Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ダニエル書第10-11章 ハンマーの解釈

 

 この頁では Raymond Hammer の解説をノートする   LF

               cf⇒ フランシスコ会

  <しかし、すべての内容に同意できるわけではない>

 

ダニエル書がネイヴィームに含まれなかった理由は、この書が前200年頃まで知られていなかったのではないかとされる。外典のベン・シラの知恵(BC180ca)には旧約のほとんどに人物が挙げられているのに、ダニエルが無い。しかし、シビュラの託宣では前2世紀中葉に位置付けられる中にダニエルの名を見る。

ダニエル書の後半をハンマーは、「我々の見るところでは」前六世紀のユダヤ捕囚民に著者を想定することは不可能と言っている。理由には、王たちの記述に不正確さがある。<おそらくメディア王ダレイオスのことか?>

それから歴史的出来事が正確であるので、後の時代に書かれたと判断している。アンティオコス・エピファネスに至るまでギリシアの歴史的著作とおどろくほど一致しており、神殿の奪還と再奉献、それにアンティオコスの無益な東方遠征が書かれていないので、前165年までに完成した書であろうと。

 

言語については、2:4からアラム語で書かれ7章の終りまで続く、しかし、その後は最後までヘブライ語で一貫している。これは死海の洞窟1と4から出た写本とも一致する。これに反論する識者は、元々全体がアラム語であったものを、ユダヤ人に受入れさせるために態々幻の最初である第七章までをアラム語に残し、後をヘブライ語にして双方の部分の一体性を装ったと見る。

 

外典の「三人の歌」はダニエル第三章への挿入文であり、あとの「スザンナ」と「ダニエルと龍」はダニエル書の承認をへて追加されたものと。

歴史的には、ナボニドスがネブカドネッツァルの未亡人を娶っていることから、その子ベルシャッツァルをネブカドネッツァルの「子」とすることにはある程度の理由もある5:10-11、だが血縁はない。

 

ここでダニエルに与えられた啓示は、ペルシア時代からアンティオコスⅣ世(175-164)に至るまでのユダヤ人に影響を与えた歴史の概観である。しかし、記述の多くは実際の出来事に当てはめてゆくには外部の資料にしばしば依存する必要があるほど謎に包まれている。

ダニエル書後半の著者は焦点を人間の行動に限定せず、神の活動と人間との関係をより深く考えようとしている。

 

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なお三人の王が起る

これはスメルディスを除くカンビュセス、ダレイオスⅠ、クセルクセスのようである。「第四の者」はキュロスから数えており、480-479年の遠征でギリシアに大規模な軍事行動を起こしたクセルクセス(485-465)に一致する。

しかし、旧来的にはキュロス、ダレイオス、クセルクセス、アルタクセルクセスと結び付けられるのを常としてきた。ダレイオスⅠ世はメディアの同名王と混同を避け削除されているというのは、ネヘミヤ12:22によって支持されるが、この王には本書に語られるような功績はほとんどない。

 

南の王

大王の将軍の一人プトレマイオスによって治められ、前30年に至るまで王権を得た。

将軍のひとり

321年に将軍たちの間で認められた帝国の分割に於いて、バビロニアを受け取ったセレウコスに対するものである。316年彼はフリュギアの総督として出発し、その後アンティオコスが地中海から中央アジアへと支配を広げていた頃からプトレマイオスの下に逃れ、312までエジプトで仕えていたが、アンティゴノスの子を打ち破った後、彼の旧領を回復した。

その後301年にイプススの戦いで勝利しアンティゴノスを死に追いやった。その後、小アジアからインドの北西の端までに版図をひろげた。そこでその勢力はプトレマイオスを越えるに至った。

 

和睦

248年頃、プトレマイオスⅡ世は、アンティオコスⅡ世(セレウコスの孫)が妻のラオディケーを離縁し、彼女との間のふたりの息子の王位継承権を奪うという条件の下に、娘のベルニケーを与えた。

この結末は、ラオディケーによるベルニケーとその子の殺害を惹き起こす。

 

この女の根からひとつの芽

プトレマイオスⅢ世(247-222)は、妹ベルニケーの報復をしようとセレウコス領を攻める。

 

彼らの神々、鋳像

AD4世紀のヒエロニュモスは、プトレマイオスがカンビュセスによって運び去られたエジプトの神々の像をエジプトに取り戻し、エウエルゲーテスの称号を得たと書いている。

240年にはセレウコス・カリニコスはエジプトに侵攻したが逆に敗北し退却を余儀なくされている。

 

その子らはまた急いで

セレウコス・セラウヌス(226-223)とアンティオコスⅢ世大王メガス(223-187)に対するもので、「城」というのは、南方に対する最強の砦であったガザのことであろう。この時点からパレスチナはエジプトの支配下に入る。

 

南の王は激高して出て行き

エジプトがパレスチナを再併合するために、アンティオコスⅢ世に大敗北を与えた217年のラフィアの戦いを指す。

 

プトレマイオス・フィロパトールが203年に死去したときに、アンティオコスⅢ世はエジプト攻撃の機会を得た。彼はその目的からマケドニアのフィリッポスV世と同盟を結んだ。このとき、一部のユダヤ人らが預言者の支持を求めながらアンティオコスⅢ世に味方するという事態が発生している。(幻を成就させようと)

 

堅固な街

アンティオコスⅢ世が攻め取ったシドンであり、プトレマイオスの総督であったスパコスが199年にそこで捕虜となった。

 

彼は麗しい地に立ち

アンティオコスⅢ世によるパレスチナの完全征服に言及したもの。

 

その娘を与えて

アンティオコスⅢ世は194か3年に娘のクレオパトラをエジプトの支配を得ようとしてプトレマイオスV世に与えた。しかし、クレオパトラは夫にローマとの同盟の強化を勧めたために、アンティオコスⅢ世の野望は挫かれた。

 

197年にアンティオコス・メガスは、小アジアに侵攻し、次いでトラキアへと渡海した。192年、ギリシアに進もうと努めたが、191年にテレモピュライでローマ軍に敗れ、更に翌年にはマグネシアでより深刻は敗北を喫した。

 

彼はつまずき

アンティオコス・メガスは、ローマに莫大な上納金を科され、それを支払うために東方に赴きエリマイスのベル神殿を略奪しようとしたが、187年に住民の抵抗に遭い、配下の者らと共に殺害された。

その後継者はアンティオコスⅣ世(187-175)となったが、エルサレム神殿から略奪しようとして、却って自らが差し向けたヘリオドロスによって導かれた陰謀により殺害される。即ち「怒りにも戦いにもよらず」死んだ。

このアンティオコスⅣ世エピファネスは「卑しむべき者」と呼ばれ、王座には不適格であったことが強調されている。

 

契約の君

これは大祭司オニアスⅢ世であり、彼は175年に職を追われ、171年に殺害された。

 アンティオコスⅣ世の気前よさはマカベア第一3:30に例証される。

 

彼はまた策略を巡らして堅固な城塞を攻める

リア王はペルシウムと国境の町々に居を構えながらエジプトを支配しようと試みた。(マカベア第一1:19)

 

偽りを語る

アンティオコスⅣ世がプトレマイオス・フィロメトールを破ったとき、アレクサンドレイアの人々はプトレマイオスフィスコンの称号で王座に彼の兄弟を就けた。その後 フィロメトールがアンティオコスの公正無私を信じているかのように振る舞ったのに対し、アンティオコスもフィロメトールのために行動しているかのように装った。

 

アンティオコスは初めてのエジプト遠征をエルサレムユダヤ教(「聖なる契約」)への攻撃を以って終えた。

 

西からの船

ヘブライ語では「キッテムの船」となっている。これはローマの介入への言及である。マカベア第一1:1ではギリシア人を表す名称としてキッテムを用いるのであるが、ハバククについてのクムラン註解でも、この語でローマ人を述べることについてはダニエル書に従っている。LXXは現に「ローマ人」としている。(NEB註解)

 

その後のユダヤ主義者への反対運動は、彼はローマの使者からの要求によってアンティオコスがエジプトを去る原因となったので火を噴いた。ローマからの要求を拒めず、その鬱憤がユダヤに向かった。

 

彼は帰り、聖なる契約に対して憤り、事を行う。聖なる契約を捨てる者を顧みる。

ここにユダヤ人の二つの派への明確な言及がある。ダニエル書とマカベア第一は、はっきりと割り切った見方で分けているが、すべてのヘレニストがユダヤ教を捨てたわけではない。

砦というのは、おそらくは神殿そのもののことで、常供の燔祭は廃止され(cf;9:27)「荒らす憎むべきもの」とされるおそらくはゼウス像が建てられる。

 

民の内の賢い者たち

おそらく、後のパリサイ人の父祖で妥協することを拒否した初期ハシディームへの言及であろう。当初、彼らは消極的な抵抗運動を行っていた(マカベア第一2:29-38)が、もし攻撃されたなら安息日の規定を変更して戦うとしたマカベアから自分たちを区別した。

 

少しの助け

マカベア蜂起のことで、ダニエル書の著者は死に至るまで証しを続けた者たちの忠実さ、共同体のための身代わりの贖罪に参画する者たちによって強く印象付けられている。

 

しかし、終わりは定まった時にある

アンティオコスの死を暗示しているようである。<多分違う>

 

自分を高め、大いなるものとし

敬虔なユダヤ人はエピファネスという名のように、王が自らを神と公言する試みに何ら脅かされなかった。これは最後の冒涜行為となった。(マカベア第一1:24)

 

婦人の好む神

これはタンムズである(cf;Ezk8:14)アンティオコスはローマで人質を経験している。

そして砦(丘陵)の神(ユピテル・カピトリヌス)に頼り、アンティオケイアに壮大な神殿を建立した。彼は地方的な神々をユピテルに併呑させようと目論んだので、アポロンアドニス(タンムズ)のような神々は軽んじられた。その目的には王国の統一があった。非ユダヤ人らは王が神の生ける経路であるとの考えに慣らされていた。また、アンティオコスは自国民が自らを神として見ることに満足を覚えていた。

 

異国の神の民をもって最も強固な城塞に守備隊を置く

ユダヤ人はエルサレムに駐屯する異国民の守備隊の存在を憎んでいた。(Dan11:31/1Macb1:33.14:36)

やがて関心は神の支配の確立に向かう。しかし、エジプトへの推定上の攻撃については歴史の支持はない。リビアエチオピアへの言及はアンティオコスの支配領域は達することについて言うのであろう。

 

北と東からの知らせが彼を驚かせ

これはセンナケリブエルサレムからの撤退を思い起こさせる。

<この辺りでヘレニズム史からまったく遊離している> 

 

海と麗しい聖なる山との間に

これは他の預言に影響されたものであろう。(Ezk37/1Kin19)

実際はペルシアのタバエに於いて、原因不明の病で死んでいる。

 <的外れ>

 

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<12章の註解は荒唐無稽でノートする価値をほとんど感じない>

 印象;「幻を実現させようと」「終わりは定まった時に」「セナケリブを思い起こさせる」「キッテムの船」

 

<エゼキエルと同様に、ダニエルにも「シオン」の語は一度も出て来ない。エゼキエル37章以降と同様にダニエル10章以降には「エルサレム」が出て来ない。黙示録には三度「エルサレム」が出るが、地上のエルサレムを指す意味のエルサレムは無い。また「シオン」は子羊と仲間の立つ天界の場として一度現れるだけである。やはり、多くのキリスト教徒が信じるようにはならず、現エルサレムは終末の舞台とならず、幾らか(数十km)移動するようだ。あの人々はそれを「新しいエルサレム」などと称揚するのだろう。何と愚かな・・これは神の罠だろう。>

 

 

 

 

 

 

 

 

ミシュナの構成

ミシュナの構成 

 

六大区分

1.ゼライーム「種」 2.モエッド「祭事」 3.ナシーム「女」 

4.ネズキーン「損害」 5.コダシーム「聖事」 6.トホロート「清め」

 

  出展-Wikipedia-
◆ זרעים (ゼライーム Zeraim) - 11編構成。祈りと祝福・什一税・農業に関する法を扱う。

・ベラホット Berakhot 祈りの言葉の規則について。9章。

・ペアー Pe'ah 貧しき者に土地の一角を与える(レビ記 19:9-10及び23:22、申命記 24:19-22)ためのミツワーに関連した戒律と、貧しき者の権利一般について。8章。

・デマイ Demai 生産から供せられる聖職者への寄付が定かでない様々な場合について。7章。

・キルアイム Kilayim 農業、衣類、飼育において禁じられている混ぜ物(レビ記 19:19、申命記 22:9-11)の規則について。9章。

・シェビイート Shevi'it 安息年(出エジプト記 23:11、レビ記 25:1–8、申命記 15:1–11)に関する農業と会計の規則について。10章。

テルモット Terumot 祭司に与えられる寄付(terumah)の規則(民数記 18:8-20、申命記 18:4)について。11章。

・マアセロット Ma'aserot レビ族に与えられる十分の一税に関する規則 (民数記 18:21–24)について。5章。

・マアセル・シェニー Ma'aser Sheni エルサレムで食べられるための十分の一税に関する規則 (申命記 14:22-26)について。5章。

・ハッラー Hallah パン生地を祭司に与えること(ハッラー)に関する法(民数記 15:18–21)について 。4章。

・オルラー Orlah 植えた植物をすぐに使うことの禁止(レビ記 19:23–25)について。3章。

・ビクリーム Bikkurim 祭司とエルサレム神殿に贈る初物 (出エジプト記 23:19、申命記 26:1)について。


◆ מועד (モエード Moed) - 12編構成。安息日と祭りに関係する。

・シャバット Shabbat 安息日に禁じられている39の労働について。24章。⇒「シャバットの厳格化の経緯」⇒「安息日の運搬規定

・エルビン Eruvin 運搬と旅のために安息日の領域を変える解釈/概要説明、Eruvもしくは安息日に行動できる範囲について。10章。

・ペサヒーム Pesahim ペサハとその生贄に関する規定について。10章。

・シェカリーム Shekalim 2分の1シェケル(ベカ)の寄進とエルサレム神殿の費用と出費について。8章。<シェケル=4ドラクマ=スタテル貨>

・ヨマー Yoma ヨム・キプルの規定、特に大祭司による式典について。8章。

・スカー Sukkah スコットと祭りの際に用いられる仮設の家(仮庵)について。また、スコットで使われる4つの植物(ナツメヤシの枝、シトロン、ギンバイカ、ヤナギ)について。5章。⇒「スカー篇から

・ベイツァー Beitza Yom Tov (祝祭)において順守すべき規則について。5章。

・ロシュ・ハシャナー Rosh Hashanah ユダヤ暦について、ローシュ・ハッシャーナーの祭礼について。4章。

・タアニート Ta'anit 干ばつ、その他予期せぬ良くない出来事が起きた時の、特別な断食について。4章。

・メギラー Megillah プーリームにおいてエステル記を読むこと、またシナゴーグにおいてモーセ五書と預言書(ネビイーム)を読むことに関する規律と規定について。4章。⇒「メギラー篇から

・モエード・カタン Mo'ed Katan ペサハとスコットの中間日ホル・ハ・モエドについて。3章。

・ハギガー Hagigah 三巡礼祭(ペサハ、スコット、シャブオット)とエルサレムへの巡礼に持って行くべき奉納の品について。3章。


◆ נשים (ナシーム Nashim) - 7編構成。結婚と離婚、誓約に対する作法とナジル人の法に関係する。

・イェバモット Yevamot 未亡人に義務付けられた義理の兄弟との婚姻に関連したユダヤの法レビラト婚 (申命記 25:5-10)とその他未成年のなどについて。16章。

・ケトゥボット Ketubot ケトゥバー(ユダヤ教の婚前契約書)と処女、初夜権、夫婦間の義務について。13章。

・ネダリーム Nedarim 様々な種類の誓約(ネダリーム)と法的責任について。11章。

・ナジールNazir ナジル人の誓約とナジル人であること(民数記 6)について。9章。

・ソター Sotah 姦通罪が疑われた女性(民数記 5)に対するソターの儀式、口語の定型句(雌牛の首を折る時、王の年7回行われる国民へのトーラー朗読、ゲリジム山エバル山などの祝福と呪い)に関する儀式について。9章。⇒「ソーター篇から

・ギッティン Gittin 離婚とその他の文書の概念について。9章。
キダシン Kiddushin 結婚の最初の段階(正式な婚約)とユダヤの家系の法について。4章。


