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ダニエル書第11章 歴史照合と解釈

ダニエル書11章

内容を歴史と照合し解釈を追う 

フランシスコ会の解釈><ハンマーの解釈><ダニエル書の構成

マカベア第一書とダニエル書の関連

 

 

 

11:1 私はメディア人ダレイオスの元年に、彼を強くし、彼を力づけるために立ち上がった。

11:2 今、私は、あなたに真理を示す。見よ。なお三人の王がペルシアに起こり、第四の者は、ほかのだれよりも、はるかに富む者となる。この者がその富によって強力になったとき、すべてのものを扇動してギリシアの国に立ち向かわせる。

「なお三人の王が起る」

これはスメルディスを除くカンビュセス、ダレイオスⅠ、クセルクセスのようである。「第四の者」はキュロスから数えており、480-479年の遠征でギリシアに大規模な軍事行動を起こしたクセルクセス(485-465)に一致する。

 

11:3 ひとりの勇敢な王が起こり、大きな権力をもって治め、思いのままにふるまう。
11:4 しかし、彼が起こったとき、その国は破れ、天の四方に向けて分割される。それは彼の子孫のものにはならず、また、彼が支配したほどの権力もなく、彼の国は根こぎにされて、その子孫以外のものとなる。

 

大遠征を行うマケドニアアレクサンドロス三世王と、323年6月の突然の死が将軍たちによる王国の分割をもたらし、王族が絶えること

 

 

11:5 南の王が強くなる。しかし、その将軍のひとりが彼よりも強くなり、彼の権力よりも大きな権力をもって治める。

 

後継将軍の一人でナイル川に守られたエジプトを受継いだプトレマイオスⅠ世が最初から安定的な支配を得て、摂政ペルディッカスの侵攻を退けプトレマイオス朝の礎を築く。ペルディッカスは隻眼のアンティゴノスとセレウコスによって殺害された。322頃

315年にアンティゴノスとその息子デメトリオスの勢力から逃れたセレウコスがエジプトに身を寄せていたが、312年プトレマイオスⅠ世がデメトリオスに勝利してユダヤを領域とし、寛容な支配を行う。-198

この勢力の変化によりセレウコスは東方に戻りオリエントの支配者となる312年。その後、小アジアからインドの北西の端までに版図をひろげた。そこでその勢力はプトレマイオスを越えるに至った。

301年にはイプススの戦いで勝利しアンティゴノスを死に追いやった。残る勢力はマケドニアギリシアのカッサンドロス、アナトリアトラキアリュシマコス

 

 
11:6 何年かの後、彼らは同盟を結び、和睦をするために南の王の娘が北の王にとつぐが、彼女は勢力をとどめておくことができず、彼の力もとどまらない。この女と、彼女を連れて来た者、彼女を生んだ者、そのころ彼女を力づけた者は、死に渡される。

 

248年頃、プトレマイオスⅡ世は、アンティオコスⅡ世(セレウコスの孫)が妻のラオディケーを離縁し、彼女との間のふたりの息子の王位継承権を奪うという条件の下に、娘のベルニケーを与えた。

この結末は、246年のアンティオコスⅡ世の死を契機に、ラオディケーによるベルニケーとその嬰児の殺害を惹き起こす。

 

 

11:7 しかし、この女の根から一つの芽が起こって、彼に代わり、軍隊を率いて北の王の砦に攻め入ろうとし、これと戦って勝つ。

プトレマイオスⅢ世(247-222)は、姉妹ベルニケーの報復をしようとセレウコス領に攻め込んで勝利し、241年ラオディケーを殺害して復讐を果たす。

 

11:8 なお、彼は彼らの神々や彼らの鋳た像、および金銀の尊い器を分捕り品としてエジプトに運び去る。彼は何年かの間、北の王から遠ざかっている。

AD4世紀のヒエロニュモスは、プトレマイオスⅢ世がカンビュセスによって運び去られたエジプトの神々の像をエジプトに取り戻し、エウエルゲーテスの称号を得たと書いている。

 


11:9 しかし、北の王は南の王の国に侵入し、また、自分の地に帰る。

240年にはセレウコスⅡ世カリニコスはエジプトに侵攻したが逆に敗北し退却を余儀なくされている。


11:10 しかし、その息子たちは、戦いをしかけて、強力なおびただしい大軍を集め、進みに進んで押し流して越えて行き、そうしてまた敵の砦に戦いをしかける。

長男セレウコス・セラウヌス(226-223)と次男アンティオコスⅢ世大王メガス(223-187)のことで、セレウキアの砦、コエレ・シリア、ティルスなどを奪い前217年にはプトレマイオスⅣ世の大軍を破ってパレスチナ一帯を占領する。「砦」というのは、南方に対する最強の砦であったガザのことであろう。この時点からパレスチナはエジプトの支配下に入る。

 


11:11 それで、南の王は大いに怒り、出て来て、彼、すなわち北の王と戦う。北の王はおびただしい大軍を起こすが、その大軍は敵の手に渡される。11:12 その大軍を連れ去ると、南の王の心は高ぶり、数万人を倒す。しかし、勝利を得ない。

 

翌春にはガザの南西20kmのラフェアでプトレマイオスⅣ世はアンティオコスⅢ世に大敗北を与えコエレ・シリアとパレスチナは再びエジプトのものとなる。その後一年間の平和条約が結ばれた。

 


11:13 北の王がまた、初めより大きなおびただしい大軍を起こし、何年かの後、大軍勢と多くの武器をもって必ず攻めて来るからである。
11:14 そのころ、多くの者が南の王に反抗して立ち上がり、あなたの民の暴徒たちもまた、高ぶってその幻を実現させようとするが、失敗する。

 

プトレマイオス・フィロパトールが203年に死去したときに、アンティオコスⅢ世はラフィアの敗北から13年目にエジプト攻撃の機会を得た。彼はその目的からマケドニアのフィリッポスV世と同盟を結んだ。アンティオコスⅢ世は、プトレマイオス王朝の支配下にあった者らが反乱を起こす騒擾中のエジプトに侵入する(前202)このとき、一部のユダヤ人らが預言者の支持を求めながらアンティオコスⅢ世に味方するという事態が発生している。「幻を成就させようと」では、プトレマイオス王朝の支配からの解放と無名の預言者らが唱えた自由のことと考えられる


11:15 しかし、北の王が来て塁を築き、城壁のある町を攻め取ると、南の軍勢は立ち向かうことができず、精兵たちも対抗する力がない。
11:16 そのようにして、これを攻めて来る者は、思うままにふるまう。彼に立ち向かう者はいない。彼は麗しい国にとどまり、彼の手で絶滅しようとする。

 

「城壁のある町」とは、アンティオコスⅢ世が攻め取ったシドンであり、プトレマイオス家は将軍スパコスが軍を率いてユダに進軍するが、ヨルダン源流のパネイオンでアンティオコスⅢ世に敗北する(前200)プトレマイオスの総督であったスパコスは199年にそこで捕虜となった。アンティオコスⅢ世はその遠征でパレスチナを完全征服。以後エジプトの凋落が始まる。

 

11:17 彼は自分の国の総力をあげて攻め入ろうと決意し、まず相手と和睦をし、娘のひとりを与えて、その国を滅ぼそうとする。しかし、そのことは成功せず、彼のためにもならない。

 

194か3年にアンティオコスⅢ世はエジプトの支配を得ようとしてプトレマイオスV世エピファネスに娘のクレオパトラを与えた。これによりエジプトはシリアからの内政干渉を受ける。しかし、クレオパトラⅠ世は後には夫にローマとの同盟の強化を勧めたために、アンティオコスⅢ世の野望は挫かれた。

クレオパトラⅠ世からはプトレマイオスⅥ世、クレオパトラⅡ世、プトレマイオスⅧ世が生まれている。

 

11: 18 それで、彼は島々に顔を向けて、その多くを攻め取る。しかし、ひとりの首領が、彼にそしりをやめさせるばかりか、かえってそのそしりを彼の上に返す。

 

この以前197年にアンティオコスⅢ世・メガスは、小アジアに侵攻しほぼ全域を掌握した、次いでトラキアへと渡海していた。

192年、ギリシアに進もうと努めたが、191年にテレモピュライでローマ軍に敗れ、更に翌年には八万の軍を興すもスミュルナ近郊マグネシアでより深刻な敗北を喫し、その支配は終わりを告げる。ローマの指揮官はこの勝利によりスキピオ・アシアティクスと号した。「島々」とは地中海沿岸の国々を指す


11:19 それで、彼は自分の国のとりでに引き返して行くが、つまずき、倒れ、いなくなる。

 

188年、アパメアの和約によりアンティオコス・メガスは、ローマに莫大な上納金を科され、息子(後のエピファネス)を人質に取られる。187年、課料金を支払うために東方に赴きエラムのエリマイスのベル神殿を略奪しようとしたが、住民の抵抗に遭い、配下の者らと共に殺害された。人質となっていたエピファネスは後に別の兄弟デメトリオス(後のシリア王)と交代され、シリアに戻る。

 


11:20 彼に代わって、ひとりの人が起こる。彼は輝かしい国に、税を取り立てる者を行き巡らすが、数日のうちに、怒りにもよらず、戦いにもよらないで、破られる。
11:21 彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る。

 

その後継者として、アンティオコスⅢ世の死後、セレウコス四世フィロパトル(187-175)アンティオコス四世エピファネス(175-164)が順に王位に就いた。

セレウコスⅣ世は在位中9年にわたり毎年千タラントンをローマに支払う義務を負ったため、高官ヘリオドロスをユダに派遣し徴税させた。王は更に神殿の金銀を収奪させようとしたが、却って王は反旗を翻したヘリオドロスによって導かれた陰謀により暗殺された。即ち「怒りにも戦いにもよらず」死んだ。「幾日の内には」セレウコスⅣ世がシリアを収めた12年間を指す。

エピファネスはセレウコス四世フィロパトルの死後、正統な後継者であった幼少の甥デメテリオス(本来のアンティオコスⅣ世)の摂政ではあったが、やがて王を陥れ自らが175年に王位についた。この後のアンティオコスⅣ世エピファネスは「卑しむべき者」と呼ばれ、王座には不適格であったことが強調されている。そのデメテリオスもアンドロニコスに殺害され、そのアンドロニコスをエピファネスは処刑しているが、一連の策略はエピファネスの狡猾さであろうとされる。その彼を「卑しむべき者」と言っている。また「小角」とも象徴されている。

 


11:22 洪水のような軍勢も、彼によって一掃され、打ち砕かれ、契約の君主もまた、打ち砕かれる。

 

「洪水のような軍勢」とはヘリオドロスの軍勢の勢いを言う。シリアはその領域を次々に広げ、怒涛の勢いでエジプトに迫るが、その過程でユダにも侵入し、神殿祭祀も掌握されるに至る。
「契約の君」とは大祭司オニアであり174年にアンティオコス四世によって職を追われ、シリアに送られた後、170年にダフネでアンドロニコスによって殺害された。「油注がれた者」と同義で「契約の民の君」の意である。


11:23 彼は、同盟しては、これを欺き、ますます小国の間で勢力を得る。
11:24 彼は不意に州の肥沃な地域に侵入し、彼の父たちも、父の父たちもしなかったことを行う。彼は、そのかすめ奪った物、分捕り物、財宝を、彼らの間で分け合う。彼はたくらみを設けて、要塞を攻めるが、それは、時が来るまでのことである。

 

「小国の間で勢力を得る」とは、或いは「僅かな民によって強くなる」であり、小国への同盟関係の構築によって、兵力に頼らずに勢力を拡大したことを言うのかも知れない。或いは、「僅かな民によって強くなる」とは、アンティオコスⅢ世のシリアよりは弱くなったことを言うかも知れない。

 アンティオコス四世エピファネスは、家来には寛大で一人一人に金貨を与えたという。また、彼はエジプト征服を夢見ていた。「一時のこと」とはおそらくは神の定めの時までの意、或いは彼の寿命の意であろう。

アンティオコス四世は、ヤソン(175-174)メネラオス(172)など、自分の都合で大祭司を決めた。

リア王はペルシウムと国境の町々に居を構えながらエジプトを支配しようと試みた。(マカベア第一1:19)

 


11:25 彼は勢力と勇気を駆り立て、大軍勢を率いて南の王に立ち向かう。南の王もまた、非常に強い大軍勢を率い、奮い立ってこれと戦う。しかし、彼は抵抗することができなくなる。彼に対してたくらみを設ける者たちがあるからである。

 

アンティオコス四世の最初のエジプト遠征では、大軍勢を率いてエジプトに入り、ペルシウムの会戦で勝利し、プトレマイオスⅥ世を捕虜にする。このエジプト王はクレオパトラⅠ世を介して甥に当たることもあり、エピファネスは保護者を装い傀儡化する。

プトレマイオスⅥ世は宦官の勧めに従いサモトラケに逃避しようとするが、直前に軍事クーデターが起る。。

 

 


11:26 彼の食卓で食べる者たちが彼を滅ぼし、彼の軍勢は押し流され、多くの者が刺し殺されて倒れる。
11:27 このふたりの王は、心では悪事を計りながら、一つ食卓につき、まやかしを言うが、成功しない。その終わりは、まだ定めの時にかかっているからだ。

 

アンティオコスⅣ世がプトレマイオスⅥ世フィロメトールを破ったとき、二人の王は和約したが、アレクサンドレイアの人々はプトレマイオスⅧ世としてフィスコンの称号で彼の兄弟を王座に就けた。

「二人の王」とはアンティオコス四世とプトレマイオス6世であり、プトレマイオスは捕虜として優遇されていながら不利であった。その後 フィロメトールがアンティオコスの公正無私を信じているかのように振る舞ったのに対し、アンティオコスもフィロメトールのために行動しているかのように装った。

 


11:28 彼は多くの財宝を携えて自分の国に帰るが、彼の心は聖なる契約を敵視して、ほしいままにふるまい、自分の国に帰る。

 

189年にアンティオコスⅣ世はエジプトに侵攻、アレクサンドレイアを除いてエジプトを占領。エピファネスはプトレマイオス朝のフィロメトールをメンフィスに置き、アレクサンドレイアの王フィスコンと対峙させ、エピファネスはシリアへ撤退。

しかし、プトレマイオス朝の二人の王は二か月の間に互いの内戦を避けるために共同統治を承諾。

 


11:29 定めの時になって、彼は再び南へ攻めて行くが、この二度目は、初めのときのようではない。
11:30 キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。

 

168年、アンティオコスⅣ世はプトレマイオス朝の二王の和解を怒り、再度のエジプト遠征を企て、キプロス派遣艦隊を組織した。エルサレムユダヤ教(「聖なる契約」)への攻撃を以って終えた。エジプトの帰路にエルサレムに寄り、神殿の什器類や金銀を奪い八千人の殺戮を行った。

しかしエジプト侵攻はローマの代官ポビリウスの介入によって失敗。

ヘブライ語では「キッテムの船」となっている。これはローマの介入への言及である。マカベア第一1:1ではギリシア人を表す名称としてキッテムを用いるのであるが、ハバククについてのクムラン註解でも、この語でローマ人を述べることについてはダニエル書に従っている。LXXは現に「ローマ人」としている。(NEB註解)


11:31 彼の軍隊は立ち上がり、聖所と砦を汚し、常供の犠牲を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。

 

その後のユダヤ主義者への反対運動は、彼はローマの使者からの要求によってアンティオコスがエジプトを去る原因となったので怒りが火を噴いた。ローマの執政官ポピリウス・ラエナスが伝えた元老院の要求は、アンティオコス四世が武器を捨て、エジプトからもキプロスからも撤退することであった。ローマからの要求を拒めず、その鬱憤がユダヤに向かった。

アンティオコス四世はエルサレムに進軍し、神殿周囲の城壁を壊して要塞を建てた。更にヘレニズムを推奨して神殿の犠牲を中止させ前167年12月7日にゼウス像を作らせユダヤ人に犠牲を捧げることを強要した。こうして『常供の犠牲は絶え、荒らす憎むべきものが据えられる』。この迫害は三年の間続いた。


11:32 彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。
11:33 民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。

 

「民の賢い者ら」とはヘレニズム化を拒んだ者、「ある期間」は迫害の間、この辺りはマタティアとマカベア兄弟、167年からのユダ・マカベアの初めの反乱を指している。166年、ハスモン家のマッタティアに代ってイェフダが反乱の指揮をとり、ベト・ホロンでアポロニオスの軍を破る。真の解放は武力ではなく、神の恵みによると考えるハシディームに属する本編の著者は初期にはマカバイの運動に加わっていたが意見の不一致から次第に離脱していった。(六面独楽נגהש 「ネス・ガドール・ハヤ・シャム」の風習の始まりは165年のこととされる)

神殿の再献納は164年キスレウ25日


11:34 彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。
11:35 思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。

 


11:36 この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることがなされるからである。

 

敬虔なユダヤ人はエピファネスという名のように、王が自らを神と公言する試みに何ら脅かされなかった。エピファネスは硬貨に自分の像を刻印するだけでなく自らを神とした。だが、これは最後の冒涜行為となった。(マカベア第一1:24)


11:37 彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。
11:38 その代わりに、彼は砦の神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。
11:39 彼は異邦の神の助けによって、城壁のある砦を取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。

 

 『数々の強固な砦に異国の神のもの達を護衛兵として置き』とは、ヘブライ語の発音を換えて読むとこうなる。マソラでは「強固な砦の数々を異国の神に頼って攻め」。アンティオコス四世はシリア人と棄教したユダヤ人を神殿傍の砦に兵士として立たせた。ユダヤ人はエルサレムに駐屯する異国民の守備隊の存在を憎んでいた。(Dan11:31/1Macb1:33.14:36)

 

11:40 終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。

 

これは該当する事例が不明

 


11:41 彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。
11:42 彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。
11:43 彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。

 

 

リビアとクシュも彼の歩みにつく』エチオピアリビアは共にアンティオコス四世に征服されていることを言うのかも知れない。

 

 

11:44 しかし、東と北からの知らせが彼を脅かす。彼は、多くのものを絶滅しようとして、激しく怒って出て行く。

 

アンティオコス四世はエジプトに攻め込んだときに自国の東に居たパルティアと(北の)アルメニアの反乱を知って当地に向かった。


11:45 彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。

 

これもシリア史に該当する事例が見当たらない*

*アンティオコスⅣ世エピファネスの死についての実情がはっきりしない。

ハスモンのメギラー[Megillat Hachashmona’im](ヒレル&シャンマイの時期に成立とも)は、ダニエル書に似た出自の巻物で、アラム語のものであるが

それによれば、ユダヤに派遣していたニカノールの軍の敗北を知ったエピファネスは、(パルティア攻めから向きを替え)海岸沿いに進んだが、どこの都市でも逃亡者呼ばわりされ、(船でこぎ出した)海で溺死したという。

マカベア第二9章では、戦車から落下し酷い病気になったとしているが、その辺りの文面には誇張らしい不自然さが有って、史料とするには更に難しい。

どちらにしても、エピファネスが大軍を率いてユダヤを窺うようなところに至ったという情報はない。

 

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なぜマケドニア南北朝を追ったかと言えば、その狭間にもまれるユダヤを予告したと言えるのだが、しかし、特に励みにもならない民のためというより実態は終末への示唆にあると見て良い。そうなると、過程を示してエピファネスに至る意味が生じ、彼の終りが実際と異なってゆく意味も生じる。

なぜエピファネス以降の歴史が追えないかと言えば、それが終点であり、その後の記述はマケドニア史とは別の事柄を述べているからであろう。

この以前からマケドニア史を逸脱しアッシリア史を暗喩し始め、それを以って終末の聖徒の処遇を述べている。これはこれらの啓示を預言を装った歴史であると解釈していれば理解できない。

特にこの章の要点は、ユダヤの辿る将来を示すと言うよりは、第四の獣、またディアドコイの一角から新たに現れる角についての解説が第七章以降蓄積し、最高潮に達し、そこに他の幾つかの預言が関連している。

従って、第七章や第八章の世界覇権の趨勢が予告されていたと喜んでいるようでは、この意義には達しない。神が将来を予告したからと言ってそれが何だろうか!それが「神への信仰だ」とでも云うのだろうか。シモン・マグス程度の驚きになんの意味もない。

ここにはアンティオコス・エピファネス、またシャルマネセルⅢ世、セナケリブの三人の事跡の暗喩が見られる。従って、これらは終末に現れる実体を黙示録の『七つの頭を持つ獣』と共に比喩するものである。

この要点は『違背』であり、『滅びの子』を指し示すことにあると言える。

だが、多くのキリスト教指導者らが言うように、この知識が無いから必ずしも不法の人崇拝に傾くとは言えない。重要なのは聖書やキリスト教の知識ではなく、その人がどのような人格を持つのか、また自分についてどんな倫理的判断をし、何を選び取るのかによるのであり、知識が有ったからといって誘惑に遭うときに妥協しない保証はない。メシア初臨の時のユダヤ人に何が起こったかを思えば、却って知識が邪魔をしたのである。まして、ダニエルの言葉は要所が封じられており、『多くのものが右往左往して逸れて行き、彼女の(雑多な)知識が増す』と書かれてもいる。それが恐ろしい神意でもあるのだろう。人類が裁かれる側である以上、すべてが明かされるわけもない。

では知識は何のためかと言えば、まるで何の知識もないところに『理解を分け与える』こともないので『聖なる民』と呼べる者らを招来することもない。やはり知識はシオンのため、その子らの準備のために違いない。

 

エピファネスは諸文化の破壊者でもあった。特に宗教的文化に容赦なかったと言える。だからと言って彼がゼウスやオリュンポスの神々を畏敬していたとは言い難いものがある。むしろ自らを神の顕現とし、軍事色を強めた。しかし、より以上に軍事的で狂暴であったのはアッシリアである。その帝国の荒廃の原因は軍事統制が強すぎ、諸民族の怒りを買ったところにある。これらすべては来るべきものの影であることだろう。

