グラブリオ[Manlius Acilius Glabrio](95没)がおそらくその犠牲者のひとりであったとか考えられている。彼は他の二人と共に処刑されていることをスエトニウスが皇帝列伝に記している。また、ティトゥスドミティアヌスの従兄弟のフラウィウス・クレメンス(96没)がキリスト教徒であったことはよりはっきりしている。彼は妻のドミティラと共に糾弾され、翌年死刑が執行され、妻の方はポンティア島に追放された。罪状は「無神論者」「改革論者」であった。この書簡の書かれた時期はほとんど同じであり、その影響はコリントスにも及んでいたに違いない。
書簡の前2/3はヘブライ書簡を思わせる内容で、著者はLXXを用いるディアスポラユダヤ系であることを強く匂わせる。
基本的に聖徒と聖霊の理解は使徒と同様であり、三位一体の裏付けはまったく不可能で、キリストと神の関係、また御名が神のものであることを文面は示す。ただ聖典に含まれた諸書を比べると所々聖性に弱く比喩としては興味深いものが見えなくもないが、新たな啓示が無いうえ、異教の神話などが数回挿入され、全体に冗長な印象は拭えない。ラハブの赤紐も思い付きの範囲を出ない。
アガペトイとアデルフォイは同じくらいの頻度で現れ、ヘブライスタイとヘレニスタイに同比重を持つ。
このクレメンスの旧約の造詣はかなり深いので、ヘブライの背景があるはず。 ヘレニズムの知識もあり、はっきりとLXXを引用し詳しいところを見るとディアスポラだったとはまず云える。
文面では彼は使徒たちと面識があり、オリゲネスはPhi4:3に記されたクレメンスをこのローマのクレメンスであるとしている。
しかし、本音が出るまでよくも延々と旧約を語れるところは相当に詳しく、しかも自身の中でよく消化されて血肉のようになっている。それが滔々と語ったような流れがある。場合によっては本旨を外して文面が終わりそうな勢いがある。
彼は、パウロを識っているばかりか、コリントスの人々に悩む姿を見ていたのかも知れない。その辺りは使徒への同情を込めているように読める。
コリントスの分派傾向は一続きのものだったか?40年後に繰り返されており、しかもパウロの死とこの手紙より早いドミティアヌスの迫害を間に挟んでいたとすると、30年くらいに二度起こっていたことにはなる。パウロが二通の手紙を送り、自身が現地に行っても、これが改善したということは明記がなくルカも言及しないで済ませた。むしろパウロはケンクレアイでヘブライスタイに命を狙われており、おそらくはコリントスの論争はくすぶったと思われる。
この手紙の成果については分かっていない。これは後のユスティヌスのような人物が何人か居て、哲学論争していたという「高級」なものでもない。分派抗争には必ず「仕切りたがる」高慢な性格の持ち主であるボスが二人以上存在しているであろうし、その性格は大抵、ほとんど持って生まれたほどに染みついており、改善は難しかったろう。この手合いは自分の低い程度を省み、謙虚に振る舞うことはほとんどできない。魂から何事も主人であると錯覚しているかのようなのだ。やはり謙虚に振舞おうとしたパウロコリントスで悩まされたように現代でもよくこの手合いに出くわす。この輩は自分がボスとして振る舞えないことを「自己存在の危機」のように感じとる。どうやら親の世代に問題の種が撒かれているらしい。不幸ながら幼少期からのもので治すのは相当に難しいらしい。それでもクレメンスは訓戒しないわけにゆかなかったのだろう。そのため、長い前座で同意できそうなタナハの事例をいくつも挙げている。ならば、相手はヘブライ系と思われる。






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カトリック布教の遅れたブリトゥンの事情

第八世紀まで十四日主義者が居たという件ですが

中世ブリトゥン島は、多様な色彩を見せるかのようにキリスト教が一色ではありません。
第三世紀のアレラーテ会議にカンタベリーなどブリテンから三人のローマ派司教が参加していたとの記録があり、この時代に島の南部にキリスト教が達していたことは明らかです。
伝聞によれば、早くもティベリウス帝期にキリスト教はブリトゥンに達していたとも言われます。

しかし、その後は王朝の交代などに伴いカトリックと従来派とのオセロゲームの様相を見せていた様が伝えられています。または、野球の攻守交代、つまり支配者が代る度に「チェンジ」が行われていたかのようです。(ブリテンとキリスト教

それは、アイオナ島の修道院を拠点とする旧来のケルト教会派と北進してくるローマ・ヴァチカンからの勢力のせめぎ合いの場でありました。

しかも、古いアイルランドに由来するキリスト教は三一派でなかったと聞いております。
ケルト教会の方がカトリックを圧倒していた時代があり、それも西欧沿岸部からドイツ方面に進出していたというのは、あまり聞かない情報でありますが、そのあたりを触れられたくない三一諸教会の事情もあるのでしょう。
そこでニケア信条以前のキリスト教の残存があっても不思議はないでしょうから、14日遵守も有り得ないことではなさそうです。
あと、気になるのはユダヤ人の動向なのですが、スペインには確実に到来しており、ブリトゥンにもそれなりに居てもおかしくはないと思うのですが、ブリトゥンの治安や安全という面で考えると、ローマの撤退後にヴァイキングやらノルマンやらに襲撃を繰り返されていますので、わざわざ行く所ではないようです。(塔の避難所の入口の高さが侵略の脅威の大きさを物語っています)
そこでユダヤ人が居ないような場でどのように14日を計ったかに幾らかの問題も感じますが、月齢で判断していたのかも知れませんし、曜日分けで聖別していた可能性もあります。これはエイレナイオスのような古代人からして、当時でも明確な取決めがなかったと述べています。


さて、十四日遵守の痕跡の直接的な証拠としまして

ローマ派のヨーク司教ウィルフィード[Wilfird(633c-709c)]なる人物が、彼の反対者と復活祭の日付を巡って争ったという記録があります。(ウルフィラスに似てますね)
ただ年代は664年ということですが ⇒ Synod of Whitby

この事情はWikiの「十四日主義」でも見られます→Quartodecimanism "Regacy"

Wilfrid, the 7th-century bishop of York in Northumbria, styled his opponents in the Easter controversy of his day "quartodecimans",though they celebrated Easter on Sunday.


これを近代の学者連は十四日派の残党であろうと観ているというところに8世紀まで十四日派が存続した根拠があるということです。


ですが、ご存じと思いますが、十四日派への異端宣告はアンティオケイア会議(341)で、カトリックローマ帝国の法で地歩を固めるよりも40年ほど古いですし、早くも第二世紀初頭でアンティオケイアのイグナティオスが小アジアの習慣を「古い習慣」として(おそらく十四日遵守を)批判しておりますので、一神論よりずっとはやく退けられていたものに思えます。
既にニケアーでパスカの日付の決定がアレクサンドレイア司教に委ねられていましたが、これは日曜を主日とし、春分後の満月の次に来る主日にパスカを行うもので、しかも夕刻に日付けの変わる暦ではありませんでしたし、この論題は一神論のように尾を引いておりません。

⇒ 参考

十四日主義が残っていたとすれば、ニケアーを超えて、それ以前のウルフィラスに比べるほど古いキリスト教ブリテン島に残っていたことにはなります。少なくともカトリック式の「コンプトゥス・パスカリス」(Computus paschalis)で日付けを定めない主の晩餐を行っていたということは言えるのでしょう。


しかし、第8世紀のヨーク周辺(ノーザンブリア)にどんな形で十四日主義が残っていたのかは定かでありませんし、単にカトリック方式ではない「主日」を守っていた可能性もあるのではないかとも思えますが、中世初期に於ける非カトリックケルト教会の勢いは大陸に達し、オランダからドイツに迫る勢いであったとのことで、ケルト教会でなかったことを考える方が難しいくらいなのかも知れません。