◆ נזיקין (ネズィキーン Nezikin) - 10編構成。市民の商売と刑罰、法廷の機能と誓約について。

・ババ・カマ Bava Kamma 主に損害と補償に関する民事問題について。10章。

・ババ・メツィア Bava Metzia 主に不法行為と財産法に関する民事問題について。10章。

・ババ・バトラ Bava Batra 主に土地所有権に関する民事問題について。10章。

・サンヘドリン Sanhedrin サンヘドリンでの裁判の規則、死刑、その他の刑事問題について。11章。

・マコット Makkot Edim Zomemim (証人)、逃れの町、鞭打ち刑について。3章。

・シェブオット Shevu'ot 様々な種類の宣誓とその法的責任について。8章。

エドゥヨット Eduyot ミシュナーの時代の法的な争いの事例と、その他の色々な賢者とハラーハーの原理を説明する証言の紹介。8章。

・アボダー・ザーラー Avodah Zarah ユダヤ教徒と、(ユダヤ教徒から見て)異教徒もしくは偶像崇拝者との交流の法について。5章。

アボット Avot 賢者の道徳的格言集。6章。

・ホラヨット Horayot サンヘドリンによる大きな過ちのために捧げられる、地域社会の意図的でない罪の贖いのための生贄について。3章。


◆ קודשים (コダシーム Kodshim) - 11編構成。生贄の儀式に関する、神殿と食事の法。

・ゼバヒーム Zevahim 動物と鳥を生贄にする手順について。14章。

・メナホット Menahot エルサレム神殿への様々な穀物を元にした供物について。13章。

・フッリーン Hullin 屠殺と肉の消費(神聖な理由ではなく日常使われる動物)の法について。12章。

・ベホロット Bekhorot 動物と人間の長子の神聖化と贖罪について。9章。 

・アラヒン Arakhin 主に財産をエルサレム神殿に奉納した人と農地を奉納することについて。9章。

・テムラー Temurah ある動物が生贄として捧げられた動物の代わりになった場合についての法の概要。7章。

・ケリトット Keritot 破門(karet)が懲罰となる戒律と、(多くの場合意図的でない)破戒に関連する生贄について。6章。

・メイラー Me'ilah  エルサレム神殿の所有物を不正使用した場合の補償について。6章。

・タミード Tamid 日々の生贄(Tamid)の手順の概要。6章。

・ミドット Middot 第二神殿の採寸について。4章。

・キニーム Kinnim 鳥の生贄が混ざった場合に対する複雑な法について。3章。


◆ טהרות (トホロート Tohorot) - 12編構成。祭儀的な潔・不潔等の法に関係する。

・ケイリーム Keilim 様々な器の宗教的な意味での純潔さと不潔さについて。30章(ミシュナーの中で最長)。

・オホロット Oholot 死体の穢れと、同じテント型構造の中の物にその不潔さの影を落とす独特の性質について。18章。

・ネガイーム Nega'im  ハンセン病に関する法について。14章。

パーラー Parah 生贄に用いる赤毛の雌牛に関する法について。12章。

・トホロット Tohorot 様々な純潔さに関する法、特に不潔さがうつる実際の仕組みと、食べ物の不潔さに関する法について。10章。

・ミクヴァオート Mikva'ot  ミクワーに関する法について。10章。

・ニダー Niddah Niddah(月経周期にあるか産後間もない女性)について。10章。

・マフシリン Makhshirin 食べ物が濡れた後に、何か不浄なものに接触して穢れたことを宣言するためのルールについて。6章。

・ザービーム Zavim 射精と淋病について。5章。

・テブール・ヨーム Yom  ミクワーに入ったにもかかわらずその日の残りは清浄でない、特別な種類の穢れについて。4章。

・ヤダイム Yadayim 手の汚れと清め方について。4章。

・ウクツィーン Uktzim 果実と茎の関係。両者が互いに対して穢れをもたらすことについて。3章。

 

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ミシュナーの哲人の時代
第1世代: Rabban Yohanan ben Zakkai's generation (circa 40-80 CE).
第2世代: Rabban Gamliel of Yavneh, Rabbi Eliezer and en: Rabbi Yehoshua's generation, the teachers of Rabbi アキバ・ベン・ヨセフ.
第3世代: The generation of Rabbi アキバ・ベン・ヨセフ and his colleagues.
第4世代: The generation of Rabbi en: Meir, Rabbi en: Yehuda and their colleagues.
第5世代: Rabbi イェフーダー・ハン=ナーシー's generation.
第6世代: The interim generation between the Mishnah and the Talmud: Rabbis Shimon ben Judah HaNasi and Yehoshua ben Levi, etc.

⇒「タナイームとミシュナー」 

 

 所見;以上の区分けで分類されているが、実際に目を通すと、表題に近い別の事柄や、余り関係なさそうに見える部分も散見される。

多くの部分では「ラビ・何某は言った」という列挙が多く、結論を出していないところが多い。タルムードでは更にそれにゲマラが付き、様々な観点が加えられるので、律法の条項ひとつにも各種の検討が加えられ、相当な量になる。

⇒「ユダヤ人にとってのタルムード

従ってラビたちの発言集という体裁であるように見える。そこはミクラーほどの権威を自ら認めなかったからかも知れない。

それから、以上は口頭伝承への付け加えのようで、この何倍もの分量があったものをハナシーが大鉈を振るって短くしたもので、削除された部分を復活させる動きもあり、バライタやトフセタの名目で補完されている。

総じて律法をどう守るかという、ユダヤ教徒の務めによる義のための便法の列挙になっている。中にはあからさまな異邦人蔑視が見られ、これでは聖書のように世界から受け入れられる素地はない。ユダヤ教徒自身も世界に向けて誇るのは憚られるのではないか。

 

⇒「スピノザの立場

⇒ 「ユダヤ教徒の祈りへの認識

 

 

捕囚期年表(再掲)

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まず時代感覚としては ヒゼキヤ 前740-687

に対して キュロス 前600-529 イザヤの預言から180年ほど

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<627>アッシュール・バニパル没

<625>ナボポラッサルがバビロン王を宣言

<616>バビロニアはメディアと同盟しアッシリアに対抗する

<612>ニネヴェ陥落

<610>ハラン陥落

<609>アッシリアの滅亡、ヨシヤの戦死、エホアハズ23歳で即位(在位3ヶ月)

<608>エジプトのネホによるユダヤ占領 エホヤキム即位

<605>ネホとネブカドネッツァルによるカルケミシュの戦い

ナボポラッサル没、ネブカドネッツァルの即位年
エホヤキムの第三年バビロニアエルサレム侵攻(Dan1/Jer25&46は第四年)

シリア方面はバビロニア勢力下 ダニエルらの(第一次)捕囚

<604>エホヤキムの第四年、ネブカドネッツァルの第一年Jer25:1
「ヨシヤの13年から23年間」経過、この年エレミヤに七十年が示されるjer25エレミヤの預言はバルクによって文書に筆記される

<603>ネブカドネッツァルの第二年、巨大像の夢Dan2
エホヤキムの第五年冬、エレミヤの書が焼かれるJer36:9-

<598>ネブカドネッツァル第七年の西方攻略再開

<597>エホヤキム治世11年で薨去、エホヤキン18歳で即位へ2king23-24 
バビロニアエルサレム侵攻3023人捕囚Jer52:28 エホヤキン・エゼキエル(第二次)捕囚 Ezc40によると流刑の始まり、

<597/6>ネブカドネッツァルはゼデキヤを21歳で即位させる(第一年?)

<595>プサムティコスⅡ世即位

<593>ゼデキヤの第四年、エレミヤは捕囚民に書簡を送る 第五の月に偽預言者ハナニヤの預言にエレミヤは対抗する jer28:1-

セラヤにバビロン失墜の預言の書き付けを託すJer51:59
エホヤキンの流刑の五年目エゼキエルに預言が臨み始める

<592>エジプトのヌビア遠征にユダは軍を助勢、エゼキエルはエルサレムの堕落を幻視

<591>エゼキエルは年長者に答えるEzc20

<589>ゼデキヤのバビロン訪問、エジプトでアプリエス即位

<588>パレスチナ諸国のバビロンへの反乱
ゼデキヤの第九年第十月十日、エルサレム攻囲開始Jer39・51&52 Ezc24

<587>ラキシュ陥落、エゼキエルはエジプトに預言
エルサレム攻囲下「ゼデキヤの第十年、ネブカドネッツァル第18年」エレミヤの拘束jer32

 

<586>ゼデキヤの第11年第四月九日一年半の攻囲の後エルサレム城市陥落jer52:6、ネブカドネッツァル第19年Jer39・52/2kng25 (ウィリアムF.オルブライトはゼデキヤの治世の始まりを紀元前598年とし、ERティーレは紀元前597年とする*;本表はティーレ説に基く)

5月7日ネブザラタンの到着で神殿とエルサレム破壊2King25:8-9/Jer52:12
823人の捕囚Jer52:29 エゼキエル「流刑の第12年」Ezc33 (エドムは利得を貪るPS137)

<585>アステュアゲスⅡ即位、皆既日食によるハリュス川からの撤退と和議

<582>ミツパの反抗

<581>ネブカドネッツァル第23年745人捕囚Jer52:30

<576>アマシスがアプリエスからファラオ位を簒奪

<573>テュロス13年の攻囲の後に島嶼都市も陥落 (Ezk27-28)

<572>Ezc40「都が倒されて14年目、流刑の25年目」第三神殿の幻

<562>ネブカドネッツァル崩御

<561>エビル・メロダク即位12月バビロニアの凋落

<560>エホヤキンの流刑37年で優遇を受けるjer52:31

<559>ネリグリッサル即位、-556迄

<556>ラバシ・マルドク即位するも三か月後に暗殺

<555>ナボニドスとベルシャッツァル即位、ウルのジッグラトの再建

<554>ベルシャッツァルの第一年、ダニエル「四頭の獣」の夢

<553>ナボニドスはシリア方面遠征に着手

<552>ベルシャッツァルの第三年、「雄山羊と雄羊」の幻

<550>キュロスのメディア統合

<547>アマシスはリュディア、バビロニア、スパルタと同盟
プテリアの戦いの後、キュロスはリュディアを征服

<539>キュロスによるバビロン征服(ダレイオス第一年)神殿破壊から47年目

ダニエルは七十年を知り、悔悟と請願を祈り 70週の啓示を受ける

<537>キュロスの第一年、神殿再建勅書と帰還事業、

帰国民団はヨム・テルアにはパレスチナ到着、スッコートの祭り

祭壇での常供の祭祀の一部再開 

<536>イッヤール、第二神殿定礎  神殿破壊から50年目

<535>キュロス第三年、ダニエル最後の啓示を受ける
第一次捕囚(エホヤキム4年)開始から七十年 ダニエルは80歳代半ば以上

<529/530>北方戦線でのキュロス大王の戦死、カンビュセスⅡが単独王

  以後神殿再建は周辺諸民族の反対により停滞

<522>ガウマタを倒してダレイオスⅠ世が即位

<520>ダレイオスの第二年 ハガイとゼカリヤの預言の開始[Hag1:1]
第二神殿の造営の再開[Hag1:12](586から66年目)

<518>ダレイオスの第四年「第五と第七の月の断食を行って70年」実際は68年Zec(エレミヤの七十年を含意)

<516/5>ダレイオスの第六年アダル3#、第二神殿の完成 Ezr6:15
定礎から20年、第一神殿破壊から70年 #このアダル3をグレゴリオ暦で換算すると515年2月3日水曜

<515>ダレイオスの第七年ニサン、第二神殿の奉献、祭司組任命、ペサハ#、ハグ ハマツォートの再開、神殿祭祀による律法体制の復興 #G暦BC515年3月15日月曜

 


Edwin R. ThieleはBC586をゼデキヤの支配と神殿の終りと見做すが

エレミヤと一致。ネブカドネッツアルの第19年 BC586(列王第二25;8/エレミヤ52;12)


William F. AlbrightはBC587と見做す 違いはゼデキヤの第一年の認識にあると*

ヨセフスのネブカドネッツアルの第18年 BC587(アピオーンへの反論)と一致

(上記二人の学者は、サマリア滅亡の年でも一年相違した主張をしている。オルブライトはイスラエル王国の滅亡を紀元前721年としているが、ティーレはその日付を紀元前723年とする)

 

総督ネブザラダンの到着はエルサレム陥落の翌月
但し、神殿祭祀がいつまで行われていたかは不明
加えて、神殿再建の月がアダルであったために、祭祀復興までにグレゴリオ暦では同じ年でも陰暦では一年跨いでいることも注意する必要がある。

 

アリヤーの完了、総督ゼルバベルの帰朝 スーサへ
⇒「アリヤー・ツィオンの残りのもの

⇒ 「アケメネス朝期のユダ帰還事業
------------------------------

「諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えることになる」
「七十年が満ちたとき、バビロンの王と民に責を問う」Jer25:11-12
「七十年が満ちるときそなたらを思い起こす」jer29:10
  この句は、七十年の終了時を指していないことになる
エルサレムの荒廃の終るまでの年数・・そこに七十年とあり」Dan9:2
  ダニエルはユダの荒廃とは解さなかった
  また、悔悟と請願では聖なる山に昔日の栄光を求める
「七十年このかたなれは責められた」Zec1:12
「断食を以って七十年に及んだが」Zec7:5
  68年目で言われているのでjer29:10と関連する
「ペルシアの王が治めたるまでその僕たり」
「其はエレミヤによるヤハウェの言葉を成し安息を満たさんが為」
「安息の内に荒廃せし間は七十年となり」2Chr36
  異国の僕であった事と安息とは必ずしも同義と言えない

「彼らはその下僕となるのである。それは彼らがわたしに仕える事と地の諸国の王に仕える事との違いを知るためである」2Chr12:8

 レホベアムの代になってシシャクの占領を経験することについて


エゼキエルの捕囚の開始からキュロスの勅令まで60年(597-537)
しかし、これはゼカリヤに描かれる当時のユダヤ人の認識と一致しない。しかしエズラは「70年を満了した」という。


エズラは、キュロスの勅令を引き合いに出し、神殿の再建と荒廃の終りを結び付けている
メシア・キュロスの勅命の目的は帰還ではなく神殿祭祀の復興にあった。
ゼカリヤは、破壊から七十年ほど再建の進まない状況で断食をどうするかについての民の判断保留を記している
双方を総合すると、単に住民が戻ることが七十年の終りを意味しない
また、どれほどの期間にわたり別の王朝に仕えたかも意味は薄い
しかし、神殿の再建と祭祀の復興については別格の扱いをしている

以上をまとめると ↓

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キュロスの征服からメディアのダレイオスの寿命と再建反対による遅延で七十年が満了している
神殿祭祀再開の意義 ⇒ レヴィ・ザドク
エルサレム(シオン)の荒廃との関係 ⇒ イザヤ
ダニエルはキュロスの第三年に最後の啓示を受けるが、前年に神殿の定礎が為されているにも関わらず「70年」の満了について何も語っていない 

キュロスの勅令は神殿の再建と祭祀の復興にあったが、それは依然途上であった
帰還はアリヤーであって単なる再定住ではなかったのでは?もし人が住んだか否かの観点だけ歴史を探ると年代も合わず、価値の上で得るものがほとんど無い


では、城壁の再建の意義は

エズラの終わり方は、エレミヤより後にまで引っ張っている。これは著者の年代を明らかにするかのような
エレミヤ自身、70年の成就を見なかったので、だれかがそれを証しする必要があったか
70年の場合はエズラ、69週についてはルカがいる(最後の1週には謎有)

やはり『咎を終らせ、罪に終りを告げ、不義を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言者を確証し、ハコデーシュハコダーシム#に油を注ぐ』ことはイエス後も終わっているとは思えない。それは新しい契約の終了を言い表しているのでは?つまりメシアの到達するべき目的で、終末まで持ち越される。#(原語では至聖の建物とも人ともとれるRev11:1)(ダニエル最後の一週の謎 ↓)

ダニエルの七十週への補足 最後の一週の分割 - Notae ad Quartodecimani

至聖所が機能するのは贖罪の日ではないか


そうなると70年と70週は相関関係にあり、少なくともゼカリヤはそれを示唆する それまで至聖所が存在しなかったのであるから、スッコートは行えたとしても祭司も民も贖罪が無かったことになる この期間の祭祀はどうなっていたか?
そこで王冠を戴くエシュアの役割が大きく、ゼルバベルと共に二本のオリーヴとなるか キュロスの目的を果たすために不可欠な二人は消えかけた灯火のようになっていた事業に油を供する
残されたのは1週ではないのかも知れない それなら合点がゆく
それなら締結される(保つ)契約とは明らかに律法契約ではないし、その民は血統上のイスラエルではないことになる(その方が理に適う)
メシアは未だ至聖所での贖罪を行っていないことになり、新しい契約は70週の終りにまさしく終わるということか?・・・・・・・・

(出埃とアリヤーとは対を成すように語られている では契約は?)