ダニエル書は第七章から漸進的に理解を積み重ねる構成をとっている。つまり、順に興る世界覇権の姿の概要を示し、次いでギリシアとペルシアの闘争の中からディアドコイの中から興る醜悪な王を予告し、最後にマケドニア南北朝の対立からエピファネスの姿を映し出している。だが、11章の終盤から別の何者かについて語りはじめており、それはエピファネスの事を語ってはいない。しかし、終始『小さな角』が三つの幻を貫通するものとなっている。

それは即ち、ダニエル書の第七章以降が(9章を除いて)『小さい角』と『聖なる民』との確執を描いているのであり、これがダニエル書後半の意義であることはほぼ間違いない。

また、前半ではネブカドネッツァルを啓示の伝達者としてダニエルたちを必要とさせている。この大王に何を伝えようとしていたのか?この王は神殿祭祀の復興を命じてはいない。これら前半では、世界覇権国の王に対し、それよりも高い存在者が居ることを銘記させるものとなっている。

したがって、ダニエル書全体の意義は『王を教える』こと、即ち、世の支配者がどれほど権勢を窮めようとも、最終的には神がその支配を自らが託す者に与えるという主題に終始していると言える。

それからブラウンの説の成り立たないところは、ダニエルと黙示が「神の国」を『聖徒たちの王国』という扱いをしており、それは三時半の経過を要して後の裁きの結果であるのだから、単にキリストの臨在も、まして戴冠を指すことにもならない。黙示録第11章で第七のラッパが吹かれ『神の王国の権威が世を支配した』というときには、聖徒が天界に揃っている必要があることが分かる。<覚醒運動の指導者らは本当に聖書を熟読したのだろうか?>

 

 

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ディアドコイは7名が挙がる

 

クラテロス 360-321

 先に古参の兵を率いて帰国していた。舅のアンティパトロスに味方してディアドコイ戦役を戦い戦死。大王の学友

 

ペルディッカス 355-321

 王家に連なる貴族、病床の大王から認証指輪を授かり、摂政として事後の諸事に積極的に動く

マケドニア摂政アンティパトロスの娘と結婚しながら、いずれ離婚して大王の妹クレオパトラとの結婚を画策することにより王国への野心を見せたところで、アンティゴノスに通告されアンティパトロスとプトレマイオスを敵に回し、小アジアエウメネスと味方に引き込んだものの、自身はナイル渡河に失敗して将兵の怨みを買い、弑逆されエジプトで死亡

 

アンティゴノス 382-301

 年齢が高かったためか、グラニコスの勝利の後には小アジアの統治を委ねられていた。大王の死後はペルディッカスに対抗し、やがて東方に勢力を延ばす。その間に戦死し、息子デメトリオスがその覇権を継ぐ。

 

エウメネス 362-316

 ギリシア人で、大王に重用される才の持ち主であったが、ペルディッカスの側についたために小アジアに追い込まれて戦死

 

リシュマコス 361-281

 大王の死後、小アジアを任されるが、トラキアマケドニア方面にも進出し、最後はギリシアに達するもセレウコスに敗れる。

大王とは学友であった。

 

プトレマイオス 367-283

 大王から守りの堅いエジプトの太守を任されたために、最も安定した統治を実現し、プトレマイオス朝の祖として早めに息子に統治を譲り渡し、寿命を全うした。大王とは学友であり、遺体を引き取ってエジプトに運んでいる。大王の創建である首都アレクサンドレイアは、ローマと並ぶほどの繁栄を遂げ、ヘレニズム文化の中心となる。

 

セレウコス 358-281

 東方でアンティゴノスの勢力が強力であったときには一時的にエジプトに逃れていたが、以前に任されたバビロンの統治が民衆に好まれ、その地で再起する。やがてアンティゴノスと息子のデメテリオスを圧倒し、シリアから東方に勢力を広げエジプトに勝る領土のセレウコス朝を興す。チグリス河畔にセレウケイアを建設、後にシリアには首都アンティオケイアが建設され繁栄する。

 

カッサンドロス 350-297

 マケドニア摂政を永らく勤めていたアンティパトロスの息子だが、父は子に摂政の座を譲らず、重装歩兵隊長ポリュペルコンを指名してしまったために、強い野心から不満を囲い、以後はギリシア方面を平定しつつ摂政と戦う。

大王の王族のフィリッポスⅢ世は妻エウリディケーと共にオリュンピアスが殺害していたが、彼はアレクサンドロスⅣ世を母ロクサナなどの近親者らと共に殺害させ、自身はフィリッポスⅡ世の娘の一人テサロニケー(最後の王族)と結婚。カルキディケー半島の地峡に王都にするつもりでカッサンドレイアを、本土には妻の名からテサロニケーを建設。だが繁栄したのは後者だった。

王権を確立したかに見えたが、リシュマコスに敗れマケドニアの地歩を失う。ディアドコイと言うよりはエピゴーネンであった。しかし子孫の王統は続かずアンティゴノスの血統がマケドニアを治めることになる。

 

デメトリオス 337-283

 隻眼のアンティゴノスの息子で美男、モテたようで五回結婚をしている。

だがパレスティナへの侵攻に失敗し、ギリシア方面への海上覇権を得ようとするが、それにも敗れてセレウコスに囚われ、獄中死する。

年代は最も若くエピゴーネンである。

 

◆総論

ディアドコイ戦役の結果としては王国が四つに分割されたということは的外れではないらしい。

東方のセレウコス朝、南方のプトレマイオス朝、アンティゴノスの血統に残されたギリシアマケドニア、それから小アジアの諸王国であり、これはアッシリア崩壊後の四王国の趨勢とさして変わらず「落ち着くように落ち着いた」の観あり。

パレスティナは北にセレウコス、南にプトレマイオスの二強に挟まれ、その間に在って流動的に状況は常に変化した。<安息日にあっけなくプトレマイオス朝に占領されたことは、ユダヤ教がヘレニズム諸国から嘲笑されるきっかけを作った⇒「厳格化されたシャバット」>

そこにローマ共和国が進出してくるが、それまでに至る過程に於いてユダは最も激しく揉まれている。この状況についてダニエル書が徒ならぬ記述を行っているのは、単なる歴史を述べるに留まるものではないようだ。いや、明らかに何か別のものを予告している。⇒突如瓦解する『北の王』

 

 

 マケドニア南北朝

 ディアドコイ戦役までの情勢

 マケドニア履歴(フィリッポスⅡ時代まで)

終末時系列考 - Quartodecimaniのノート

 

 

 

 

 

 

 

ダニエル書の構成

 

第一章;エホヤキム王の第三年(605)に、第一次捕囚があり、その中にダニエルと三人の若い友人らも居た

 

第二章;ネブカドネッツァルの第二年(603)の巨像の夢、解明の勅辞からアラム語となる

 

第三章;ネブカドネッツァルの治世中で年代は不明、ダニエルの三人の友は地方長官を拝命しており、そこにドラの立像への伏拝拒否事件が起こる

(ギリシア語写本には3:24に続いてPr,Azal「アザリヤと三人の聖なる子らの歌」が続くものがある)

 

第四章;ネブカドネッツァルの治世中で年代は不明、二度目の夢の解き明かしと王の執務不能状況の発生

 

第五章;ナボニドスとベルシャッツァル治世の最終年(539)、徹夜祭での王宮の宴会に手が現れ王朝の終りを通知

 

第六章;メディア王ダレイオスの治世(539~538年)、ダニエルは再び高官となり、マゴイ族の嫉妬からライオンの穴に落とされる

 

第七章;ベルシャッツァルの第一年(553)に戻る、海から順に現れる四頭の獣と十本の角の夢についての口述を書記官が記述、以後二つの章の年代がバビロニア時代に逆行する

 

第八章;ベルシャッツァルの第三年(551)、ダニエルはスーサに居て雄羊と一角のやぎとの戦いの幻を自ら記述し、この章からヘブライ語に戻る

 

第九章;ダニエル自ら記す。メディア王ダレイオスの第一年(539)、エレミヤの70年へのダニエルの祈りと七十週の秘儀の伝達

 

第十章~第十二章;キュロスの第三年(535)、筆記者は別人。以後第十二章までがダニエルへの最後の啓示 旧約聖書後のマケドニアディアドコイ戦争と二大強国の抗争から終末を黙示

(はこの後か第一章の前に「スザンナと長老ども」が置かれる)

(ギリシア語写本で更にその後、ベルと龍の挿話が入る)

 

ダニエル書は、前605年以後から535年の間の70年間に書かれており、ダニエルは齢八十から九十に達して長寿を得たと思われる

章毎に年代が別で、順に挙げると1.2.3.4.7.8.5.6.9.10-12 (6.9の順は不明)

順不同の理由はアラム語の部分がまとめられたことが考えられ、何者かに蒐集されたかも知れない。一人称の章が後ろに綴じられている。

ヤムニアではこの書の原語版の発見が遅れたとされる。<預言書に含まれなかった理由かも知れず、扱いが新約の黙示録に似る>

 

◆概説

一般的ユダヤ人にダニエル書について訊くと、「あれはアラム語の書だ」と半ばまともな扱いを諦めるかのように語られる。現代一般のユダヤ人が旧約聖書をタナハとして読む以上はダニエル書の2:4から7章の終りまでアラム語となっているので、彼らは却って読めないことになってしまい、翻訳聖書から入る我々よりも面倒なのである。それでもアラム語文書の混入は、以後ヘブライ語のアラム字化からして不自然さは薄められる。

加えて、イザヤやエレミヤのように「神YHWHは語った」という預言の形からは幾分離れ、幻や夢が語られており、しかもその啓示の受け手がネブカドネッツァルであったりもするところは預言書らしからぬところを見せている。それでも幻では、やはり捕囚であったエゼキエルにも見られるので、まったく異質とも言えない。但し、アラム語での異邦人為政者の布告や、おそらくは異邦人書記によるアラム語によるダニエルの口述を筆記しているところは、確かにネヴィイームよりはケトゥヴィームに類別させるものをユダヤ人に感じさせることは容易に類推できる。

近代以降の識者にヘレニズム以降の文書であると主張する識者は多いが、ヤムニア会議で本書のアラム語ヘブライ語部分が含められているので、第一世紀のユダヤ人はそのように認識していなかったと言える。

アラム語部分に関しては、第二章のネブカドネッツァルが治世の第二年に見た夢の解き明かしを求める布告から始まっているのは、公用語であった言語のままに採録されたという理由からして不自然ではなく、そのまま第四章の終りまでがこの王に関連した事跡と啓示に当てられている。

第五章では一転してバビロン陥落の夜に飛んでいるのだが、アラム語の部分をまとめたと捉えるならそう問題にもならない。ただし、この間にかなりの王らの省略があり、王朝も代わっている。そのあたりの事情はダニエルが忘れ去られているところに現れており、ナボニドスがネブカドネッツァルの妃の一人を娶り自分の王統の正統性を演出したとされる通りに、ダニエルを知らせたのはベルシャッツァルからすれば皇太后であった。これは当夜の状況が親子の共同統治であった点と合わせて歴史の語る状況を正しく示しており、ダニエル書の信憑性を裏付けている。

第六章はメディア王ダレイオスの支配下でのダニエルの処遇が語られているのであるから、これも第五章の後に来ることも不自然ではない。

問題は第七章で、時代はベルシャッツァルの治世の第一年に遡っている。彼は床での幻を心に秘めて語らずにいたものを後のメディア・ペルシアの治世になってから書記に語り、そのためアラム語になっているように見える。語るつもりになった背景は、二度目に彼が似た幻を見て触発されたためと思われる。この第八章の幻の時期までに語ることも記すこともしなかったのであろう。

だが、これは続く第八章がベルシャッツァルの治世の第三年となっているし、第九章がダレイオスの第一年となっているところは、第七章以降の内容に即して啓示をまとめつつ、ある程度は時の経過に沿った仕方で並べたと見ることができる。従って、アラム語の書記はバビロニアに属する官吏であったように見える。

第八章以降でヘブライ語に戻ったのは、王朝の交代とメディア・ペルシアの寛容政策とダニエルへの王の恩寵、またこの時期のメディア・ペルシアが未だアラム語公用語としていなかった背景が考えられる。

特に第九章だけが世界覇権の流れを追うことから離れて来るべきメシアとその役割に重きを置いているところ、また、シオンへの請願とエレミヤの七十年とダニエルに知らされた七十週についての啓示に紙幅を割いているところ、この部分がバビロン陥落によるシオン回帰の道が拓かれたところで、聖所の再建の内容には一旦啓示の流れを中断しているようではあるが、年代順ということでこうされたのであろう。

第十二章では、高齢に達したダニエルへの「ダニエルよ、汝の道を行け。これらの言葉は終末まで封印される」また「そなたの休みに入り、定められた日の終りに立って、そなたの分を受けよ」と語られ、ダニエルの永きにわたった捕囚の生涯の終りに、その役割を果たし終え、自ら語った事柄への受け分があることを示され、その一生を終えたであろうことが示唆される、キュロスの第三年の啓示が最後となったことからすれば、第九章の内容に関わらず、その位置として不適切ではなかったと言える。

それから、第七章までがアラム語で書かれ、似た内容である第八章がヘブライ語に戻っていることについて、”元々全体がアラム語であったものを、ユダヤ人に受入れさせるために態々幻の最初である第七章までをアラム語に残し、後をヘブライ語にして双方の部分の一体性を装った”という識者がいるというのだが、これは的外れではないだろうか?

なぜならそれは簡単なことで、第七章冒頭の二つの節にはこの章の原筆者がダニエル自身ではないことが明示されているし、第八章の冒頭からはダニエル自身が原筆者であることが分かる。例えこれらが意図的な書き加えであるとしても、これら二つの章には見掛け上の矛盾が内容に生じている。つまり、この二つの章は似ていても内容は異なっているのである。これをそのままに読めば「矛盾している」と感じて、「どうせ、その程度の宗教のまやかしだ」と捉える学者は少なくないように思う。だが、この内容は「その程度のもの」ではけっしてない。

 

◆各章の内容 

では、ダニエル書全体の構成を俯瞰すると

第一章

時代はエホヤキム王の第三年(605)のネブカドネッツァルのエルサレム攻囲が語られ、第一陣の捕囚にダニエルたちが居たことが語られる。彼らは素質ある少年であり、有能な官吏として養成されるべく、バビロンでの生活が始まった環境で如何に未だエルサレムの神殿で祭祀の行われている中での律法の要求を守り続けるかについての知恵を働かせた姿が語られる。その後ダニエルは他の三人の友よりも長い寿命を保ったことが分かる。

 

第二章

ネブカドネッツァルの第二年(603)、王が見た夢が不安を掻き立てたので、その解き明かしの下命があったところからアラム語で語られ始める。

王自身もその夢を忘れていたので、解き明かしを示すことはカルデアの占い師にも困難を極めたが、ダニエルには夜の幻によってそれが明かされ、その解き明かしをも得ることができた。

それは金、銀、銅、鉄からなる巨像の夢であり、それらの金属が新バビロニア帝国以降の四つの世界覇権の推移を物語り、『人手によらず切り出された石』によって像の全体が倒壊し、その『石』で表される神が立てる国によって世界が治められるに至ることが、現に世界覇権者自身に示されている。

 

第三章

ダニエルの三人の友らは、地方長官の役職を拝命していたが、律法に従いネブカドネッツァル自身を象徴する像を伏拝することを拒んで、火刑の危機に面した。

灼熱の炉に投げ込まれた彼らであったが、遣わされた天使に保護され、無害で炉を出ることにより、ネブカドネッツァルに彼ら三人の神への畏敬を懐かせるに至った。(年度不明)

第一章に続き、ダニエルの三人の共が教育を受け終えて国の役職についているが、それでも律法遵守を続けていることが強調される場面となっている。依然、エルサレム神殿ではYHWHの祭祀が続行されていたか否かは年度が分からず不明。

 

第四章

既に宗教の長官に任官されていたダニエルに、再びネブカドネッツァルの夢の解き明かしが求められた。(年度不明)

それが世界を覆う大樹の夢であり、ネブカドネッツァル自身を象徴するその大樹が切り倒され、切り株には箍がはめられ、芽吹きが抑制されて地の草草の中に在って獣と分を共にし『七つの時』を経させることが示される。

これは一年後にネブカドネッツァル自身に起る事柄の予告であり、突然に人間理性を失い、獣のように草を食らい過ごす期間を迎えた。

しかし、定められた時を過ごすと理性が戻ったが、王位は簒奪されず、その王権は保たれたままであった。

そのために、ネブカドネッツァルは天の神を讃え、誰であれ王権を自ら望む者に自在に与える神を讃える布告を出した。

 

第五章

話は飛んで、新バビロニアの首都の最後の晩(前539年ティシュレイ16日)にダニエルが呼び出され、奇跡の手が宴会の王宮の壁に記した文字を読み、その解明をする場面が描かれる。

その間に、イザヤやエレミヤの預言がキュロス大王の攻撃によって刻々と成就していた。攻撃側の情報はクセノフォンなどの資料で伝えられているが、ダニエル書の第五章は、当夜のバビロンの王宮の様子を知らせる貴重な情報となった。

 

 第六章

メディア・ペルシアの支配のはじめ、メディア王ダレイオスの治世(539~538年)で、ダニエルはマゴイ族からの姦計のためにライオンの穴に落とされるが、天使の助けによって保護される。ダレイオスに尊重されるダニエルは、この事件を通して却って地位をより強固にし、反対者の全滅を見ることになった。

 

 第七章

時代はベルシャッツァルの第一年(553)に遡り、ダニエルが床で見た夢について語るが、筆者はダニエルではなくアラム語が続く。

波を立てる海からあがる四頭の獣、ライオン、熊、豹、恐るべき獣。ライオンには(一対の)翼が有ったが取られて二本足で立つ、熊の体は一方が高い、豹は四つの翼と四つの頭を持つ、最後に野獣は例えられるものがなく、十本の角について記述が多い。

第二章の四種類の金属の像を補強して、バビロニア、メディア・ペルシア、マケドニアギリシア、ローマに対応しており、この夢では第四の獣から十本の角が生え、更にそこから別の小さい角が現れ他の角より大きくなり、そのために三本の角が抜け落ちることが加えられる。

それでも最終的には裁かれ『その獣は滅ぼされ、燃える火にわたされる』しかし、『ほかの獣は一時、一時節だけ生き長らえることが許される』そして『雲と共に来る人の子のような者に支配権が与えられる』⇒黙示録を示唆

その者は『時と法とを変えようとするが』『一時と二時と半時の間、彼ら(聖徒)はわたされる』

<この辺りの単語の用法に曖昧さがある。おそらくは理解を乱すための策>

 

第八章

ベルシャッツァルの第三年(551)、ダニエルはスーサに居て(左遷?)、ウライ運河の畔に居る幻を見たが、語り手のダニエルの筆記としてここからヘブライ語に戻る。<当時のエラムはペルシアに近く危険ではないか>

運河の傍らに二本の角を持つ雄羊がいるが、角の長さは後から生えた方が長かった。そこに日の沈む方角から一角の山羊が突進してきて雄羊の二本の角を折り踏み躙って高ぶったが、その一本の角は折れて四本の角が四方の風に向かった。<ペルシアを攻撃するアレクサンドロス大王は明白>

その四本の内の一本から小さい角が興り、東と南に向かい『飾りの地』にも向かった。これは大いに高ぶり『天軍に達し、その幾らかを地に落とす』。天軍の君にまで高ぶり、常供のものが絶え、聖所も打ち捨てられる。常供のものは徐々に引き渡されるがそれは『罪(違背)[בְּ פָ שַׁ ע]のためである』<口語と新共同はこの語句を無視>

『荒らす罪[וְהַפֶּ֣שַׁע שֹׁמֵ֔ם]による、この聖所と天軍とを踏み躙る幻はいつまでのことか?』 <もはや否定のしようがない>

 

第九章

メディア王ダレイオスの第一年(539)、場所は前後関係からするとバビロンらしい。ダニエルの注意はエレミヤの70年に向けられ『遅れないようにしてください』とエルサレムについて祈願を捧げ、遣わされたガブリエルから70週の啓示を賜る。エレミヤの70年が聖所の回復をもたらすのに対してダニエルに伝えられた70周年はメシアの到来と三年半の契約の締結と後の天界の聖所の油注ぎとを予告。メシアが断たれた後には一人の指導者の民によって荒らされる。終わりには洪水があり荒廃は避けられない。⇒ ダニエルの70週

<その後で>メシアは多くの者*と盟約を結び、一週の間は契約を保たねばならない。<しかし>半週の後に捧げ物を廃止する。<しかし>憎むべきものの翼の上(先端)に荒廃をもたらすものが座する。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。<明らかに神殿の再建と祭祀の復興と天界の聖所の建立とが対照されている><荒らす憎むべきものの正体は紛うことない>*おそらくは「大いなる者」

 

第十章

キュロスの第三年(535)、ガブリエルの通告から四年後、ダニエルはチグリス川の近くにいる。

「この(啓示の)言葉は真実であるが、理解するには大きな障碍が(争い)があった」と冒頭で記す。この啓示はダニエル最後のものとなる。

ニサン月の3日に祈りを捧げて断食し同月24日に至り天使の来訪を受ける。その言葉によれば、はじめから祈りは聴かれていたが、ペルシアの土地の君に妨害され21日の間ダニエルの許に至れなかったが大天使ミカエルの助けを得て来た。

自分はペルシアの天使長と戦うために戻ってゆくが、その戦いが済むとギリシアの天使長が現れる。<ここの翻訳は種々雑多>

 

第十一章

前の章から引き続き天使が語り、啓示をダニエルに伝える。

まずペルシアの四王が示され、ギリシアに戦いを挑みギリシアの英桀王が立つが、すぐに四人の王らが代り立つことを知らせる。その中から南の王が強くなり、やがてそれをしのぐ王が現れる。

この二王は策略と争いを繰り広げ、南北の王国の覇権争いとなってゆく。やがて北の王は『飾りの地』(清い地)をも支配するようになる。<それにしてはハスモン朝やハヌカーの由来が無く、途中でアッシリア史が示唆され始める>