それでも、中世ブリトゥンは何が出て来るか予測も着かない意外さが期待できそうです。この辺り、現状で誰かが何か断言できるものでないようです。島の北辺に行くほど伝説の要素が高まるようです。ただ、ドルイドとの確執はあったものの、やがてドルイドたちもがキリスト教に改宗し、ブリトゥン島よりはアイルランドの方がキリスト教の事情は安定していたようで(アイオナ・アビーはアイルランド由来)、初期アイルランドは西欧沿岸に宣教者を派遣するほどであったそうです。この勢力はカトリックではありません。アイオナ修道院

しかし、古代のエイレナイオスやエフェソスのポリュクラテースのような理解を期待することはまずできそうありません。キリスト教は第二世紀に一度出来上がり、その後は聖霊を失って後退を続けたために、時代が下るに従い劣化したからです。
それでも、「カトリック教令」の以前の姿のキリスト教が欧州辺境に命脈を保ち、それがカトリック布教の遅れた地域で8世紀に至るまでその教理の残像を残していたというのは有り得ることでしょう。




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パトリキウス(c.387-461)(聖パトリック)
ウエールズ生まれで本人の告白では16歳のときアイルランドの海賊に拉致され奴隷に売られ6年間を羊飼いとして過ごす。
その後「声を聞き」、脱走して長距離(200マイル)を歩いて逃れ、船に乗ってウエールズに帰還。(同行者と共に飢えたとき祈るよう言うと猪の群れに遭遇し尊敬を得る)
やがて改宗して、432年には教皇からアイルランド宣教を命じられ、同年に赴任(とされる)。
三つ葉のクローバーを用いて三位一体を説いたと伝承される。(アイルランドには三面相の女神が複数存在していた<ベル神?>グレート・ドルイドも三人;アイルランドのベルはカルタゴのバアルとされる)

コルンバは563年に12人の同僚と共にアイルランドからアイオナ島に来て修道院を建てた。
ピクト人とスコット人への宣教の要となった。
修道院は当初木造であったものの、度重なるバイキングの侵略を受けた後、800年ごろに石造りに代えられたと伝えられる。
コルンバは多くの修道院を建設したものの、本拠はアイオナに置いていた。
しかし、アイオナの修道士たちは大陸に渡り、ベルギー、フランス、スイスに修道院を造っている。
1203-4年にかけて、ノルウェー王の介入により、跡地にベネディクト会、またアウグスティヌ会の修道院を建てるよう命じ、それによって当地のコルンバからの流れは断たれた。
その後、宗教改革期にそれらの修道院も荒廃し、現在の修道院は1938年以降というごく最近に再建されたものとなっている。
しかし、敷地外にある聖マルティヌスの十字架はケルト様式で800年代のものとされている。
(なぜ三一派の聖マルティヌスがここに出て来るか?何かの痕跡を抹消したのでは)
<十字架についてはアイルランドでもかなり古くからあるがラテン十字ではない。ケルト風のものは何かドルイド系の文化が混じったらしい。
また、「三つ葉のクローバーを用いて聖パトリックが三一を教えた」という伝承は「どうも変だ」と思えるところ、疑わしく思えるのはカトリックからの任命を本当に受けたのかというところ>
比較的新しい7世紀の伝承はパトリキウスとパラディウスを混同するほどで信憑性は薄くなる。




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ハグ ハ スッコートに込められたもの

聖書中ではハグ ハ スッコートだけでなく『取入れの祭り』(出埃23:16 )『主の祭り』または単に『祭り』とも記された。
ヨセフスはヘブライ人最大の祭りと述べ、プルタルコスは「バッカスの祭典に似る」という。

タルムードでの「スッカー篇」は第二巻「モエッド」(季節or祭)の第六篇に当たるが、この篇ではハグ ハ スッコートに関する規定と意味が扱われる。(以下、スッカー篇から)
祭りはテシュレイの15日から7日の間行われ第一日は「良き日」[ヨム・トッブ]であるが、八日目の第二(シュミニ)アツェレトとして独立しているかのように扱われる。現在はスィムハット・ト-ラーと共に締め括られている。
第一日[ヨム・テルア]にはトーラーに従い、立派な木の実、ナツメヤシの葉[ルーラヴ]、茂った木の枝、川柳[アラヴォート]の枝を取ってきて・・七日の間喜び祝う。(Lv23:40)
第二神殿時代には、ルーラヴを振り回し、祭司は柳の葉で飾った祭壇をハレルを歌いつつ周回したという。その伝統が今日での四つの植物[アルバア ミニーム]による祭礼の方法に見られる。即ち、ルーラヴ、ミルトス(ハダスィム)の三枝、アラヴォート、エトログ(シトロン)の実、の四種類。(Neh8:15)
今日でも七日間、賛美が唱えられるが、その前からルーラヴを上下四方に振り回す。またバーマーを周回する間にはホシャナーを唱え、その結びになる度に「我らを救い給え、ホシャナー」と唱和する。
七日目はホシャナー ラバー(大ホシャナ)と呼ばれミシュナー時代には、「柳の枝の日」とされていて、祭司が祭壇を七周してから、柳の枝で地面を叩いた。(何回?)柳の枝の祭儀を七日間というのは、七日目が安息日でも安息日の規定を差し止めて行うことができる理由は、ラビ ヨハナンによれば、「祭りの儀式がトーラーによることを表すためである」もし、そうなら、ルーラヴについては(毎日行うことが)安息日の規定を差し止めることをどうして表さないのか?・・・以下、安息日の規定と柳の枝とルーラヴの扱いとが延々と論議される・・・
(第四章)ただ、アバイェは「毎日、人々は祭壇を一度巡って『どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。』というが(柳の枝の祭りの第七日だけは祭壇を七回周る)。」と。但し、そのときに柳の枝を持つのかルーラヴを持つのかで、また議論が始まる・・もし、第七日が安息日に当たったなら、人々は前日に柳の枝を持参し神殿の中庭に置いておく。(論議の途中でこれはモーセへの口伝であったと言い出す場面もあり<ラビ ヨハナンがベート ハヴァルタンの野に住むラビ ネフニヤの名に拠って>しかもラビ ヨハナンは本当にそう言ったか言わないかと論議がある)
「水汲みの義」は祭りが終わってから行われた。(八日目?他の資料では第二と第四というが?いや、「水汲みの儀」は安息日以外毎日だったらしい)今日ではこの日にスィムハット トーラーが行われている。(この八日目を違えないためにディアスポラでは九日目にも行われたと)