では、『神の子』は何を以って罪を許されたか? 至聖所が存在して初めて祭司の完全な贖いが行われるか? 実際それまでは祭司の聖別はできなかったエシュア・ゼルバベルの状況に整合する。それでエホハナンは神殿を測る幻を見たか?
第一神殿の破壊によって第一の契約による祭祀は停止したと観る場合、70年の停止期間を経て71年目に再興を見た これは律法契約に属する。(だが、この回復には相当な含蓄がある)


しかし、それが仮のものであれば*、真実な祭祀の復興は70週の後になり、そこで真の至聖所が存在することになり、その秋の祭りも贖罪の日を伴うものとなる これは新しい契約に属し、なお将来にヨムキプルとスッコートの対型的成就があることになる。しかも、それを祝うのは血統上のイスラエルではなくなる(Zec14:16-19)*アーロンハヴリートとウリムヴェトンミムは戻っていないが、黙示では奥義の終了後に前者を見ている


聖徒が神殿を構成するのであれば、これは70週を完全に終わらせる必要がある。(天への聖徒の召しがそのまま祭司らの贖罪ではないらしい。それで黙示には雲に遮られる場面があるのか?)

要約 ↓

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すると1260日は70週の中に組み込まれ、1290日は1335日と共に1260日の延長上でなく別ものなのか?これは誰の「幸い」を言うのか?天への召しが確定であれば、この「幸い」は地上の者ということにならないか?
最後の晩餐の席で、既にキリストの栄光は決しており、十二使徒らへの聖徒の吟味の権威が確定していたのであれば、70週からいくらか延長されても不思議はない。無酵母パンのアツェレトからシャブオートまで50日在った。イエスの帰天から10日有り、1260日から75日、1290日から45日有ってもそう違わない。30日後と更に45日後に何かあるということらしい。(なぜ「七週の祭り」なのか?)

そこでダニエルにまず『七週』というのがシャブオートに関係することが暗示されていることは分かるのだが、まだ実体が見えない。

1260日に40日を加算すると1300日にはなるが、ダニエルの70週の預言からするとメシアが絶たれた後の日数を数えていない。これはダニエルもヨハネも考慮外にある。

 

しかし、年代信仰も科学信仰の一部に見える、文字や文法への拘りも似ている 理性で捉えようとして却って外れる。字句と数値の厳密な照合に拘るのが聖書読者に求められていることだろうか。聖書そのものが記述を絶対視する者を拒絶しているのは明らかである。また、そもそも聖書読者とは何者を想定しているのか?


重要な点は、第二神殿の定礎から再建と祭祀の完全な復興までの20年間のエシュアと祭司団の聖別されるべき立場はどのようなものであったのか・・ということになる。そこでヨム・キプルが行われたという記述が見当たらない。むしろ帰国民は無頓着であったようだ(ハガイ)


その状況では、エシュアも祭司団もその血統に属するという以外に立場の根拠を持たなかったということになる。おそらくヨム・キプルの贖罪を行ってはいなかったろうし(「身を清める」とは異なる)、契約の箱はもちろん至聖所さえ存在していなかった以上、聖別は不可能であったことは間違いない。
それでも、金冠は象徴としてエシュアの頭上に置かれた。

 

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終末に現れる者らの表象と角色

 

・反キリスト [ 'αντίχριστος ]

出;ヨハネ第一×4、『イエスと父を否むもの』『来るであろうとあなたがたが聞いていた』『今でも多くの反キリストがいる』

ヨハネ第二×1『キリストが肉体で来たことを告白しないもの』⇒仮現説のグノーシス

Mt24:11「偽キリスト」

アンティ・クリストは、キリストに対立するの意味のほかに、キリストに成り代わる者の意あり。

 

 

・不法の人 [ ἄνθρωπος τῆς ἀνομίας ](S)

出;2Th2:3=「滅びの子」=Jh17:12

Mt24:12『不法[ανομίαν]が増すので人々の愛は冷える』

出展は聖書中1個所のみ、しかしヨハネがユダ・イスカリオテとの同義を指摘

同節で『背教』の到来に言及

不法[ανομία];iniquity 12, unrighteousness 1, transgress the law + 4160 1, transgression of the law 1; 15 1) the condition of without law 1a) because ignorant of it 1b) because of violating it 2) contempt and violation of law, iniquity, wickedness  

背教['αποστασία]; to forsake + 575 1, falling away 1; 2 1) a falling away, defection, apostasy  

パウロは2Timでも人心の乱れを終わりの日の事象に挙げているが、『これらの者から離れよ』とも『崇拝心に本質のない者となる』とも記すので、これは世相を言うのではなく、より深刻な事態を指している。この観方からキリストの終末預言の『不法が増す』の句も読まれる必要がある。

 

 

・偽預言者 [ ψευδοπροφηται ](P)

 Mt7:15;羊の覆いを被って来る貪婪な狼、24:24偽キリストや偽預言者が多くを惑わす Mk13:22偽キリストや偽預言者が選ばれた者さえ惑わそうと 『実によって見分けるべき』 Act13:6偽預言者バルイエス 2Pet2:1分派をもたらす 1Jh4:1多くの偽預言者が世に出た、霊感は試すべき Rev16:13神の戦争に集める Rev19:20野獣の像を崇拝する者らを惑わした 存続期間はGBよりも延命する Rev20:10 野獣と偽預言者はサタンに先立って滅亡の湖にいる 

多くの箇所で複数であるのは、非常に示唆的である。それは単にあちこちから現れるという意味だけではない。

 

 

・大いなるバビロン [ Βαβυλὼν ἡ μεγάλη ] 


Rev14:8あらゆる国民に淫行の葡萄酒を飲ませた 16:19巨大な都市は三つに裂け神の怒りの葡萄酒を飲む 17:1-6王たちを淫行を行い多くの水の上に座る 野獣の上に座す紫と緋を装う冒涜の女 娼婦たちと地の嫌悪すべきもの*の母 聖なる者らの血に酔う 18:2倒れ悪霊のこもる場所となった

最終警告の「七つの鉢の災い」が終わる段階でまだ存在している

大河の水量を失うところで、残るのはその体制に頑迷にしがみ付く組織人であり、大多数の人は去っている 

*['ο βδέλυγηα]=[ το βδέλυγμα τῆς ἐρημώσεως]Mt24:15

特徴;諸国民への誤導、政治との癒着、大衆支配、支配権の装い、聖徒の犠牲を祝う、悪霊の巣と化す、聖徒の犠牲の倍の報復を受け諸国の権力により短期間で滅亡する

「彼女の高官である旅商人(エンポロイ)」;政治に関与する部分(宗教的政党?) 

「水夫、海で生きるものら」;末端の宗教教師、神秘家、易占業者など

 

・荒らす憎むべき者 [βδέλυγμα τῆς ἐρημώσεως]

Mt24:15ダニエルの語ったものが聖所に立つを見たなら=Mk13:14

Dan9:27憎むべきものの翼の先端*には荒らすものがいる

Dan11:31腕が聖所と砦を汚し常供の犠牲を廃し荒らす憎むべきものを据える

Dan12:常供のものが廃され荒らす憎むべきものが据えられてから1290日がある

[שִׁקּ֣וּץ];abomination アモリ人の慣行への嫌気など<呪い、偶像崇拝等>

<上記GBの子らに「嫌悪すべきもの」と有り>偽預言者と偶像か

Deu7:25-26では、諸国民の彫像を「嫌悪すべきもの」[שַׁ קֵּ ץ ]としてイスラエルの家庭に持ち込まぬよう規定している <ここからすれば、「嫌悪すべきもの」とは偶像(また異教慣行)を含意するとも言える>

וְלֹא־תָבִ֤יא תֹֽועֵבָה֙ אֶל־בֵּיתֶ֔ךָ וְהָיִ֥יתָ חֵ֖רֶם כָּמֹ֑הוּ שַׁקֵּ֧ץ׀ תְּשַׁקְּצֶ֛נּוּ וְתַעֵ֥ב׀ תְּֽתַעֲבֶ֖נּוּ כִּי־חֵ֥רֶם הֽוּא׃ פ

Jer32:34によれば、まず間違いなく偶像を意味している

וַיָּשִׂ֣ימוּ שִׁקּֽוּצֵיהֶ֗ם בַּבַּ֛יִת אֲשֶׁר־נִקְרָֽא־שְׁמִ֥י עָלָ֖יו לְטַמְּאֹֽו׃

これはマカベア記第一1:54でも用いられており、動かし難い

*「翼の先端」おそらくは物事の行く先or結果

YHWHの怒りの日を述べるEzk7:22はAD70の予告のように読め、それはヨセフスが語るところとなった。

この者が権勢を窮めて後、七つの鉢の災いが下ると見るべき理由は多い。

 

・マゴグの地のゴグ [ גֹּוג֙ אֶ֣רֶץ הַמָּגֹ֔וג 

Ez38:2-

ゴグの正体は客観的には追求不能ながら、その角色からすれば同定は難しくない。ゴグそのものはマゴグという地を故地とするが、これを地理的に探る努力は水泡に帰すことになる。これは実際の地方を指してはいない。ただ、ゴグの「故地」である。黙示録で同じ角色を持つものはゴグそのものではなく、その「故地」の方が語られている。(黙示録に現れる『ゴグとマゴグ』とエゼキエルで語られる『マゴグの地のゴグ』とは角色において同じではあるが、実体は別ものである)

したがって『お前の地』また『北の最果て』とは地理的方向を指さない。この句と『ロシュ』[ראש]からロシアとするのは、この秘儀への罠であり、かなりの人々が現にこれを信じている。⇒「文語訳に現れるロシ」この罠は、地上のエルサレム(エレツ ネゲヴ)への誤解を呼び起こすことで、まさしくゴグがゴグとなるための神の布石となっている。しかし、自身がゴグだとは思わず、別の者をそう呼ぼうとするのであろう。そこでダニエル12:4は良い意味で語られていないようである。 <ゴグを来たらすのは、このゴグの記述そのものとなり得る>

マゴグは集団と見てよく、聖所を汚す者らに敷衍される。⇒ アヴァスターのmag または mayu に由来するなら、東方の三博士とマゴイの関わりに共通性がある。Rev12:1は三度目を示唆している蓋然性も生じる。Ezcは最初のマゴイの関わりを暗喩しつつ、第三のマゴイを予告しているかも知れない。⇒ マゴグの地のゴグ

 ・北の王 [ מֶ֣לֶךְ הַצָּפֹ֔ון ] 

ダニエル書第11章の黙示(キュロス3年)に現れる南北で対立する王朝の一方

ダニエル書の記述の流れからしセレウコス朝を指しつつ、それだけでは収まらない記述が混在している。⇒「ダニエル11章

特に『契約』との関係性に特色があり、常に逆らう姿勢を示す。

南(negev)の王と『争い』[יִתְנַגַּ֤ח]多くの土地に侵入し『飾りの地』にも侵入する。軍備が非常に多く南の王や諸国を圧倒する。

取るが、急を告げる知らせに慌てて『飾りの地』を滅ぼし尽くそうとする矢先に突然の滅びに面する。⇒「二度救われる女

「終末の北の王」

[מִלְחָמָ֔ה]「戦争」(Dan9:26)とは言わない理由?

「南の王」[מֶ֣לֶךְ הַנֶּ֔גֶב]は掛詞の意味か

 

小さい角  [ פינה קטנה ] [ Μικρή γωνία ] 

ダニエル書第七章(ベルシャッツァル1年アラム語)以降に現れる獣の幻に一貫して現れる表象であり、『第四の獣』に属する十本の角の間から生じ、他の三本を引き抜く。これには人の目があり、大袈裟な事を語る口がある。D7:8

はじめは小さい角であるが、後に他の角よりも大きくなっている。D7:20  この角は『聖なる者ら』と戦って勝利する。同21 cf;Rev13:7

語る大袈裟な事とは至高の者への逆らいの言葉であり、『聖なる者ら』を絶えず悩ます。この角は『時と法を変えようとし』聖なる者らは『一時と二時と半9時の間その手にわたされる』25

 ダニエル書第8章(ヘブル語)では一角の山羊から出た四本の角の一つから『小さい角』が現れる8:9 これは『天の軍勢にまで達するようになり、一部を踏み躙る』また『常供のものが(違反のため徐々に)取り去られ』『聖所は打ち捨てられる』また南と東に侵攻し「飾りの地」にも向かい天軍の幾つかと星の幾つかを地に落とす。8:9-12

 

8:23 一人の王 自力でなく強大となる 『人手によらず砕かれる』8:25 

それから神に裁かれ支配権を失い、滅ぼし尽くされる。26

<第七章の四野獣と歴史上の相違が出るのだが、却ってこれは第11章の解き証しに証明を与える印となり得る>

 

 

・七つの頭を持つ野獣  [ θηρίον με επτά κεφάλια ] 

Rev13 聖徒攻撃のために悪魔が呼び出す権力の集合体

野獣の概念はダニエル書後半で繰り返されるが、黙示録には七つの頭を持つ野獣と子羊に似た野獣が登場し、七つの頭を持つ野獣についての『像』を作り、それを生きたものとするのが子羊に似た野獣の仕業となる。

ダニエル書の四頭の獣の概念を黙示録では七の覇権に拡大しており、それらを同時に具現する『だれがこれを戦い得るか』と言って人々が驚嘆するこの七つの頭を持つ野獣は、史上現れたことのないほどの権力を持つ。

人類の権力を合わせるほどの権威は過去に一度だけ登場しかけたことがあり、それはシュメール文明期に人類統一政府の野望を達成しかけて神の介入により挫折したニムロデの政権が挙げられる。そこで屠られた頭のひとつとは、唯一直接に神の裁きを受けていた第一の覇権シュメールを指すと思われる。

終末にこれは『奈落の底から這いあがり』*それまでどの覇権も得なかったほどの権力を以って『神の王国』の支配権を有する『聖なる者ら』と対峙し、迫害し、遂にまったく勝利を収める。しかし、その活動期間は『42ケ月』に限定されており、聖徒を滅ぼすと直ちに姿を消すことになる。

しかし、その十本の角はその後も存在し、やがてこの獣は『像』となって政祭の頂点に上る。

*この表現は遥かな時間の隔たりについて用いられている。cf;ニサン14夜の滅び、AD33のシャヴオート

 

・二人の証人 [ Δύο μάρτυρες ]

Rev11 終末の『1260日』(42ヶ月/三年半)『粗布をまとい預言する』即ち『聖霊によって語る』『聖なる者ら』

彼らが奇跡を行う姿、また神の崇拝の復興に携わることは三つの二人組によって示される。(エリアとエリシャ、ゼルバベルとエシュア、モーセとアロン)

彼らは七つの頭を持つ野獣によって死に至らされるが、それは彼らを地上で練り清め、世を糾弾して殉じキリストに続く者として認められる。彼らの滅びは世の反対者、特に宗教関係者に喜ばれるが、それは『三日半』という僅かな間に過ぎず、また幾らかの残った聖徒らは、一時に地上から姿と消して死体も残さず天界に召されるために、この世を震撼させ、その激震も印として示される。Hgi2

キリストの声を聞いて死人が蘇るというのは、この時の聖徒の天への召集を表す。ゆえに『第一の復活』では生前の行いが問われることになる。

 『わたしの名のためにすべての人に憎まれる』Mt24:9

 

・蝗 [ אַרְבֶּ֔ה ] [ ἀκρίδες ]

黙示録では天から降った[πίπτω]星で表される者に与えられた『底知れぬ深み』[ἀβύσσος]の鍵を解くことによって登場する。(その以前に煙は出ている)

ヨエルに似た預言があるが、こちらはあのペンテコステからしばらくの間に成就しており、ユダヤ体制を暗くし蝕んだ。

同様の事態がキリストの再臨によってもたらされるが、この蝗害はまず地上の全体への苦痛を与えるものとなるが、実際の昆虫としての蝗の寿命『五か月』という限定された期間に限られ、蝗害がそうであるようにいずれはまったく去って行く。

これは聖徒の表象であるので、王冠とライオンの歯を持つ、彼らには義が仮承認されているため鉄の胸当で心は守られる。尾と針は、その影響を後にしようとする者、無視するものにとって耐え難い苦痛を与える。これはヨエルの預言のようにユダヤ教固執した者らがかつて使徒らによって味わされた感覚でもある。

彼らの主人であるアバドンは出エジプトに登場しており、その働きによって結果的にレヴィの選びに到達している。⇒ヘブライ

 

・騎兵の軍隊 [ στρατευμάτων τοῦ ἱππικοῦ ] 

蝗によく似た姿を持つが乗り手を伴い、滅びの象徴の三色(特有)、無視して通り過ぎる者を害する蛇の尾を持つ。権威が口と尾とにあるのは、彼らの発言が裁きに至ることを表す。

これら二億もの騎兵を導き出すのはユーフラテス河畔を解かれる四人の使いであり、蝗ではなく、おそらくはアリヤー・シオンの残りの者に相当

この騎兵が攻撃するのは地の三分の一であり、それを『殺す』。⇒Rev19:9

その時点で蝗害は去っている。蝗を葬ったのが三分の一だからであろう。従って、蝗の報復を三分の一に対して行うことになる。

GBではなく『三分の一』に対する行動であるところが『十本の角』と異なる。『三分の一』がGBではないところは、ラッパの黙示に表れている。

 