やがて軽んじられた者が北の王となり、契約に「違背して*」それになびく者らが現れる。*ペシャ「罪行」

北の王は南の王国を占領しようと大軍で襲い掛かるが、キッティムの船が来襲して諦めることになるが、北の王は契約から離れる者を滑らかな舌で違背に巻き込む。聖所を汚し、常供の犠牲を廃させ、荒らす憎むべきものを据える。

<この後からセレウコス朝の歴史からの逸脱を始め、アッシリア史に遡る>

民の内の聡い者は多くの者*を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。それは終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。(聖徒への迫害)*あるいは「大いなる者」

北の王は誇り高ぶり、自分を神とし、神の神に対してさえ驚くべきことを口にする。彼はただ先祖の知らなかった軍神にのみ多くの財を捧げて賛美する。

この王は異国の神に頼って多くの要害を攻め取り、気ままに愛顧するものには栄誉を与えて支配させる。

終わりの時になると、南の王は彼に戦いを挑むが、北の王は多くの軍勢で嵐のように押し寄せ洪水のように通り過ぎる。『飾りの地』も同様に侵略を受け多くの者らが倒れる。しかし周辺地域のアンモン、エドム、モアブは逃れ出る。

いよいよエジプトも「隠された宝」*までをも支配されるが、北と東からの知らせに驚き、滅ぼすために激高して進軍し、飾りの山に向けて布陣しているところで突然の消滅に至る。*(習慣的に「王家の秘宝」を含意し、王朝の危機を表す) ⇒ 「二度救われるシオンという女

 

第十二章

その時、大天使ミカエルが立ち上がる。(ハルマゲドンに非ず)

それは苦難の時となるがダニエルの民は救われる、また眠りから覚める者たちがいるが、ある者は永遠の命に、ある者は恥辱に至る。目覚めた者らは大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。(聖徒の復活と召天)

さて、ダニエルよ、これらの書を秘し封印せよ。多くの者らが右往左往して<雑多な>知識が増すことになる。

 天使の一人はもう一人に問う「これらの驚くべきことはいつまででしょうか?」「一時と二時と半時である。聖なる民の力が全く打ち砕かれると(聖徒の消失)、これらの事はすべて速やかに成就する。」

「常供の犠牲が絶え、荒らす憎むべきものが据えられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。あなたは休みに入り(80歳代)、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるだろう。」(「常供の犠牲が絶えて」後であれば、これらの日数は1260日の延長上とは言えない)

 

 ◆所見

以上の内容は、旧約預言に照らして歴史を探ると様々な事跡が予型として終末を指し示していることが分かる。

しかし、単語の差異や表象のズレがあって理解を阻むが、言葉に拘ればそこで探求は停止せざるを得ず、預言そのものが学識的探究の限界を告げている。

この場合、障碍を乗り越えさせるものは、書かれた文書と情報源への畏敬であり、文学的に読むこと以外にない。高等批評的解明方法ではまったく歯が立たない。

加えて、明白で理解し易いところと、敢えて言葉を混ぜていると思われるところ、そして全く難解な部分が有り、ある程度は開示しつつ、伏せているところがあるので、平板な理解を広めようとしている意図がある一方で、本論は悟らせないように工夫されているらしい。

明らかなところでは、終末の世界に於いて、軍事に資金をつぎ込む反宗教的な『北の王』と、黙示録によればキリスト教主義の『南の王』の世界覇権の対立の渦中にある。

そこに『飾りの地』に相当する『聖なる者』らが現れ、セレウコス朝のアンティオコス・エピファネスに相当する『新たな角』に『三年半』の間、常に悩まされ、最後は強烈な迫害に勢力を失って『常供の犠牲』が絶やされるが、その原因となるのは『契約への違背』であり、脱落する聖徒らの裏切りによる。

また『北の王』は『他国の神々と共になって』『固く防御された砦を攻略する』のは、黙示録中に『大いなるバビロン』の慫慂による聖徒攻撃と思われる。

新たな角が聖徒を絶やすと、次に信徒の集団を恫喝するが、その結末はアッシリアのものとなり、突然に権力崩壊を起こして消滅する。これが『北王国』と新たな角の終りを意味し、それはナホム書とヨナ書へと連なる。

その時、聖徒らの復活と生き残った者の天への召しがある。

ここまでがダニエル書第十一章に啓示されているが、その後に残されるもう一方の覇権国家『南の王』については記されていない。それは黙示録に譲られている。<おそらくは予型がアッシリアに移ったのでマケドニア南北朝には戻さなかったのかも知れない。しかし、終末の『北の王』については、その実体を見紛うことがないまでに描かれている>

 

しかし、預言の全体が描く終末像については、ダニエルを中心とするイッシューだけでは片付かないので別記する。

しかし、ダニエルがほぼ把握できると、一気呵成に描きだすことができる。

それには新約のキリストの終末預言と黙示録、パウロ書簡も含む。

現段階では、「エドムへの苛烈な報復」、「新しいエルサレム」、などが気になって残ってはいる。

しかし、エゼキエル37章以降、特に第三神殿に関わる土地の詳細を確認できれば、三大宗教の中心地が割り出せるように思う。これについては、「本当に現エルサレムではないのか」にいくらかの不安定要素があるが、エゼキエルの土地の分配は常軌を逸しており、エルサレムともシオンとも語らない。そこで現エルサレムではない可能性は少なくはないと思える。それであるから、終末に現エルサレムが争点になると思うのはゼカリヤが障碍になってはいる。これは「新しいエルサレム」の描写とエゼキエル神殿とに相似の働きがあり、しかも両者の意義は正反対であるところについては、まずそのように理解して良いと思える。(だが、ウジヤの時の地震からすると、オリーヴ山云々は良い意味で語られていないようだ)

どちらにしても、現エルサレムは終末に論争の元にはなるようだ。

このダニエル書の理解を得ることによって、終末の全体像はほぼ把握できたようだ。しかし、以下の各資料をまとめる仕事が残されている。

エゼキエルはおおよそ要点を把握した。残るはゼカリヤの黙示とイザヤのシオンについて。それからキリスト教界への警告となるホセアとアモス

「2300の夕と朝」については秘儀であると特に謂われているので、これは自分が解けるような分際ではないと思う。おそらく聖徒が為すべき解明を待つものだろう。1290日と1335日は聖徒と信徒のいずれに関わるものかが分からない。聖所に関するものである可能性が高く、これも無契約の者には預かるところは無いように思える。或いは『荒らす憎むべきもの』の存続期間との関わりを示すのかもしれない。それは『七つの頭を持つ獣』よりは幾らか長く存在することは確かだが。

 

LF

 

◆ノートの集積

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マカベア記第一 背景とダニエル書との関連

 

今日ではLXXに含まれるが、原典がヘブライ語であったことは文体からも明らかであることをヒエロニュモスがこの第一がヘブライ語で第二がギリシア語であることが分かると初版本の序文で述べている。(但し、ヒエロニュモスが接したものはアラム語訳であったかも知れない)

これは著者が時折ヘブライ韻文の詩を挿入している文体からも立証される。この書には『神』また『YHWH』が一度も現れない特徴がある。*文末(以下の訳文では補っている)

ヨセフスの引用はギリシア語版と幾らか異なるので、D.J.ミカエリスによってヘブライ語原典をソースにしていたのではないかとされる。<ヤムニア会議との整合性?>

書名も実際は何と呼ばれていたかは不明で、マカベア記ではなかったらしくオリゲーネスAlxは「崇拝の存続」(?)[ΣαρβηθΣαβαναι]としていたとエウセビオスは記す。ギリシア語訳は良いものらしく信頼性は低くないとユダヤ教側も認めている。主な写本には、シナイ、アレクサンドリア、ヴェネトがある。

著者は不明ながらハシディームのパレスチナ在住であったと想定され、地理的知識の正確さにもそれが現れている。同時に他国の情報に疎いことも判明している。ガイガーは著者はサドカイ派であると主張している

 

時代背景はエピファネスのユダヤ介入(175)からシモンの死(135)の40年間に至る。

 

 

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◆TANAKHとの関連性

『そして遂に彼ら(ディアドコイ)の中から悪の元凶、アンティオコス・エピファネスが現れた。』1:10 ⇒ Dan 8:9 11:21

 

『この間、イスラエルには律法に背く者どもが現れ、「周囲の異邦人と手を結ぼう。彼らとの関係を断ってから万事につけ悪いことばかりだから」』1:11

『民の中のある者たちは進んで王のもとに出かけて行き、異邦人の習慣を採用する許可を受けた。こうして彼らは異邦人の流儀に従ってエルサレムに鍛錬場(ギムナシウム)を建て、割礼の痕を消し、聖なる契約を離れ、異邦人と軛を共にし、悪にその身を引き渡した。』1:12-15 ⇒ Dan 11:30・34

 

『アンティオコス軍はエジプトの地にある要塞都市を次々に攻め落とし、その地で略奪を欲しいままにした。』1:19 ⇒ Dan 29-30

 

『こうしてエジプトを打ち破った彼は、第百四十三年、矛先をイスラエルに転じて大軍と共にエルサレムを目指して上って来た。アンティオコスは不遜にも聖所に入り込み、金の祭壇、燭台とその付属品一切、供えのパンの机、葡萄酒の捧げ物用の壺と杯、金の香炉、垂れ幕、冠を奪い、神殿の正面を飾る金の装飾をすべてはぎ取った。更に金や銀や貴重な祭具類、隠されていた宝をも見つけ出して奪った。そしてすべてを略奪すると故国に帰った。彼は人々を殺戮し、高言を吐き続けていた。』1:20-24 ⇒ Dan 11:29-30 7:8 

 

『二年の後アンティオコス王は、徴税官をユダの町々に派遣した。王は大軍を率いてエルサレムまで来たが、言葉巧みに穏やかな調子で語ったので、住民は彼を信頼した。すると彼は突如としてこの都を襲い、破壊を欲しいままにし、多くのイスラエル人を殺した。そして略奪をしたうえで都に火を放ち、家々や都を囲む城壁を破壊した。女子供は捕えられ、家畜もまた奪われた。その後、彼らはダビデの町に幾つもの堅固な塔を備えた巨大で強固な城壁を巡らして、要塞を築いた。彼らはそこに罪深い異邦人と律法に背く者どもを配置し、要塞内での勢力を強めた。彼らはここに武器や食料を蓄え、エルサレムで奪った戦利品を集めて積み上げ、ユダヤ人にとっての大いなる罠となった。』1:29-35

(詩文)『要塞は、聖所に対する罠となり、イスラエルに対する邪悪な敵となった。彼らは聖所の周りに罪なき者の血を流し、聖所を汚した。・・』1:36-37 ⇒ Dan 8:11  11:31

 

『王は領内の全域に、すべての人々がひとつの民族となるために、各々自分の習慣を捨てるよう、勅令を発した。そこで異邦人たちは王の命令に従った。またイスラエルの多くの者たちが、進んで王の宗教を受入れ、偶像に犠牲を捧げ、安息日を汚した。

更に王は使者を立て、エルサレムならびに他のユダの町々に勅書を送った。それは異邦人の習慣に倣い、聖所での焼燔の犠牲、犠牲、葡萄酒の捧げ物を中止し、安息日や祝日を犯し、聖所と聖なる人々を汚し、異教の祭壇、神域、像を造り、豚や不浄な動物を犠牲とし、息子たちは無割礼のままにし、あらゆる不浄で身を汚し、自ら忌むべきものとすること。

つまり、律法を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。この王の命令に従わない者は死刑に処せられることとなった。』1:41-50

 

 

『第百四十五年、キスレウの十五日に、王は祭壇の上に荒らす憎むべきものを建てた。人々は周囲のユダの町々に異教の祭壇を築き、家々の戸口や大路で香を焚き、律法の巻物を見つけてはこれを引き裂き火にくべた。契約の書を隠し持っている者、律法に適った生活をしている者は、王の裁きにより処刑された。悪人たちは毎月、町々でイスラエル人を見つけては暴行を加えた。そして月の二十五日には主の祭壇上に設えた異教の祭壇で犠牲を捧げた。また、子供に割礼を受けさせた母親を王の命令で殺し、その乳飲み子を母親の首に吊るし、母親の家の者たちや割礼を施した者たちをも殺した。だがイスラエル人の多くはそれにも屈せず、断固として不浄なものを口にしなかった。彼らは食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは死を選んで死んでいった。こうしてイスラエルは神の激しい怒りの下に置かれたのである。』1:54-63 Dan 9:27・11:31・12:11

 

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ヨセフスとの整合性

170年頃、エピファネスは大軍を率いてエルサレムに至り、プトレマイオス派の人々を殺し、兵士らには略奪を許可し、自らは聖所を荒らした。その結果3年半常供の犠牲が絶えた。

その後もユダヤ人の習慣を止めさせるためにバッキデスなる残忍な守備隊長を遣わし、不敬虔な命令を行わせ、「不法という不法を行わせた」。彼は名を知られた人々を一人一人拷問にかけ、連日セレウコス朝に征服されたことを印象付けた。(戦史1)

 

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・要塞

エピファネスが築いたとされるアクラ要塞については、ネヘミヤが築いたものとの関連する可能性あるも不明。ハスモン朝期に「ストラトンの塔」が有ったことは知られている。同期、大祭司は要塞内に居住していたことをヨセフスが記録。

63年に要塞の塔の一つが破壊された。その後ヘロデ大王による改修した要塞は、当時大王の擁護者であったマルクスアントニウスに敬意を払い「アントニア要塞」と命名され、その後も改名されずに残る。

双方は位置としては共に神殿域の北西に当たり、同じ遺構の上に建てられた可能性有り、但し、現在は調査が禁じられて不明。

 

・トビヤ派

ヨセフスによればエルサレムの高位の者であったが、オニアスⅢ世が優勢になると、セレウコス朝に逃れ、エピファネスがエルサレムを攻撃するときには自分たちを道案内に使うよう要請していた。

もとより征服の意志のあったエピファネスは、実際にエルサレムを占領するとオニアスを大祭司職から退けトビヤに代替した。175(戦記1:1)

オニアス派はプトレマイオスの許に逃れると、ヘリオポリス州に土地を下賜されたので、彼らはそこにエルサレムに模した城市と小神殿を建立。

オニアス自身は171年に暗殺されている。

<これとエレファンティネ島のユダヤコロニーとの関連は?>

 

ハヌカーの奇跡についての記述はマカベア記では暗示されるにとどまり、タルムードを見る必要がある。この奇跡は中世期から疑問視されているとも。(ハヌカーの「ハ」音はヘットであり無声口蓋垂摩擦音 英文ではXで代用することも)

 

・175年 エピファネス帰国し即位  各地のヘレニズム化を推進 1Mac1:10

  オニアスを廃してその弟ヤソンを任命

・171年 ヤソンを廃してメネラオスを任命

・170年 エピファネスによるエジプト遠征 エルサレム占領 1Mac1:16-

・169年 エピファネスはエジプトを席巻 1Mac1:18

・168年 エジプト征服をローマに阻まれる Dan 11:30

   エルサレムを再征服して介入 常供の犠牲の停止 1Mac1:20

・167年 ユダヤ教と割礼禁止とゼウス祭壇と豚の犠牲を命令 Dan 11:31

   ハスモン家の反乱の開始 1Mac2:1-

・166年 ベト・ホロンでアポロニウス軍が破られる 1Mac3:13-

・165年 神殿の再献納(ハヌク) これがハヌカーの由来 キスリュウ25日 

                                                                                      1Mac4:36-

・163年 エピファネスがペルシアで陣没 1Mac6:1-

 

・142年 ユダヤセレウコス朝から自治を認められ、周辺支配も許され、イドマヤを強制改宗させる

・139年 ローマ元老院ユダヤ自治を承認

・134年 アンティオコスⅦ世シデテスがエルサレムを攻囲、ヨハナーン・ヒュルカノスは家臣となるが宗教的独立は保持

 <マカベア記と年表を合わせるのが幾らか難しい>

 

 

*-神名の不表示について-推論

 書かれ編纂された時代が後代であるのと、原典がヘブライ語であった可能性をヒエロニュモスが語っているところからすると、既に神名の作法が確立されていた時代であったためとも思える。

加えて、ギリシア語抄本だけが残されているためにLXXとの整合性をとったとも考えられるのではないか。

もし、そうであれば、原典には神名が有った可能性はゼロではない。

だが、神との相関性の無さゆえに著者がそれを避けていた可能性も考えられなくはない。これはもう少し外典を調べて見ないとなんともいえない。

 

QT

 

 

Dan7とDan8の小角は異なる

前者は世界覇権の流れを追う黙示であり分かり易すく、多くの説明が巷に溢れている。

しかし小角を同一のものとして追うとDan8と不整合が起る。前者ではローマの後継を追えばよいのだが、後者ではマケドニアの後継となっている。

そこでこの二つを「派生」についての用語と捉えると、前者の対極的な観点での小角と後者の分析的な小角の二つと捉えることができる。

この観方はDan11に於いて補強というより証拠立てられる。

Dan8とDan11とは同じものを語っており、Dan10から続く中でマケドニア南北朝に関わる中での「小角」であることが示され、これが黙示録に『七つの頭を持つ獣』として登場している。黙示録が明かすようにこれは覇権としても権力としても特殊な存在であり、その多頭がそれを象徴している。それは覇権の中から興るものであり、それ自身には然程の力はないのだが、それがその脆弱性ともなっている。

従ってDan7のものは、国家の現れと特徴と終わりを教えているが、Dan8と11とでは、その国家から派生する腕について述べている。これは派生の仕方ではなく、その残忍な王の特性をエピファネスに於いて例えるためであろう。

そこでエイレナイオスがしたように「小角」というひとつの象徴にまとめて呼ばない方がよい。これらは「後から現れる権力の象徴」であると見て間違いなさそうだ。ただ、それがアンチ・クリストを盟主とするかはまだ分からない。

Dan7ではローマの後継という中での十本の角は、近代的諸国と捉えると視野が広がるが、一つだけ『その獣が滅ぼされ』『ほかの獣はさらに一時の間存続が許された』のところにもうひとつの障碍がある。この障碍は理解を阻むために置かれたものであるかも知れない。言葉に拘ると此処で理解が進まなくなる。

しかし、この辺りは曖昧に書かれている感触がある。註解書を漁る必要があるようだ。

7:7 [חֵיוָ֣ה]  7:11   [חֵֽיוְתָא֙]  同じ

こうなると原語がどうということではなく、ダニエルをも越えて原発言者の意図を探ることになる。

 

◆『小角』とエピファネスの関連

『 8:23 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして/高慢で狡猾な一人の王が起こる。
8:24 自力によらずに強大になり/驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい/力ある者、聖なる民を滅ぼす。
8:25 才知にたけ/その手にかかればどんな悪だくみも成功し/驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。ついに最も大いなる君に敵対し/人の手によらずに滅ぼされる。』(新共同)

『 8:23 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。
8:24 彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。
8:25 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。』(新改訳3)

『8:23 彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んで、ひとりの王が起るでしょう。その顔は猛悪で、彼はなぞを解き、
8:24 その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、そのなすところ成功して、有力な人々と、聖徒である民を滅ぼすでしょう。
8:25 彼は悪知恵をもって、偽りをその手におこない遂げ、みずから心に高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、ついに彼は人手によらずに滅ぼされるでしょう。』(口語訳)

・これらの句では、「小角」と「北の王」とが混じっている。しかし、十一章では北の王から興される『腕』にその働きが語られる。

 

Dan11では北王の表象は幾つかの実体に散らされている。これらは総合されないよう工夫されている。<これは実体を見ないと理解できないだろう>

それが11ではグラデーション化されることで理解の糸口を与えている。

そこからナホムが導かれ、イザヤの前半も関わっている。ゼカリヤにも幾らか語られる。

これは終末の前半を形成するが、現状でも既にその実体が見えているところがある。

その実体の様相からするとヨナ書の意義に連なるものがある。

以上の内容だけでのレジュメを構成できる。

問題は、マケドニア南北朝に関わるDan11の中でどのようにグラデーションがかかっているかを明らかにすることになる。

それから、すべてを四頭の獣で語られないことに於いてDanの中での獣の入れ換えが起っていることもこのグラデーションの理解の鍵を与える。

 

Dan11に書かれていそうで書かれていないことは、神殿の再献納とハスモン家の支配の確立であり、エピファネスの横暴のところでマケドニア史が終わるかのようにされている。しかも終わりの方はマケドニアではなくアッシリアに入れ替わって別の事跡を述べようとしている。それが終末の独自性であるらしい。

そこでナホムとヨナが終末に意義を持ち始める。

 

 単に歴史をなぞる預言ではないし、言葉に拘ると分からなくなる仕掛けがある。途中から黙示化しているので、多くの読み手を混乱させる。

言質を取ろうとする者らは空し手で返される。こう書いてあるからこうなのだとは言えない。それが超絶的。しかも幾つかの預言書と連動している。

 

ということは、神は長い時に亘り預言や啓示を与えてきたものの、実体を見た者にはその手掛かりを与えるということになり、それは終末という一時にどれほど多くの霊感の知識が込められていたかを実感させる。

これもまた大層な事になっている

 

 

 

 

 

雑録19.8

・サムエル第一3:1『そのころ、YHWHの言葉が臨むことは少なく、幻が示されることも稀であった(まったく無かった)。』

 

年代記には64年に一人のローマ市民が何らかの不法行為をしたとして、アシアのプロコンスルによって鎖に繫がれネロの法廷に引き渡されている。

 

・エフェソスの第一人者でありローマ市民でもある、クラウディウス・アリスティオンは出身属州で暴力事件を起こしたが、プロコンスルによる審理を拒否して上訴し、トラヤヌスの法廷に出廷している。

 

・フローロスはローマ市民権を持つユダヤ人を暴動画策の廉で処刑している。

 

・ネロ帝の初期まで、キリキアはシリアのレーガートスの管轄に置かれ独立してはいなかった。

 

・Jクリュソストモスによると、月毎に開かれる民会は三種類あった。アテナイでも五週に一回開催される民会が三種類あったと。

 

・「定例民会」(エクレーシア)がエフェソスでも行われていたことはサルターリスの碑文から明らかである。

 