スッカー第三章にはルーラヴの長さが規定されており、「振るのに充分な長さ」が「3トファ」とするが、ラヴ ユダはシュムエルの名によって語り「ミルトスとアラヴォートの最小限の長さは3トファであるが、ルーラヴは4トファである」としている。しかし、ラビ パルナハはラビ イライの子のラビ ヨハナンの名に拠って「ルーラヴの幹がミルトスより1トファ飛び出している必要がある」と語ったと・・(この後も長さについてラビたちがあれこれと語った様が書かれている)
ミシュナー12;はじめに(「昔は」の意)ルーラヴは七日間神殿の中に飾られ、地方では一日であった。
聖なる家が破壊されてから、ラバン ヨハナン ベン ザッカイは、神殿を記念して、ルーラヴを地方でも七日間掲げる規定を布告した。ゲマラでは神殿の再建が何時になるか(ペサハの時期を想定している)によって初物に与るべきか否かを論じている。<ベン ザッカイは神殿が遠からず再建される希望を持っていたことが分かる>
ミシュナー13;祭りの初日が安息日と重なった場合、すべての民は彼らのルーラヴを(その前日に)会堂に携える。それは「人は祭りの初日に仲間の所有するルーラヴを(借りて)振っても、義務を果たしたことにならない」と賢者たちが言ったからである。しかし、他の日であれば、義務を果たしたことになる。
ゲマラ;かつて次のようなことがあった。ラバン ガマリエルとラビ ヨシュア、ラビ エリエゼル ベン アザルヤとラビ アキバが船旅をしていたがルーラヴを携えていなかった。ただラバン ガマリエルだけは1000ズズで買い求めたルーラヴを携えていた。彼が自分の務めを果たした後に、ラビ ヨシュアに贈与し、ヨシュアはそれを用いて務めを果たした。ヨシュアはそれをラビ エリエゼル ベン アザルヤに贈与し、彼もそれを用いて務めを果たし、それをラビ アキバに贈与した。ラビ アキバもそれを用いて務めを果たし、ラバン ガマリエルに返した。・・・これが書かれたのは、掟を実行することが如何に大切かを知らせるためである。<ではユダヤ最大の祭りの最中に旅に出ていたのか?>

八日目の独立性については、ラビ ヨハナンは「祭りの八日目、大集会の日に、人々は季節の祝福を唱えるが、(別の意見では初日)七日目には唱えない」また「八日目は別個の祭日であることを知るであろう。それは三つのことで区別される。即ち、仮庵の使用、ルーラヴを振る儀式、そして献上水の祭儀の三つである」第四章(しかしラビ ユダは違う意見)そこから無酵母パンの祭りとの相関性も書かれるが、第一日ではなく第七日について論じている・・
⇒「シェミニ アツェレト

献上水については 第四章
ミシュナー9;「3ログ入る(金の細口の)水差しにシロアムから満たしていた」と
「彼らが水の門に達したときにショファールを長く、それからヴィブラートをかけて、そして再び長く吹いた」(それから祭司は南側にある)坂道を上り、左(南西の方角)に曲がった。そこに二つの銀の器があった。(ラビ ユダは「1ログの水を毎日、献上水として捧げていた」)献上水の祭儀を行う祭司に、人々は「あなたの手を高くあげてくれ」と言う。(ある年、祭司が自分の足に水を注いでしまったことがあり、人々は全員でその祭司(サドカイ)エトログを投げつけた)
ミシュナー10によれば、「週日の祭儀は安息日のように行う。しかし、安息日の前日に限って、シロアムからの聖別していない水を金の容器に満たして、神殿の一室に安置していた。しかし、注ぎ出すか、露わにしていた場合、(中庭の)海から満たしていた」
ゲマラによれば
『喜び[サソン]と楽しみ[スィムハー]が彼らを迎え』によって異端の言説があったと(言うのだが・・)
また、タンナーの権威によって言われるとして「祭壇に上る者はすべて右側を上り、祭壇をまわって左側から降りる。」しかし、例外があり、トフセタでは、「水と葡萄酒を捧げるとき、祭壇の東側が混んでいて燔祭の鳥を捧げるときである」
祭壇(の近く?)には穴があり、それは淵に下っている。レーシュ ラキシュは「葡萄酒を祭壇の上に注ぐときには、(祭壇の下の)にすぐに流れ込まないように栓がしてある」と言ったと
この章では詩篇47:10の『諸国の民から気高き(自由の)人々が集められアブラハムの神の民となる』の句についてラヴァの見解を述べ「それは気高き人と呼ばれた我らの父アブラハムの娘のことである」と言っているのだが・・・

なお、「ハ ショエヴァー」の語源については諸説あるようで、ゲマラはそれらを第五章で羅列している<Hashoeivah>
しかし、ミシュナー1aによるとその言葉は場所を表していて、現在は神殿のどこであったのかは不明とされている。ラヴ ユダとラヴ イナは「一人は汲み上げる場所がショエヴァーであると言い、一人はハシュヴァーと言う」これについてマル ズートラは「どちらも混同しているわけではない」と言い、Isa12:3を引用し「・・救いの泉から水を汲む[シャアヴテム]と書いてあるから」また「それが重要な[ハシュヴァー]掟であるから」と言う。
この祭儀は毎日行われた痕跡として、縦笛の吹奏があり、五日間、また六日間行われたと<ミシュナー1a>この後、ラビたちは音楽の本質が器楽にあるか声楽にあるかを議論している・・
ラビ メイルによれば、「神殿での楽器の奏者は祭司の下僕であった」
ラビ ヨセは言った「彼らはベート ハ ペガリームの一族とベート ツィポリアの一族であった。彼らはエマウス<ティベリアに近い>の出身であり、娘らを祭司に嫁がせた」(もしそうなら、声楽が主体で器楽が副となるがよろしいか、とも)するとラビ ベン アンティゴノスは「彼らはレヴィ人であったと言う」・・・この水汲みの祭儀での歌は安息日の規定を差し止めるか否かが論議される・・・

有名な「ベート ハ ショエヴァーでの歓喜を見たことのない者は、生涯の内で歓喜というものを見たことのない者である。」というのは第五章のミシュナー1bに有る。<他の資料と総合すると、水汲みは朝に行われるが、ベート ハ ショエヴァーそのものは夜間であることが分かる>

ミシュナー2;祭りの最初の日の終りに、祭司とレヴィ人らは婦人の中庭に下る(ミドットによると15段)そこで彼らは(男を下に女を上に割り振る)大きな規定を制定した(シュナゴーグの初期がそうだ)そこには金の燭台があり、それらの登頂に四つの金製の皿があり、それぞれの燭台に(四つの?)梯子がついていた。(タンナの権威によって指示されている。燭台の高さは50アンマあった。<これは誰が言ったのかよく分からないが場所としてはラヴ パパに相当する>)
祭司職の若者の中からの四人は油が120ログ入っている壺を手に持って(梯子を上り)それぞれの皿に油を灌いだ。
(彼らの手には30ログ入る壺があり、全部で120ログである<これは誰が言ったのかよく分からないが場所としてはラヴ パパに相当する>)

ミシュナー3;祭司たちの古い下着や帯から裂き取って灯心を作り火をともした。エルサレムにはベート ハ ショエヴァーの光によって照らされない中庭は存在しなかった。


ミシュナー4;敬虔な人々と善行をする男たちはその(燭台)の前で踊った。彼らの手には燃える松明があった。彼らはその前で歌い賛美を唱えた。
レヴィ人たちはハープとリラとシンバルとラッパと数えきれない楽器を奏でた。・・・
鶏が鳴くとショファールを長く、それからヴィブラートをかけて、そして再び長く吹いた。彼らは彼ら(参列の男たち)が東の出口の門に達するまで長くショファールを吹いた。そして彼らは言った。「この聖なる場所におられる主の神殿を我らの父たちは背にして立って、顔を東に向けた。そして東方の太陽を拝んだ。しかし、我々は目をヤハに向ける」と
ラビ ユダは、彼らは二度目には「我らはヤハのもの、我らの目をヤハを向く」と言ったと <この意味については諸説の議論が書かれている>
祭礼の全体で何回のラッパが吹かれるべきかについても諸説あり、ラビらの説が羅列される。


第二章ゲマラの中で;ミシュナーは「女、奴隷、子供には仮庵の義務から解かれている」とされ『すべてイスラエルの内に生まれた者』Lev23:42との矛盾はないとする。ミシュナー;スッカー:2:8
しかし「母に依存することのない子は掟を果たさねばならない」とも
では、そこで「母に依存することのない子とはどういう子供のことか?」ラビ ベン ラキシュは答えて曰く「(自分で)目覚めることが出来、「かあちゃん」と呼ばない子供のすべてである」そこで反論あり「大人でもかあちゃんと呼ぶ#輩が居るではないか」・・・・w #多分、目覚めてから
このあと、雨が降ったらどこで掟が解かれるかの議論・・雑炊がダメになるまで云々・・・


ユダヤには儀式的沐浴があり、その水は人工的に集められたものであってはならず、自然に集まった水の中に身を沈める。これを規定したトホロートはパレスチナ以外で守ることは難しい。自然に集まった水は『生きた水』という。貯水槽の水はそうは呼ばれない。泉や川から汲まれた水でなくてはならない。(Ezk.Zec.Revの水がそうでは?ヴェート ハショエバー?)