・十本の角  [וְקַרְנַיָּ֣א עֲשַׂ֔ר ]Da7:24  [ δέκα κέρατα ]Rv17:12

ダニエルの第四の獣に属するもの、また黙示録での七つ頭のある龍にあるもの、同じく、海から上がり、『底知れぬ深み』[ἀβύσσος]から呼び出される野獣に属する。黙示録での『十本の角』は『七つの頭を持つ野獣』と共に終末に於いて王の権威を持つことになる者らを表す。

この者らは『大いなるバビロン』を直接に滅ぼす権力を行使する。そのときに『七つの頭を持つ野獣』が存続しているかは不明。

『これらは一つの考えを懐き自分の権威を野獣に与える』の『野獣』が曖昧な語であるのは、元の『七つの頭を持つ野獣』が姿を消して『像』に入れ替わっている可能性がある。cf;Dn7:12

 

・忠実で思慮深い(奴隷・家令)

[ὁ πιστὸς δοῦλος καὶ φρόνιμος(単数)]Mt24:45

[ὁ πιστὸς οἰκονόμος ὁ φρόνιμος(単数)]Lk12:42

キリストにより語られた時点では何者であるか、聖徒か信徒かも不明。

婚宴から戻る主人を待ち続けることにより忠実を尽くす奴隷の頭、または家計を司る家令で、家の奴隷たちに定時の食事を与え、準備を怠らない。

主人は予期せぬ帰宅をすることが強調されており、それを待たない誘惑が強いことが警告されている。

主人の帰宅を相応しく迎えるなら、異例の厚遇を受け主人の持ち物の一切の管理を司ることになる。

富者の家で会計担当の家令(オイコノモス)は、まず間違いなく一人である。だが、これを理由に終末での相当者が唯一人であるかは不明。

 

・シオン [ צִיֹּ֖ון ] [ Σιών ] 

元来はダヴィドの街となったエルサレムの乗る岡の名称。

ネイヴィームによって「回復の預言」の象徴ともなるが、律法契約の不履行により荒れ塚となって後、奇跡的復興を遂げる。子を失い、夫に去られた女として預言書に語られ、アブラハムの妻をも暗示されるが、やがて多くの子らと夫たる神YHWHが帰り、再びその名を置く処となる。

やがて王権も伴うようになり、終末が進むと諸国民が流れのように向かう。

イザヤによれば、この世に暗闇が覆う時に目ざめ、神に光明によって輝き始める。そこに子らが四方の国々から集められ、この女の許に参集してくる。

荒れ果てた寡婦であったこの女そのものは栄光を受け、諸国の宝物が運ばれ、新たに改善されて新しい名で神から呼ばれる。

二度の危機があるが、どちらからも保護される。

終末でこのシオンは地上に存在する神殿を伴う街と歪曲して解釈され、しかも、実際の場所から幾らか離れた広く高い土地に『新しいエルサレム』として新設される恐れが考えられる。

 

・太陽と月と星で装った女 Rev12:1

[γυνὴ περιβεβλημένη τὸν ἥλιον, καὶ ἡ σελήνη ὑποκάτω τῶν ποδῶν αὐτῆς καὶ ἐπὶ τῆς κεφαλῆς αὐτῆς στέφανος ἀστέρων δώδεκα]

天空の光をまとう。妊娠の苦しみにあるが遂に子を産み、悪魔の策略を排して子は神の許に納められる。

天空に現れた幻ではあるが、地に堕ちた悪魔の攻撃に曝されるので地上のものである。悪魔の攻撃からは地の援助を受け三時半は猶予される。その保護が解かれる時、それは大患難の始まりを画するが・・

明らかにイザヤ書の女シオンであり、黎明から覚醒して聖徒を生み出し、聖徒の活躍中は保護を受け、聖徒を支援する機会を得る。

 

・七つの頭を持つ龍 [ δράκων ] 

火の色で、七つの頭に王冠を戴き、十本の角を持つ。Rev12

黙示録では『原初からの蛇』が悪魔であることが明瞭に暴露される。

天界での天使長ミカエルとの争いに敗れて地に落とされる。

天界の印である『女』が子を産むところを襲って、その子を食い尽くそうとするが失敗し、『女』を攻撃することにも失敗する。そこで『聖徒』である『女の裔で(地に)残っている者ら』と戦うが、そこで七つの頭を持つ野獣を『海』(cf;Is57:20)また『底知れぬ深み』[ἀβύσσος]から、呼び出し42ヶ月活動させ、最終的に『聖徒』に勝利する。⇒Dn7:25/8:24

その直接の手先となるのは小角であり北王から興る。Dn8:24

 

・ミカエルとその使いら[Μιχαήλ καί οι ανγγελοι]

ダニエル書の天使長ミカエルはペルシアの君を抑えることができる。

また、ミカエルは終末の聖徒らの復活に際して決起する。それに際して、或いはその直後に聖徒の復活と裁きが起る。地上の聖徒らの召しが伴うかは不明。

黙示録では聖徒らの登場に際してその使いらと共に悪魔とその一党と天で争い、優勢となって一味を地に放逐する。

これは聖徒の全容が生み出され、サラの出産が終わったことに関連する。

黙示録での『ミカエルとその使いら』は天界のサタンに組みしない天使らの勢力を表すのであろう。しかし、御子の戴冠はまだ先になる。Ps2:1-

黙示録でのミカエルと仲間の悪魔一党への戦いは天界の趨勢を変えるが、ダニエル書ではその直前に北王とその連合(七つ頭の野獣)の瓦解が起っている。おそらくはそれがきっかけとなって黙示録の野獣の偶像化が起る。したがって、黙示録のミカエルの戦いはダニエル書のミカエルの決起に先行している。

 

 

 

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ここから下は今では随分間違っていると思う・・

だが、余裕なく面倒で直せない

 

?七つの頭を持つ野獣の以前の女に対する攻撃、また出産するときの悪魔の策略は何を指しているか?黙示録の中でのダニエルの北王の恫喝はどこに相当するのか?

時間軸の整理

一度目のシオン恫喝の以前にGBは過去のものとなっているか?

北王の崩壊⇒小角の失墜⇒十角によるGB攻撃⇒不法の人⇒666

一度目の恫喝はこれらに先んじている必要があるので、聖徒征服の直後ではないか?

二度目の恫喝は不法の人の顕在を必要とする

解答は「一度目の恫喝は聖徒攻撃に付随するのでGBは健在である」となる

GBが『野獣の上に座す』のは『像』でない方の野獣そのものになる。

時間的に、北王と小角の野獣が失墜するに伴いGBの立場は著しく悪くなる。この場合、北王が小角を伴うのは、北王が反宗教的に過ぎて諸国の賛同を得るに至らないことがあるように思われる。

またGBが力を失う大きな原因に、残りの聖徒の消滅があるらしい。次いで不法の人の背教が猛烈な潮流となって人々の宗教心を煽り、大河の水が引いてゆく*。そこで小角が過去のものとなっていても、残った十本の角に一致した行動をとらせやすい状況が生じると考えられる。(『像』の前後関係は?)

或いは、GBの滅びと666とは連動するか?宗教心の受け皿としては都合はよいことになるが

*それでもGGの現れが聖霊降下に起因するのであるから、水位の退潮は大いなるキュロスの功績と云える。 

 

北王が自分を神よりも高めるのがGBの依然として存在している間であるとすると、見かけ上でしっくりしない。もしGBが座るのが北王であれば、振り落とされる。そこで小角は北王からある程度独立したものである必要性がある。

北王が自分を神よりも高めるというのは、その反宗教性を言うのかも知れない。また聖徒への勝利に自信を深め傲慢を極めるとも言える。

そうなると、不安を煽る知らせとは聖徒の消滅か?そうではないらしい。権力基盤の喪失に関わることである可能性をシリア史とアッシリア史が示唆する。

シリアの地名はアッシリア(日の出の地アッシュール)が転訛したものとの説もある。それならばDan11の謎の転換に意味が出て来る。

 

そのように北王は徹底した非宗教であるが、小角はどうか?全球的な権力を束ねるとなると、非宗教を貫徹することは相当に難しいに違いない。

小角が宗教容認の姿勢を持つものであれば、その『像』というものが作られる誘因は大きいとは言える。しかも北王は一度神に勝って自分を高めている。

やはり現時点では『像』の建立がGB滅亡の前後いずれかについて不明。

<北王がなぜ北に向かわないかは現状のところよくわかる。だが、西に向かわない理由については、その対外政策からすれば問題を自ら招きたくないはず。そこで回教をどうするかという問題があるが、そちらも一枚岩ではないので、その一派と結びつくのかもしれない。そうすると、おそらくトルコの南部、イラクの北部を避けるかも知れない。何とかシリア領内に入れるなら欧州を切り崩そうとするのかも知れない(ユークレインが狙われるか?)。この対立が続いている間はGBは健在であるように思われる><この南と東というのはエピファネスとの異なりを示すためか?>

背教は北王の下ですでに始まっていた。背教が引き返せなくなるのは聖徒が去った時であり、人々はここでも*多くが二分される。そこでは北王も小角もGBも健在でなくてはいけない。従って『像』と不法の人はまだ無い。*「測ってはならない」

それから『像』と666には建設準備が要るし、宗教合同の合意も必要と思われるので、GBの滅びはその途上での「出し物」になるのかも知れない。その結果、人類は宗教的に後戻りができなくなり、神に関わる論争が二極化する。渡海した船を焼くようなもの。結局は脱落聖徒の貪欲ではないか!

信仰合同ではユダヤ教に相当な準備が必要になるけれども、これは現状でさえ箱物が出来ればよいくらいには仕上がっている。あとは背教の教理だが、これも骨格は古来から出来てきている。三一、地上再臨、など、あとはトーラーとクルアーンの終末思想(ハディース)をどうまとめるか。エルサレム問題はエゼキエルで簡単に解決してしまうだろうし、イスラームの終末教理にイエスばかりかGGも存在している。

北王の失墜は、シオンとの関係が何か関わるらしい。いずれにせよ「契約」に最も反対し自国民を盲目にしておくことはできなくなる。そうでなければ神の公平性に反する。元々情報の遮断そのものが人類の性質や進歩に逆行しており時代と技術に於いて無理があり、人間性を無視した支配は早晩挫折する。これは四つの金属の像の足先の部分と何か関わるか?関わるだろう、権力と人数のせめぎ合いの結果、権力が崩壊すると思われる。南王がこれを慫慂する可能性は大きい。

おそらく、世間はこれらを知っても知らないかのように行動するのだろう。それで「わたしが暗闇であなたがたに話すことを、明るみで言え! 」と言われたのも「耳に割礼のない」者を怖れる必要もないからではないか。

「顎に鉤をかけて」神は経綸のために邪悪を使役する。

 

終末解説本 amazonより



 

テモテへの書簡へのメモ

 

・1Tim1:20ヒュメナイオスとアレクサンドロスパウロは『サタンに渡した』の『渡した』[παρέδωκα]には「送り出す」「諦める」の意があり、積極的な除名を行ったというには根拠は薄い。また同5:15には『現に一部(の寡婦ら)はサタンの後を追って逸れた(εκτρέπω原)』ともある。

原初のエクレシアでは叙階と赦し(破門解除)の按手があったらしいが、はっきりとした破門や類いする具体的処置の記録が見当たらない。ヤコブは塗油について述べてはいるが

 

・1Tim3:14でパウロティモテのいる場所に行こうとしており、移動の自由があったことが分かる。1:3でパウロマケドニアに向かったことが書かれてはいるが、それが何時のことであるかは不明。ただ、その際にティモテには「エフェソスに留まるように命じた」とある。この手紙の存在そのものがパウロティモテの距離を証明していることは間違いない。

第二の書簡では、ティモテパウロのところに来るよう要請しており、パウロに移動の自由がなかった可能性を示す。また、「弁明」と小アジアの弟子らとデマスが背信したらしく特にデマスがテサロニケーに去ったことで、パウロの立場が相当に悪く変化していることが分かる。

第二書簡では、パウロは自らの生涯が尽きようとしていることを悟っており、ふたつの書簡の間での状況の違いの大きさが覗える。

 

・1Tim6:2ではπιστοςが二回現れる。4:10にも「あらゆる信徒」がある。これは時代的背景があったのかも知れない。

 

・『』

 

・1Tim4章にある「結婚を禁じ、食物を断つ」の中に、結婚を禁じ、肉食を悪としたグノーシスの影が見えなくもない。(エルカサイ)第一書簡の最後はその件で綴じられているように読める。書簡末尾の『偽証「グノーシス」』という述べ方は、研究者らによっても明らかに特定の集団を指していると考えられている。自由主義ではマルキオンへの言及で後代の付け加えとしている。

ヘロデ神殿崩壊以前に、ユダヤ教からの逸脱が栄えており、はっきりとグノーシス派には見えないものの、西方まで伝播していた>

 

・この最後の挨拶の一文を、二人称複数の代名詞「あなたがた」に動詞語尾を付けるのは、テモテ第二4:22とテトス3:16だけで、ギリシア語としては不自然な印象を与える

<牧会書簡では、パウロが移動したかで筆記者が変わったのでは>

 

・この書簡にも幾つかの詩文の引用の挿入がある 2:5 / 3:1 / 3:16 / 5:24⇒Isa58:8 / 6:11 / 6:15*(ここにはヘブライ的表現が見られる)

 

・牧会書簡の真正さが疑われる理由のひとつには、余りに制度的ヒエラルキア色が強い事が挙げられている。しかし、ディダケーにも同様の要素が見られる。<これはパウロが自分の命が長くないことを悟り、しかもエクレシアが管理を必要とするほど拡大していたことへの対応では?>

 

・テモテへの第一と第二の書簡の間隔は二年とされている。

第一ではパウロは自由を得ており、第二は拘禁されている姿が窺える。

期限切れで63年に釈放され、ローマ大火が翌年、二度目の捕縛は65年か?

ヤコブの殉教がほぼ62年であれば、テモテの釈放を述べるヘブライ書は63年のパウロの解放後と見ることができる。そこでヘブライ書が早く、次いでテモテ第一とテトス、それから二年してテモテ第二が書かれ、パウロの生涯が67年前後に終わっていると考えられる。ネロの死が68年6月>

 

?ネロの死は68年、ではパウロの死が67年と言われる理由は?

ウェスパシアヌスユダヤ攻撃を息子に委ね急遽ローマに向かったときにパウロやペテロは生存していたか?ネロ後であれば生存していたのでは?そのとき以前にペテロの書簡は書き上げられていたことにはなる。やはり、遅くとも68年以前に二人は亡くなっている>

 

・『復活は既に起きている』は後のケリントスにも見られるが、これは熱狂的終末待望論を指し、背後に愛国化したユダヤ教の異様な高揚があるらしい。そこでユダヤ教の隆盛が垣間見えるとも言われる。しかし、それも消え入る灯火の最後の盛りであった。

 

・クレメンス書簡(第一)では始めの方でV2-、ペテロとパウロが嫉妬と羨望によって迫害され死んだと述べている。これをユダヤ教徒によるローマへの唆しと見る見解もあり。

 

ヤコブの殉教については62年であることをヨセフスが二度書いている。アルビノスの着任とアンナスの罷免がその直後にあった。

その背景には、ユダヤ国粋主義の高揚と反ローマ的意識の高まりがあるものとされている。ヘゲシッポスはヤコブ殉教を詳しく述べ、それをエウセビオス採録して伝えている。<彼は目撃したか?>

 

・64年以降のネロの迫害について、タキトゥスは「初めに捕えられたキリスト教徒が仲間らを密告した」と述べている。これをユダヤ人信者による異邦人信者への対立の証しとする見解もある。<拷問で白状したというわけではないらしい。内部的軋轢のためか?>

 

・テトスがギリシア人であったためか『実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。』とパウロは書き送り、ユダヤ教を背景とする信者に問題が多かったことを露呈している。<ユダヤ教のイエス信奉者らとパウロキリスト教徒の間で、内包されていた相違点が論争になり始めていたか?>

 

・テモテへの訓戒『俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。』の『偽りの』(プセウドニュモス)は後のエイレナイオスによってグノーシスについて用いられている。そこからテモテの当時に、既にこの教派との対立があったとも言えるとされる。その一派にエンクラト思想があり、これはメソポタミヤパレスチナユダヤ教の支流に属する。それがこの当時エフェソスにまで影響を及ぼしていたとも言える。

<総じて、パウロの晩年のエクレイアイではユダヤ教思想が非常に強く、仲間であるはずのユダヤキリスト教徒を介して全体の脅威となりつつあったことが窺える。これは後のヨハネの著作にも強く表れている『ユダヤ人と云いながら・・』>

 

 

 所見;テモテとテトスへの書簡にふたつの面がある。

1.ユダヤ教からの影響への対処

2.エクレシア管理体制の整備

 

1.についてはユダヤ戦役を通してユダヤ教は衰退を見る

 しかし、それはグノーシス各派の運動として隠然たる勢力に育ってゆく

2.の整備は、以後権威主義の土台、言い訳とされてゆく

 <権威化される必要といえば、無秩序だろう。しかし、それは独裁を好む者に格好の大義名分を与え、集団の状況はむしろ悪化する>

 