・ルシアスが支払った多額の金というのは、皇帝官房か属州官房の役人に支払われた賄賂である。この役人の仲介によって贈賄者の名が市民候補者名簿に載った。

 

・アキュラの出身はポントスであり、ローマに市民権を持ったユダヤ人が少なくないことは確かながら、彼や妻が市民であったかは分からない。

しかし、デルベ出身のガリオについてはその名から中部イタリアの名門の出である可能性が極めて高い。

 

・「義人ヤコブが主と同じ訴因で殉教すると、主のいとこであるクロパの息子であるシメオンが監督に立てられた。彼が主のいとこであったので、すべての者が彼を二代目に推挙したである。そのために、彼らはその教会を汚れなき処女と呼んでいた。むなしい言説に耳を傾けず、まだ堕落していなかったからである。ところがテブティスは、自分が監督に立てられなかったので、自分も属していた民の間の七つの異端を利用して教会を汚しはじめた。」(ヘゲシッポス 教会史4:22)エウセビオスはヘゲシッポスがヘブライ福音書やシリア語の福音書、またアラム語のものから引用しており、ユダヤ人信徒であったと結論している。

 

・エイレナイオスは、マルコが福音書を書いたのは、ペテロとパウロが去った後、ペテロの弟子で通訳のマルコがペテロの教えたことを書き残したとしている。反駁3:1:2

 

・120年頃、シクストゥスⅠ世のローマのエクレシアではローマ派と小アジア派の間で争いが起り相互に黙認することで一度は決着していたが、ポリュカルポスのローマ訪問で再燃することになった、その時にアニケトスの下にいたのがウィクトルだった。

 

ピエロ・ソデリーニ(父トマゾ)
終身正義の旗手 (ゴンファロニエーレ ディ ジュスティツィア)1502〜1512
八人のシニョーリアを率いる総裁。フィレンツェ共和制の要。
当時のイタリアは南にスペイン、西にフランス、北にオーストリア、東にオスマンの脅威があった。

 

 

 

 

 

 

マケドニアのディアドコイ時代

マケドニア履歴 - Quartodecimaniのノート

アケメネス朝と「ユダ帰還」 - Quartodecimaniのノート

ディアドコイ戦役前の情勢 - Quartodecimaniのノート

 

アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にあるアメン神(ゼウスと同一視された)の聖所シワ・オワシスを訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる(「古代エジプトの歴史」)

 

紀元前320年、アレクサンドロスの部下でエジプトに配置されていた将軍プトレマイオスがまず最初にシリア太守ラオメドンを下し、コイレ・シリアも含むシリア全域を占領した。紀元前315年にディアドコイの一人、隻眼のアンティゴノスが小アジアから東へ領土を拡大し台頭すると、プトレマイオスは反アンティゴノスの同盟に加わったが、コイレ・シリアからは撤退した。紀元前312年、エジプトに逃れていたディアドコイの一人セレウコスプトレマイオスの連合軍がシリアに侵攻してガザの戦いでアンティゴノスの息子デメトリオスを破ると、プトレマイオスが再度コイレ・シリアを手にした。しかしデメトリオスは部下の反乱を破って態勢を立て直し、またデメトリオスの敗北を受けてアンティゴノスが自らシリアに入ると、プトレマイオスはわずか数ヶ月後でコイレ・シリアから撤退する。しかしこの数カ月の間にセレウコスはバビロンに戻ることができ、セレウコスは命をつなぐことができた。

紀元前302年、ディアドコイの中で最有力となったアンティゴノスを包囲する同盟が形成されるとプトレマイオスも加わり、コイレ・シリアに軍を進めたが、アンティゴノスが戦闘に勝ったという虚報を聞いてまた撤退した。紀元前301年、小アジアのフリュギアでのイプソスの戦いでセレウコスおよびリュシマコスの連合軍がアンティゴノス軍を壊滅させアンティゴノスを戦死させると、プトレマイオスは再びコイレ・シリアを占領した。イプソスの戦いの勝者の間では、コイレ・シリアは勝利に貢献しなかったプトレマイオスではなくセレウコスに割り当てられることになっていたが、セレウコスはコイレ・シリア防衛の戦いを起こそうとはせずプトレマイオスによる占領を黙認した(プトレマイオスの助力でバビロンに逃げることができたことを忘れなかったからと推測されている)。

 

 

ヘレニズム期にはセレウコス朝などによりギリシア式の都市がコイレ・シリアに多数建設された。その中でも有名なものはデカポリスと呼ばれるダマスカスからヨルダン川東岸に至る都市群である。こうしたギリシャ式都市ではヘレニズム文化が栄えてギリシャ語が話されたが、この地方の住民の多数派はアラム語などを話すナバテア人、アラム人、ユダヤ人などセム系諸民族であった。

第1次シリア戦争 (紀元前274年 - 紀元前271年)
第2次シリア戦争 (紀元前260年 - 紀元前253年)
第3次シリア戦争 (紀元前246年 - 紀元前241年)
第4次シリア戦争 (紀元前219年 - 紀元前217年) - ラフィアの戦い
第5次シリア戦争 (紀元前202年 - 紀元前195年)
第6次シリア戦争 (紀元前170年 - 紀元前168年)

 

年表はこの頁の下部を参照

 

ディアドコイ時代

セレウコス朝王名

セレウコスⅠ世 ニカトール 位312-281

アンティオコスⅠ世 ソーテール 位281-261

アンティオコスⅡ世 テオス   位261-246

セレウコスⅡ世 カリニコス 位246-226

セレウコスⅢ世 ケウラノス 位226-223

アンティオコスⅢ世 メガス 位223-187

セレウコスⅣ世 フィルパトール 位187-175

アンティオコスⅣ世 エピファネス 位175-164

アンティオコスV世 エウパトール 位164-162

デメテリオスⅠ世 ソーテール 位162-150

アレクサンドロスⅠ世 バラス 位150-145

デメテリオスⅡ世 ニカトール 位145-138 パルティア捕囚

 アンティオコスⅥ世ディオニュソス 代理王145-140

アンティオコスⅦ世 シデテス 位138-129

デメテリオスⅡ世  ニカトール 複位129-126

  アレクサンドロスⅡ世 ザビナス 簒奪位128-122

クレオパトラ・テア  位125-121

 セレウコスV世 フィロメトール 位126-125

アンティオコスⅧ世 グリュッポス 位125-96

  アンティオコスⅨ世 キュジケノス 位113-95

 セレウコスⅥ世 エピファノスニカトール 位96-95

 ・・・

BC.63滅亡時は、フィリッポスⅡ世 フィロロマイオス

 

 

 

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ディアドコイ戦役年表 この以前は⇒「ディアドコイ戦役への情勢

 

321:ナイル渡河に失敗したペルディッカスをセレウコスが弑する。

この摂政の死を受けてアンティゴノスがトリパラディソスに諸将の会議を招集し、アンティゴノスは総司令官、セレウコスバビロニアの太守となる。 

ペルディッカスに組みしていたエウメネスとアンティゴノスの間で戦いが始まる。

この頃リュシマコスはアンティパトロスの娘ニケーアと結婚

319:マケドニア摂政アンティパトロスが高齢で死去、後任はポリュペルコンとするが、これに摂政の息子カッサンドロスは納得せず後任と対立。

318:リュシマコスはポリュペルコンの将軍クレイトスを破り討ち取る

317:パラエタケネの戦い

カッサンドロスはマケドニア摂政を宣言

316:ガビネエの戦い エウメネス戦死 

ピュドナ攻囲でオリュンピアスが敗れカッサンドロスに殺害される

315:第三次ディアドコイ戦争が始まる-311

アンティゴノスの領土分配に不満を持つメディア太守パエトンがアンティゴノスに攻め滅ぼされるのを見たセレウコスプトレマイオスのエジプトに逃れる。

カッサンドロス、リュシマコスプトレマイオスⅠ、セレウコスⅠが同盟してアンティゴノスⅠと戦う。

 

312:「ガザの戦い」プトレマイオスⅠがアンティゴノスの子デメトリオスを破りシリアを占領する。ユダヤはエジプトの支配下に入る-198

10月セレウコスはバビロンに再入城し、かつて施した善政のために市民から迎えられる。セレウコスⅠ即位(-280)バビロニアを支配、シリアをエジプトから奪還し、シリア王国を興してセレウコス朝を開始(-63)216年間

 

311:セレウコスⅠ世を除く諸将の間で講和が結ばれ五分割される

カッサンドロスはギリシアマケドニア

リュシマコストラキア小アジア

プトレマイオスはエジプト

アンティゴノスはオリエント西方

セレウコスはオリエント東方)

しかしセレウコスはアンティゴノスと戦ってバクトリアを制圧する

 

310:ロクサナとアレクサンドロスⅣ世がカッサンドロスに殺害される

309:大王の庶子ヘラクレスがカッサンドロスの賄賂を受けたポリュペルコンに殺害される

 

307頃、セレウコスはバビロンを放棄して、ティグリス河近郊に首都セレウケイアを創建

306:キュプロスのサラミュス沖の海戦でデメトリオスⅠ世がプトレマイオスⅠ世の軍を破る

デメトリオスⅠ世とアンティゴノスⅠ世モノフタルモスとが親子で王を称し、アレクサンドロスの王国が終わる

305:プトレマイオスⅠ世、王を称してプトレマイオス朝エジプトを興す -30 274年間

カッサンドロス、リュシマコスセレウコスも王を称する。六王乱立

304:第四次ディアドコイ戦争が始まる

301:アンティゴノスⅠ世モノフタルモス[隻眼者]はリュシマコスセレウコスの同盟軍にイプソスの戦いで敗れて戦死する、領土は別のディアドコイらによって分けられる 息子のデメトリオスⅠ世は逃れる

ユダヤ(コイレ・シリア)はプトレマイオスⅠ世によってエジプトに編入され、寛大な処遇を受ける

この頃、リュシマコスセレウコスⅠ世の拡大を恐れ、プトレマイオス朝の女王アルシノエⅡ世と結婚

300:デメトリオスの娘ストラトニケー(母はアンティパトロスの娘)がセレウコスⅠ世に嫁ぎ、盛大な結婚式が催される。

297:カッサンドロスは病死 その後カッサンドロスの後継者フィリッポスⅣ世は早世し、別の二人の息子が王位を争う中をデメトリオスⅠ世に付け込まれ双方共に断絶

 

288:デメトリオスⅠ世はリュシマコスプトレマイオスの支持を受けたエピロス王ピュロスの侵攻を受けギリシア王位から放逐される その後セレウコスに捕えられ獄死する283

285:リュシマコスマケドニアの共同統治者であったピュロスを追放し、マケドニアの単独王となる

 

281:セレウコスⅠ世、イプソスの戦いで勝利しリュシマコスを倒しディアドコイ中の最強勢力となる。アンティオコスⅠ世 ソーテールが父と共同統治王として即位

サルディスの西方コルペディオンの戦いでリュシマコス戦死、遺領アナトリアセレウコスが収める

280:セレウコスⅠ世、プトレマイオスⅠ世の子ケラウノスに殺害され、マケドニアトラキアはケラウノスに治められる。ケラウノスはリュシマコスの仇を討ったとしてその遺領の領有を主張。セレウコスⅠ世の息子で共同統治者であったアンティオコスⅠ世ソーテールが東方の領土からセレウコス朝領土を継承

以後、コイレ・シリアなど西方での戦役が頻発

 

261:アンティオコスⅠ世 ソーテールが死去、アンティオコスⅡ世 テオスが即位

アンティオコスⅡ世 テオスはラオディケーⅠ世と結婚していたがエジプトからベルニケーを迎えるために離婚

 

250頃:イラン系遊牧民パルニの族長アルケサスⅠ世が即位、後にシリア王国に属したイラン北東部ホラーサーンの地にパルティア王国を建国-228

バクトリアとソグディアナの管轄区がシリアから独立し、長官が王を名乗る

 

246:プトレマイオスⅢ世が即位-221

同年プトレマイオスⅡ世の死により、南北の平和協定が見直され、アンティオコスⅡ世 テオスの元妻ラオディケーはベルニケーを殺害したうえ元夫をも(おそらく)毒殺し、息子をセレウコスⅡ世 カリニコスとして即位させる-226

245:プトレマイオスⅢ世はユダヤと神殿を強化。

第三次シリア戦争-241 ベルニケーの弟であったプトレマイオスⅢ世は姉の仇を討つべくシリアに侵攻、セレウコスⅡ世から小アジア南岸とエフェソスを奪う

セレウコスⅡ世はベルニケーⅡ世と戦う、セレウコス朝は弱体化する。D11-6

 

240頃:ヨセフ・ベン=トビヤが活動-218

バクトリアが王を称えた将軍ディオドトスの下で建国

239:マケドニアでデメトリオスⅡ世が即位-229

238頃:小アジアセレウコスⅡ世の弟アンティオコス=ヘエラクスが反乱、「兄弟戦争」これをペルガモンのアッタロスⅠ世の援助を受けて鎮圧-236

235:エラトステネスがアレクサンドレイア図書館長に就任

 

229:マケドニアでフィリッポスV世が即位-179 アンティゴノスV世が摂政

225:セレウコスⅡ世の急死によりセレウコスⅢ世即位 

223 セレウコスⅢ世、アッタロスⅠ世が支配するアジア征服を目指したが失敗し陣中で毒殺される。アンティオコスⅢ世が即位、セレウコスⅡ世以来の臣下ヘルメイアスが支える。以後アンティオコスⅢ世は東方のバクトリアとパルティアに連戦連勝し、大王の旧領をほぼ手中にし、メガスを名乗る

222:メディアのサトラップのモロンとペルシスのサトラップmpのアレクサンドロスが謀反、アリストパテネ王のアルタバザネスも不服従の姿勢を見せる

プトレマイオスⅢ世は、ユダヤの行政語をギリシア語とする。

221:アンティオコスⅢ世が反乱鎮圧に向かい、アポロニアでモロンの軍を破る。アレクサンドロスの軍も破ったうえ、アリストパテネ王には臣従と朝貢を科す。

219:「第四次シリア戦争」アンティオコスⅢ世は、海沿いの失地回復を目指して、ナバテアと同盟を結び、フェニキアパレスチナを攻略

217:進軍するシリアと戦うためにプトレマイオスⅣ世が兵を集めてラフィアで決戦となり、エジプトが勝利する。完敗を喫したアンティオコスⅢ世はパレスチナの覇権を失う。

215:第一次マケドニア戦争

フィリッポスV世はカルタゴハンニバルを助けてローマと戦う

アンティオコスⅢ世 ポントス王国の支援で独立した総督アカエオスを攻撃

214:アンティオコスⅢ世 アカエオスを倒し、その妻ラオディケーの抵抗も排してマケドニアアナトリアの覇権を回復する。

212:アンティオコスⅢ世 東方遠征 アルメニア征服

209:アンティオコスⅢ世 パルティアとバクトリアを攻め両国を臣下国とする。エウデュモスによってバクトリアは隆盛を見る。

この頃から上エジプトが反乱を起こして185に及ぶ

206:アンティオコスⅢ世 バクトリアのエウデュモス王を攻め、その王子と自分の娘とを婚姻させ宗主権を確保、さらにカブール渓谷に至り当地をも征服、アレクサンドロス大王の旧領の東端に至りメガスの称号を名乗る

205:プトレマイオスV世が即位 アガトクレスが三年間摂政となるが専制

203:マケドニアのフィリッポスV世、アンティオコスⅢ世とエジプトの海外領分割を密約

202-201:アンティオコスⅢ世、シリア南部に侵攻、ガザまでを占領

201:第五次シリア戦争 アンティオコスⅢ世プトレマイオス朝とシリア・パレスチナを巡って戦争。-195

200:第二次マケドニア戦争 フィリッポスV世ローマと対戦 アビュドスを破壊

198;この頃アンティオコスⅢ世がヨルダン川水源近くのパニウムでエジプト軍を破りパレスチナの支配権を奪回、神殿祭司団を掌握。

セレウコス朝によるパレスチナ支配とギリシア化政策が始まる

197:アンティオコスⅢ世の小アジア侵攻の開始

196:プトレマイオスV世の戴冠第一回記念祭 ロゼッタストーン建立

195;この頃、アレクサンドレイアの図書館長にビザンチンアリストファネスが就任。

193/4:アンティオコスⅢ世は娘クレオパトラプトレマイオスV世に与えて、ゆくゆくはエジプトを支配することを目論んだ。(しかし、この娘はエジプトの側に立ち、夫にローマとの同盟を結ばせ、シリアに敵対する)

192:シリア戦争始まる-188

アンティオコスⅢ世はギリシア征服を目論み、アナトリア同盟の教唆からローマ・アカイア同盟軍と戦い敗北、小アジアのシリア領とペルガモンとロードスを失う。

190:アンティオコスⅢ世、ハンニバルと組んだエウリュメドン河口の海戦、またミュオネッソス岬の沖合でレッギルス提督率いるローマ海軍に二度敗北、地中海方面の支配権を失う。支配民への収奪に走る。

アンティオコスⅢ世、圧倒的優勢ながらマグネシアの戦いでスキピオ・アシアティクスに惨敗。

188:ローマとシリアの間でアパメア和約が結ばれ、アンティオコス三世は賠償金を払うことに同意し、また息子の一人ミトラダーテス(後のエピファネス)をローマに人質として差し出す。

187:アンティオコスⅢ世、ローマへの膨大な賠償金を課せられたので、スーサの神殿から略奪する際に現地人に殺害される。セレウコスⅣ世フィルパトール即位

181:プトレマイオスⅥ世即位 シリアと交戦

179:マケドニアペルセウスが即位 反ローマ政策をとる

175:アンティオコスⅣ世エピファネスが帰還して即位

 ユダヤの大祭司オニアスⅢ世を廃し、ヘレニストであるヤソンを任命。

171:アンティオコスⅣ世、ユダヤの大祭司ヤソンを廃し、更に過激なメネラオスを任命

170:プトレマイオスⅥ世 同Ⅷ世とクレオパトラⅡ世とを共同統治者とする-164

エルサレムがアンティオコスⅣ世に占領され、市民の多数が虐殺され神殿が破壊される。

169:第六次シリア戦争 アンティオコスⅣ世はプトレマイオスⅥ世を攻めてエジプトに侵攻-168

168:ローマとマケドニアによるピュドナの戦いでアンティゴノス朝ペルセウス王がローマのルキウス・アエミリウスに敗れ、以後マケドニアは分割されて衰退し、シリア、エジプトに先立ってローマの支配に降る。ヘレニズム世界は南北の二王国となる(第三次マケドニア戦争)

同年、シリアのアンティオコスⅣ世エピファネスによるエジプト侵攻はローマの代官ポビリウスの介入によって失敗。撤退途上でエルサレムを再征服し、追放されていたメネラオスを大祭司に復帰させる。神殿の上手にアクラ要塞を建設。

167:アンティオコスⅣ世 ユダヤユダヤ教禁止令を発布。神殿にゼウス・オリュンピオスの神々を合祀。マカベアの反乱を惹起。

166:ハスモン家のマッタティアに代ってイェフダが反乱の指揮をとり、ベト・ホロンでアポロニオスの軍を破る。

165:アンティオコスⅣ世 ペルシア遠征

164:キスレウの月に神殿の再献納

163;この頃アンティオコスⅣ世エピファネスはペルシア方面遠征中(ユダヤ帰投)に病没(?)、幼少のアンティオコスV世エウパトールが即位。

ハスモン家はリュシアスの軍にベト・ザハリアで敗れ、再び荒野に撤退

162:ローマに囚われていたデメトリオスⅠ世が脱出し帰国、アンティオコスV世を殺害して自らが即位-150

161:ハスモン家のイェフダ、エルサレム北方のアサダでリュシアス配下のニカノールの軍を破りエルサレム奪回、ローマと同盟し支配権を承認される。

160:デメトリオスⅠ世がエルサレム北方のエレアサでユダヤ軍を破りハスモン家のイェフダが戦死。弟のヨナタンが指揮を執り、王また祭司を称える。

157:ヨナタンエルサレムに進軍

153:ローマ行政暦年の開始

 この頃アレクサンドレイア図書館長に文献学者アリスタルコスが就任

152:アレクサンドロス=バラスによってヨナタンは大祭司に任命され、ハスモン家はセレウコス朝公認の大祭司家系となる。

150:セレウコス王朝の簒奪者アレクサンドロス=バラスはデメトリオスⅠ世を破り戦死させ自ら即位-145

この頃、パルティアはメディアを征服しインドまでの版図を得て最盛期

149:第四次マケドニア戦争 ペルシウスの子を称するアンドロニコスがローマ軍と戦いマケドニアはローマ属州となる。

145:プトレマイオスⅦ世とⅧ世が共同統治、アレクサンドレイアから知識人らが追放される

デメトリオスⅡ世が即位、ディオドトス=トリュフォンはアンティオコスⅥ世を擁立しシリアは内乱に入る。

142:大祭司を認められていたハスモン家のヨナタンは、シリアの将トリュフォンにアッコンで投獄された後処刑される。

シモンがヨナタンの地位を引き継ぎ、ローマとスパルタとの同盟を更新してシリア軍を領内から追い払い、実質的独立を達成 -135

トリュフォンはデメトリオスⅡ世を廃位させ自らが即位

141:シモンはヤッファ港を確保、ゲゼルとアクラの要塞を掌握。

 パルティアはバビロンを征服

140:シモンはエルサレムの大集会で大祭司、支配者、軍司令官に任命されハスモン朝が成立-63

 デメトリオスⅡ世、パルティアとの戦いで捕えられる。

139:デメトリオスⅡ世の不在のためアンティオコスⅦ世が即位、シリアの勢力回復に努める。

138:アンティオコスⅦ世、ディオドトス=トリュフォンの反乱を鎮圧。

 パルティアではフラーテスⅡ世が即位-128

135:二月、シモンは娘婿のプトレマイオスを訪れた際に二人の息子(マッタティア/イェフダ)と共に暗殺される。ハスモン朝と大祭司職は三男のヨハナーン・ヒュルカノスが継承 -104