所見:ラビらはなぜ止め処も無い論議を続けるのか?それはどうやら、キリスト教の祈祷書の朗読や、仏教の念仏や声明のような効果があるらしい。つまり、宗教的雰囲気や敬虔さに浸っていられる時間の創出のようらしい。
そこで、外部からすればたいへんに非効率である文書に却って意味が出て来ることになる。むしろ、非効率さが膨大な時間を生み出し、与えられた経典の言葉を触り回すことで、聖なる事象に関わっている自分たちに心酔することができる。だが、そこで聖典の授与者との意志の疎通は重要ではなく、神を聖典の中に押し込め、偶像化して拝み崇めていることになる。

これはユダヤ教が神殿祭祀を行えなくなり、かつての神殿での祭祀がどうであったのかを議論することで、失われた律法に従い、口頭伝承に描かれた古き良き日々に思いを馳せ、年毎に回想しつつ、それを会堂での小規模な儀礼に模型を見ては慰めを得ているようである。
タルムードが随所で示している事は、第二神殿時代のことでさえ不明になってしまっていることが多く、ラビらの延々と論議するのは記憶はおろか伝承も途絶えてしまって詳細を語れなくなっているという現実であり、タルムードの記述を証拠に何かを語ることには聖書のような信頼性はなく注意を要する。
その後のユダヤ教については、会堂ではいくら古式を模しても、捕囚期のようですらない異なりがあることは否めない。そこで聖典の授与者との意志の疎通は重要ではなく、神を聖典の中に押し込め、聖典を絶対化して偶像化し、その周囲であれこれ些末なことを議論しつつ拝み崇めていることになる。ユダヤ教には依然として終末のメシアによる回復が待たれているかのように聖書が読めるかもしれないが、それらネイヴィームの言葉は、肉のイスラエルを離れ、神のイスラエルというキリスト教徒の中の聖徒に起り、彼らが奇跡によって継承するものであり、もはやユダヤ民族に残された格別の恩寵は特に無い。これまで存続して来られたのも、終末での一働きが残っているからであろうが、その業そのものは絶望に向かう道であり良いところは少しも無い。できるなら、熱狂的な仲間のユダヤ人を離れ、冷静に神の業を眺める環境を自分に整えるなら、その人がユダヤ人であることで幸いを得ることもあると思われる。

神殿の喪失の以後にミシュナーの編纂が進み、その後、会堂が崇拝の場としての機能を代替する歴史の中でタルムードが完成してゆく状況が、その必要に応じてタルムードの内容を形作っていた様がよく分かる。やはりユダヤ教徒からすれば、メシアが遅すぎるのだろう。それでもたとえ彼らのメシアが現れても、モーセが命じたようにはそのメシアを受け入れる素地は、このタルムードの精紳からして持っているとは言い難い。
それはキリスト教にとってキリストの再臨が遅いのと同様であり、彼らも聖書の周りで非効率な論議に終始している。その基を据えたのが、ルターの「聖書のみ」なのであろう。最初はエズラのようであっても、やがてタナイームやらパリシームやらに相当する「指導者」が現れてくる。こうして眺めると、双方共に相似形が見えている。
ユダヤ教は初臨のメシアを退け、キリスト教は再臨のキリストを退ける構図が見えている。聖典をいじり回している内に、戻り難い人間の伝統宗教を打ち建ててしまい、聖書を書き終えられたものとして神の行動を想定して来なかった。だが、どちらも奇跡の偽メシアに遭遇することになろう。

だが、仮庵の祭りの本旨とするべき内容が垣間見える。しかし、まだはっきりとはしない。ヨム キプルとの関連、またヨベルの真意を探る必要がありそうだ。<ペサハの時期に比べ、スッコートの時期はエルサレムの平均気温が10度ほど高い>






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ユダヤ教徒にとってのタルムード

モリス・アドラー Morris Adler ”The World of the Talmud”
引用とメモと所見
(括弧内は自問)

「タルムードは知恵と思いやりの心を授けてくれる宝庫であり、そこで正しいと認めている事柄を個人的、社会的生活の中でいかに行動的な力に移し変えるかという要求にかかわっている。」

「タルムードは不合理な程にほとんど知られず、非常に誤った判断をされてきた作品である。これまでタルムードは酷評され続け、発禁や焚書処分を受けてきた。その迫害の歴史は、これをつくりあげた人々が受けて来た迫害の歴史に匹敵するといわれている。タルムードを「死書」として葬ろうという試みは、固い意思のもので絶えず続けられてきた。迫害の理由は、タルムードがキリスト教の信仰と、この信仰を生み出した人々たちを冒涜するものだからだというのであった。そればかりか、キリスト教の信仰を守り続ける人々の堕落と非道を助長しているからだともいう。教義や律法は、タルムードのせいで、人間の悪魔的な想像力の限りを尽くした忌まわしいものだとされた。」


ナチスの哲学者と呼ばれる」アルフレート・ローゼンベルク”タルムードの不道徳性”

「西欧文明の伝承や文学の中で、パリサイ主義やパリサイ的ユダヤ教徒、パリサイ人といった言葉に今なお悪い連想がつきまとっている・・」「パリサイ主義の真の意味を理解しないで、形式的な律法主義、狭量性、独善主義、偽善、杓子定規的な法律厳守といった概念と同一視するようになったのは新約聖書に原因がある。」「西欧文明と切っても切れない関係をもつユダヤ人は、ともすると自分たちの背景についての、こうした何世紀にもわたる根深い誤謬を安易に受け継いで、犠牲者の身に甘んじてしまうことがある。そのようにすることは、知らず知らずのうちに、真実の歪曲に手を貸し、ユダヤ人としての自尊心に泥を塗ることになる。」
「十何世紀も前、一人の異教徒が偉大な賢者に、自分が「片足で立っていられる」程度の短い時間内にトーラーの定義を聞かせて欲しいと言った。すると「自分にしてほしくないことを人にするな。これがトーラーだ」という返事がかえってきた。」-このあと改行しただけでタルムードの解説が続く-(だが、トーラーとタルムードには雲泥の差があるのでは?)