これら牧会書簡にはパウロ後への危惧が感じられると同時に、広げられた各地のエクレシアへの不安要素が多くなっており、テモテとテトスばかりでも負い切れないほどになっていたようにも読める。

しかし、エルサレムの破壊によってユダヤ体制派との確執は一端終わり、その過程でキリスト教の教義はユダヤ教から別のものとして離れてゆき、ヨハネ文書は遥か彼方の終末に焦点を合わせてゆく。

総じて使徒らは古巣のユダヤ教との戦いの中で生涯を送っていると言える。

 

少し気になるのは、聖霊と聖徒に関する言及が少なくなっていること。

「イザヤの昇天」が書かれた時にシリアからは預言者がまったく絶えていたが、その傾向が見えるのかも知れない。

 

-以下、前田護郎の牧会書簡説-

・成立;ローマでの二年の後に希望通りスパニアに行き、それから東方に向かった際、テモテとテトスへの手紙が成立したとする見解が有力である。すると、65-6年頃ということになる。執筆場所は特定し難い。

テモテ第一には『マケドニア旅行中に』とあるのは、マケドニア西方から回顧して再びエフェソスを訪れる希望、3:14を述べたと考えられる。テトス3:12にはニコポリスでテモテを待って冬を過ごそうとあるから、この書も東方旅行中のどこかから書かれたことは確かながら、それ以上は分からない、

テモテ第二には、世を去るべき時が近付いたとあるから、ローマでの二度目の逮捕をされ殉教を前にした際の作である。66年頃。パウロの知人の名が多く、土地の名も各方面に及ぶからカエサレイアで書いたとすると、行伝20章にやや合致するけれども、行伝ではテモテを同伴しているから成り立たず、第二の手紙の名前(4:21)もよくは合わない。結局、パウロが晩年にローマで書いたとするのが無難である。

・著者

牧会書簡がパウロ作でないとする説はなお有力である。第一はマルキオンの一覧に牧会書簡が無いことである。

これについては、マルキオンが福音書にルカだけを認めたくらいであるから、牧会書簡が訓戒が多いために無視したと考えられる。

Chester Beattyに無いということも真正でない証拠とされることがある。

だが、ムラトーリはパウロ作としており、イグナティオスの引用、エイレナイオスとテルトゥリアヌスらの教父たちに似た表現が出ている。

第二世紀以来のキリスト教文献全体を通してみると真正さを否定する根拠は極めて少ない。

牧会書簡の特徴には、激しい反律法主義的論議がなく、組織的に律法からの解放を説いてもいない。福音は自明なことにされているが、この調子からこれらがパウロのものでないとすることはできない。それは同労者個人への私信なるがゆえであり、筆者の年齢が進んだゆえとも考えられる。

<いや、書いている相手が・・>

・時期的状況

行伝や他の書簡に示されるパウロの旅程と牧会書簡との間には一致しないものが多い。テモテをエフェソスにテトスをクレタに残した、また自身はニコポリスに居たというのは、少なくとも第二、第三の宣教旅行には適合しない。

テモテ第二に見られる、パウロがローマに居て、その前にトロアスやミレトスに居た(4:13.20)のは行伝の記事の後に釈放されて再び東方に旅したと見るほうが自然である。

クレメンス5・7またムラトーリから、彼のスパニア行きが叶ったと考えられる。それと同じく再び東方を訪れたことも可能である。

行伝の終わりの二年の後に、殉教の死を遂げたとすることの根拠はない。

第一クレメンスの4-6章では、妬みの犠牲者の記録が歴史順に見られ、その中ではペテロの後にパウロが出ており、それから初代の殉教者らが続くところからすれば、ペテロよりもパウロが生き延びたとの印象を得る。

仮にこれらがパウロにものでないとしても、パウロを個人的に知る人々が在世中に書けたことであるから、百年以後にはならず、手紙にある事柄が歴史的に見て作り話とは考えられない。

・役職名

外は異端に対する防御、内は秩序の維持や集まりの運営に当然必要な世話役や相談役程度のものであり、けっして後代の組織の中での職制を意味しない。

・用語と文体

H.G.ホルツマンは171の新語を指摘した。他の手紙に見られる「義」「契約」「啓示」などの名詞や「自由にする」「誇る」などの動詞が無く、代りに「健全な教え」「委ねられたもの」「敬虔」など、ほかでは珍しい用語が度々現れる。また、他の書簡のような戦闘的論理はなく、淡々としており、時に神への美しい賛美の調子を見せる。

だが、単語の統計が著者問題を決定し得ないことは文献学上の法則である。用語が独特の性質を示してもそれは同じ著者の年齢や手紙の内容の相違によるに過ぎない。パウロの以前との比較(1Tim1:12-)がガラテア1:13-と似ており、宛名の人の信仰に感謝する書き振り(2Tim1:3-)がローマ(1:8-)と共通点があるのも、同一著者パウロによることの証左である。

キリストの贖い(1Tim2:6/Tit2:14)、創世以前から予定された信徒の救い(2Tim1:9/Tit1:2)、キリスト再臨の希望(1Tim6:14/2Tim1:12)などにパウロに思想、否、正統的聖書思想の表現が至るところに見えている。

ほかに断片説や秘書説などがあるが、断片にしては繋がりが良過ぎ、共に従来の真正性を疑う諸説の折衷案に過ぎない。

新約聖書概説」から

 

 

 

 

 

 

 

ダニエル書第11章 フランシスコ会の解釈

 

ダニエル書第11章を中心に探る

 

天使の現れはキュロスの第三年(前535)で最後の啓示 (祭祀復興まで20年)

この天使はメディア王ダレイオスの第一年から、その王権の護持者となっていた。『なお三人の王がペルシアの為に立つ』というのは、第四の王がギリシアを攻めているので、それがヒュスペスタスの子であるダレイオスⅠ世であることが分かる。それ以前の三人は、キュロスⅡ世、カンビュセスⅡ世、ガウマタ(スメルディス)ということであるかも知れない。

次いで『一人の強大な王』とは、四方に分かたれるマケドニアを指していることが明らかなので、これはアレクサンドロスⅢ世以外にない。

『そして南の王が強くなる』というのはディアドコイの一人プトレマイオスであることも疑いを残さない。

ここから(11:6)南北の王の争いの記述が始まり11章の全体に及んでいる。

この時点での北の王の実体もセレウコス朝であることもまず間違いはない。

しかし、その後の記述は謎が満ちている。

 

この頁では、フランシスコ会の解釈に沿って追ってみる・・

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5.南の王は強くなるが、それに増して一人の将軍が王をしのぐ力をつける

セレウコス・ニカトールはしばらくプトレマイオス支配下にあったが、独立してシリアを治める

 

6.南の王の娘は友好のために北の王に嫁ぐが、彼女は勢力を失いその子孫は存続しない

北のアンティオコスⅡ世と南のプトレマイオスⅡ世と後に平和条約を結び、妻ラオディケーを離婚してプトレマイオスⅡ世の娘ベレニーチェ<ベルニケー?>を娶る

しかし、プトレマイオスⅡ世が死去すると、アンティオコスⅡ世はベレニーチェを離婚し、ラオディケーと再婚するが、アンティオコスⅡ世もベレニーチェも、その間に出来た子らもすべて彼女によって毒殺された(伝承?)

北にはセレウコスⅡ世が立つ

 

7.しかし、彼女(ベルニケー)の一族から若枝が出て父(プトレマイオスⅡ世)に代わる。彼は北の王に向かって進軍し、戦って勝利する。

彼女(ベルニケー)の弟プトレマイオスⅢ世エウエルゲーテスが姉の復讐のためにシリアを攻撃する。

 

9その後何年かは彼も北の王に手出しをしない。北の王は南の領土に侵入するが自国に退却する。

セレウコスⅡ世の遠征失敗をいう

 

10.その息子たちは戦いに備えて軍隊を召集する。彼らの一人は抗しがたい洪水のように敵の砦に攻め寄せる。

セレウコスⅡ世の長男セレウコスⅢ世と、次男アンティオコスⅢ世を指す。

次男は即位まもなくエジプトに挑んで、セレウキアの砦、コエレ・シリア、ツロなどを奪い前217にはプトレマイオスⅣ世の大軍を破ってパレスチナ一帯を占領するが、翌春にはガザの南西20kmのラフェアでプトレマイオスⅣ世に敗北しコエレ・シリアは再びエジプトのものとなる。その後一年間平和条約が結ばれた。

 

13.北の王は、前回に勝る大軍を起こし、数年後に進軍する。

アンティオコスⅢ世は、ラフィアの敗北から13年目にマケドニアのフィリッポスV世と同盟を結んで革命中のエジプトに侵入する(前202)

 

14.多くの者が南の王に対して立ち上がる

プトレマイオス王朝の支配下にあった者らが反乱を起こす

お前の民の中の暴力をふるう者たち

ユダヤ人の中でエジプトに抗いアンティオコスⅢ世に着く者らが

幻を成就させようと

プトレマイオス王朝の支配からの解放と無名の預言者らが唱えた自由のことと考えられる

 

15.北の王は進軍して堡塁を築き城壁に守られた都市を占領する。南の軍はこれに対抗する力がない。

プトレマイオス家の将軍スパコスが軍を率いてユダに進軍するが、ヨルダン源流のパネイオンでアンティオコスⅢ世に敗北する(前200)彼がシドンに逃れ、エジプトが降伏することで全パレスチナはシリアの支配に入る。

「城壁に守られた都市」はシドンを、「選ばれた兵士ら」は、スパコスの軍を指す。

 

17.彼は南の王国全体の支配を意図して同盟を結び、娘を嫁がせ、彼女によってこの国を滅ぼそうとする。しかし、それは成功せず、役に立たない。

アンティオコスⅢ世は、エジプト占領をたくらんだが、最後にローマの権威を恐れ、エジプトと平和条約を結んだ。アンティオコスⅢ世は娘のクレオパトラプトレマイオスV世に与え、それによって再びエジプトを手中にしようとするが、嫁いだクレオパトラは夫と共にローマと同盟を結んでしまい、父に思惑は潰えた。

 

18.次いで彼は島々に目をつけ、多くを占領するが、一人の指揮官が彼の悪行を制し、報いる。

アンティオコスⅢ世は前196年頃には小アジアの全域を手中にした。前192年には、領土を拡張するべく、ギリシア占領を目論んだが、191年テルモピュライでローマに敗れた。

翌年には八万の軍を興すもスミュルナ近郊マグネシアで完敗し、その支配は終わりを告げる。ローマの指揮官はスキピオ・アシアティクスと言った。「島々」とは地中海沿岸の国々を指す

 

19.そこで失脚して姿を消す

アンティオコスⅢ世は前187年にローマに課された税を払うためにエラムの神殿から略奪を謀るが、住民の反感を買って殺害された。

 

20.彼に代って立ち上がる者は、国の栄光のためにと税を徴収するものを派遣する。しかし、彼も数日の内に怒りや争いによらず滅ぼされる。

アンティオコスⅢ世の死後、セレウコス四世フィロパトル(187-175)アンティオコス四世エピファネス(175-164)が順に王位に就いた。

セレウコス四世は在位中9年にわたり毎年千タラントンをローマに支払う義務を負ったため、高官ヘリオドロスをユダに派遣し徴税させた。王は更に神殿の金銀を収奪させようとしたが、彼は王に反旗を翻し暗殺した。「幾日の内には」:セレウコス四世がシリアを収めた12年間を指す。

 

21-45まではアンティオコス四世エピファネスについて述べている。

彼はセレウコス四世フィロパトルの死後、正統な後継者であった甥のデメテリオスを陥れ自らが王位についた。その彼を「卑しむべき者」と言っている。また「小角」とも象徴されている。

「洪水のような軍勢」とはヘリオドロスの軍勢の勢いを言う。

「契約の君」とは大祭司オニアであり174年にアンティオコス四世によって職を追われ、シリアに送られた後、170年にダフネでアンドロニコスによって殺害された。「油注がれた者」と同義で「契約の民の君」の意である。

 

23.同盟を結ばれても彼はそれを裏切り、僅かな民によって強くなる。

アンティオコス四世は、ヤソン(175-174)メネラオス(172)など、自分の都合で大祭司を決めた。「僅かな民によって強くなる」とは、アンティオコスⅢ世のシリアよりは弱くなったことを言う。

 

24.彼は最も豊かな地域が平和であった間に侵略し、父も祖父も為しえなかったことを行う。彼は分捕り品を家来の間で分配し、砦の征服をたくらむが、それも一時のことである。

アンティオコス四世エピファネスは、家来には寛大で一人一人に金貨を与えたという。また、彼はエジプト征服を夢見ていた。「一時のこと」とは神の定めの時までの意である。

 

25.彼は力と勇気を奮い軍を率いて南の王を攻める。南の王も自ら奮い立ち強大な軍を持って挑むが、陥れようと謀る者のために対抗することができない。王の碌をはむ者たちが彼を滅ぼす。王の軍は押し流されて多くの者が戦に倒れる。

アンティオコス四世の最初のエジプト遠征では、エジプト軍を破りプトレマイオス6世を捕虜にする。彼は宦官の勧めに従いサモトラケに逃避する。

 

27.二人の王は互いに悪意を持ちつつ同じ食卓を囲み虚言を語り合う。しかし何事も成功しない。終わりは定められた時にくるからである。

二人の王とはアンティオコス四世とプトレマイオス6世である。プトレマイオスは捕虜として優遇されていながら不利であった。

 

28.北の王は莫大な富を携えて戻るが聖なる契約に逆らう思いを懐いて思うままに振る舞う。

アンティオコス四世はエジプトの帰路にエルサレムに寄り、神殿の金銀を奪い殺戮を行った。

 

29.定められた時に、彼は再び南に攻め込むが、前と同じにはならない。キッティムの船隊が敵対し、彼は阻止される。

このキッティムは島々を表し、更にローマを表す言葉となった。ローマの執政官ポピリウス・ラエナスが伝えた元老院の要求は、アンティオコス四世が武器を捨て、エジプトからもキプロスからも撤退することであった。

 

30.彼は帰途で契約に対して怒りをもって行動し、契約を捨てた者には好意を示す。その軍隊は神殿と砦とを汚し、常供の犠牲を廃し、憎むべき荒廃をもたらす者を据える。

アンティオコス四世はエルサレムに進軍し、神殿周囲の城壁を壊して要塞を建てた。更にヘレニズムを推奨して神殿の犠牲を中止させ前167年12月7日にゼウス像を作らせユダヤ人に犠牲を捧げることを強要した。この迫害は三年の間続いた。

 

33.民の賢い者らは多くの者を導くが、ある期間は剣にかけられ、火あぶりにされ、捕えられ、略奪されて倒れる。彼らが倒れるときそれを助ける者は少ない。多くの者が彼に組みするが、それはへつらいに過ぎない。

「民の賢い者ら」とはヘレニズム化を拒んだ者、「ある期間」は迫害の間、この辺りはマタティアとマカベア兄弟、ユダ・マカベアの初めの反乱を指している。真の解放は武力ではなく、神の恵みによると考えるハシディームに属する本編の著者は初期にはマカバイの運動に加わっていたが意見の不一致から次第に離脱していった。

 

35.終わりの時にに備えて精錬され白くされるためである。その定められた時はまだ来ていない。

「終わりの時」はアンティオコス四世エピファネスの終りを指している。

 

36.あの王はすべてに優って自分を高め奢る。神の神の対して信じ難い言葉を吐き、怒りの時が終わるまで栄える。

自分を高めるとは、数々の強固な砦に異国の神のもの(異教崇拝者)達を護衛兵として置き、自分への礼拝を強要し、銀貨に自分の像を神として刻ませた。「信じ難い言葉」とは神への反抗の姿勢を、「怒りの時が終わるまで栄える」とは、アンティオコス四世の悪行のひどさを言う。「女たちの慕う神」とはアドニスやタンムズ<泣く神>

 

39.彼は砦の神を崇め、財宝を以って先祖たちの知らない神を崇める。

数々の強固な砦に異国の神のもの達を護衛兵として置き、気に入った者らには名誉を与える。

砦の神とは、オリュンピア山のゼウス、アンティオケイアにもゼウス神殿を建てたが、彼は捕虜として過ごしたローマのカピトリヌス丘にあるゼウス(ユピテル)を見慣れていた。

 『数々の強固な砦に異国の神のもの達を護衛兵として置き』とは、ヘブライ語の発音を換えて読むとこうなる。マソラでは「強固な砦の数々を異国の神に頼って攻め」。アンティオコス四世はシリア人と棄教したユダヤ人を神殿傍の砦に兵士として立たせた。

 

44.東と北からの知らせが彼を怯えさせ、多くの者を滅ぼし尽くそうと怒り立って進軍する。

アンティオコス四世はエジプトに攻め込んだときに自国の東に居たパルティアと(北の)アルメニアの反乱を知って当地に向かった。

 