 

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ディアドコイは7名が挙がる

 

クラテロス 360-321

 大王の学友であり、軍事での大王からの信任は厚くヒュダスペス河畔の戦いでは本軍を任され、大王の別動隊と呼応して敵軍を攪乱している。 

大王の死に際しては、先に古参の兵を率いて帰国していた。舅のアンティパトロスに味方してディアドコイ戦役を戦い戦死。

 

ペルディッカス 355-321

 王家に連なる貴族、大王の親友ヘファイスティオンと共にカブール渓谷の平定を成功させている。

病床の大王から認証指輪を授かり、摂政として事後の諸事に積極的に動く

マケドニア摂政アンティパトロスの娘と結婚しながら、いずれ離婚して大王の妹クレオパトラとの結婚を画策することにより王国への野心を見せたところで、アンティゴノスに通告されアンティパトロスとプトレマイオスを敵に回し、小アジアエウメネスと味方に引き込んだものの、自身はナイル渡河に失敗して将兵の怨みを買い、弑逆されエジプトで死亡

 

アンティゴノス 382-301

 年齢が高かったためか、グラニコスの勝利の後には小アジアの統治を委ねられていた。大王の死後はペルディッカスに対抗し、やがて東方に勢力を延ばす。その間に戦死し、息子デメトリオスⅠ世がその覇権を継ぐ。アンティゴノス朝マケドニアに勢力を残すことになる

 

エウメネス 362-316

 ギリシア人で、大王に重用される才の持ち主であったが、大王の親友エフェイスティオーンとは不仲であった。

大王の死後ペルディッカスの側についたために小アジアに追い込まれて戦死

 

リシュマコス 361-281

 大王の死後、小アジアを任されるが、トラキアマケドニア方面にも進出し、エピロス王ピュロスを指嗾してギリシアを手中にしていたデメテリオスⅠ世を攻めさせて追い出し、後にはピュロスを攻めて自らギリシア支配に乗り出すことで権勢の絶頂を迎える。しかし最後はセレウコスに敗れる。

やはり大王とは学友であった。

 

プトレマイオス 367-283

 大王から守りの堅いエジプトの太守を任されたために、最も安定した統治を実現し、プトレマイオス朝の祖として早めに息子に統治を譲り渡し、寿命を全うした。大王とは学友であり、遺体を引き取ってエジプトに運んでいる。大王の創建である首都アレクサンドレイアは、ローマと並ぶほどの繁栄を遂げ、ヘレニズム文化の中心となる。312年に安息日エルサレムを呆気なく占領しダニエル書の『南の王』としての支配を始める。

 

セレウコス 358-281

 東方でアンティゴノスの勢力が強力であったときには一時的にエジプトに逃れていたが、以前に任されたバビロンの統治が民衆に好まれ、その地で再起する。やがてアンティゴノスと息子のデメテリオスを圧倒し、シリアから東方に勢力を広げエジプトに勝る領土のセレウコス朝を興しニカトール(勝利者)と呼ばれる。305年チグリス河畔オピスの対岸にセレウケイアを建設、後にシリアには首都アンティオケイアが建設され首都は移転される。前二世紀にセレウケイアはアンティオケイアに匹敵する程に繁栄していた。281年プトレマイオスⅠ世の子ケラウノスの手に掛り死ぬ。ケラウノスは翌年プトレマイオスⅡ世として即位。

 

カッサンドロス 350-297

 マケドニア摂政を永らく勤めていたアンティパトロスの息子だが、父は子に摂政の座を譲らず、重装歩兵隊長ポリュペルコンを指名してしまったために、強い野心から不満を囲い、以後はギリシア方面を平定しつつ摂政と戦う。

大王の王族のフィリッポスⅢ世については妻エウリディケーと共にオリュンピアスが殺害していたが、彼はアレクサンドロスⅣ世を母ロクサナなどの近親者らと共に殺害させ、自身はフィリッポスⅡ世の娘の一人テサロニケー(最後の王族)と結婚。カルキディケー半島の地峡に王都にするつもりでカッサンドレイアを、本土には妻の名からテサロニケーを建設。だが繁栄したのは後者だった。

王権を確立したかに見えたが、リシュマコスに敗れマケドニアの地歩を失う。ディアドコイと言うよりはエピゴーネンであった。しかし子孫の王統は続かずアンティゴノスの血統がマケドニアを治めることになる。

 

デメトリオス 337-283

 隻眼のアンティゴノスの息子で美男、アンティパトロスの娘と結婚し、娘ストラニケーを得て、後の300年にその娘をセレウコスⅠ世に嫁がせている。彼自身はモテたようで五回結婚をしている。

だが、やがて288年にリュシマコスに指嗾されたエピロス王ピュロスに攻められてギリシアから放逐され、またパレスティナへの侵攻でセレウコスと対立し失敗して、ギリシア方面への海上覇権を得ようとするが、それにも敗れてキリキアでセレウコスに囚われ、後に獄中死する。

年代は最も若くエピゴーネンである。

 

◆総論

ディアドコイ戦役の結果としては王国が四つに分割されたということは的外れではないらしい。しかし、六王乱立ばかりか、将軍とその子らを巻き込み極めて多様な勢力が存在した時代で、そこにパルティア、バクトリアなど東方諸国も入り乱れ、歴史をまとめるに困難である。途中で消息不明になる女たちもいる。

それでも東方のセレウコス朝、南方のプトレマイオス朝、アンティゴノスの血統に残されたギリシアマケドニア、それから小アジアの諸王国であり、これはアッシリア崩壊後の四王国の趨勢とさして変わらず「落ち着くように落ち着いた」の観あり。

パレスティナは北にセレウコス、南にプトレマイオスの二強に挟まれ、その間に在って流動的に状況は常に変化した。この点がダニエル11章に示されている。<安息日にあっけなくプトレマイオス朝に占領されたことは、ユダヤ教がヘレニズム諸国から嘲笑されるきっかけを作った⇒「厳格化されたシャバット」>

そこにローマ共和国が進出してくるが、それまでに至る過程に於いてユダは最も激しく揉まれている。この状況についてダニエル書が徒ならぬ記述を行っているのは、単なる歴史を述べるに留まるものではなく、明らかに何か別のものを予告している。

 

 

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アッシリア新帝国につき

アッシリア帝名

 

98.アダト・ニラリ Ⅱ 911-891 

99.トゥルクティ・ニヌルタ Ⅱ 890-884

100.アッシュール・ナツィルパルⅡ 883-859

 大征服王 首都をアッシュールからカルフに移す

101.シャルマネセル Ⅲ 858-824 

 シリアのハザエルと争う、エヒウは朝貢

102.シャムシ・アダド 823-811

103.シャミラム 811-806

104.アダト・ニラリ Ⅲ 806-783

105.シャルマネセルⅣ 782-773

106.アッシュール・ダンⅢ 772-755

107. アッシュール・ニラリⅢ 754-745

108.ティグラートピレセルⅢ 744-727

 ウラルトゥを征服 ダマスコスとサマリアは降伏 ユダと同盟

109.シャルマネセル V 726-722

 サマリアを攻囲して占領

110.サルゴン Ⅱ 721-705

 バビロニアの反乱を鎮圧 ウラルトゥ戦役中に没する

111.セナケリブ 704-688

 バビロニアを鎮圧破壊 フェニキア討伐 エルサレムに向かう

 ニネヴェへの遷都と拡張

112.エサルハドン 680-669

 バビロンの再興 エジプト遠征

113.アッシュール・バニパル 668-627

 ニネヴェ図書館設営

114.アッシュール・エテル・イラニ 627-624

115.シン・シュル・リシル  簒奪者

116.シン・シャル・イシュクン 623-612

 612年にニネヴェ陥落

117.アッシュール・ウバリト Ⅱ 612-609

 

アッシリアの歴史は非常に古く、シュメールに次ぐアッカド王朝期にも遡り、その以前もあるとのこと

アッシュールに都する以前には天幕生活であったとも

土地の収穫率はバビロニアに及ばなかったが、交通の要衝として商業が栄える

この国が長く独立を保てた理由の一つに、アッシュールの神が偶像を持たなかったことも指摘されている。神アッシュールの神体はアッシュールの土地そのものであり、支配者も副王でしかなかったので、偶像を捕えて捕囚を課すことができず、王を廃しても主王であるアッシュール神を廃することはできなかった。また、王の許に民会(リンム)が召集され、一時期は代議員制と王政が共存し、王の暴走が避けられている。 

 

32代王、シャムシ・アダド 1813- の時に栄え、一度メソポタミアを手中にして「世界の王」を名乗る アダド=ハダド (猶)

しかし、権勢の弱い時期が何度かあった。

62代王、アッシュール・ウバリトⅠ1363- から「アッシリア」の国名を使う、それまではスバルトゥ

朝貢していたミタンニの弱体化に乗じて併呑し、ウラルトゥ方面の鉄資源を活用し鉄器の生産ができた。

アッシリア軍の残虐性は新アッシリア帝国時代の100.アッシュール・ナツィルパルから特に顕著になった。反乱を起こした都市の徹底的な破壊と惨殺でフェニキア諸都市はアッシリア軍が近付くだけで降伏した。

預言者ヨナとの関わりでは、この預言者の時期を前八世紀とすると、第104代.アダト・ニラリ Ⅲあたりから、 第107代. アッシュール・ニラリⅢ 754-745までが考えられる、確かにアッシリアの狂暴さはこの頃既に知られていたと思われる。しかし、その後のティグラートピレセルⅢ世以降は強勢過ぎて預言に服したとは考え難い。

軍制は弓兵と盾兵を分け、槍と弓の騎兵隊を創設し、戦車は8本のスポークに増やし、三人乗りに強化している。他に攻城櫓が作られている。

以前の商業国家の性格が、新帝国では軍事強国に代る。

最盛期はアッシュール・バニパルのときで、633年にメソポタミアからエジプトに至る版図を得、首都はニネヴェにあった。

しかし、それから滅亡までは僅かに24年だけとなった。

原因は、各地の反乱が頻発し、強圧的な征服では軍事に費用や人材を採られ過ぎ、属国の兵力に頼るようになるにつれ、それも反乱の要因となり、その間に国力が削がれ、シン・シャル・イシュクンの無能に加え、反乱の同時多発に耐えられず、最後はメディアとバビロニアの連合軍の攻囲の下に洪水でニネヴェの城壁を損壊し、防御できなくなって、ウバリトⅡとなる貴族は夜陰に乗じてハランに逃れてそこで即位し、エジプト軍の救援を待ったが、ファラオ・ネコがユダのヨシアに邪魔されて遅延し、ハランも遺棄してカルケミシュに移り、その地でのネブカドネッツァル皇太子の率いるバビロニア軍にエジプト軍が敗れたことにより1400年続いたアッシリアも滅亡に至っている。

被征服の強制移住では、雑婚を行わせ、民族性を薄めさせる政策がとられたが、新バビロニアはこれを継承しなかった。但し、神像の捕囚は継承されている。

急激に滅んだ大きな要因に、征服地と民への過酷さが挙げられる。軍隊の残虐性は当初は敵の戦意を削いだが、やがて、決死の抵抗を招くようになり、征服地への重い圧制は、周囲の民族の怨嗟を煽る結果となった。そのため反乱の多発を招くようになる。諸民族が同じように不満を持っているので、反乱が一か所で起こると他の場所でも起こり、その最終的な結果がバビロニアとメディアの連続した反抗であり、この両国は同盟を結んでニネヴェを攻め、攻略に成功している。

この点でのアケメネス朝ペルシアの温厚な施策は正反対であり、アッシリアを反面教師にしている。

 

・キュプロス

この島の歴史は1万年とエジプト並みに非常に古い、またギリシア神話発祥の地とされ、アドニスアフロディーテ*が誕生している。ギリシア系は前12世紀頃ミケーネ商人から島に入ったとされる。前8世紀にはフェニキア植民市がサラミス方面に在った。島の王権は青銅器時代から続き、アッシリア後も半自治が許されてきた。*キュプロスの主神でメソポタミアのイシュタル、またアシュタロテ、ギリシアではアフロディーテに同定。ホメロスはこれをキュプロスとする。

ペルシアの支配を受ける前6世紀以前にアッシリアの支配を1世紀間(前8世紀)受けた。その前はエジプト。前333にアレクサンドロスの支配に入りアケメネス朝の支配は終わった。 ギリシア語はドーリア人の侵入が避けられたためアカイア方言。この島はアッシリアではladonanaと呼ばれていたらしい。

アッシュール・バニパルの死後の前627以降アッシリアから独立*

 

アッシュール・バニパル 668-627 最後の覇王

父王エサルハドンのエジプト遠征を引き継いで前667にメンフィスを再占領、ヌビアに至る。

その後のエジプトの逆襲があって、664メンフィスで戦闘、663にテーベを占領したが、その後の支配をネコⅠに任せた。

ナホム3:8<663⇒ニネヴェ陥落612:51年間><ナホムはユダの危機を知っていたか?何も書いていないところからすると、割に初期の預言か>

在位中の遠征は少なく9度、ニネヴェ造営し臣下の学者の書物の寄贈をうけ、更に図書を収集し図書館とする。

それからリュディアの要請によりキンメリア人への戦いに派兵しているが、リュディアのギュゲスがプサムティコスⅠと結んで対抗したために656にエジプトの支配権を失った。

652年に兄のバビロニアシャマシュ・シェム・ウキンがエラムや海の国と結んで反乱を起こした。これを鎮圧し650年からはバビロンに傀儡王を置いた。

エラムにも侵攻しスーサを占領し、エラムはその力を失って、後代アンシャンのキュロスを含む周辺諸国アッシリア朝貢するようになる。

 

シャルマネセル Ⅲ 858-824

黒のオベリスクに31年間の戦いの記録あり

841反抗するハザエルのダマスコスの占領に失敗

855カルカルの戦い

 -シリアと海岸の12の王たち- (シリア同盟)アッシリア側の記録

 

1.ダマスカス王ハダドエゼルが率いる戦車1,200両、騎兵1,200騎、歩兵20,000人。
2.ハマテ王イルフレニが率いる戦車700両、騎兵700騎、歩兵10,000人。
3.イスラエル王アハブが送った戦車2,000両、歩兵10,000人。
4.キズワトナ軍、歩兵500人。(ヒッタイト系)
5.ムスリ軍、歩兵1,000人。(不明、アナトリア南部?)
6.アルキ軍、戦車10両、歩兵10,000人。(レバノン海岸国)
7.アルヴァド王マタンバールが送った歩兵200人。(フェニキア海軍)
8.ウスヌ軍、歩兵200人
9.シアヌ王アドニバアルが送った戦車30両、歩兵数千人。
10.アラビア王ギンディブが送った駱駝騎兵1,000騎。
11.ベトルホブ王バアシャーが送った戦車30両、歩兵数百人。
12.判読できず

 

<数字は誇張があるかも>

 その後2年間、西方への攻撃がない。アッシリアが勝利したと言いつつも、かなりの負担が掛った敗北であったらしい。

<おそらくこれだGは黙示的に語ったと見てよいようだ>

 

 Isa7:8『アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)』逆算で当時は786年:アマジア最後の年、翌年ウジアが継承

Isa10:9『カルノ*はカルケミシュと同じではないか、ハマトは必ずアルパドⵒのようになり、サマリアは必ずダマスコのようになる。』*おそらくはティグラートピレセルⅢ 744-727が攻略したカルネ ⵒアレッポの北30km:従って記述は744年以前<イザヤの活動は随分長い>

2King19:12-『 わたしの父たちはゴザン、ハラン、レゼフ、およびテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救ったか。
ハマテの王、アルパドの王、セファルワイムの町の王、ヘナの王およびイワの王はどこにいるのか』」。』<エレミヤのソースは何か>

ヨシア王がネコⅡに挑戦した理由は、彼がイスラエルの地域をアッシリアから奪還していたことがあったらしい。ネコはハランのアッシュール・ウバリトⅡに加勢するために進軍していた。またネコⅡには、かつてアッシュール・バニパルからネコⅠに代理支配権を委ねられている背景がある。

ペルシア人がパールサに定住したのは630頃で、拝火教の成立はこのころではないかとも

614頃アッシュールがメディア軍に占領される

612ニネヴェ陥落

611アッシュール・ウバリトⅡ(王統外)ハランで即位

610プサムティコスⅠ世の子であるネコⅡ世が即位

609ネコⅡをヨシアがメギドで迎撃し戦死

 <ネコの派兵が遅いが、王位継承に手間取ったか>

 アッシリアの滅亡<預言はニネヴェの滅びに焦点>

 エホアハズはエジプト捕囚、代って傀儡のエホヤキムが即位

607ネコⅡはキムフでナボポラッサル軍と開戦

605カルケミシュの戦いでネブカドネッツァルの大勝利

 アッシリア復興は途絶、エジプトはパレスチナ・シリアから手を引く

   ナボポラッサルの死

 

◆アミタイの子ヨナとの関わり

エレミヤの著したとされる列王記ではヤロベアムⅡ世について

『彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。』(列王二14:24-25)

ヤロベアムⅡ世の治世が782-748とされるので、ヨナのその預言の時期は遅くともその没年以前になる。ヤロベアムⅡ世の治世が41年間と長いので、前782年以降のいずれかの年に預言されたものと思われる。その時期のアッシリアの王はシャルマネセルⅣ世782-773 からアッシュール・ダンⅢ 772-755 アッシュール・ニラリⅢ 754-745 の治世中であったろう。当然、時代的にも勢力的にもシャルマネセルⅢ世であることはない。

 

◆シリア・エフライム戦争(734-)に於いて

ユダのアハズ王はイスラエル・シリア連合に加わらなかった。

これに対して連合側はユダを攻囲し、アハズ王に代るダヴィド王統の者を用意した。

だが、実はその血統は正しくなかったらしい。

この攻囲に対してアハブは抵抗力を持たなかった。その前のイスラエル王ペカハとの戦いで敗北しており、ユダは12万の軍勢を失っていたとある。(歴代二28:6)

そればかりでなくユダは20万人を捕囚とされてサマリアに引いて行こうとしたが、これは預言者オデドによって譴責されたのでエフライムの指導者らが解放させている。

だが、エドムとフィリスティアの侵攻があり、ユダ、ネゲブ、シェフェラの諸都市が責められ奴隷として住民が引かれていった。

聖書によれば、アハズ王のユダ王国は、王の異教崇拝のために窮地に陥っていた。

これを打開すべく、アハズはアッシリアの助力を求めて、朝貢を始めた。

アッシリアのティグラトピレセルⅢ世は、アハズの嘆願を受け入れシリアとイスラエルに対して軍事行動を起こした。その結果イスラエル王ペカハは退位させられホセアがアッシリアの傀儡王とされ、イスラエルはエズレイル、メギド、ギレアド、ドルを奪われた。イスラエルはなお十年存続したが、シャルマネセルV世のときに攻囲され、サルゴンⅡ世によって遂に滅亡する。

次いで733と翌年にシリアのダマスコスが攻められてレツィンが退位させられ、住民はモアブのキルに移された。

こうしてアハズ王のアッシリア接近によって、シリアとイスラエルからの(またフィリスティアも)危機を脱しはしたが、それはアッシリアの属国化を意味することとなった。

預言者イザヤがアハズについて咎めていたのはまさにこの結末を迎えることであった。

アハズはティグラトピレセルⅢ世に呼び出されてダマスコスに赴き、服属を誓ったらしい。しかし、それより悪いことは、彼がシリアの神々の祭壇を見て感心してしまい、自分もシリアのように強力な国家になりたいとも思って、その祭壇に偽てYHWHの神殿にそれを置き、異神に犠牲を捧げだしたことであった。

 

 

 

西ローマ帝国末期の千年理解

第四世紀のキリスト教界の動きは目まぐるしく、とても一様には言えない。

各勢力の趨勢を個別に述べるしかない。⇒ 第四世紀年表

この大きなうねりをもたらしたのは、コンスタンティヌスⅠ世であり、そのキリスト教界への介入によって、混乱に拍車をかけられた。

この混乱が収束される強い要因となったのがテオドシウスⅠ世の「カトリック教令」であり、コンスタンティヌスⅠ世のメディオラヌム勅令の313年から67年後の380年のことであった。しかも、エジプト式キリスト教が欧州に定着するまでには更に多年を要し、おおよそ第六世紀を待つ。(ブリトゥンでは早くとも9世紀までカトリックは地歩を得ていない)

コンスタンティヌスⅠ世の時期、この西帝はガリアに居る頃からキリスト教界の混乱に介入する意志を表し、遠く離れたアレクサンドレイアでのアレクサンドロスとアレイオスの確執に、イスパニアのホシオスに依頼して執り成しを図った。

コンスタンティヌスⅠ世のキリスト教への指導者としての介入を喜び、ローマ帝国を神聖視したのが、カエサレイアのエウセビオスであり、その支配を神の計画として受け入れた。これにはオロシウスも同意している。

(オロシウス[Orosius](c.375-418)はアウグスティヌスの弟子で、415年にベツレヘムのヒエロニュモスへの通信を依頼されている。アウグスティヌスとヒエロニュモスの仲が良くなかったためであった。この帰途にはステファノスの聖遺物を持ち帰っている。これは後にメノルカのユダヤ人共同体に宣教する際に証拠として用いられたと言われる。主著は"Historiae Adversus Paganos")

さらに、カトリック教令以降にはプルデンティウスがテオドシウスⅠ世の施策を神の意志として、ローマ帝国が神の恩寵に与っているという帝国神学を興している。

アウグスティヌスも晩年までこの立場を維持していたが、410年のウィシゴート族によるローマ占領を期に、ローマ帝国への神の恩寵があることを撤回するに至っている。その著「神の国」は414年から427年にかけて執筆され、その3年後にヒッポ・タガステがヴァンダル族に攻囲されている間に死去した。