「タルムードは63の項目から成り、そのうちで一人の著作者だけの手になるものは一篇もないのだ。」
「タルムードは、肯定的な言い方をするならば、その作成に要したおよそ一千年の間にユダヤ人たちが追求した知的、社会的、民族的、宗教的な活動の広範囲な記録である。」

「クリスチャンの学者(誰?)は次のように書いている。「パリサイ主義は理想を信仰の対象としているのに対して、キリスト教は理想とする一人の人間を信仰の対象としている」と。この「パリサイ主義」という言葉の代りに、もっと包括的な「ユダヤ教」という言葉を使えば、ユダヤ教キリスト教の基本的な違いをついたことになる」(新約聖書を書いたのはキリストの弟子たちであり、ネイヴィームが霊感を受けてそれぞれに預言書を書いたのと変わらないのでは?)ユダヤ教にはキリスト教の信仰の中心的人物のように崇められ神聖視されている人物はモーセを含めて存在しない。・・もしモーセが居なかったならエズラが律法を受けたであろう。

バビロン捕囚を解かれて国に帰ったエズラは仲間と共にトーラーの地位を高めることに心を砕いて、再建を願ったユダヤ的生活の最高の位置にあるものとした。『エズラは主の律法を探り、そして行い、イスラエルのうちに掟と法を教えることに専念した』(Ezr7:10)とある。この「探り」という翻訳されているくだりのヘブライ語「リドロッシュ」は「注解する」という意味でもある。トーラーには人々がさまざまな変化を受けた場合にも適切に対応できる機能性が備わっていることを示している。トーラーは注解によって拡大解釈が可能であり、このプロセスを表すヘブライ語は、エズラ記で使われた言葉の語源から派生している。そのプロセスがミドラシュ、即ち注解である。」
「こうして注解をはじめた人たちはソフェリームと呼ばれた。」「ソフェリームたちの真の目的は、聖書が行いと信仰の手引きとなって、その言葉や教えが善行とよい習慣を促し、善良な生活と気高いこころに導く力になるようにすることだった。聖書が共同体の生活と個人の生活にとって欠かせない、中心的な権威となることだけは少なくとも実現させたいと願っていた。」「ソフェリームが登場した時代はユダヤ人の生活に宗教の民主化と文化革命をもたらす先触れとなったのだ。」

「ソフェリームは聖書に書かれていることが、かならずしもすぐ実行に移せるとは限らなかったことを知った」「聖書は、本来が神の手になるものであったにもかかわらず、あいまいな箇所がいくつかあった。・・それを遵守する方法がわからないこともしばしばあった。何度も繰り返し出て来て、なぜそのように頻繁に出て来るのか理由が説明されていない場合もあった。またあきらかな矛盾がまったくないというわけでもなかった。聖典の場合、こうしたあいまいさや難しさを著者のせいにすることはできない。」「トーラーは生活の掟であり、彼らはその言葉を行いに移し変えることを意図していた。そのため成文化されたものに口伝の注解が補足されてモーセに伝えられたと言われている。はじめから、聖書には付録や注解が添えられていたのだ。(これは証明不可能、しかもミドラシュの内容の程度が余りにも低い) 聖書を実行に移すには、それに伴う口伝の詳しい内容に照らして考えなければ不可能なのである。トーラーには、そこに書かれた法律に従い、またその教えと言葉を充分に理解するのに必要な指示がはじめから組み込まれていたわけである。したがって、ソフェリームやその後を受継いだ人々は、自分たちが聖書に意味を加えたとは思っていなかった。」(この辺りには口伝弁護の筆者の感想と事実が暗に混じって書かれている)

例えれば
ユダヤ教の中心を成す「シェマ」の一節に、「さらにこれをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に着け、あなたたちの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命6:8-9)この「印」という「レトタフォット」という原語の正確な意味は当時もわからなかったし、今もあまりはっきりしない。このように意味のわからない言葉をどうやって実行に移せたか?それはどんなものでどうやって作るのか?この例をみれば注解が必要とされた理由がわかるだろう。」(象徴的命令とは捉えていない)
「また、離縁状を書くという点についても、聖書はあまり助けにならない。聖書には「セフェル・ケリトゥート」つまり別れの文書、という意味のことが書かれているだけである。はっきりした書式のものが使われていたことを示唆している。しかし、聖書に書かれた律法からだけではどのようなものを指すのかわからないのだ。」(書式の規定まで神が指示することを期待するか)

「マイモニデスは序文の中で(何の?)、モーセの時代からベン・ハ ナスィの時代まで口伝律法(というか口頭伝承)がイシュヴァーでテクストを用いて教えられることはなかったと述べている。もしかするとイシュヴァーの院長が、先人から受け継いだものを書き留めていたのかもしれない(なんと根拠薄弱な!)」
「何世紀もの間、口伝律法を成文化することに強い反対があった。三世紀になってからも、ラビ。ヨハナン・ベン・ナッパーという賢者は、律法の(口頭伝承のことを時々このように言い換えて煙に巻こうとするのか?)成文化を禁止するべきだという方針を固く守っていた。そして「口伝律法を書き留める者はトーラーを火にくべるに等しい人間だ」とまで言っている。(ごもっとも!)・・また口頭で教えるものと定められていることを書き留めてはならないと、まるで絶対命令のように言っている学者もいる。・・このように奇妙な拒絶反応があったのはなぜだろうか?(どこがどう奇妙なのか?)」

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全体として、タルムードまたユダヤ教の方向性がはっきりと出ている。つまり、「人が正しい生活を送るためのもの」であり、「徹底した従順」がその精神である。神の言われる通りにする事がトーラーの基本とも言える。だからこそキリスト教とは正反対ではないか。元パリサイ人のパウロは『律法によってユダヤ人にもギリシア人にも罪が明らかにされた』と書いている。トーラーによって人は『貪りとは何かを知った』というように、人間に宿る『罪』とそのための『贖い』と知らせる目的があったとするが、この点でユダヤ教は、ナザレのイエスを認めなかったために、聖霊の教えに浴すことなく、『罪』というものを意識せず、その代りに律法に違反したか否かを考える。即ち「原罪」の有無に於いて、ユダヤ教キリスト教とはけっして相容れないものとなった。ユダヤ教は自らの行動によって神の前に『義』を得ようとするが、キリスト教では、人は誰も自分自身で『罪』から逃れることができず、どれほど敬虔な善人を装ったところで神の前の『義』にはけっして到達しない。
だが、中世以降にキリスト教はこの点の理解を不明瞭にし始め、敬虔や善良な人間を作ることがキリスト教の目的であり、そのような信者が神に受け入れられて「天国」に行けると考え始めた。その趨勢は動かし難く、キリストの贖いの価値は後退し、今やパリサイ派とは名前が異なる程度の差があるのみのキリスト教宗派も多い。

以前にもこの著者の歴史書らしきものを読んだかもしれないが、歴史書という名前ながら客観性に乏しく、やはり本人のバイアスの強い意向が感じられ、某国の「歴史認識」のようで、歴史書としてはほとんど参考にならなかった。
それから、ユダヤ文化を愛好するキリスト教徒の文章も偏向を強く感じられることが多い。そこでタルムードやユダヤ教にとって新約聖書キリスト教が脅威になっている背景が見えるように感じられる。それほどにタルムードやユダヤ教には立つ瀬がないらしい。
近年は、ユダヤ教徒でありながらキリスト教徒でもあろうとするメシアニックジューというアプローチが流行しているのであろう。そうしてキリスト教徒をユダヤ教の優位の下に引き込むべくする動機が見える。そこにキリスト教の幼稚さもユダヤ文化の優位に貢献してしまっている。キリスト教の脆弱さがその原動力ともなっているのだろう。キリスト教がどれほど優れているかを知らない「クリスチャン」があまりに多い。

それから、トーラーを国家法のレベルにしようとすると、内容が大雑把過ぎて施行が難しいというのは、なるほどその通りなのだろうと思える。例えれば、トーラーを日本国の法律、それも憲法にさえ挿げ替えたらどんなに混乱するだろうか想像もつかないし、日常生活は立ち行かないほどになるに違いない。法は人や社会に合わせて変化しなければならず、一式の方が永続することには無理があるし、律法と雖も人と社会の有り様に合わせていることは明白で、山上の垂訓に明らかなように不変のものは背後の精神と言える。だが、律法に従い続けることはモーセの時代の教えをそのまま守ることを意味するほかなく、せめては、今日的事象にどう合わせるかというところでタルムードの意向が問われることになっている。根底にあるのは、「神に取り入るためには、言われた通りに行動する」という「従順」によって神に自らの価値を訴えるところにある。だが、従順というものには、自らの意向を殺し、自分がどのような者であるかを隠すという面があることは考慮されない。つまり、神の裁きを自分を殺すことによって回避しようとしているのである。「言われた通りにしていたのだから、自分に責任はない」「むしろ、他の者に勝って自分は神の意志に従った」とも主張するのがその精神となっている。