『王宮の天幕は張り』の王宮とは原語「アペデン」でこれは聖書中一か所だけ用いられているペルシア語からの外来語である。

 

『その時』アンティオコス四世が没して以降、ユダヤは『見たこともないような苦難』を受けたと解釈。

リビアとクシュも彼の歩みにつく』エチオピアリビアは共にアンティオコス四世に征服されている。

 

『多くの者が右往左往する。そして知識は増す』この二つの文のつながりが不自然であるので、LXXは『多くの者は戸惑い。地に不義が満ちるまでになる』と訳している。最初の動詞を「探る」と訳すことも可能。

cf;Ams『8:11 見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。8:12 人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない。』*[יְשֹֽׁוטְט֛וּ]

ダニエルでは『終わりの時までこれらの言葉を秘して、この書を封印せよ』と前置きされているが、ダニエル書はそのままに読めるのであり、言葉そのものは秘められていない。秘められているのは言葉の意味であり、それは封印されたままであるので、多くの人々がこの書を探って右往左往して『知識が増す』といっても、真意を悟るのではなく、様々な謬説が蔓延るので、その誤謬が罠として作用するというようにとれる。

『多くのものが逸れてゆき、(彼女は)知識を増す』

 יְשֹׁטְט֥וּ רַבִּ֖ים וְתִרְבֶּ֥ה הַדָּֽעַת

これは・・まずそのようだ(おそるべし)

 

『1335日』外典の「イザヤの殉教と昇天」に於いて(4:12)反キリストの支配の日数として示される。

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アレクサンドロス大王には、エルサレム到着の折に、ダニエル書の予告が本人に示されたとされる。(山羊の紋章)

大王はユダヤ人に好意を持ち、アレクサンドレイアへの移住を促進

前323に大王が崩御してから281年にセレウコスがシリア覇権を確立するまでディアドコイ戦役が続き、セレウコス朝はアンティオコス13世の時にポンペイウスに退位させられ前64年にまったく消滅した。<ダニエル書はセレウコス朝の終焉の史実とは一致していない。それ以前に権力は喪失されていた>

翌63年にポンペイウスユダヤ占領に乗り出したが、ハスモン朝は分裂抗争の最中にあり、ローマ軍はヒルカノスⅡ世と連合してエルサレムに籠るアリストブロスⅡ世を攻撃し、三か月の後にポンペイウスエルサレムに入城する。

彼は神殿内に偶像がないことを確認するために至聖所まで侵入したが、確認だけに済ませ、内部には手を付けず、翌日からの祭祀の継続を認めている。

前30年にアクティウムの海戦でプトレマイオス朝もローマに敗北し、マケドニアは完全に姿を消して、東方ヘレニズム文化が残った。

帝政ローマ期の到来と共に、ユダヤにはエドム人ヘロデ大王の覇権が敷かれる

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所見;フランシスコ会は、全体を歴史上の既成の事実として見ている。しかし、それだけでは収まらない言葉が余りに多い。

それでも、これを二重の成就を込めた黙示と捉えることはできる。

そうであれば、すべての語句をひとつの時代に当てはめることは難しくなるはずであり、またその必要もない。

また、この章やダニエル書に関連を限定するなら、相当に重要な意義を外す。

現代の視点からすれば、過去の実例によって将来の終末の姿をより示唆的に予測する助けとなる。

 

東方はペルシア後、ヘレニズムの約三百年間は不安定で、ユダヤは南北の覇権に揺さぶられ続け、僅かながら70年ほどの独立王権を得ただけで、宗教的にはディアスポラへの教育とタナイームの勃興があり、極端な教条主義に染まりつつあった。

 

・ダニエル書の大まかな目的

世界覇権の動きと捕囚期終了以降の契約の民の処遇とを予告する

その後に始まる南北の王権の抗争を予告しつつ、終末の情勢も予告している

 (但し、当時に充分悟られたとは言い難いところあり)

 

 

ダニエル書第10-11章へのハンマーの解釈

マケドニア南北朝期年表 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エフェソス3:15 名を受けるとは

 

天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。【口語】

 

御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。【新共同】

 

天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。【新改訳3】

 

-この父[パラ]から天の、そして地上のすべての種族[パトリ]はその名を受けている。-【岩波委員】

(ここに言葉遊びがある)<節を括弧書きにした理由?>

 

前後は祈りについて述べており、神を父として霊を通しキリストを彼らの内に住まわせてくれるよう願っている。(『わたしたちの内に働く力により』)

また『霊の一体性』について強調されている。

 

[14 Τούτου χάριν κάμπτω τὰ γόνατά μου πρὸς τὸν πατέρα, 15 ἐξ οὗ πᾶσα πατριὰ ἐν οὐρανοῖς καὶ ἐπὶ γῆς ὀνομάζεται, 16 ἵνα δῷ ὑμῖν κατὰ τὸ πλοῦτος τῆς δόξης αὐτοῦ δυνάμει κραταιωθῆναι διὰ τοῦ πνεύματος αὐτοῦ εἰς τὸν ἔσω ἄνθρωπον,]NA28

14 このことの為に、わたしはその膝を屈める そのに対して

15 このすべての家族が、天の中と地の上の 名付けられている

16 の為に あなたに下へと与えられる この栄光 奇跡 強くある・・

 

4章からは、聖徒が互いを忍耐し平和の紐帯をもって霊の一体性を維持するように、との訓戒が続いている。

エフェソス書が諸国民への内容であることからすると、「『地上のすべての種族が名を受けている』父である神」の意味で言うらしい。即ち、ユダヤ人を越えて諸国民に契約の範囲が広がり、聖霊が注がれて同じキリストを自らの内に住まわせることに於いて<加えて創世記のトーレドートを含意したかもしれない>

また、ギリシア語の言葉遊びは、ギリシア人とディアスポラを読み手として想定し、且つ当然ながら原本がギリシア語文であったことも示している。<こうした事はヘブライ書簡やヤコブ書には見られないと思われる。もしあれば、それは筆記者が翻訳で改変していた危険があるかも>

 疑問点は「あらゆる支族は名を得た」の「支族」が「天と地の」と形容されているところ

<これは同じエフェソスのプロスェシス論議(1:10)からすると、信徒を包含して語っているのかも知れない>どうもそうらしい。神の経綸に於ける範囲の大きさを強調したのでは

「名を得た」は非常に判りづらい。これはもう少し観ないと

 

 

 

 

使徒言行録に関するメモ 19.5

パウロの回心後について、ルカは『基礎が固まり』[οικοδομου μενη]と描写したが、直訳すれば「築き上げられた」 となると

これは妨げられることのない成長期に入ったというべきでは

<しかし、これを以って教理でのキリスト教の確立とは言えない、ただパウロが迫害の急先鋒であったことが強調される>

 

『世界を襲う大飢饉』;クラウディウスの第四年(44)にユダヤで、第九年(49)にギリシアで、第十一年(51)にイタリアでの飢饉が知られている。ヘーンヒェンによれば、パレスチナでは46-48年にかけて飢饉が生じた

<ああ、ルカの言った意味はそういう事か、必ずしも誇張ではなかった>

シュテーリンは、47年の不作に加えて翌年の安息年が拍車をかけたのではないかという説を唱えている。

使徒ヤコブの死が40年で、アグリッパスⅠ世の死が44年であれば、ルカの記述順は順番通りではないことになる。だが、ルカは飢饉の預言に続いてアグリッパスⅠ世の迫害を『その頃』と記しており、この辺りは不明瞭である。

だが、ヘーンヒェンに従えば、使徒ヤコブの死、ペテロへの捕縛と捜索、アガボスの預言、アグリッパスⅠ世の急死、その後二年ほどしてからの飢饉というように時系列は整うことにはなる。

 

 

長老;第一回伝道旅行に於いて、早くも長老を町のエクレシア毎に任命している。職制としての長老がこの時点で整えられたとは考えづらいとされるが、ユダヤ文化に於ける年長者との兼ね合いも見る必要がある。

<この場面では、ピシディア方面でのユダヤ人の強い反対を考慮すれば、それぞれの集まりで重きを成す人々を定めておくことの必要性があったのでは>

 

アンティオケイアのルキオス;西方写本Dでは11:28でアガボスが下ってきた場面でルカがそこに居たことになり、そこからキレネイカのルキオスとはルカ本人ではないかとする説がある。<それはないと思う、おそらく自分と同名の人物を区別したのではないか>

 

マナエン;『領主ヘロデの乳兄弟(シュントロフォス)』このヘロデはアンティパス(バプテストの処刑者)で兄のアルケラオスと共にローマで養育された。そこにマナエンが居たかも知れない。まだ一介の平民に過ぎなかったアンティパスであったが、ヨセフスによればそのアンティパスが幼少であったときにマナエンという名の者が彼の尻をたたいて「あなたはやがて王となり、また。その王国を立派に統治するでしょう」と預言したと書いている。更に、この人はエッセネ派の有徳な人で予知能力を神から与えられていたとも書いた。

但し、この人物がアンティオケアに現れたマナエンと同一かは分からない。アルケラオスは悪政のためにAD6に王座を追われている。アンティパスはその後にテトラルキアに信じられているので、ルカの記したマナエンがヨセフスの言う人物である可能性はありえる。<アンティオケイアのエクレシアに居た時期にはもう60歳くらいになっていたのではないか?従ってイエスのナザレ定住はこの人物のローマ在住以前になる>

 

スケワ;エフェソスに来ていた巡回除霊者たちの父で、ルカは祭司長と記すが祭司長にその人物は見当たらない。そこで西方写本(D)は祭司としている。

使徒言行録は魔術に関わる記述を四回記すが、それはこの件が消極的に扱われていないばかりか、強烈な争いと使徒らの勝利を記す。

 

パウロを制止した『議員』;アジア州の諸都市は皇帝崇拝を維持促進させるための代表者を選出していた。まず州全体で一名、それからペルガモン、スミュルナ、エフェソスから各一名で、合計3-4名の議員がいたと推定されている。

識者は(E.Hänchen)このために『議員たち』がパウロを擁護するために説得したことが考えられないとしている。<だが『議員』というのはその議員であったのか?各都市は意思決定のための民会を持っており、富裕な階層は都市施設の建造、帝国の建造物の設置場所の選定などに関わっていたのでは>

 

 

 

 

 

 

 

GG

前記事⇒「エゼキエル37以降」 

◆神はその顎に鉤をかけ、そのすべての軍勢を引き出す 38:4

 ⇒『わたし(YHWH)は必ずあなた(アッシリア)の鼻に鉤を、あなたの唇の間にくつわを付け、あなたが来たその道を通って,確かにあなたを連れ戻す』2K19:28/Isa37:29 

 ⇒『第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。
また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。・・ 三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した。第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。』

 ⇒『もろもろの国民の中に宣べ伝えよ。戦いの備えをなし、勇士をふるい立たせ、兵士をことごとく近づかせ、のぼらせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ちかえよ。弱い者に「わたしは勇士である」と言わせよ。周囲のすべての国民よ、急ぎ来て、集まれ。主よ、あなたの勇士をかしこにお下しください。もろもろの国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷にのぼらせよ。』Joe3:9-

 ⇒『 今、多くの国々の民がお前に敵対して集まり「シオンを汚し、この目で眺めよう」と言っている。だが、彼らは主の思いを知らずその謀を悟らない。主が彼らを麦束のように打ち場に集められたことを。娘シオンよ、立って、脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄としお前のひづめを銅として多くの国々を打ち砕かせる。お前は不正に得た彼らの富を、主に蓄えた富を、全世界の主にささげる。今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。』Mic4:11-/Zec14:1

『わたしの決意は諸国民を寄せ集め、諸々の国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを尽くその上に注ぐことであって、全地はわが怒りの妬みの火に焼き滅ぼされる』Zep3:8-

 

・場所

『メシェクとトバル』共に小アジアの西北部。従って『ロシの君主』は多分「メシェクとトバルの君主の長」と読まれるべきであろう。

『マゴグの地』ヘブライ語本文でこの語は、ゴグの名を彼の称号『君主の長である』との間に入っているが、これは加筆されたものではないか。

-Keith Carley-

 

 

◆召集

『お前たちの力をわたしのために蓄えておけ。多くの日の後にお前は召集されるであろう。来るべき年に、お前は廃墟から復興された土地に侵入するであろう。』『お前は嵐のように上って来て、お前とお前のすべての騎兵大隊である大群衆は雲のようにその地を覆う』

Jer4:14では北からの敵が『雲のように』進軍してくる

38:14『イスラエルが平安に暮らしているその日に、お前は立ち上がり』の「立ち上がり」はLXXの訳で、ヘブライ本文では「知り」

 

◆ゴメルとペト・トガルマ

どちらも黒海南東部の山地に住んで、ゴメルはギミライまたはキンメリア人を指す。これは好戦的な民で前8世紀に小アジアに侵入し、7世紀にはアッシリアを悩まし続けた。27:14でツロの貿易相手とされるペト・トガルマはGen10ではゴメルの息子となっている。

 

◆『多くの日の後、お前は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う。それは長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。』『その日に、あなたの心に思いが起り、悪い計りごとを企てて、言う、『わたしは無防備の村々の地に上り、穏やかにして安らかに住む民、すべて石垣もなく、閂も門もない地に住む者どもを攻めよう』と。そしてあなたは物を奪い、物をかすめ、いま人の住むようになっている荒れ跡を攻め、また国々から集まってきて、地の中央に住み、家畜と貨財とを持つ民を攻めようとする。』38:8/11-

 ⇒『女は,神によって備えられた自分の場所がある荒野に逃げた。それは,彼ら*が千二百六十日の間そこで彼女を養う』

 ⇒『その日,わたしは倒れているダビデの仮小屋を起こし,その破れを必ず修復する。またその荒れ跡を起こし,必ずそれを築き上げて昔の日のようにする。彼らがエドムの残されているところを取得するためである。そして,わたしの名がとなえられるあらゆる国の民も』Jer9:11-12/荒れ塚 Amo9:11

 ⇒『「エルサレムは開けた田園の地のようになってそこに人が住むようになる。人と家畜がその中に多くなるからである。5 そして,わたし自ら彼女に対して,周囲を巡る火の城壁となる』Zec2:4-/12:8-

 

◆「『日の光が弱くなる』『天を暗くする』(30:12/32:7-8)がなぜイスラエルの地に集中的に起こっているのかは未解決の問題である。」Keith W.Carley"The Book of Prophet Ezekiel"1974

『その日、イスラエルの全地に大地震が起こる』⇒Isa24:18-20/Jeo2:10/Hag2:6

 

◆『わたしが昔、わがしもべイスラエル預言者たちによって語ったのは、あなた(GG)のことではないか。すなわち彼らは、そのころ年久しく預言して、わたしがあなたを送って、彼らを攻めさせると言ったではないか。』17

 ⇒Isa/Joe/Mic/Zep

  zep『地の温和な者ら』は聖徒ではない

 

◆『わたしはゴグに対し、すべての恐れを呼びよせる。すべての人のつるぎは、その兄弟に向けられる。』21

 ⇒エホシャファトの故事=ベラカの谷

 

◆MGG⇒2016.11.11

◆Ez=Isa ⇒2016.11.17

 

 ・GGの立場はネイヴィームと黙示録が揃って一定の存在を指している

 ・GBを倒すのはGGではない

 ・当然ながらGGの攻撃から救われるのは聖徒ではない

 ・ネイヴィームの中で信徒と聖徒の記述が交互に語られ各々に判断が要る

 ・シオンは一貫して信徒の中心的部分として語られる

 ・問題はダニエルとGGを結ぶ線が残っている

<ダニエル;パウロ;マタイ;イザヤ;黙示;GG>ネイヴィームはこれを補足する Ez38:17

 ・これを象徴的に再度黙示録は扱っているが別のものながら相似形になる

*本文の問題『アバリム』

39:11『その日、わたしはゴグにイスラエルの中に墓地の代りに海の東のアバリムの谷を与える。彼らはそこに、ゴグとそのすべての大群を埋め、アバリムはすべてそれらで塞がれる。そして彼らはそこをゴグの大群の谷と呼ぶ。』

『わたしはイスラエルの中に、ひとつの場所をゴグに与える。それは彼の墓である。アバリムの谷・・』と読むべきであろう。

アバリムとは、死海を見下ろすモアブ北部の山脈(Numb33:47-)

ここはイスラエル統一時代には領土であったが、再びモアブに奪われ、47-48章の境界線に従うとイスラエルの外になる。ヘブライ語本文では「オベリム」と読んでいる。『海の東』というのは必ずしも死海の東を意味せず、ゴグの埋葬地は不明のままである。

『アバリムはすべてそれらで塞がれる』の句は、『オベリム』(旅人たち)と解釈して、語呂合わせをしている。『旅人たちは塞がれる』となり、その場所が汚れてその谷が通路として使えなくなることを暗示している。

⇒ 「エゼキエル書の構造

 