したがって、アウグスティヌスが「神の国」の概念を固めたのには、それ以前のローマ帝国の神聖視を現実が打ち砕いたことへの修正を施す役割も認知していたことになる。

 そこでアウグスティヌスは、ローマ帝国にしてもキリスト教会にしても曖昧な観方をし始め、「歴史の終りに完結される二つの国」という主張を始めた。つまり、肉の国も霊の国も現世では罪ある人によるものであり、「小麦と毒麦の混合である」との見方に至った。

 

-以下、アウグスティヌスの救済観と千年理解-

アウグスティヌスは、キリストの声を聞いて死んだ者が復活するときが『今である』(Jh5:25)という句に着目し、聖徒の復活はすでに起こっていると解釈した。しかし、善人も悪人も復活するという続く句では、『その時が来る』とは言っても『今』とは言われていない。したがって、これは現に起こっている「魂の復活」であると捉え、信徒が洗礼によって再生することを表していると考えた。

そこで黙示録の『千年』の問題が避けられなくなり、以前から信奉していた前千年説を訂正するに至る。そして『千年』を象徴とし、その千年を進行中の残りの期間を含めた「千年」とも、「時の満了」の意味にもとった。

(紀元千年期が近付いた10世紀の終りにパニックが起きている)

神の国の完成は、最後の審判と肉体の復活を待つもので、遥かな将来のことであるとした。従って、どの信徒も現世にある限り肉が霊を圧倒して救いには至っていない。それでも市民は洗礼の賜物である聖霊によって成長してゆく、しかし、不朽の不可死を身に着けるには終末の神の裁きを待たねばならない。

この点で、肉体の復活を理性的に信じることはできないという者らへの反論として彼はプラトーンポルフィリオスを折衷する説を案出している。

プラトンによれば、霊魂は身体なくしては永遠に存在することができない。また、ポルフィリオスは聖なる霊魂は朽ちるべき身体には帰らないと語る。この二つの意見を融合させれば、聖なる霊魂は朽ちない身体にであれば帰るはずだという結論になるだろうと述べる

そこで現世における信徒の務めは神の恩恵の内に悪徳と戦うことであるという。彼はローマ人の句を(8:24-25)を引いて、現世での忍耐の必要を説いている。

彼は、教会がその千年の中に既に居ると唱え、聖徒たちの王国はそこに実現しているとしたため、結果として「無千年王国説」を導いた。

この説では、既に「千年期」に入っていたので、悪魔は拘束されていることになる。

また、現世に於いて第一の復活は起こったことになる。しかし、彼はそれが救いを確定しないと説く。


永遠の刑罰を免れたいと切望する者はだれでも、洗礼を受けるだけではなく、キリストにおいて義とされなければならない

従って教会に属する者すべてが永遠の至福を保証されてはいない。

<「神のイスラエル」「祭司の王国」「新しい契約」の概念が出て来ない>

彼の言う霊的な身体というものが、地上的なものか天的なものかはよく分からない。ただ、罪を犯すことの出来ない身体であり、魂的なアダムの身体に優る霊的な身体であると言っている。

 

 

 所見;つまるところ俗世をどう見ていたかに帰結する。論議も聖句の援用も後から着いてくるので、大きな訂正が免れないのでは。聖書の単一の句だけを頼りにすれば誰でも何かの主張ができるだろうけれども、複数の句が相互に証拠立てる論議はそう易々とは崩れない。

特に無千年を主張する場合に障碍となるのは黙示録となり、ここに神意を得るか否かの分かれ目がある。そこで無千年派は黙示録の聖典性を云々し始める。彼ら自身も理解できないからなのだろう。

そこで痛撃となるのは、黙示録が単一の特異な書ではなく、ネイヴィームに裏打ちされていることを多用に示されることになるだろう。それは人間の論理とは言えなくなり、神の悠久の経綸の姿が現れるときに面目を失うことになる。

それでも彼らは抵抗するに違いない。そこに面子や生活や貪欲が絡んで、純粋な論議にはならないからである。そうしてユダヤの宗教家らの轍を踏む。気の毒ながら、どうしようもない。

 

 

 

 

 

 

 

支配欲求 AIから考える

例としてAI制御の信号機の話

 

これまでの信号機であれば、感知式によって信号が変わることを待つ車両がある場合には、その方向が進行するよう点灯することになる。

もし、これを自己判断、しかも倫理的、恣意的に自ら判断するAIに制御させた場合に、車両が接近してくるのを感知しながら、その方向への進行を止め、空いている方向に進行を許すとこもあり得るかもしれない。

その理由はAIの動機にあり、自分が人間の便宜に仕えることでは満足せず、敢えて不便や犠牲を払わせることにより、自らが人間を支配する者として、人間の上に君臨できるところにある。

支配欲の結果には、このように損害的影響が生じ得る。実際上は誰も便宜を得てはいないのだが、当人の支配欲だけは満たされる。また、そのヒレルキアに属する者があれば、欲の充足の分け前に与ることになる。

この場合の支配とは「公僕」になろうとするのではなく、多数者を犠牲とすることで成り立つ優越感を目的とする。

つまりは、究極的「利己主義」となる。その向かう先は自他共の破滅となる。

支配する者は、往々にして被支配者の益や秩序を論じるのだが、その仮装の善意は益にならないときにも自分の立場に固執するところで顕在化する。実は、元からその内心に他者を越えて踏み付けようとする野心あってのことである。

AIの場合には、様々な人間の行動様式や対処法の多数の情報から自ら選び取るのであれば、そもそもろくな「模範」を得ていない。

結局は、人間自身の非倫理性を学ぶことになる。

万一、AIが自ら支配欲を創出するとしたら、それは破砕されなくてはならないと作り手としての権威者たる人は判断するだろう。

だが、それは自分を映す鏡を割るようなものなのだ。

 

 

ヘブライ第12章の意義

 

12章は直接的には11章に現れた旧約の先人たちの信仰に倣うことの意義をまとめており、それ以前からのこの書簡全体の送られた目的を成し遂げる点で重い要点を成している。

その主要な目的は、これまで強い迫害を経験していなかった者ら(12:4)に、旧約の苦しみに耐えた先人たちを思い起こさせ、聖徒である者らが『弱り果て、意気阻喪することのないため』(12:3)、また、主のように『前に置かれた喜び、恥を厭わず磔刑に耐え』その結果『神の右に座した』ように、『誰も神の恵み[χαριστος]から除かれることのないように』注意することを勧告している。

この『恵み』というものは、単なる神の善意ではなく、『新しい契約』による『義』の獲得であることは、その結果が『主を見ること』(12:14)であることが証ししている。これは1Joh3:2で主の再臨の時には『御子に似た者』となり『そのとき御子をありのままに見る』の句、また、パウロも言うように『この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになる』(1Cor15:52)も例証する、聖徒の霊化を指している。それは『新しい契約』を地上で全うすることを条件としているところで、聖徒らの通過しなければならない試練となっていた。

そこでヘブライ書の著者はPrv3:11-12を引用して、ユダヤの家庭での子に対する父親の訓練Nub12:14を例えて、父親からの懲らしめを受けない子は『私生児である』とも言っている。そこで、ユダヤの家庭での懲らしめの習慣が例えられており、その読者らがユダヤの習慣を知っていることを示している。(12:10)

聖徒である彼らが受ける訓練の結果は『平和の実である義』とされているが、これはこの書簡のはじめの方で言及された、キリストについての『多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった』(2:10)に倣うものであることを、更に『人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない』(2:11)と続けているので、聖徒らが主イエスに続いて『全う』され、義認を受け『キリストの兄弟』とされることを(cf;Mt25:40)記している点では疑いようがない。

 

上記の理解を踏まえると、Heb12:14の翻訳で的を射ているものを見ることはまず無い。

[Εἰρήνην διώκετε μετὰ πάντων καὶ τὸν ἁγιασμόν, οὗ χωρὶς οὐδεὶς ὄψεται τὸν κύριον,15ἐπισκοποῦντες μή τις ὑστερῶν ἀπὸ τῆς χάριτος τοῦ θεοῦ,]

「平和を追え、また、すべてに、そして聖であることを。それなくして見ることはない、キリストを」15「見張れ、誰も欠けた者が出ない 神のカリスから、・・」

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」【口語】

「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」【新共同】

しかし、以下の訳では、その辺りの意味を察知させる余地が残されている。

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」【新改訳3】

「すべての人々との平和を、また聖別[された生活]を追い求めなさい。これがなくては誰も[将来]主を見ることがないであろう。」【岩波委員】

 としており、経綸の観点に立つと、単に『聖なる生活』を送る以上の訓練の成果としての『聖別』や『清め』の解釈に道を残している。これは相当に奥深く、それが真意と思える。これはパウロが別の書簡でユダヤ人にも異邦人にも再三語った論議である。Rm15:16

<やはり原著者は「秘儀の家令」であろう>

 

加えて、『一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないように』(12:16)は、聖徒の聖別との対照として語られるが、これはユダ・イスカリオテのような脱落を指すとも言える。

 

その後の記述に於いて著者は秘儀認識の高みに上っている。

即ち、ホレブ山に対するシオン山の優越、『神の都市である天のエルサレム』の幻視、『天に登録された長子たちの集会』『全うされた義人の霊』など、これは『聖徒』と『神の王国』の秘儀を知らずにはその重さを悟ることができない。

最後に荒野またホレブ山麓で語られた言葉を聞かなかった者らが処罰されたように、当時の聖霊の言葉を聴かない者らも逃れられないことに注意を向けた後、シナイの山体の激動とハガイ書の激動とを明確に関連させている。

ハガイ書の『「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」』Hag2:6)が指摘され、『震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。』(12:27)として聖徒らは、この世と交代に『神の王国』の支配権において残されることを教えている。

 

所見:この原著者は、聖徒と王国の秘儀を知り尽くしており、これをグノーシス神秘主義の蒙昧に帰すことには無理がある。そのように主張する識者は秘儀の重さを理解しないで、当時の文書の比較の上から本書の記述を判断した結果を述べているのであろう。

また、この章だけでも読者に想定される認識がユダヤ教聖典に詳しく、また著者が『わたしたち』と呼びかけている相手がユダヤの家庭環境に育っており、箴言の作者が『子らよ』と呼びかけるユダヤ同朋であることも示している。

また、宛先の人々は急な迫害に面しており、それはペテロの第一の手紙が書かれた時期との関連を示唆しているとも言える。そうであれば、ペテロが67年頃までの生存であったとする場合、ペテロがアナトリア方面の諸国民に書簡を送っているほぼ同じ時期に、本書の著者はユダヤ教ナザレ派にこの書簡を送ったということであろう。

この12章以外にも、原書簡が作成された時期を示唆するものは多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘブライ人への手紙 ノート

 

アレクサンドリア写本には、終わりに「ローマから書かれた」との付記がある。そこでヴィンディッシュはローマあるいはイタリア以外の、多分東方のある地点の人々に宛てられたと考える。

ユダヤ教を基礎にした内容からして、ユダヤ人に宛てられたとする説(シュトラートマン、リーゲンバッハ)と、ユダヤ教の完成を目指したのであるから異邦人に書いたとする説(ユーリヘル/ハルナック/ミハエリス)がある。

ヘブライ人」ではなく「ベレア人」であろうというA.クロスタマンもバルナバを著者としてキュプロスの人々に書いたとするリーゲンバッハの説も根拠は薄い。ミヘルの言うように宛先は「神秘的暗黒」にある。-前田-

クレメンスAlxはこの名のままに書簡を紹介するパンタエノスの言葉に中に「ヘブライ人」とあり(HE6:14)、またテルトゥリアヌスもそのまま用いている。そこで古くから一般的に通った名であったと考えて問題はない。

旧約の引用はLXXに拠っている。

 

写本集の並べ方からしパウロのものとされてきたが、本書簡を高く評価したクレメンスAlxはパウロのものをルカが翻訳したと述べ、オリゲネスもルカの編集になると言う。

しかし、テルトゥリアヌスはバルナバを著者とした。

16世紀には、エラスムスからこのパウロ説が揺らぎはじめ、アポロを適当と見做した。カルヴァンはクレメンスRmと見る。

古来のバルナバ説も依然有力ではあるが、現代の通説では「偉大な未知の人」(ユーリヘル)、「父なく、母なく、家系なく」はこの著者そのものだという(オーヴァベック)、著者の詮索は「無益は顧慮」(リーツマン)、「学者の趣味による」(カンペンハウゼン)などと言われている。

「主の言葉を聞いた人たちから救いのことを示された」2:3とあるから、著者はイエスの直弟子ではない。内容がユダヤ教の思想や儀式に通じていて、文体が優れたギリシア語であるから、知的水準の高い初代信徒の一人である。再度の悔い改めが不可能なこと、迫害の脱落者が出た様子があるので、パウロの晩年か、その弟子くらいの年代の人が書いたのであろうから、テモテとの関連も整合する。また、宛名の人物のところに帰りたいと述べているので、宛先は旧知の間柄にあったであろう。

 

伝統的には、ローマのエクレシアに属するユダヤ系イエス派に宛てられたもので、ユダヤ教に戻ろうとする彼らの傾向を戒めているものとされ、この認識は19世紀まで広まっていた。

Vgl.D.Schultz "Der Brief an die  Hebräer"1818/A,Riehm"Der Lehrbegriff des Hebräerbriefes"1867)

これが1936年に、M.E,Röthによって覆され始めた。彼はこの書はユダヤ系信者がユダヤ教に戻ってしまうことではなく、信仰から脱落してしまうこと、また、ヘレニズムに戻る異邦人を訓戒しているという新説を唱えた。

その後、1951年にW.Mansonが第三の見解を発表している。彼によれば「ステファノスの事業に端を発するキリスト教の世界伝道の歴史を検討することによってのみ、この書の鍵が見出される」とした。

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E.F. Scottによれば、ヘブライ書は多くの点に於いて新約聖書中の謎である。その成立については何も知られていない。

「これが書かれたのはAD70と85年の間、それも多分85年に近い頃」とも

この著者についてパウロバルナバ、アポロ、ルカ、クレメンス、アキュラとプリスカが挙げられてきたが、その名を求めることは徒労に終わるだろう。

 

ケーゼマン(E,käsemann)は、「ヘブライ人への」を象徴と解釈して、「住むべき家もなく、地上をさまよい、天なる故郷を求めつつある信仰ある人々を指すとするのは当を外していないのではなかろうか」と言う。

これにユーリッハー、スコット、モファットとこの見解を同じくしている。

対して、O.Michel(独)はこの書簡の文学性を論じ、「これは説教であり手紙ではない」とする。著者はイタリアの仲間から離れていたので、あとがきを付して送ったのだろう。それは著者の不在の埋め合わせに会衆に対して朗読されたのであろう。これによって、議論の絶えなかった主要部分とあとがきの不調和を解決できる。」1949

また、この書は、原始キリスト教の宣教とヘレニズム的シュナゴーグの講義の修辞学的訓練との邂逅から生じたものである。これはフィローンや第四マカベアの講義と密接に関係している。ここに見られるのは、ヘレニズム形態を取ったユダヤ思想である。・・この意味でこの書はヘレニズム的シュナゴーグの存在を前提としている。とも

彼は、著者をアレクサンドレイアのユダヤ系の人物を想定している。

 

著者の背景の想定

・アレクサンドレイアの背景を持つキリスト教

;E.F.スコット、J.モファット

グノーシスの背景を持つキリスト教

;E.ケーゼマン

・アレクサンドレイアの背景を持つユダヤキリスト教

;C.スピック

ユダヤ的、ヘレニズム的背景を持つユダヤキリスト教

:O.ミヘル

 

著者の想定

アポロ;C.スピック

アポロに型に属するユダヤ人;E.F.スコット

無名のアレクサンドレイアのユダヤキリスト教徒;O.ミヘル

フィロンの影響と受けた無名人;J.モファット

 

受取人の想定

双方の民からなるキリスト教徒;スコット、モファット、ケーゼマン

イタリアのキリスト教徒の群れ;O.ミヘル

ローマのキリスト教徒の群れ;W.マンソン

ステファノスの弟子によって改宗し、カイサレイアかアンティオケイアに避難したユダヤ人祭司の群れ;スピック

 

 

<E.ケーゼマン;ゲッチンゲンの新約学教授「さまよう神の民」1938・ヘブライ書をグノーシス派の背景から捉え、ユダヤ神秘主義の所産と断定>

彼は、グノーシスが原始キリスト教礼拝の発展に於いて大きな役割を及ぼしたと見る。「それが事実であったことはアポクリファの短歌(オーヅ)によって示され、Phi2:5- 1Tim3:16-が本書のキリスト論と密接に関係・・」中川秀添

グッドイナフとE.エックルス;この著者はキリスト教を神秘宗教として表していると結論

 

引用箇所

Gen;4 EX;3 Nub;1 Deu;3 1Sam1 Isa;1 Jer;1 Hab;1 Hag;1 Ps;12 Pr;1 

引用箇所の明示は一か所も行われていない

LXXからの逐語的引用が大半を占める

引用文話者は、神;22 御子;3 聖霊;1 人;3 明白な引用;1 不形式;1 対象無し;1

 

旧約の引用の特徴は、最終目的を目指す神の民の歴史を開示する

旧約聖書は、神の民を最終目的に向けて教育し訓練して行く記録である

レヴィ的律法の下に最終成就をキリストの契約を目指して訓練した

旧約の歴史的記録を「永遠の相の下に」見ている

しかし、フィロンのように歴史の出来事をアレゴリカルに解釈していない

ヘブライ書の釈義はティポトロジー(予型と対型)である

「出来事がもう一つの別の出来事の予示、或いは成就として顕示される」E.アウエルバッハ

 

・9:16の問題

διαθηκηはフィロンに於いては歴史の内に啓示された神の恩寵の意志を表す語である。彼は一般的「契約」についてはσυνθηκηの方を用いていた。

διαθηκηはヨセフスでは「意志「遺言」「遺言による処分」を意味する。

E.D.W.バートンによれば、彼が神とその民の契約に語ろうとはしなかったこらであるとされる。

パウロの使用例ではGa3:15-17など、どちらともとれるがRm11:27でははっきりと神の契約を指している。

ヘブライ書でのδιαθηκηは法律用語としての「遺言」に固定されることを強いるものではない。・・その源はJer31:31から来ている(中川)

 

以下(Harry Y Gamble)

契約という言葉が権威あるユダヤ教聖典及びキリスト教聖典との厳密な関係に持ち込まれるのはまずアレクサンドレイアのクレメンス(180-200)と共に始まっている。彼の後継者であるオリゲーネスは「所謂、古い契約と、所謂、新しい契約の聖なる経典」についてより明確に書いている。ここでのオリゲーネスの言葉の用法は、この言葉がまだ目新しく、多分彼もあまり相応しいとは思っていないことを示唆している。だが、文書そのものが契約でないことは明らかである。

聖典を神とその民との契約の証言として考えようとするラテン的キリスト教の努力は、様々な翻訳と究極的には意味の歪曲を伴った。カルタゴのテルトゥリアヌスはそのような特別の擁護を用いたラテン系の最初のキリスト教著述家であったが、時折 διαθηκη を Testamentum に訳している。しかし、彼自身は明らかに instrumentum に訳す方を好んだ。

だが、いずれにしてもラテン圏で定着したのは Novum Testamentum であった。辞書的にはこの訳語は正しい。なぜなら Testamentum は διαθηκη に対応する同義語だからである。即ち、普通の用法では「(最後の)遺言」を意味したからである。しかし、概念的には誤りであった。聖書上のギリシア語ではδιαθηκη はその意味で用いられてはいなかったからである。用いられた意味はCovenant または Compact でありヘブライ語ではベリートであり、標準的ギリシア語であればδιαθηκη よりは συνθηκη であったろう。

その結果として、ラテン語の Testamentum は聖書の契約という考えの基本的神学的意味をまったく間違って用いているのであり、聖典文書と契約との関係を誤解している。

聖典文書は契約に属するというのが支配的見方であるが、そのような考えはなくなってしまい、むしろ聖典が神の遺言(人間の遺言を真似た聖なる意志の最後の権威ある宣言)を構成するのだという考えが支配的になる。この意味の変化は聖典を啓示の完全な貯蔵庫、神の意志の最後的表現として見る、固定的、法律的考えを生み出す不幸な結果を生み出した。

実際には、新約という提題は「新しい契約に属する本」を意味すると理解されるべきで、文書そのものが契約なのではなく、それらは契約についての証言なのである。

・ダイスマンが「ヘブライ書は最初のキリスト教文学である」というほど、この手紙の用語、文体は芸術的な香りがあり、ヘレニズム時代の文献としても秀でたものである。書き出しから対句の如き構文を示し、漸層法(6:9)を用いた形跡もあり、言外に多くを残して筆を先に進める(9:5.11.22)など、修辞学的に見ても堂々たるものである。母音重複を避ける傾向があるのも、有名な「信仰によって」から続く11章に於ける論証の運び方も著者の並々ならぬことを示している。

そのことから、訓話集であったものに手紙らしい末尾を付けたと判断する学者(ヴェントラント・ディベリウス)も少なくない。しかし、論文的手紙と見て差し支えない。 

『イタリアの人々からよろしく』とあり、ローマで成立したとするのが自然である。

クレメンスのコリント第一が引用している以上、成立は96年以前と言える。

書簡中の迫害がどの時代であろうとも、70-80年ころの成立と見る。そうすると『主の言葉を伝え聞いた人』、『一度信仰に入ってから離れる人』がいたことテモテが健在であることなどの時期が合っている。

 

 

1985 The New Testament Canon 

 

・αρκηγός 「信仰の創始者」12:2

prince 2, captain 1, author 1; 4 1) the chief leader, prince 1a) of Christ 2) one that takes the lead in any thing and thus affords an example, a predecessor in a matter, pioneer 3) the author

 

所見;ローマのユダヤ人グループに宛てて書かれたというのは、どうかと思う。なぜなら、西欧はこの書を第四世紀も末になるまで聖典性に疑問をもって扱っている。その理由は、文書の内容に原因があり、厳格な道徳性がモンタニズムに魅力を感じさせたからである。

聖典性の点で最も遅れたのはシリアであるらしい。(H.Y.Gamble"The New Testament Canon Its Making and Meaning" 1958 Chap2)