また逐一言葉を追ってゆけば、古代の彼方に行かなければわからなくなっていた条文も出て来るのは当然で、しかも、それが人間の設けた規則であれば変更もできようが、神の指示となると変えようが無い。そこでミドラシュというのは苦肉の策であったとは言える。しかし、それはやはり人間の策でしかないので、トーラーの次元には達していないのは内容に明らかではないか。そこで口伝(口頭伝承)がモーセからずっと有ったことにしたというのは大きな踏み外しであったのが見えている。それはこの著者も曖昧な言い回し(〜といっている)になるので、確信は無いように読める。それはタルムードそのものの書き方にも表れていて、「ラビ〇×はこう言った」また「シャンマイ派は許さないがヒレル派は許す」のような言い回しの連続が状況を示している。それなら、「人の意見であり従うも従わないも自由ですよ」と断っているようなものであるのだから、口伝を律法のレベルまで高める必要もなかったのではないだろうか? つまり、「実は口伝はありませんでした」で良かったのでは? 「これは国家法としての施行のための細目であり、原則であるトーラーにはっきり抵触しないことは神の名の下には裁きません」としておけば(そこが難しいか)、イエスとの衝突が避けられたか、相当に緩和されたのではないだろうか。イエス自身も「律法を廃棄する」とは言っていなかったのだから。イエスは書士(ソフェリーム)と律法学者(タナイーム)とそれに従うパリシームを『外側を清めて内側は汚れで満たされている』と糾弾している。

ミドラシュなどを高めずにいることが難しかった背景には、「行いによる義認」を主要な崇拝にしていたことがある。自分たちが義人であるという前提で聖書を捉えると、どうしてもトーラーの言葉に対して硬直化せざるを得なかったろう。(やはり聖書という書物には恐るべき罠がある)まだ、神殿祭祀を優先していた方が(サドキームのように)良かったか? エズラの改革は崇拝を家庭や個人の行いにまで浸透させたが、後にはそれが平民には精神的牢獄ともなっていた。それを指摘するのがタルムードではなく新約聖書であるところは何というべきか。「ユダヤ教の暴走」のようなものが始まる端緒が「口伝の確立」であったように見える。西暦前5世紀にもなってから、いったい誰が口述してきたというのだろう。口述者が居たなら、なぜ聖書にずっと痕跡が無かったのか? 「新約聖書に三位一体がある」というようなほどに無理がある。むしろエズラ聖典の保存にこそ尽力していたそうではないか。
ただ、それでもユダヤ人の付け加えた習慣が神に受け入れられていないわけではないことも新約聖書は明らかにしており、それはもちろん旧約でも度々に示されている。であれば、何も「口伝」など持ち出すまでもなかったのではないか。
トーラーの価値はメシアが成就させたところにあり、だからこそ、エシュアが『一度限りの犠牲を永遠に捧げて神の右に座した』と言える。他の者は誰であれ、その基準に適わないことを山上の垂訓が明示している。

だがその一方で、実際にタルムードを読んでみると、恐ろしく些末な規則の止め処も無い羅列と、異邦人への差別と、子供の論議としか思えず失笑させられるような条文に出くわすのは紛れもない事実であり、ユダヤ教はトーラーの見方、扱い方を誤った。それはメシアを退けたところにも見えている。だから、どう持ち上げようと口伝やタルムードが「素晴らしい」とは言いようが無い。しかし、旧約聖書には世界に広められる潜在的な価値がその内容に備わっている。それはまったく確かだ。だが、タルムードは「不当に知られていない」のではなく、その内容に聖なる書のような潜在力は到底望めない。むしろ、ユダヤ教徒にとっては、タルムードが書店で買えるほどに普及していないからこそ面子も保てるのではないか。それは「不当」などではなく、ユダヤ教にとっては、その内容が白日の下に曝されないだけ恥ずかしくないと言えるほどではないか。実際、ユダヤ教徒がタルムードの価値をキリスト教徒のように熱心に世界中に知らしめて来ただろうか?そのようには見えない。

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ローマ法では奴隷たちが何の権利も与えられずに義務だけを課せられていた。ヘブライ人の考え方の中では、異教徒の奴隷もヘブライ人も、死刑を宣告された者も、一切の権利を奪われるというような非人間的な状況に置かれてはならないとされていた。強制的ともいえる強い調子で、聖書の句には「兄弟(同朋)や貧しい人々や、困っている人たちに「あなたの手を開きなさい」という意味のヘブライ語「バトアハ・ティフタハ」が繰り返し使われている。そして「ナトン・ティテン」(その人のために必ず施しをしなさい)という言葉からこの義務が如何に重要で、その義務が如何に強く反映されているかがわかる。」

(とはいえ、ローマに於ける奴隷であっても主人の恣意的横暴が続けば、逃亡だけでなく次世代の奴隷にも影響が出た。従ってローマ法が奴隷を保護しなかったというより、現実が奴隷の扱いを規定してもいた。奴隷の能力をある程度高めることは主人の益のために必須であり、奴隷生活への顧慮はその家のステータスともなっていた。だが、戦争捕虜などには犯罪者に近い苛酷な役務や死刑としての見せ物の犠牲となる危険があり、これはキリスト教のローマ国教化への過程で軽業や手品や演劇に入れ替えられ消えていったとされる。
アリストテレスの奴隷観からすると、人に対する表層的判断での差別意識は確かに有った。⇒「アリストテレスの奴隷観」
それを考えると諸国の奴隷に自らの境遇を変える自由がなかったところでモーセの律法はイスラエル同朋については勝っており、他方で古代の奴隷は条件に於いては現代日本の非正規雇用に勝ると思える点もなくはない。

(だが帝政ローマ時代での「奴隷」という言葉に含まれる非人格的印象は、以後の黒人奴隷のように捉えるべきでなく、「新約聖書パウロが奴隷の存在を是認している」と譴責するのは筋違いなところが大きい。『銀三十枚』がどの程度の金額かがはっきりしないが、いずれにせよローマで、若く健康でラテン語を解する奴隷を買うには一般家庭の年収に近い額を要したという。そのため、逃亡や略奪を防止するために顔に入れ墨や焼き印を押す習慣も時に招いたが、律法では志願奴隷を識別するために耳たぶに穴を空けるに留まっている。
しかし、当時の奴隷は現代のアルバイトや家政婦に近く、そのうえ衣食住など生活保障がある。逆に言えば、「苦しく悲惨な奴隷制度」は現代社会にも名を変え形を変えて存在している。パウロがどうこう言うよりも、むしろ問題はそちらの方では?古代の奴隷も主人の扱いによって境遇は異なっていたとされるのであれば、制度について紋切型の判断は下せないところもある。)

ザンクウィルは「利己主義は神の存在を否定することになる」と言ったが、ラビたちの特徴を捉えた言い方である。社会を基盤とし、教義よりも実践を強調する信仰〜気配りのゆきとどいた法制度が生まれるのも当然の成り行きだった。」