・『長の頭』38:2 これは追加の言葉ではないかとの見解あり

[נְשִׂ֕יא רֹ֖אשׁ מֶ֣שֶׁךְ וְתֻבָ֑ל] ナシー ローシュ メシェク ヴトヴァル 

cf. Ezk44:3 『君主だけは、ここに君主として座り』

[אֶֽת־הַנָּשִׂ֗יא נָ֥שִׂיא ה֛וּא יֵֽשֶׁב־בּ֥וֹ] エト ハナシー ナシー フー イェシェヴ 

神殿に関わる『長』(第三神殿文中初出箇所) と単語の上では同じ

37:25のメシアを指す『長』も同様 (イスラエルの牧者として)

 

この称号の関連では、預言者自身がエホヤキンと共に捕囚となっている

エホヤキンは嫡流だが、マッタニア改めゼデキヤはその叔父であり、且つバビロニアの傀儡であることで、エゼキエル書中でのメレク [ מלך ] の語の扱いに表れているのでは?また、ゼデキヤはダヴィド朝滅亡の原因を作っており、自身も家系を抹消され、盲目にされて死ぬまでバビロンに拘禁されたその著地を預言者は知っていたと思われる。

即ち、エゼキエルが幻視したエルサレムの非道の報いを象徴するのがゼデキヤであり、預言者にとっては王としての光輝を与えかねる存在であったに違いない。

一方で、エホヤキンはエビル・メロダク即位の翌年には(最短一か月後)拘禁を解かれ、王の食卓に着く一人とされている。(これは何時か?<前560年>エホヤキンの流刑37年で優遇を受けるjer52:31⇒ 捕囚期年表) 2King25:27-

但し、これはエゼキエル最後の預言(捕囚の25年)より12年後のことで、ネブカドネッツァルの崩御は(前562)最後の預言は流刑の35年に相当する。エビル・メロダクの即位はその翌年の12月で、王位継承に手間取っている。

 

 

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Mt24:15

[>Ὅταν οὖν ἴδητε 「するのをみたとき」

  • τὸ βδέλυγμα τῆς ἐρημώσεως* τὸ ῥηθὲν διὰ Δανιὴλ τοῦ προφήτου ἑστὸς ἐν τόπῳ ἁγίῳ, ὁ ἀναγινώσκων νοείτω, ]NA28 「ダニエルによって荒憎者と呼ばれたものが聖所に立つのを」

[έστος]=['ιστημι] 分)完了能対中 「立つ、立たせる、現れる」

:AV - stand 116, set 11, establish 5, stand still 4, stand by 3, misc 17, vr stand 2; 158 1) to cause or make to stand, to place, put, set 1a) to bid to stand by, [set up] 1a1) in the presence of others, in the midst, before judges, before members of the Sanhedrin; 1a2) to place 1b) to make firm, fix establish 1b1) to cause a person or a thing to keep his or its place 1b2) to stand, be kept intact (of family, a kingdom), to escape in safety 1b3) to establish a thing, cause it to stand 1b31) to uphold or sustain the authority or force of anything 1c) to set or place in a balance 1c1) to weigh: money to one (because in very early times before the introduction of coinage, the metals used to be weighed) 2) to stand 2a) to stand by or near 2a1) to stop, stand still, to stand immovable, stand firm 2a1a) of the foundation of a building 2b) to stand 2b1) continue safe and sound, stand unharmed, to stand ready or prepared 2b2) to be of a steadfast mind 2b3) of quality, one who does not hesitate, does not waiver  

 

Dan11:31

וּזְרֹעִ֖ים מִמֶּ֣נּוּ יַעֲמֹ֑דוּ וְחִלְּל֞וּ הַמִּקְדָּ֤שׁ הַמָּעֹוז֙ וְהֵסִ֣ירוּ הַתָּמִ֔יד וְנָתְנ֖וּ הַשִּׁקּ֥וּץ מְשֹׁומֵֽם׃

[הַשִּׁקּ֥וּץ מְשֹׁומֵֽם]荒憎者  [ וְנָתְנ֖וּ] 与える 置く

 ・常供の犠牲が止められることと荒憎者の現れが「続いて」[הַ תָּ מִ יד]起こる

 

・新約中の『新しいエルサレム』は終末に歪曲される危険性が高い

エルサレムでないエルサレムの出現  廃墟の山はいつまでも廃墟か?

 

 解明点

・ダニエル&マタイ⇒パウロ SM=AC

・エゼキエル=イザヤ

ハモナ⇔イヴリー”Lexicon in veteris testamenti Libros”

・エイレナイオス「然程昔の事ではない」

・黙示=マタイ <神殿に><最果て>

・SMがACとなるのは北王と小角の没落後

・ハモナとイヴリーの対照から「都市シオン」への変化⇒Heb11:10 !!!*

・NMRDがどれほど根源的な「世」の創世者か

アッシリア史からキプロスを調査

 

材料

キリスト教徒によるイスラエルかぶれ

ユダヤ教イスラムの融和

イスラムの終末思想

・GB崩壊後の[大衆]宗教心の動向(大衆の働きの例)

・シオンではない「南方新エルサレム神殿」構築

イスラエル攻撃の意味と取り違え⇒指摘するのはシオン

・「新エルサレム」誤解と「危機妄想」或いは反対者の根絶願望

 疑問

・NMRDの対型は小角ではない ACか? 

(或いは小角が失われるのでより強力な偶像となる

小角は野望の実現化として登場するものの、それを成就するのはACでは

 

・一度目のシオン攻撃の動機はどこにあるのか?

多分、北王と小角が聖徒攻撃の余勢を駆ってシオンを恫喝する

そこでシオン保護の三時半が終わる

彼らはシェフェラの台地まで迫るが崩壊する(セナケリブ)

次いでエホシャファトの故事へ

 

・時間の経過「GBの滅びは北王の崩壊前後のいずれか?

鉢の理解からすると聖徒昇天の後になり、小角により聖徒は死ぬ

これは鉢による最後通牒が聖徒後である事と一致する

その復讐としてのGBの滅びがあり、その以前に騎兵が攻撃しているはず

すると騎兵の攻撃とSMの召集との時期が近いか重なる

小角を構成する十角はGBへの刑執行者であり、その時点での小角と北王の存亡は不明瞭

不明なのはGBの滅びからシオン第二攻撃までの動きと前後関係

非常に短いのか⇒非常に短い。というより第二攻撃に託けて不意打ちされる。これは列王記に前例がある。(2020.3補筆)

鉢の理解であれば、SMの召集の時期にGBは存在している

ではGBに滅ぼす使嗾をするのもSMなのか

とすると小角は聖徒攻撃とほぼ同じ時期に消滅していることになる

北王の破滅が小角の結束を消滅させる

小角の聖徒攻撃と北王のシオン恫喝は短期間に相次いで起こると捉えるのが実際的か?

北王の錯乱させる情勢とは何か?>⇒多分、内部的崩壊ではないか?奇跡の介入がこの時点で行われると神の裁きが不明瞭化するのでは

その為に北王はシオン攻撃を急ぐ必要が生じる

北王の消滅は聖徒攻撃の完遂とほぼ同時期に起り、それは膨大数の人民の意志決定に道を拓くものになり得る。時期としては騎兵の出現時期に当たる。(何と無駄のない!)

結果としてシオン攻撃はすんでのところで中止され、羊獣とACによる世界慫慂に託される。GBの滅びはこの後の事と言える 

黙示によると世界徴兵の後にGBが攻撃されるように見える(預言者らは?)

 

とすれば

聖徒が去った後、直ぐにSMが登場し偶像化される「残される」

そのSMが召集をかけるとき依然GBは存在しているが小角は無い

だが十角は残っている(北王は聖徒とほぼ同時に崩壊している)

「十角」と世界戦役の全軍とは別物か?

黙示によればSMが召集する目標はシオンでありGBではない

SMとGBとが対立関係にあることは道理で分かる

GBが無いからSMが立つのか、SMが立つからGBが滅ぶか?

十角のGB攻撃に動機を与えるものは何か?

北王と小角の崩壊は動機になるか?⇒多分ならない、むしろ逆

そうなるとSMが立つからGBが滅ぼされることになる

羊獣が優勢となりSM偶像化が起きる流れがGB攻撃に先行する事になる

 

 

であれば

GBは小角を使嗾して措きながら、その構成要素によって攻撃される

その以前にSMが偶像化されている

となれば、三宗教の協調がそれに先行することになる!

では、三宗教融和の担い手は誰か?⇒水である大衆か?

大衆は流れを変え、平安を謳歌しつつ共通の敵を見出す

足先に粘土が混入するのは、大衆の要素の増大か?では粘土と鉄の不同化は何を言うのか?

やはり大衆は受動的でMGGとGGを先導者として必要とし、それらに霊力を与えて導くのが悪魔「わたしに与えられている」

であるから、羊獣は小角のような組織を必要とはしない

SMがその代替となり「大は小を兼ねる」

北王のように諸国を束ねるのが軍事同盟である必要がなくなる

国家間戦争が進化して軍力を用いるものが必ず勝利するとは言えなくなる

大衆が国を越えて結束し、史上最大となりNMRDの野望が完遂する

そこでハモナとイヴリーの対立が究極化する

論争の単純化、二極化

これ以上なく神と悪魔の人間を介した決定的争いの場「メギドの岡」

後は四騎士とハデス

大衆の墓

 

聖徒攻撃が終わり、荒野に逃れていた女の保護が解かれると、まず、社会的圧力が掛かり、それにSM崇拝の強制が関わっている。

<ということは、>

その情勢下でSM、MGGとGGによる使嗾が行われる。なぜならシオン参集者は野獣の印を受け付けず、世界統一への参加を拒否するから。

<聖徒の死からこの状況までおそらく一年程度、いや未満>

「大患難」勃発をGB攻撃からと見做すのは、ベラカの谷の故事からすると一致する。

<では「十角」は人類全軍を指すか?

 

・これまで明確でなかった点

北王と小角はGB攻撃の担い手ではないということ

 *神の王国がやはり都市国家である理由は、人間の「罪」に有るがある限り「支配」が必要となるからで、NMRDが欲したものはCHRが占めるべきものであった。イヴリーが定住者となり得るとすれば、それは俗でない都市を必要とする。それが彼らが最後に帰るべき場所、真の意味での約束の地を含意していたと見ることができる。⇒七つの時

 

初見;世界はやはり聖書の言葉を巡って動いてゆくことになる。

 それを可能にするのが三大一神教の趨勢であり、元々Abrhmの宗教でありながら、誤解から三つの道に進んできた

 しかも、聖書の真意の通りというのではなく、聖句から誤解を誘われて人類全体が二極化する

その最高潮で三つは融和するが、そこが神の経綸の最も恐ろしいところで、悪魔をさえその道に進ませる謀略が込められている

しかも、この神の謀を明らかに知らせてさえ、必ず悪魔も人もその道を行くことになる

誤解をもたらすのは「知って信仰した自分は神の側に立った」と思う傲慢で

誤謬の道に入るのは、当人たちの内奥の性質による選択であり、他の誰もどうにもできない

 

 

 

シオンの覚醒

七つの目のある礎石の定礎

聖霊の解き放ちによる蝗害

迫害と背きの始まり

小角の登場

北王と小角による聖徒攻撃

聖徒の復活と裁き(ミカエルの決起)

地上に残る聖徒の召し(Nis14前に後二度目の晩餐)

シオンへの民の流入の始まり

子羊の婚宴と王権の実現

北王は南王を攻める(南王は庇護者の振舞をするか?)

シオンへの北王の攻囲

北王と小角の崩壊

南王が唯一覇権を握り平和を唱える

※<小角の偶像化>

騎馬隊の三分の一への攻撃

第三神殿の建立

666崇拝の強制

鉢の注ぎ出しによる世の凶兆

ユーフラテスの水が引く

ハルマゲドンへの権力の集合

大いなるバビロンの滅び

白馬の王の進軍と諸国の同士討ち(不法の人の滅び)

シオン攻撃の失敗と権力の喪失(シオンの言語一致?)

飢餓と疫病

大患難の終了

対型的仮小屋の祭りの開まり

 

※ なぜこの位置か

シオンへの民の流入はユーフラテスの水が引いているところから来る

他方で背教もその水を引き入れる必要がある

子羊のような覇権国家はバビロンの失墜への対策として小角を偶像化する道理がある

大国も蝗害の影響を受け動揺しているといえる

 

 

 

 

 

 

ディアドコイ戦役への情勢

ディアドコイ戦役への情勢 前編⇒「マケドニア履歴」⇒ 「アケメネス朝期のユダ帰還

 

前323のマケドニア暦でダイシオスの月の28日に大王が崩御した。ユリウス暦では6月10日、場所はバビロンのネブカドネッツァルの王宮であった。

死の十日前から発熱があり、五日目には重篤で、三日前には声も出ず、部下を見分けられなかった。

王位に就いて13年、享年三十二と十一ヶ月

死去したときにロクサナは妊娠七カ月で、大王は世嗣ぎについて何の遺言も残していなかった。

歩兵たちは、大王の異母弟アリダイオスを推した(御しやすいとみたか)が、側近や将軍らはロクサナが産む大王の嫡出子を推戴して、意見は二分された。これが後にエウリュディケー(アデア)が兵の支持を得る伏線となってゆく。

そこで妥協がなされ、アリダイオスがフィリッポスIII世として即位し、もし、ロクサナが男子を生めばアレクサンドロスIV世として共に王位に就くとされた。

ペルディッカスが摂政になり、朋友たちの領地と地位とが定められた。

ペルディッカスは上部マケドニアの出身で王統とも血縁があったうえ、325年以来、側近護衛官七名の一人に抜擢されていた。彼は死の床にあった大王から指輪を託されていたが、一説ではこれが後継者認証であったとも言われる。

 

マケドニアから呼び出され解任の危機に在ったアンティパトロスは、大王の崩御を受け、引き続きマケドニア周辺の統治を担当することにされ安堵して小アジアから本国に戻った。だが、息子カッサンドロスの資質を見抜かず後継人事で誤り、それはマケドニア本土を疲弊させることになる。

 

大王の側近は父が小アジアから招いた教師アリストテレスの下で共に学んだ学友が多く、それが資質や立場の均等性を持たせたところで、多くの王の林立の原因ともなっている。

 

大王の妻たちは

ペルシア王ダレイオスの娘スタテイラとオチュスの娘パリュサティスはスーサに留まっていた。妻はバクトリア出身のロクサナを含めた三人だが、ほかに愛人のバルシネがおり、327年に息子ヘラクレスを生んで、大王崩御の後にはペルガモンに移っていたが、ヘラクレスは常に庶子として扱われた。

大王の母親のオリュンピアスは夫との不和になって以来、実家のあるエペイロスを治めており、大王の同母妹のクレオパトラはその時点でマケドニア本国にいた。

オリュンピアスは大王がアンティパトロスに暗殺されたものと思い、その噂を流した。しかも、献酌官イオラオスはアンティパトロスの息子であった。

毒殺説も自然死説も同じ程主張されており、それに加えて、インダス川を南下しているときに受けた矢傷に原因を唱える説もある。

長大な遠征が進むに従い、大王の文化的、軍事的施策に反対する傾向が軍に強まっていた事実もある。

歳のいった兵士らを本国に返す意図を示したところで、兵たちは誤解してそれに従おうとしなかった。

<大王自身がなぜあれほどの征服欲を懐いていたのか、世界制覇を狙っていたのかについては発言も書かれた資料もなく不明>

 

オリュンピアスは傍に大王の異母妹で早くに母親を亡くしていたテサロニケーを置いていたと思われる。

大王のもう一人の異母妹のキュンナは娘のアデアと共にマケドニアにいた。

 

ロクサナは大王の妻であるスタテイラと妹のドリュペティスを偽の手紙で呼び出して殺害し井戸に投げ込み埋めた。ドリュペティスは大王の親友ヘファイスティオンの妻となっていた。この姉妹の殺害にはペルディッカスが手を貸している。他の将軍らに利用されることを恐れたのであろう。

ロクサナは男子を生みアレクサンドロスIV世となり、ペルディッカスが母子を保護下に置いた。

 

大王の妹クレオパトラは三十二歳であり、まだ子を生めたので、大王亡き窮地で再婚を望み、大王の側近護衛官の一人で上部マケドニア出身で王統と血縁があり、大王と共に教育を受けていたレオンナトスに狙いを定めた。彼は武勇に優れた反面虚栄心が強かった。 彼にはヘレスポントスとフリュギアの太守が割り当てられたが、それに不満をかこっていたので、クレオパトラから婚姻の申し出があると野心を起こしてすぐに了承した。

しかし、このころにアテナイなどのギリシア諸都市が反乱を起こし、それを鎮圧に向かったアンティパトロスは打ち破られてしまい、その救援に向かったレオンナトスも戦死してしまった。

 

大王の父フィリッポスII世が即位間もない頃にイリュリクムを攻めて、当地の王の娘アウダタを妻にしていたが、そこに娘キュンナが生まれた。彼女は338年頃、大王の従兄に当たるアミュンタスと結婚してアデアという娘を得たが、その直後フィリッポスII世の死去の後の勢力争いで夫を粛清されていた。(謀殺者はオリュンピアス?)