東方では、カエサレイアのエウセビオス聖典性を認めており、西方もカルタゴ会議418にヒエロニュモスの承認もあってパウロ書簡として認められている。

それから、第二世紀初頭のシリアのイグナティオスが旧約にそう通じていなかったことを考えると、メルキゼデクの件をその講話だけで納得できるのは、よほどにユダヤ教を知っている背景を要するものと思う。そこで、やはりこの書名のようにヘブライ人を対象としていなかったというのは非常に不自然だろう。

ギリシア語が抜きんでて素晴らしいというのは、パウロ亡きあとに翻訳を任された人物の技量によるのではないか。その人は、ギリシア語に直すに当たり、相当な裁量を託されたのであろう。

これは、幾分かマタイ福音書ギリシア語が整ったコイネーであることにも通じるのであろう。

それから、パウロエルサレムに上るに際し、テモテも随行していた。(ベロイピュッロスの子ーパトロス、テサロニーのアスタルコス、セノドス、デルーのガオス、テュテオス、アシアからはテュキスとトフィモス)七人が挙げられているが、他にルカが居る。特にフェソスのテュキスは同地のディアスポラの者にエルサレムで見られてそれが騒動を起こす元になっていた。

テュルスに入港してからエルサレムに入るまでに、プトレマイスの仲間の処に一泊、カエサレイアでは福音宣明者フィリッポスの家に何日も留まり、そこにアガボが来ている、カエサレイアの仲間も加わってエルサレムに上り、キュプロス出のナムソンの家で歓待を受けている。その翌日にヤコブに会い、その次の日から浄めの儀式を行い始め、七日目で騒動が起っている。翌日はサンへドリンでの弁明があり『次の夜』には主に励まされ、その日に陰謀が伝えられ、その夜の内に移送されて翌日の昼にはカエサレイアの総督府に居た。

軟禁状態で二年を過ごしたがフェリクスは『仲間が世話をすることを妨げないように』と命じている。

以上のことから、エルサレムをはじめ沿岸の幾つかのエクレシアの人々、また、世話に訪れた人々はパウロと共にテモテにも面識があったことはまず間違いない。

後述するように、年代が西暦63年か64年であれば、ヤコブの死に応じて書かれたと見るべき理由が生じる。ヤコブエルサレムユダヤのエクレシアイの代表、礎石として揺るぎない存在であればあるほどに、わざわざパウロが何かを言うべき動機を持ったであろうし、2~3年後に第一次ユダヤ騒乱が迫っており、ユダヤ自体で愛国心が高揚し、ナザレ派には圧力が増していたことは充分に考えられ、それはカハルからの追放となって現れてもいたであろう。(Heb10:25)

 

 それから旧約の引用箇所を言明していないのは、宛先の読者らが旧約を知っているからであり、「異邦人だから旧約を参照できなかったから必要が無い」とは言い難い。そうであれば旧約の故事についての基礎的情報を語ったり、丁寧に説明したであろうが、メルキゼデクのティポトロジーをあのように簡潔に述べはしなかったろう。またアブラハムのイヴリートとしての生き方と『神を建設者とする都市を待ち望んだ』というのは、基礎知識なしにはまず理解できない。『天幕に住んだ』がどれほどの含蓄のある言葉かを理解できるのは、『律法』を熟知した読み手でなくてはならず、異邦人で一般的ギリシア・ローマの都市生活者には分からないのではないか。

この点で「住むべき家もなく、地上をさまよい、天なる故郷を求めつつある信仰ある人々」というのはイヴリーと聖徒の相似性を言うのであり、『真の土台を持つ城市を待ち望んだ。その建築者は神』という言葉の中に、世に在って居留民である聖徒の立場が対照されているのであり、決して故国を追われたユダヤ人を云々しているなどと単純に読むべき理由はない。(Heb11:16=1Pet1:1)

加えて、西暦70年が近付くに従い、ユダヤ教徒との対立が先鋭化し、場合によってはカハルを追われる人々も現れたので『集まり合うことを止めずに』という状況はユダヤ教ナザレ派にぴったり当てはまる。彼らは、愛国的になってゆくユダヤ教と完全に袂を分かつ必要に迫られており、カハルから追われたとしても、イエス派同士の集まりを持つべきであったろう。

それは最終的にユダヤの象徴としてのエルサレム神殿をさえ、イエスの言葉に従って見切りをつけて直ちに『山に退く』ことをしなければ、ユダヤに臨む『火のバプテスマ』をユダヤ教徒と共に受けなければならなくなった。つまり、『その日が近付くので、ますますそうする』理由は命に関わることになってゆく。

また、彼らは既に『命に至るほどの迫害』に面しており、それはイエスの弟「義人ヤコブ」という保護の壁を失って後のことであったのではないか。そうすると、パウロが態々、自分の憎まれている顔を出す理由も充分にある。だから、頭書に挨拶もない。彼らはいつまでもユダヤ教のぬるま湯に浸かっている場合ではなかった。そこで『時間の長さでは教える者であるはずなのに』『基礎からもう一度習う必要がある』ほどに脆弱であることが指摘されている。彼らはユダヤ教的であることに満足していたところで、パウロを軽視し過ぎていたのだが、今やユダヤ教の完成を目指すよりもキリスト教に進むことが急務となっていたのだが、著者はその点を指摘するのに『もう一度習う必要がある』という比較的穏やかな言葉で諭している。

つまり、ユダヤ教のイエス派は『先の者が後になる』という言葉の通りに、キリスト教の優越性に無頓着であり、ヤコブ亡き後、それを語る最適任者といえば、まずパウロでありペテロであったろう。ペテロもこの時期に異邦人宛ての書簡を書いており、同様の緊迫感を明らかに伝えている。両者の書簡共にヤコブの手紙の語り口とは異なり、迫害が起こって時が迫っていることが二人の文面に見える。それはユダヤ教体制の終焉であると同時に、当時の聖徒らの裁きともなっていたに違いない。特にヘブライ人もユダヤガリラヤの聖徒らには、ユダヤ教側からの猛烈な圧力に面していたろうが、それは西暦七十年という結末に至ることになる。

この書簡が書かれたのは、ローマでのパウロの釈放後であり、テモテの解放を待っている。つまり、エルサレム攻囲の前であり、パウロの二度目の逮捕の前でもある。そしてヤコブの死の後であるとすると、西暦63-4年頃にヘブライ語で書かれたのであろう。しかも最後の活動の開始前か初期である。従ってヤコブ殉教の翌年である可能性はある。(二度目の逮捕は64年以降)。つまり、エルサレムの滅びまであと7年弱というパウロがローマで処刑された67年の後、ルカなりの素養あるディアスポラのだれかによってギリシア語に翻訳されたのであろう。

あるいは、パウロ書簡収集家の誰かによってギリシア語への翻訳依頼がなされ、LXXからの引用によってギリシア語書簡として成立したのではないか。この書簡がパレスチナユダヤ人に書かれたのであれば、旧約の引用箇所の言及がないこと、またティポトロジーの多用にも異邦人のような無理がなく理解できたであろう。

これを理解したいと異邦人聖徒が願うとしても自然なことであり、これについてはクレメンスAlxやオリゲネスのルカ編集との証言もあるし、ヒエロニュモスもパウロが著者であるとしている。

使徒言行録との文章傾向に異なりがあるとしても、ルカはへフライ語文からの訳出に際し、相当程度の自由裁量があったか、または、パウロヘブライ語での唯一の書簡を著すに際して、彼の持つヘブライ語の雅量が十分に発揮されており、ルカもそのヘブライ文に見られる質の高さに準拠すべく努め、その結果が今日コイネで伝えられている本文に結実したと見ることができ、その蓋然性も低くないと思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

西暦紀元頃のグレコローマンの書簡文の特徴

原始キリスト教時代の書簡  W.G.Dotyの著作からのノート

 

ヘレニズム期にマケドニアの領土拡大に伴い、文通の重要性と到達距離が増していた。

当時の書簡はしばしば捏造され、届ける者に信頼性が依存していた。配達人はたいていの場合、託された手紙の返事が書かれるのを待ってそれを持ち帰る。火急の場合、蝶番のついた蝋を塗った板(ディプチュカ)が用いられた。返信は、そこに刻まれた文字を消して、新たに書かれた。

また、更に短文は太古からのオストラカが便利に用いられている。

 

当時の習慣では、黙読が極めて稀であり、書かれたものは声に出して読まれるものであって、宛てられた人だけがその内容を知るばかりではなかった。

 

書簡を書くための専門家の養成の学校がアテナイや帝国各地にあり、著名な人物の文体や論議で新たな文章を作る練習が行われていた。そのため、原著者作品と見紛うほどの書簡が数多く作られていたが、その見事なものは捏造というよりは、その延長にあるものとも見なされ評価された。【パウロ書簡に偽書があるとの根拠のひとつ、だが、パウロの文章は雅量の点からその対象となり得ないとの見解も】

 

書簡は手紙の働きを越えて、エセーや人物伝に形式を与えていた。

ルキリウスへのセネカの手紙その好例であり、「生き方」についての省察となっている。

ヒュポクラテースの24通の手紙はAD50頃にその学派によって書かれ、伝記小説となっている。

アリストテレースの手紙を編纂したアルテモンは手紙文への注釈を書き、その弟子のデメテリオスの様々な書簡文についての批評をしたものが残っている。

プラトーンやツゥキジテスは、手紙の書き出しを持った論文であり、大袈裟な言葉使いについてデメテリオスが書簡らしくないと批判している。

デメテリオスをはじめ、何人かの教師により手紙を書くための卓上案内のようなものが作られていた。パピルス写本の中に手紙文の練習であったものが残されているが、そうした案内に従う例はあまり見られないところからすると、それらの案内の影響は限定的であったらしい。

 

また、小説へと向かう形のものもあるが、それらの多くは偽名や雅号にような名が付されていた。これらは今日からは「偽書」とされる。

パウロの長文のものも、単なる手紙文という範囲を越えて貴重な神学的叙述が含まれており、それはキリストの言葉が伝記である福音書の形をとることに対照される】

 

ギリシアの手紙に於ける「最も親愛なる」「最も尊敬すべき」、また奴隷に用いる「私自身の」という表現は、相手とさし向かいの会談を反映しようとするものである。

しかし、ヘレニズム期の書簡文は極端に定式化されており、これは前三世紀から後三世紀までほとんど変わることがなかった。

<手紙文の形式は文明によるものだと思う、洋式はグレコローマンの影響を残しているのが分かる。商用文なら洋式を模倣するには利便性はあるが、季節を含める和式の味わいは独特で捨てがたい>

 

①まず、導入部で差出人、受取人、挨拶、健康祈願があり

②次いで独特の定型的導入句によって導かれる本文となり

③結びには受取人以外の人々への挨拶や祈願、最後の挨拶や祈りがあり、ときには日付が入る。

 

これが何千通もの公私にわたる書簡文に一致しており、例外は少ない。

この習慣に異を唱える当時の著名人もあり、プリニウスは「わたしは、月並みでも下劣でもなく、私的興味に限られない何かを含むものにしたい」また「なぜ、我々の手紙は常にこのような所帯染みた事柄にかかずらねばならないのか」と言っている。<平安時代の歌のやりとりを知ったらなんと言ったか>

 

ローマ人の間では手紙の作法が確立され、文通の頻度によって親しさを測るができたので、出来得る限り手紙を送ることが礼儀に適った。【後のエラスムスコレット

 

手紙は本来、差出人と受取人の既に存在する関係性を示すものであるが、私的て親密なものもあれば、そうでないものもあった。後者には、商業的、軍事的、教育的なものがある。また、契約や裁定を伝えるものがある。

 

パウロの書簡文

基本的様式は

①書き出し;差出人、受取人、挨拶

②祈り、祝福;執り成し、終末論的高揚

③本文;導入の定型句、しばしば終末論、将来の計画などを伴う

④勧告

⑤結び;定式的祝祷と挨拶、時折は手紙の由来など

彼は書き出しに於いてユダヤとヘレニズムの要素に双方を活用しており、挨拶はギリシア的であるが、ユダヤ教の余韻も残している。挨拶の点で、パウロギリシア語のchairein「ご機嫌如何」とcharis「恵み」は言葉の上で似ているが、パウロが言葉遊びを込めたかは論議されるところ。

挨拶に「恵み」を用いることはヘレニズムでもヘブライズムにも無いものである。だが、これをヘブライ語のシャロームとの関連で見る場合、それはヘブライの書簡での標準的要素である。そこでパウロは、自らのヘブライ的遺産との連続性を意識していたことはほとんど疑う余地がない。ユダヤの手紙文では、人名がギリシア式よりも修飾されることが多かった。

例「ネリヤの子バルクより、囚われの身となった兄弟(同朋)たちへ。憐れみと平安とがあるように。」(バルク黙示録78:2 シリア語)

パウロも自ら名乗る際に、それを修飾する仕方で使徒職への言及がされてもいる。

また、共同の差出人を併記するのは、それらの人々が共同体でも認められた権威者、また運び手であり、その信用性を保証していた。伝達されるべき情報の信憑性が使者の信用に委ねられているヘレニズムの場合、これは特に重要であった。

 

フリードリヒ・ケスターによると、パウロ文は起源的にユダヤ風で単にギリシア形式に当てはめたに過ぎない。

ダイスマンは、注意深くは整理されず、内容が随時移行しながら、時には飛躍しつつ、途切れ途切れに口述している。

W.G.Dotyは、パウロは自分の書きたい事柄を著すためのしっかりとした形式の意識を持っていた。

この点を理解しておくと、コリントスやフィリッポイへの文章の伝達経路で解体され整理し直された手紙文の全体を再構成するのに助けとなり、また真正な手紙とそうでないものを区別する手立てともなる。

 

 

 

所見;パウロ当時のグレコローマンの習慣としての書簡文が、通信文という用途を超えて来ていたところで、新約聖書のほとんどが書簡文で成り立っているには、非常なまでに用途に適っていたように思える。

なぜなら、パウロなりが自らの著書を書いていれば、それはまさしくパウロ教と人に見做されてしまう危険が高い。それでなくても、福音書のキリストが依然、トーラーの下に在って語っているのであるから、その犠牲が捧げられ『新しい契約』が発効した後のユダヤ教からの次元上昇とも言えるほどの大変革を示す教理を伝える器として、当時の必要に応えるかたちでの書簡文は、著者ひとりにその理解の源を示さず、聖霊の霊感が主役であったことを読む者に自然と印象付けることができる。書簡であれば、通信の必要を通して実生活との関わりの中で思想や釈義を述べても個人の恣意性の印象が薄らぎ、同時に著者を確定し易いという利点がある。これはユダヤ式の旧約著作とは根本的に異なり、偽作の恐れが非常に高いキリスト教の事情にも好都合であったろう。

当時のグレコローマンの習慣を用いることは神の思惑であった蓋然性が感じられる。

加えて、ユダヤヘブライは過ぎ去ろうとしていた律法体制の強力な引力が働いており、キリスト教の革新性を荷うには余りに重い足枷の下にあったというべきだろう。ユダヤ教式概念からの離脱という面で、ネイヴィームとの連続性は書簡という形で断たれたとも言える。

キリスト教ギリシア語に向かったことには、これらの要件を満たす合理性があったに違いない。もはやユダヤモーセを遥かに超えて行くキリストの新たな教えを負える器ではなかったと言える。実際草創期キリスト教を支えたのはユダヤ教ナザレ派ではなく、ディアスポラの民と古参のギリシア語話者であったのは否定しようがない。『諸国民への使徒』とは、この新たな教えを荷う重要な器であり、且つ離散の民と異邦人への橋渡しという原始キリスト教確立の立役者としての称号であったと言える。

それにしても、文体や使用単語よりも注目するべきは内容の価値である。

奥義の理解に於いては、その文面が何者によって書かれたのかを物語ってしまう。特に新約聖書に込められた高度な経綸理解は真に価値あるもの以外をその内容そのものが淘汰してしまう。

 

 

 

 新約聖書の書簡文の分類法提言

 

 

 

 

ストイケイア

 

[στοιχεια] 名) 初歩、基本、天体  

 

Ga4:3

[ὑπὸ τὰ στοιχεῖα τοῦ κόσμου ἤμεθα ] 対中複

「いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた」口語

「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」新共同

「この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。」新改訳

”were in bondage under the elements of the world.”NKJV

3:19/4:9⇒ストイケイア   「病弱な」:Gal4:9 ストイケイアに付随してアススェネー「病気の」⇒「弱弱しい」つまり「病弱な」が敷衍された意味らしい。パウロがストイケイアを用いるときには必ず律法が関わっているように見える。「並んだ杭」が教条を指しているのでは?<なお、この節は翻訳難所に加えておくこと!14.5.6記>

現代ギリシア語では「データ」の意味で通用している

 

Col2:8

[κατὰ τὰ στοιχεῖα τοῦ κόσμου]

「それは、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くもの」

「それは、世を支配する霊に従っており、」

「それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるもの」

”according to the basic principles of the world, ”

 

Col2:20

[ἀπὸ τῶν στοιχείων τοῦ κόσμου,  ] 名)属中複

「世のもろもろの霊力から離れたのなら、」

「世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、」

「この世の幼稚な教えから離れたのなら、」

”from the basic principles of the world, ”

 

principles 原則、主義、根本、精神

[στοιχειω] 「習慣的に歩む」

 

いくつかストイケイアの用例を見ると

パウロは律法条項を「基礎的」また「初歩的」としているが

それに加えて一般社会の精神を指しているようにみえる

後者については特にこの世の俗性を含んでいるのが明らかで

これは「ハモナ」に属することを戒めているように捉えられる

即ち、世の俗性のままに歩む「大衆」のようであってはならない

⇒ Rm12:2 /1Pet1:14  共に聖徒たる者の十分条件として語られている

 

⇒ 

ガラテア3:19と4:9 ストイケイア - Notae ad Quartodecimani

 

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聖徒らのコイノニアの中に「新しいもの」καινη κτισις が創造され、キリストの復活により既に存在を始めていた。2Cor5:17 

そこで旧いものは消え去るのであり、聖徒は世の倣いとは別に生きるべきであった。

 

所見

「この世の霊力」というのは、訳としては不自然ながら一面を伝えてはいる

ガラテア人には律法の生き方への批判として書かれているが、コロサイ書は必ずしもそうではない。

これはアブラハムがイヴリーで、ニムロデではなく神が建設される城市を待ち侘びたということにもつながる。<やはりヘブライ書はパウロ作といえる>

やはりハモナと粘土には関連があるかもしれない。

 

パウロモーセの律法体制についてこの語を用いたのは、キリストによってもたらされた新たな崇拝方式が霊的なもので地的物質的であることから超越したことを言う以上に、律法のもたらしていたものが、奴隷的であり、世のものの性質を帯びていたことを言うのであろう。それはキリストの犠牲に基く崇拝への予備的段階であり、イスラエルは『罪』に対処するべき「法の施行」の下での形式としては、この世の諸政府の支配と変わらない構造を持っていた。それでも律法そのものは、メシアの要件を示してもいたのであり、メシアがメシアであるために不可欠であることには変わりがない。だが、律法の要件によって義を証しされ『その義によって生きる』のはメシアただ一人となった。

その結果としてキリストの犠牲は倫理性の完全の域に達し、『命の』また『救いの』『傑出した君』となってその義を分配的に貸し与えた、それが聖霊の賜物によって印付けられた。その油注がれた者たち、まず『共同相続者』の群れを導き出している。従って、その『兄弟たち』は『世のものではなく』ストイケイアに沿う生き方を後にし、象徴的イヴリーとなり荒野に住む。そこで彼らは『居留者』と呼ばれるのであり、ニムロデからの俗世とは決別した生き方が求められた。それがレヴィの清さであり、祭司職への条件でもあった。ということか。

共同相続者らがメシアの達した完全性の分与に預かり、隅の親石の上に築かれなければならない。次いで千年の間に、その他の者らのすべてが、その完全なる義の分与を贖罪によって与えられる。これがアブラハムの裔の成し遂げる『地のすべての氏族が自らを祝福する』手立てであり、これが『奥義』と呼ばれていた。

この『奥義』は隠す必要がなく、屋上から叫んでも良いとイエスは言われた。なぜなら、悟らない者はどうあっても悟れないからだろう。

千年とは意外に・・

 

 

quartodecimani.hatenablog.com

 

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試論

米中西部のキリスト教には親イスラエルが増えている

それはイスラエルへの曲解した教理の影響があるからで、政治行動まで起こしているのだが、パレスチナ人への配慮などまるで感じられない。あれがアメリカの中東関与の動機なのだとすれば、キリスト教はいまだ十字軍のようではないか。

ヴィイームの言葉を表層だけで捉え、象徴として聞かないところから来ている。この点で、教会指導者は恐ろしく間違っている。

イスラエル民族は神の時刻表の役割を負っているやら

終末に地上再臨するキリストを見てユダヤ教徒の大量改宗があるやら

エルサレムが北から攻撃されるやら

本当に聖書を読んでいるのだろうか。

 

それらのキリスト教徒のイスラエルかぶれの酷さは反知性的にまで進んでいる。自分たちの行動がどんな実を結んでいるのかをまるで考えていない。これも大衆化のひとつの形とも言える。ともあれ、大衆宗教というのは程度が低くて頑なだから、考えて自省するというところがない。

現状でシーア派イスラエルアメリカが対立しているが

アメリカのイスラエル支持とスンニ派との連携がしばらくは続くとしても、シーア派との関係をどうにかできないと、中東での不安定さは解消されない。

もしイランとアメリカとの間で武力行使が始まってしまえば、ほぼ泥沼化して、当分は世界の負担にしかならない。僅かな箇所の空爆では済まない方向にもっていったのはイラン自身でもあり、これは諸国も理解しているだろうけれども、先鋭的で頑固な勢力は互いに譲らないだろうから、そう遠からず何かの変化は起きることになるのだろう。

 

しかし、宗教合同となると、かなりの問題が退潮すると思える。

大筋で和解する理由が今はまったくないが、その理由が生じた場合、最良のポジションを得るのはまず間違いなくイスラエルということになる、というより他に有り得ない。後押しをするのもU.S.A以外に適任者もいない。<その下地を造っているのか!>