聖書に不可欠な考え方は社会的な正義を強く求めることだったが、これは預言者と結びつけて、ラビたちは預言者の教えを律法的なものから切り離すことなく、両者の影響がラビたちの考え方に溶け込んでいた、その結果、生まれた法体系は、その背後にある先例の影響を受けるだけでなく、目の前に「終りの日」のヴィジョンを想定してつくりあげられていた。
ユダヤ教は、人々から隔絶された隠遁生活を目標にしたものではなく、仲間と過ごすのが善い生活であり、相互に関連する重荷を負ってゆくものだからである」「クリスチャンに特殊な意味を持つ「世俗」という概念はラビたちの思考パターンにないものだ。ラビ・フーナは息子のラバーに、「なぜ、ラビ・ヒスダの講義を聴きに行かないのかと尋ねると、ラバーは、その講義は世俗的なありふれたことばかりだ」と答えた。するとフーナは「ラビ・ヒスダは神が創られたものの命について一生懸命に考えておられるのだ。お前はその話を聴きにゆかねばならない」。」


聖書の律法には、確かに人道的な規約が多い。だが、それに沿ったラビたちの教えの実例をなぜ挙げないのだろうか?それならイスラムの施しの掟の方がよほど明解ではないか。新約聖書が描く当時の宗教に熱心な人々は、清くあるために一定の経済力が必要であり、その清さに達している人は多くはなく、貧しいゆえに『呪われている』群衆)に相当する「アム ハ アレツ」として差別されていた人々の姿が度々現れている。勿論、当時にはミシュナーが書き加えられていた時期で、タルムードはまだ存在していなかった。しかし、パリサイ主義と教導するタナイームは活発に活動していた姿は新約聖書にも見られる。では、そのような格差は当時だけのことだったのか?タルムードを読んで、上記のように聖書に高邁な精神に倣っているような感動を味わえないのはなぜか?つまるところ、タルムード擁護のために聖書の精紳を唱え、理想を描いているだけではないのか?それに律法主義には選民とイスラエルには越えられない障壁がいつもある。例え割礼を受けても、異邦人には一定の限界があり、聖書の律法からしてそのようである。この限界は新約でなくてはけっして越えられないではないか。異邦人は契約外であり「良くても付録」である、そこで現在パリサイ派が多数を占めるイスラエル共和国のパレスチナ人に対するひどい不公正はどうなのか。契約の選民は旧約聖書からして動かし得ないことではある(詩147:19-20)。ただ、将来にそれが解消される希望はネイヴィームにはある。ではそれはどう実現するのか。それを語るのなら意味のあることだが、それは新約聖書には書かれている。だが上記のようでは、トーラーに閉じ籠るための言い訳、何か根拠のない人間の宥めの言葉のようにしか聞こえない。やはりイエス新約聖書は彼らにとって逃げ場のない脅威なのだろうと実感する以外にない。マラキ3:2)人を超えた神意こそ偉大ではないか。タルムードはユダヤ教徒の卑近な生活規準を並べたもの以上には到底読みようが無い。別に誰が策略を以って「死書」にしようなどという以前に、タルムード自らその価値の程度を世に示してきたのではないのか。イスラエルユダヤ系の人の一部にさえ躓きを与え、この書のために聖書まで共に低められてしまっている。その一方で、ユダヤ人の誰かが異邦人にこの書を誉めれば「そういうものか」と思われるだろうから、宣伝次第の成果も上がるだろう。ほとんど内容が知られておらず、読まれもしないのだから、多く誉めれば印象だけは向上するだろう。だが、実際に読まれたらおしまいなのだ。
それにしても、手取り足取り指導されることを望み、そうする「従順」で義を得るつもりの一方で、不公正と自分善がりを行っては周囲を蔑視するのであれば『ぶよを濾し取り、駱駝を呑み込む』と言われても仕方ないのではないか。



バビロニアンタルムード優位の由来

四世紀の半ばにユダヤ人とローマ人の間で激しい騒乱が度々に起こり、ユダヤ民族の本国に在った有名な学府は破壊されてしまった。ティベリアス、セフォリス、ロドの町にあった教学院は跡形もなく消えた。これにより二世紀前のハドリアヌス帝による迫害の時代と同じように多くの人々がパレスチナからバビロニアへと逃れて行った。
パレスチナ版は四世紀末にかけて編纂された。パレスチナで栄えていたいくつかの学派がつくったものだが、実際の編集作業はティベリアで行われた。
バビロニア版は民族伝承や当時のゾロアスター教の影響を受けて人気のあった悪霊学に関する話などを自由に組み入れていたが、パレスチナ版に天使や悪霊の話はない。パレスチナ版の方が短いが、編集に優れているバビロニア版に比べて繰り返しが多く、内部の矛盾も多い。離散の民族は好んでバビロニア版を使ったため、やがてユダヤ人はこの版を公認した。
バビロニアでは、チグリスとユーフラテスの間に大きな共同体を作った。ネハルディアに立派な教学院が建てられたが、紀元260年に破壊された。そこでプンペディタに場所を移し、スーラにあった教学院と共に以後数世紀の間バビロニアユダヤ人の知的、宗教的生活を導く存在となっていた。
こうした初期の時代の教師として有名なのはラブとサムエルで共にハナスィの弟子であった。ラブは219年に学問の重鎮としてバビロニアに戻ってきた。・・スーラの講堂には1200名の学生がつめかけたという。
彼と並び称されるサムエルはユダヤ教の知識だけでなく天文学者としても名高く、ネハルディアの校長を勤めていた。過越し前のアダルと高い聖日の前のエルルの二か月は学問をおさめる集会の月として特別に定められて仕事を休んで農民や手職人、商人などが集まった。この二か月は「ヤルヘイカラー」と呼ばれた。おそらく「集会の月」という意味であろう。シュヒター博士は「カラー」にはヘブライ語の「花嫁」の意味があるのを利用してこの大集会の月を「精神の密月」と名付けた。

五世紀になると・・ペルシア皇帝はゾロアスター教を国教としただけでなく、帝国のすべての住民が守るべき宗教と定めて、ユダヤ人に対する激しい抑圧政策をとった。ユダヤ人の子供を強制的に改宗させたり、シュナゴーグを焼き討ちしたり、ユダヤ教の基本となる戒律を禁止する措置がとられた。ユダヤ人の多くは他の国に逃れた。
数世紀にわたる研究と討論によって蓄積された膨大な資料を収集し、系統立て、編集しようという努力は暗雲に包まれた。
ラビ・アシは375-427年にわたってスーラの教学院の院長を務めた人物であり、五十年以上にわたる歳月を資料の取りまとめの仕事に捧げた。
彼の死後、弟子たちが仕事を引き継ぎ編集選定と校訂の最終的な作業はラビナの手によって行われた。ラビナが500年に世を去ると、タルムードの時代は終わった。
(アモライームとは「言う」の語源から「翻訳者」の意)
(双方の版ともにゲマラは欠落がある)

口伝律法にはふたつの流れがある。ハラハーは法規であり、義務と権威のある行いを定めている。
アガダーは非法規的な要素のもので、個々の教師の自由な想像や民間伝承によって生まれた力である。
ハラハーというのは法という意味の言葉として知られているヘブライ語である。聖書にこれを表す言葉はなく、最初に使われたのはミシュナーの中である。「歩く、または行く」という意味の語源からきているようで、「生きる方法」という派生的意味がある。


小アジアについての気になるわずかな記載

二世紀の賢者ラビ・メイルは小アジアユダヤ人共同体に来たとき、エステル記を一冊も見つけることができなかった。
律法学者であったかれは記憶を辿って書き出すことができた

これはエイレナイオスのエズラの話を彷彿とさせる。しかもこの教父は小アジア出身で二世紀後半を生きている。



・ミシュナーとラビ ユダ ハ ナスィ ⇒[http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20121010/1349826625:title=家系と業績
]

第二世紀末彼は人々を召集してミシュナー(研究)の編纂作業をはじめた。
伝承によれば、彼の生まれた日にアキバが殉教したというのが、「太陽は沈んでもまた別の方向から昇る」と言い習わしてきたユダヤ人には本当であることが証明されていたようなものだった。50p
彼はラビ ユダ ベン イライの許で学んだ。非常に貴族的に洗練された人物でアントニヌス帝とも親交があったといわれる。
それまでは教学院の院長たちがそれぞれにまとめた註解を用いて指導していた。信心深いラビたちの記憶に残されているだけで大半が記録されないままであった膨大な量の中から彼が選択編纂を行った。
アモス8:12について「人々が明確な決定や註解を見出すことができないという意味だ」とラビ シメオンは言う。
ジョージ・フット・ムーアは「律法を学ぶための道具であり、教えるための手段だ」とミシュナーについて言う。

L.ギンスブルクはミシュナーの523の章で専門家の意見が食い違うのは6章だけであるという。

ユダを編纂に駆り立てた要素は四つある
①口伝が発達して各方面でバラバラになっていた
②法律の解釈に統一性を持たせる尺度が必要であった
ユダヤ高等教育を施す基礎となるテクストが必要であった
④政治的混乱と抑圧が繰り返されたため子孫に残す権威ある口伝を要した

カノン・ダンビは英訳本の序文でこういう
「ミシュナーはパレスチナユダヤ人たちの四世紀にわたる宗教的、文化的活動の蓄積だといえる。その活動が始まった時期は正確には分からないが、おそらく前二世紀から四世紀後の二世紀末まで続いた。活動の目的はトーラーを保存し、これに命を与えて、幾世代にもわたる同じ心のユダヤ人の宗教指導者たちがそれを理解するに至ったまでの過程を形にすることである。」


ミシュナの構成 - Quartodecimaniのノート


<口伝もミシュナーもシュナゴーグの機能が高まった後の自然発生的文化というのが真相らしい。ユダヤ文化と一言で云っても、神殿以降では特にディアスポラの影響が大きく、ハザール・アシュケナズの文化、カライ派、スファラディ中欧系、イエメン系など、ユダヤ文化をひとまとめに見ることは不可能になっている。その中で二種類のタルムード、特にバビロニアのものは、彼らに一定の精神的統一を与えるものとなっている。シオニズムが進む原動力となったのも、余りに広がっていたユダヤの文明への収束が目指された側面がある>

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所見;スピリチャルとかわらないユダヤ教かぶれ

シャロッシュ・レガリームの時には、神の時のデザインがあると言い、それが人間の生きるリズムのようなものだと
朝昼晩のリズムのようなものだとも
人間は神の時の中に入って生きるというのは、生理的にもその通りだとは思うが、恐るべき聖書の言葉に、神の経綸の時を混同するとしたら、それは自己義認に過ぎる。ユダヤ教の末路を思いみるなら、謙るということを知らない善人意識だろう。「我々にはアブラハムがいる」という選民意識が先に立ち「アダムの罪」を裁かれる身の程を弁えていないのではないか?

総じて「律法主義」のもたらしたものといえば、パウロの指摘通り『業による義認』なのだろう。ルカ福音にある収税人とパリサイの例えをエシュアが話したことそのものを、ヒレル・パリサイを継承する人々が受け容れられるものだろうか?
トーラはイスラエル民族と神の経綸を知らせ、マシアッハの到来まで意義深かったのであろう。
しかし、その到来は『精錬』を伴い、ユダヤ律法体制にはバプテストの予告した『火のバプテスマ』が臨んでいる。その原因は、エシュアの到来までにユダヤ教が偏ってしまい、字面の規則に固執し、その精神を探り、不変の意義を探ることをおろそかにしたからなのだろう。
故地エレツツィオンを失った民族は、ユダヤ文化を守ることに一方ならぬ努力をしたが、そこには神殿祭儀の無い状態で、シュナゴーグ文化が発展するべき状況以外になかったに違いない。
だが、マシアッハただ一人が律法を成就して、その不変の意義に到達したことについて、ユダヤ人の誰にせよ、当時に気付かなかったことは無理からぬように感じられる、聖霊の啓示によってパウロがそれを指摘することで、ごく一部のキリスト教徒だけが理解したことであった。
その意味で『律法の一点一画といえども朽ちることはない』のであり、イスラエル民族が律法によって『業による義認』を目指すのは二千年前に的外れとなっている。
現に、『業による義認』によるイスラエル優越主義の実といえば、優越感と排他主義になっている。
その状況は今も変わらず、キリスト教界も似たり寄ったりであり、真相の幾許かがユダヤ教キリスト教に散乱したままになっている。
他方で、イスラエルと異邦人の『垣(ソーレグ)を取り除いた』というキリスト教は、真実のイスラエルアブラハムに約束された『地のすべての氏族が祝福する』という『神の王国』という『神のイスラエル』へと昇華しており、これは原罪を認め、人が等しくキリストの犠牲を必要とする罪人であるゆえに、本来は自ら謙ることを教えている。その差はあまりにも大きい。



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ユダヤ教徒の祈りへの認識

祈りは鬱積した感情を解放し、はっきりしない考えを具体化し、意志の力を奮い起こすなど、大きな精神作用を及ぼすものとなる。
祈りへの認識はユダヤ人の間でも、最大主義者と最小主義者の間に開きがある。
前者は、祈りの過程は純粋に自然なものであり、神という概念に人間が示すまったく正常な反応であるとする。後者は、神からのものに満たされ、自然の法則を遥かに超えた体験となるという。
前者は、祈りが物質的な世界に働きかけるのは人間の力によるものだ。とする一方で、後者は、人間から離れた部分や事柄にも直接の影響をもたらすとする。
超最大主義者ともいうべき人々にとって、自然のすべても神の道具に過ぎないので、奇跡も不可能でないという。
この点で、ユダヤ教徒には広い範囲にばらつきがある。

ユダヤ教では、一挙手一投足男子に律法の日々の規律を厳格に求めるが、女性に対してはほとんどを免除する。この理由として、家事への影響があると唱える人もいる。男子のように律法に縛られていては、家事が停滞することは目に見えているという。

男子は一日に三度の正式な礼拝(シャハリート・ミンハー・マアリヴ)を守るべきであり(ミンヤンが必要)、テフィリンを外すまで食事を採ることができない。
生活のすべての場面で祝祷を持つことが命じられているので、彼らはその節目節目で神名を思い起こさねばならない。(当然、発音は求められない。しかし何と念じるか?)
朝に覚醒してから、どんな事を行い、どんな知らせを受けても、その都度短いながらでも祝祷されなくてはならない。それは床に就くまで継続する。


(この習慣性が却って神との関係を無意識的なものにしたことをイエスは論駁したのでは?)


Novum Quartodecinum

イェヒディームはトーラーの原理と意図から導かれたのではない独自の注解を持っている。
・・様々な理由を以て、それを超える解説は大衆のためでないので、そこには知る者と知らざる者との区別が生じる。
哲学者にはこれらの言葉を真実なものとすることに関してより大きな完全性がある。ただし、哲学者はこれらについて文字にせよ口頭にせよ一切解説しない義務がある。(エリヤ・デルメディゴ「ブヒナット・ハダト」9)

「人間は服従のみによっても救済される」⇒理性的に証明されないが、「道徳的確実性」(certitudo moralis)によって受容され得る。Spinosa 150

 
スピノザの聖書へのアプローチ法 - Quartodecimaniのノート


ラシ(ラビ・シェロモー・イーチャキ、西暦1040‐1105年)は、創世記 4章26節をこう訳出「それから、俗衆が主のみ名によって呼ばれた」。








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