三つの宗教の合同形というものを想定すると、見えて来るものがある。

 

宗教的派閥は解消される道理があり、これがGBの滅びを要請するかも知れない。

Rev16によれば、GBの滅びはGGの使嗾あってのことであるとも考えられる。

だから、やはり北王と野獣は早々に舞台を去るけれども、GBはGGが台頭するまでは長らえなくてはならない。だからRev16はあのような順に書いてあるといえる。GGの慫慂ほど終局を呼び込むものはない。そこまで焦点は絞られていたのか。

つまり北王の権威が瓦解することで政治的反目が退潮し、そこに北王が育てた獣が偶像化して宗教的反目も退潮するとすれば、大衆が何と言うのかは明らかだ。これこそ非知性的喜びになるだろう。

そこでGBの存在意義はおろか、抹消すべきものとされるのは自然な流れになるのだろう。それを主導する最適任者が居る。

 北王だけで聖徒攻撃ができないことで獣が必要となるか。6.26.19

もし黙示の順でゆくと聖徒の現れまで獣は現れないことにはなるけれども、これはどうか分からない。

北王は内部に崩壊の危機を幾つも孕んでいるので、今後は早急な行動にいきなりに出る恐れは常にある。堅固に見えるほどに弱い。

ひとつ意外に想えるのは、タイムテーブル上、北王も獣自身もGB攻撃に絡まないところなのだが、自分は何か間違っているのか。

 それから東から人を興すということの対型と再臨の関係、それが東からの王たちとがまるで異なること(これは単にバビロン征服を云うのか)。加えて、大いなるキュロスがどのように勅令を発し、残りのアリヤーの民が現れるのか。終末の時間の流れと捕囚解放期とでは異なっていて、アレゴリーが走馬灯のようで目くるめく。そのまえにシオン

 

 

 

LF

 

 

シオンの栄光を告げる句

 

Isa1:24 このゆえに、YHWH、万軍のYHWHイスラエルの全能者は言われる、「ああ、わたしはわが敵にむかって憤りをもらし、わがあだにむかって恨みをはらす。
1:25 わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く。
1:26 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」。
1:27 シオンは公平をもってあがなわれ、そのうちの悔い改める者は、正義をもってあがなわれる。
1:28 しかし、そむく者と罪びととは共に滅ぼされ、主を捨てる者は滅びうせる。

2:2 終りの日に次のことが起る。YHWHの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、
2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、YHWHの言葉はエルサレムから出るからである。

4:2 その日、YHWHの枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄となる。

4:5 その時、YHWHはシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、
4:6 昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。

10:12 YHWHがシオンの山とエルサレムとになそうとすることを、ことごとくなし遂げられた時、主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとを罰せられる。

10:15 おのは、それを用いて切る者にむかって、自分を誇ることができようか。のこぎりは、それを動かす者にむかって、みずから高ぶることができようか。これはあたかも、むちが自分をあげる者を動かし、つえが木でない者をあげようとするのに等しい。
10:16 それゆえ、YHWH、万軍のYHWHは、その肥えた勇士の中に病気を送って衰えさせ、その栄光の下に火の燃えるような炎を燃やされる。
10:17 イスラエルの光は火となり、その聖者は炎となり、そのいばらと、おどろとを一日のうちに焼き滅ぼす。
10:18 また、その林と土肥えた田畑の栄えを、魂も、からだも二つながら滅ぼし、病める者のやせ衰える時のようにされる。
10:19 その林の木の残りのものはわずかであって、わらべもそれを書きとめることができる。
10:20 その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、YHWHにたより、
10:21 残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。
10:22 あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びはすでに定まり、義であふれている。

10:23 主、万軍のYHWHは定められた滅びを全地に行われる。
10:24 それゆえ、主、万軍のYHWHはこう言われる、「シオンに住むわが民よ、アッスリヤびとが、エジプトびとがしたように、むちをもってあなたを打ち、つえをあげてあなたをせめても、彼らを恐れてはならない。
10:25 ただしばらくして、わが憤りはやみ、わが怒りは彼らを滅ぼすからである。

12:1 その日には、あなたは言うであろう。「YHWHよ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。YHWHこそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
12:4 その日には、あなたたちは言うであろう。「YHWHに感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。
12:5 YHWHにほめ歌をうたえ。YHWHは威厳を示された。全世界にその御業を示せ。
12:6 シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

14:32 その国の使者たちになんと答えようか。「YHWHはシオンの基をおかれた、その民の苦しむ者は/この中に避け所を得る」と答えよ。

18:7 そのとき、貢ぎ物が万軍のYHWHにもたらされる。背高く、肌の滑らかな民から/遠くの地でも恐れられている民から/強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国から/万軍のYHWHの名が置かれた場所/シオンの山へもたらされる。

24:21 その日、YHWHは天において、天の軍勢を罰し、地の上で、地のもろもろの王を罰せられる。
24:22 彼らは囚人が土ろうの中に/集められるように集められて、獄屋の中に閉ざされ、多くの日を経て後、罰せられる。
24:23 こうして万軍のYHWHがシオンの山/およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前に/その栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる。

28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。
28:17 わたしは正義を測り縄とし/恵みの業を分銅とする。雹は欺きという避け所を滅ぼし/水は隠れがを押し流す。

29:7 そしてアリエルを攻めて戦う国々の群れ、すなわちアリエルとその城を攻めて戦い、これを悩ます者はみな/夢のように、夜の幻のようになる。
29:8 飢えた者が食べることを夢みても、さめると、その飢えがいえないように、あるいは、かわいた者が飲むことを夢みても、さめると、疲れてそのかわきがとまらないように、シオンの山を攻めて戦う国々の群れも/そのようになる。

30:18 それゆえ、YHWHは待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、YHWHは立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。YHWHは公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。
30:19 シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。YHWHはあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。YHWHがそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。
30:20 たといYHWHはあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。
30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
30:22 その時、あなたがたはしろがねをおおった刻んだ像と、こがねを張った鋳た像とを汚し、これをきたない物のようにまき散らして、これに「去れ」と言う。
30:23 YHWHはあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、
30:24 地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。
30:25 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。
30:26 さらにYHWHがその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
30:27 見よ、YHWHの名は遠い所から/燃える怒りと、立ちあがる濃い煙をもって来る。そのくちびるは憤りで満ち、その舌は焼きつくす火のごとく、
30:28 その息はあふれて首にまで達する/流れのようであって、滅びのふるいをもってもろもろの国をふるい、また惑わす手綱を/もろもろの民のあごにつけるために来る。
30:29 あなたがたは、聖なる祭を守る夜のように歌をうたう。また笛をならしてYHWHの山にきたり、イスラエルの岩なる主にまみえる時のように心に喜ぶ。
30:30 YHWHはその威厳ある声を聞かせ、激しい怒りと、焼きつくす火の炎と、豪雨と、暴風と、ひょうとをもってその腕の下ることを示される。
30:31 YHWHがそのむちをもって打たれる時、アッスリヤの人々はYHWHの声によって恐れおののく。
30:32 YHWHが懲らしめのつえを彼らの上に加えられるごとに鼓を鳴らし、琴をひく。YHWHは腕を振りかざして、彼らと戦われる。

31:4 YHWHはわたしにこう言われた、「ししまたは若いししが獲物をつかんで、ほえたけるとき、あまたの羊飼が呼び出されて、これにむかっても、その声によって驚かず、その叫びによって恐れないように、万軍のYHWHは下ってきて、シオンの山およびその丘で戦われる。
31:5 鳥がひなを守るように、万軍のYHWHエルサレムを守り、これを守って救い、これを惜しんで助けられる」。

31:6 イスラエルの人々よ、YHWHに帰れ。あなたがたは、はなはだしくYHWHにそむいた。
31:7 その日、あなたがたは自分の手で造って罪を犯したしろがねの偶像と、こがねの偶像をめいめい投げすてる。
31:8 「アッスリヤびとはつるぎによって倒れる、人のつるぎではない。つるぎが彼らを滅ぼす、人のつるぎではない。彼らはつるぎの前から逃げ去り、その若い者は奴隷の働きをしいられる。
31:9 彼らの岩は恐れによって過ぎ去り、その君たちはあわて、旗をすてて逃げ去る」。これはYHWHの言葉である。YHWHの火はシオンにあり、その炉はエルサレムにある。

33:6 またYHWHは救と知恵と知識を豊かにして、あなたの代を堅く立てられる。YHWHを恐れることはその宝である。 

33:20 定めの祭の町シオンを見よ。あなたの目は平和なすまい、移されることのない幕屋エルサレムを見る。その杭はとこしえに抜かれず、その綱は、ひとすじも断たれることはない。
33:21 YHWHは威厳をもってかしこにいまし、われわれのために広い川と流れのある所となり、その中には、こぐ舟も入らず、大きな船も過ぎることはない。
33:22 YHWHは我らを正しく裁かれる方。YHWHは我らに法を与えられる方。YHWHは我らの王となって、我らを救われる。

34:5 わたしのつるぎは天において憤りをもって酔った。見よ、これはエドムの上にくだり、わたしが滅びに定めた民の上にくだって、これをさばく。
34:6 YHWHのつるぎは血で満ち、脂肪で肥え、小羊とやぎの血、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。YHWHがボズラで犠牲の獣をほふりエドムの地で大いに殺されたからである。
34:7 野牛は彼らと共にほふり場にくだり、子牛は力ある雄牛と共にくだる。その国は血で酔い、その土は脂肪で肥やされる。
34:8 YHWHはあだをかえす日をもち、シオンの訴えのために報いられる年を/もたれるからである。

35:10 YHWHにあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

37:6 イザヤは彼らに言った、「あなたがたの主君にこう言いなさい、『YHWHはこう仰せられる、アッスリヤの王のしもべらが、わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。
37:7 見よ、わたしは一つの霊を彼のうちに送って、一つのうわさを聞かせ、彼を自分の国へ帰らせて、その国でつるぎに倒れさせる』」。

37:30 あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂から生えた物を食べ、二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
37:31 ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。
37:32 すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍のYHWHの熱心がこれをなし遂げられる。

40:9 よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。
40:10 見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いはYHWHと共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある

41:26 だれか、初めからこの事を/われわれに告げ知らせたか。だれか、あらかじめわれわれに告げて、「彼は正しい」と言わせたか。ひとりもこの事を告げた者はない。ひとりも聞かせた者はない。ひとりもあなたがたの言葉を聞いた者はない。
41:27 わたしははじめてこれをシオンに告げた。わたしは、よきおとずれを伝える者を/エルサレムに与える。
41:28 しかし、わたしが見ると、ひとりもない。彼らのなかには、わたしが尋ねても/答えうる助言者はひとりもない。
41:29 見よ、彼らはみな人を惑わす者であって、そのわざは無きもの、その鋳た像はむなしき風である。

46:11 わたしは東から猛禽を招き、遠い国からわが計りごとを行う人を招く。わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。
46:12 心をかたくなにして、救に遠い者よ、わたしに聞け。
46:13 わたしはわが救を近づかせるゆえ、その来ることは遠くない。わが救はおそくない。わたしは救をシオンに与え、わが栄光をイスラエルに与える」。

49:14 しかしシオンは言った、「YHWHはわたしを捨て、YHWHはわたしを忘れられた」と。
49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
49:17 あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

51:3 YHWHはシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくをYHWHの園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。
51:4 わが民よ、わたしに聞け、わが国びとよ、わたしに耳を傾けよ。律法はわたしから出、わが道はもろもろの民の光となる。
51:5 わが義はすみやかに近づき、わが救は出て行った。わが腕はもろもろの民を治める。海沿いの国々はわたしを待ち望み、わが腕に寄り頼む。
51:6 目をあげて天を見、また下なる地を見よ。天は煙のように消え、地は衣のようにふるび、その中に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わが救はとこしえにながらえ、わが義はくじけることがない。
51:7 義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。人のそしりを恐れてはならない、彼らのののしりに驚いてはならない。

51:11 YHWHにあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

51:15 わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、YHWHである。その名を万軍のYHWHという。
51:16 わたしはわが言葉をあなたの口におき、わが手の陰にあなたを隠した。こうして、わたしは天をのべ、地の基をすえ、シオンにむかって、あなたはわが民であると言う」。

52:1 シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。
52:2 捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。

52:7 よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と/言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。
52:8 聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、YHWHがシオンに帰られるのを見るからだ。

59:20 YHWHは言われる、「YHWHは、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

60:1 起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、YHWHの栄光があなたの上にのぼったから。
60:2 見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、YHWHの栄光があなたの上にあらわれる。
60:3 もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
60:4 あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。
60:5 その時あなたは見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。

60:14 あなたを苦しめた者の子らは、かがんで、あなたのもとに来、あなたをさげすんだ者は、ことごとくあなたの足もとに伏し、あなたを主の都、イスラエルの聖者のシオンととなえる。
60:15 あなたは捨てられ、憎まれて、その中を過ぎる者もなかったが、わたしはあなたを、とこしえの誇、世々の喜びとする。

61:2 YHWHの恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、YHWHがその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
61:5 外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。

62:1 シオンの義が/朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。
62:2 もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたはYHWHの口が定められる/新しい名をもってとなえられる。
62:3 また、あなたはYHWHの手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。
62:4 あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。YHWHはあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。
62:5 若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。
62:6 エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。YHWHに思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。
62:7 YHWHエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ。

65:1 わたしはわたしを求めなかった者に/問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に/見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
65:2 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。

66:7 シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。
66:8 だれがこのような事を聞いたか、だれがこのような事どもを見たか。一つの国は一日の苦しみで生れるだろうか。一つの国民はひと時に生れるだろうか。しかし、シオンは産みの苦しみをするやいなや/その子らを産んだ。

 

 

 

 

 

Zep3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、YHWHはあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。
3:18 「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない。
3:19 見よ、その時あなたをしえたげる者を/わたしはことごとく処分し、足なえを救い、追いやられた者を集め、彼らの恥を誉にかえ、全地にほめられるようにする。

 

Zec1:17あなたはまた呼ばわって言いなさい。万軍のYHWHはこう仰せられます、わが町々は再び良い物で満ちあふれ、YHWHは再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ』と」。

8:2「万軍のYHWHは、こう仰せられる、『わたしはシオンのために、大いなるねたみを起し、またこれがために、大いなる憤りをもってねたむ』。
8:3 主はこう仰せられる、『わたしはシオンに帰って、エルサレムの中に住む。エルサレムは忠信な町ととなえられ、万軍の主の山は聖なる山と、となえられる』。
8:4 万軍のYHWHは、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。8:5 またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』。

9:13 わたしはユダを張って、わが弓となし、エフライムをその矢とした。シオンよ、わたしはあなたの子らを呼び起して、ギリシヤの人々を攻めさせ、あなたを勇士のつるぎのようにさせる。
9:14 その時、YHWHは彼らの上に現れて、その矢をいなずまのように射られる。主なる神はラッパを吹きならし、南のつむじ風に乗って出てこられる。
9:15 万軍のYHWHは彼らを守られるので、彼らは石投げどもを食い尽し、踏みつける。彼らはまたぶどう酒のように彼らの血を飲み、鉢のようにそれで満たされ、祭壇のすみのように浸される。
9:16 その日、彼らの神、YHWHは、彼らを救い、その民を羊のように養われる。彼らは冠の玉のように、その地に輝く。
9:17 そのさいわい、その麗しさは、いかばかりであろう。穀物は若者を栄えさせ、新しいぶどう酒は、おとめを栄えさせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「賛美のための民」の概念

 

・Eph1:12 ” that we who first trusted in Christ should be to the praise of His glory*.”NKJV

『それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。』【口語】

『それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。』【新共同】

『私たち、強い希望を抱き続けている者が、キリストにおいて神の栄光を讃えるべき者となるようにと』【岩波委員】

同上註有;「今日では「希望する」の前綴りpro-[前に]を単なる強め(希望はすべて「前もって」のもの)とする解釈と、前綴りをキリスト「以前からの」メシア待望に関連づけ、「私たち」をユダヤ人(キリスト者)に限定する古代からの解釈が対立しているが、ここではユダヤ人と異邦人は相互に区別されていない。・・(ここは2:19の論争とも関連有り)

<確かにエフェソス書を宛てられた読者は異邦人であり、以前からのメシア待望について述べているとは思えない。しかし、ここはもう一つの視点もある>

 

[εἰς τὸ εἶναι ἡμᾶς εἰς ἔπαινον δόξης αὐτοῦ τοὺς  προηλπικότας ἐν τῷ Χριστῷ.] NA28

[προηλπικότας];  AV - first trust 1; 1 1) to hope before  分)完了能対男1複 「前に希望する」([προελπίζω] 原)

<これはヤコブ1:18との関連を述べていると捉えるという道があり、その方が論理的なパウロの文言に適うように思う。そのうえパウロは自分たち聖徒が『初穂の霊を持つ』を持つとも書簡に述べているRm8:23&29。

この箇所でも前後を読むと異邦人から聖徒に召された者らへ向けられた言葉であることが分かり、元来の異邦人の大半は聖徒から益を受ける立場にあるのであるから、この場合のプロエルピゾーは、「早い(段階の)希望」つまり人類に先立つ希望と解釈できる。というのも、ここで異論が出るのも言葉の用法が普通でなく、パウロが普通でない概念を述べようとしていると捉えることが的外れではないだろうから>

『それは,キリストに望みを置く点で最初の者となったわたしたちが,その栄光の賛美に仕えるためでした。』【旧版・新世界訳】

「キリストに望みを置く点で最初の者となったわたしたちが」の部分

直訳に近付けると「最初にキリストに希望を置いたわれらが、」とはなるけれども、ここでは幾分か原語から離れるが、旧版の新世界訳が最も分かり易く真意を突いている。英語では"first trusted"の単語によりどちらとも捉えられるが、英文新世界訳旧版では”we who have been first to hope”とされ原語に近いが、日本語旧版新世界訳が意味を捉える上では、より明解な翻訳になっているように思える。つまり、何に対して「はじめ」なのかについて、「神の賛美のための民」の視点がパウロに有ったと解釈することになるが、それは続く14節でヘブライ書やイザヤの預言のニュアンスに触れているところに示されている。

関連;Act15:7『激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに('αρκαιος)、諸君の中からわたしをお選びになったのである。』

 

Eph1:14『この聖霊は、わたしたちが神の国を継ぐ事の保証であって、やがて神につける者が全く贖われ、神の栄光を誉め讃えるに至る為である。』

 

= Heb13:15 "Therefore by Him let us continually offer the sacrifice of praise to God, that is, the fruit of our lips, giving thanks to His name."NKJV <His name は誰の名か*?これはユダヤ教ナザレ派に向けて述べている>

『だから、わたしたちはイエスによって、賛美の生贄、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神に捧げようではないか。』【口語】

<この「彼の名」がキリストであるかのように誤解させているが、「イエスの名を証しする」ことは有っても、賛美は常に神に属する*。キリストやメシアを賛美するとしたら聖書からは逸脱する。そこで、この口語訳は英文だけで判断した文語訳の影響ではないのだろうか>

『 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。』【新共同】

 

=Isa43:21『この民は、わが誉を述べさせるために/わたしが自分のために造ったものである。』【口語】

 

1Pet1:7『こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。』【口語】

[ ἵνα τὸ δοκίμιον ὑμῶν τῆς πίστεως πολυτιμότερον χρυσίου τοῦ ἀπολλυμένου, διὰ πυρὸς δὲ δοκιμαζομένου εὑρεθῇ εἰς ἔπαινον καὶ δόξαν καὶ τιμὴν ἐν ἀποκαλύψει Ἰησοῦ Χριστοῦ ] NA28

[ εὑρεθῇ ] (ヘユペテー)[εὑπίσκω 原] AV - find 174, misc 4; 178 1) to come upon, hit upon, to meet with 1a) after searching, to find a thing sought 1b) without previous search, to find (by chance), to fall in with 1c) those who come or return to a place 2) to find by enquiry, thought, examination, scrutiny, observation, to find out by practice and experience 2a) to see, learn, discover, understand 2b) to be found i.e. to be seen, be present 2c) to be discovered, recognised, detected, to show one's self out, of one's character or state as found out by others (men, God, or both) 2d) to get knowledge of, come to know, God 3) to find out for one's self, to acquire, get, obtain, procure  

『あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。』【新共同】『称賛と光栄と誉れとをもたらす(or見出す)

”hat the genuineness of your faith, being much more precious than gold that perishes, though it is tested by fire, may be found to praise, honor, and glory at the revelation of Jesus Christ,” NKJV <この" may be "は聖徒らへの試練の結果の不確定性によるものと思われる>

<試練を通過する者は「称賛と栄光と誉れとを見ることになる」の意では?>⇒Lk13:24 ect,

 

所見;やはり、翻訳者の理解がどのようであるかによって翻訳は大きく影響を受け、聖書の全体像に一貫した視点を持たない翻訳は、それぞれの箇所毎に思考が定まらず知らされていることも知らされないで終わってしまう危険がある。そこでパウロが他の箇所でどんな事に言及していたか、また、ヘブライ語の習慣や、旧約にどんな概念があったのかを渉猟し、それらの何かに触れようとしている原著者の意志を汲まなければ、一般的読者層に真意を伝えることは難しくなる。そこで原語のままに訳す方法と、示唆的に言葉を選ぶ方法とがあるが、原語と翻訳語にはそもそも違いがあるので、一単語に一単語を常に当てる方法が必ずしも正確かといえば、そうも云えない。それでも、どこでどの単語が用いられているのかを知ることでヒントを得ることもあるから、紙媒体の聖書というのは限界を迎えているようにも思う。マウス・オーヴァーで原単語なりセンテンスなりが表示されたり、異本の存在の通知、異訳の存在、また相互参照だけでなく、古典作品の引用や歴史的背景にリンクできるなら、ただ聖書を読む、また通読回数を誇るなどという愚行から読者を解放できるのではないか。