 

キュンナは大王の死後、十五歳になったアデアを連れてバビロンに向かう。アンティパトロスはこれを阻止しようと軍を送るがキュンナはこれを突破してアジアに入域する。

ペルディッカスも彼女を阻止しようとアルケタスに軍を委ねるが、キュンナは兵士らに血統を訴える演説を行って心服させてしまった。夫アミュンタスが生きていれば、大王の死後の王位は間違いなく夫のものであったはずなのである。そこでアルケタスはキュンナを刺し殺すのだが、兵士らが暴動を起こすほどになったため、ペルディッカスもアデアとアリダイオスの結婚を認めないわけにゆかなくなった。

そこで国王フィリッポスIII世(アリダイオス)と王妃エウリュディケー(アデア)が成立した。322の夏 亡きアミュンタスの未亡人キュンナの宿願は命と引き換えに果たされた。

 

同322年の夏、王族を巡る女たちの争いが激しくなりクレオパトラとアンティパトロスの娘ニカイアが相次いでサルディスに来た。共にペルディッカスと結婚するためであった。そこでペルディッカスはクレオパトラとニカイアの二人から求婚されて迷うことになった。

老年のアンティパトロスは既に娘二人を有力な将軍二人に嫁がせていた。そのうえ摂政ペルディッカスまでも婿にできるなら権勢を圧倒的に強くできる。

ペルディッカスはとりあえず老獪なアンティパトロスとの関係をとりニカイアとの結婚を承諾するが、すぐに離婚してクレオパトラと結婚する意志を密かに彼女にだけは知らせた。その策略に王位への野心が見える。

しかし、ペルディッカスの元で彼と対立し始めた隻眼のアンティゴノスがこの秘密をアンティパトロスに知らせた。

ペルディッカスの野心を知ったアンティパトロスはエジプトの太守となっていたプトレマイオスと組んでペルディッカスをはさみ打ちをする。

ペルディッカスは配下のギリシアエウメネス小アジア方面を任せ、自らはエジプトを目指したが、ナイルデルタで渡河に失敗し、戦う前に二千を失ってクロコダイルの餌とし、将軍としての権威は地に落ちた。兵士らの間には不満を越えて怨嗟の声が広がり、ペルディッカスは騎兵たちの手に掛って死を遂げた。

ペルディッカスに期待していたクレオパトラの願望はまたも消えた。

 

一方で、ペルディッカスに母を殺されながら王妃の位について夫フィリッポスⅢ世に同行していたエウリュディケーはエジプトからシリアのトリパラデイソスまで軍が撤収したところで、軍への命令権を主張し始めた。摂政ペルディッカスが亡くなったところで知恵遅れの夫に代わって軍を動かす権限は自分にあるというところである。だが、まだ16歳の少女に軍が従うには兵らの自尊心が傷付いていた。

そこへアンティパトロスが軍を率いて合流してきたが、エウリュディケーは彼を摂政ペルディッカスを死に至らしめた王国の敵として弾劾した。丁度そのときアンティパトロスは兵士らへの給料の支払いが滞り、軍に不満が募っていたので兵士らの暴動が起り、アンティパトロスはアンティゴノスとセレウコスの必死の説得と保護が無ければ殺されていたほどであった。

 

前321年の末、アンティパトロスはフィリッポスIII世と妻エウリディケー、それからアレクサンドロスⅣ世とその母ロクサナの四人の王族を連れてヨーロッパに入った。亡きペルディッカスがひそかに結婚しようとしていた大王の妹クレオパトラはそのままサルディスに居た。(パリュサティスの所在?)

この頃アンティパトロスは八十歳代になっており、マケドニア本国の摂政の後継を指名すべき時期に達していた。そこで六十歳代の野心の薄く気立ての良い重装歩兵隊長のポリュペルコンを指名した。しかし、この人物は太守を務めたこともなく、政治的力量ではプトレマイオスやアンティゴノスに到底及ばなかった。

ポリュペルコンは、オリュンピアスにエペイロスからマケドニアに戻り、新王アレクサンドロスⅣ世の保護者となるように求めた。しかし、オリュンピアスはこれを静観していた。それにはエウメネスの助言もあってのことであった。(エウメネスは前361年生まれで、カルディアというギリシアの都市の出身であった。フィリッポスⅡ世に見出され、大王の許では遠征軍の書記官であった。大王亡き後は小アジア北東部の二つの地域を任されていた)

他方、アンティパトロスの息子のカッサンドロスは父のポリュペルコンへの後継指名には大いに不満を懐いた。そのうえポリュペルコンがオリュンピアスをマケドニアに呼び寄せようとしたことは、彼の怒りに油を注ぐことであった。

なぜなら、大王に死についてのオリュンピアスが行った父アンティパトロスへの誹謗中傷について大王に申し立てするためにバビロンに赴いた際に、オリエント人が王に跪拝礼をするのを見て嘲笑したため、大王自身に髪の毛を掴まれ、壁に頭を打ち付けられたことがあり、父の弁明でも大王に話の腰をいちいち折られ、反駁されてしまっていた。それはずっと後までカッサンドロスの亡き大王への恐怖を懐かせることとなっていた。

そこでカッサンドロスにとってオリュンピアスは敵であり、それはアンティパトロスとオリュンピアスの対立関係の継続でもあった。しかも父の遺訓は「女にはけっして王国の支配を任せてはならぬ」であった。確かに、大王亡きあとの王国は女たちの暗躍により、摂政や将軍らが権力争いを激しくしていた。カッサンドロスの強い敵愾心と野心を見抜かなかったことでは、アンティパトロスは摂政後継の人選を明らかに誤ったと言われる。そのためにマケドニア内部に分裂の危機をもたらしてしまっていたからである。

 

前318年、ポリュペルコンは反旗を翻したギリシア諸都市の制圧に乗り出した。ほとんどの都市は恭順を示したが、ペロポネソスメガロポリスだけは服従しなかったので、これを攻囲したが失敗し、同じ年の夏にはアンティゴノスの艦隊に海軍を打ち砕かれてしまったので、ギリシアの諸都市はポリュペルコンを見限り、カッサンドロスの側に着いてしまった。カッサンドロスはアンティゴノスから船35隻と兵四千を借り受けてアテナイに上陸し、ギリシアでの勢力獲得に努めた。

他方でポリュペルコンは、ギリシア遠征にロクサナと幼いアレクサンドロスⅣ世を伴ったが、フィリッポスⅢ世とエウリディケーをマケドニアに残してきた。この王権の所在の分離が争いを呼ぶことになった。

エウリディケーはポリュペルコンの権威の失墜を好機と捉え、マケドニア内のカッサンドロス派に接近し、摂政の座をポリュペルコンから奪い、ギリシアに出征中のカッサンドロスに与えると宣言した。こうしてエウリディケーはマケドニア国内に於ける実質的単独支配者となった。

ここに於いてオリュンピアスがエペイロスを出てマケドニアに戻る決意を固める。自らの孫アレクサンドロスⅣ世の王権を確かなものとするためであった。

それを知ったエウリディケーはペロポネソスに居たカッサンドロスに出来る限り早くマケドニアに戻るよう要請したが、それを待たずに自ら軍を率いてポリュペルコンとオリュンピアスの軍勢に対するためにエペイロスとの国境付近に向かった。

両軍がエウイアという場所で向かい合ったのは前317年9月であった。

しかし、ディオニュソスの巫女の扮装で現れたオリュンピアスを一目見た遠征帰りの兵士らは、大王から受けた恵みを思い起こし、皆がオリュンピアスに降ってしまったので、戦闘も行われることがなかった。

エウリディケーとフィリッポスⅢ世は捕えられ、獄につながれる身となり、オリュンピアスは処刑までの間、僅かな水と減らしたパンだけを与えた。

オリュンピアスはフィリッポスⅢ世を騎兵に槍で突かせて殺害し、ついでエウリディケーには更に陰湿で、圧力と時間をかけて自殺に追い込んだ。(この以前にはフィリッポスⅡ世の死の直後に、夫の最後の妻クレオパトラとその嬰児とを残虐な仕方で殺しており、それは息子の大王に咎められるほどであった)

こうしてマケドニア王統は半分の継承者を失うが、オリュンピアスのこうした残虐性は、遠からず酬いとなって返されることになる。その結果は、王族の全滅となるのであった。

 

マケドニアはこうして王族の女たちによって分裂を深め、以後も争いが絶えず、ヘレニズムは広範な文化の混濁する文明となっていった。

 

 

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後代のシリア語テクスト(脚色)

「神よ、諸王と諸士師の主よ、我は知る、御身が我を他のすべての王の頂点に立たせ、我が頭に二本の角を生やしたもうたことを。それをもって万国をつき抑えるように。どうか天空よりお力をお授けくださるように。世界中の国々に勝る力を得て、それらを罰することができるよう、我は御身の名を永遠に賛美し、御身の記憶は不屈のものとなるであろう。我が国の憲章に神の名を記せば御身にとって永久の記録となるであろう」

「見よ、我は汝にあらゆる国々に勝る力を与え、鉄の角を2本、汝の頭に生やした。汝がこの世の国々をつき抑えるように。(中略)だが見よ、大勢の
王とその軍が汝を討つためにやってくる。我が名を呼ぶがよい。汝の助けに参ろうぞ」。

これらに依拠してネルデケはこの論文において「『コーラン』の二本角の一節は、シリア語のアレクサンドロスに関するキリスト教伝承によっている」と推断。

1890年に発表されたテオドール・ネルデケというドイツの東洋学者の「アレクサンドロス物語の歴史に関する論考」(Theodor Nöldeke

 

 

 

エゼキエル第37章以降

前記事⇒ エゼキエル書の構造

 

37章1節にはそれより前の部分との終末啓示の下賜された期間とに違いがある可能性を含んでいる。それ以前は『第12年10月5日』即ち、前586年であることが記されているが、37章から一続きの内容として39章末尾まで続き、次いで40章からはいきなりに『第25年1月10日』即ち、前571年に飛んでいる。その経過は14年(15年目)となっている。

記述のままに、37章以降が属する33:21からの内容は、それ以前のように諸国への糾弾から、聖都エルサレムの陥落の報を受けた夕方から啓示が与えられており、イスラエルへの咎の宣告と捕囚民の無理解が予告される中で律法体制の牧者らの犯した悪行が描き出される。その後回復が幾らか語られて37章を迎えている。

従って、37章以降の背景は、イスラエルが聖都と失った後の預言であり、それ以前の内容である咎を責める語調から変化が見られる。全体的には「回復の預言」となっているが、40章以降は謎がある。

(神は常にエゼキエル自身を自らの側の者『見張りの者』として語り続ける)

 37章~39章の書かれた年台は前586年以降で前571年以前のどこかということになるらしい。

エゼキエル書は36章を最後に「エルサレム」と「シオン」の名が一度も現れずに終わる。37章から最後までこれは徹底しており、「イスラエルの地」または「イスラエルの山地」という曖昧な言葉に終始する。>

 

 

・骨の蘇生

37章の場面は明確にそれ以前とは異なって、エゼキエルは霊によって平原に連れ去られている。

その谷の平原には乾ききった人骨が無数にあったが、エゼキエルはそれらの骨に向かって預言することを命じられる。

それらの骨は肉体を構成するようになり、四方の風がそれらに命の息をもたらす。

神はそれらを『イスラエルの全家である』と言われる。

 

・二本が一本となる棒

『ユダ』と『イスラエル』の棒は預言者の手に在って一本と化す。YHWHは諸国から彼らを集め、『一人の王を戴き』、『もはや二つの王国に分かれることはない』。神は彼らを清め、彼らは神の民となり、神は彼らの神となる。

彼らは父祖の地に住み、その王はダヴィドであり、神は彼らの上にその幕屋を広げ、聖なる処は彼らの中に置かれる。その聖所が彼らの中にあるのを見る諸国民はYHWHイスラエルを聖なるものとしていることを知らねばならない。

<前518年(ダレイオス四年)以降にゼカリヤが記した二本の杖とは対照的> 

 Jer23:5/Jer30:9/Jer33:15・22/34:23・24/Ez37:24・25/Hos3:5/

Am9は別途

 

続く38と39章はゴグに関する預言で占められるが、これも終末(38:8)について語っている。

安らかなイスラエルを襲うゴグは、タナイームに恐れを与えてきたので、「ゴグの害を避ける方法」も唱えられた。⇒「ゴグとマゴグの戦いの不運」

滅び去る聖都として何度も語られた「エルサレム」の語は37章以降にはまったく出て来ない。また「シオン」の語に至ってはエゼキエル書に一度も無い。これは非常に示唆的で40章以降の謎も含めて解く手掛かりとも言える。

イスラエルという民に対する諸国の軍の攻勢を主導するが、その軍はアッシリアの攻勢の時とはっきり異なるのは、南方系クシュ、プトの従軍が有るとされるところにも表れている。殊にクシュはアッシリアを最後に脅かした勢力であるので、はっきりと別物であることが分かる。これについては「鉤をかけて連れて来る」がイザヤのものとは逆に語られている。しかし、双方共に神の強い意志により必ず行われることを言うのであろう。

また、語られているトガルマが北の果てというのは、当時の世界観で言えることであったのであれば、これはイザヤの語る北の果てとは異なる意味になる。しかし、ゴグが攻勢のために来る方向が北の果てとされているこちらの言葉は、イザヤの意味と同じものらしい。⇒「ゴグの民族について」

ここでのイスラエルというのは、諸国から集められる民だけを意味しない。城壁も閂もなく平穏に過ごしているのは、子の方ではなく母親の方といえる。この両者をつなぐのはメシアの祈りの言葉の中に見える。それは選ばれた民が天に去った後であれば、その蓋然性は十分にある。神が守るべき民とは選ばれた民とは言えず、ここでイスラエルへの攻勢が同士討ちに終わる記述からすれば、このイスラエルは聖徒にはならない。

<新しい角に関する情報はエゼキエルには無いようだ。契約を追うダニエルとは補完関係にあるらしい>

<その意味で言うと、40章以降を含めてエゼキエルはダニエルよりも暗い>

<以前に書いたタイムテーブルは幾つか順番が違ってきている>

 

 エゼキエルでのゴグの働きは黙示録16章での偽預言者を含む霊感の言葉と整合している。これはヨエル3:9以降にも通じる。エゼキエルでの、この結末についての同士討ちは古くはエホシャファトの故事に予型が見られ、それをやはりヨエルが預言して確証している。

同士討ちについてはゼカリヤ14:13-14にも予告されており、「ベラカの谷」の概念が再出している。これらは一つの事象を指していると思われ、それはエゼキエルの38:17で『先の預言者によって語ったこと』と念が押されている。即ち、エホシャファトの故事に発するヨエル(前9世紀)以来の神の預言を言うのであろう。

こうなると、ゴグ自身の場所が『北の果て』とされる意味に見えるものがある。彼は政祭の頂点に居る。更にマゴグがゴグの地所であるのなら、マゴグの正体も見えてくる。⇒「ゴグとマゴグの関係」

そこでエゼキエル40章以降の謎の神殿がどう関わるのかも繋がってくる。

これは相当にクリティカルな内容になるが、ネイヴィームとパウロと黙示とイエスの言葉が一事案の方向に収束されていることになる。当然ダニエルにも散見される。ただ、聖書中では総合されずに散らされている。その目的は理解を妨げるためであろう。直に知ることが避けられているというよりは、諸説が入り乱れ、謬説が流布することが意図されているらしい。理由は終末の背教を誘発することにあるようだ。<ダニエルの12:4は良い意味での預言でないのかも知れない>

というのも、その謬説が終末でのカイヤファと祭司長派の働きを為し、その協力者を招じ入れるための神の遠謀深慮が込められている可能性が排除できず、人は容易にその罠に嵌まる。というより既に嵌まっている。預言の前に人は恐懼すべきであるのに、自分の解き明かす身分に酔っていれば、たいへんなことになる。

 

 ・ハモナー 

 Ez39:16 הֲמֹונָ֖ה

39:15「ゴグの群衆の谷」 אֶל־גֵּ֖יא הֲמֹ֥ון גֹּֽוג 

モナーが二回あり、ハモナーそのものが「(組織された)集まり」また「群衆」の意あり。

「ゴグの群衆」の群衆がハモンであり、ハモナーで女性形。また「数えられた」の意あり。

「海の東」は死海を指すとのこと、「海の道」を意味しない。

敷衍して、「ゴグに蝟集した者たちの組織された群衆」。

16節では都市の名としてハモナー(f)であり、この都市が突然現れるかのように訳されているが、新共同訳は「そこで、ハモナ(軍勢)という名の町ができる」としている。ヘブライ語の簡略さがその由来の詳細を明らかにさせない。

ここでの『街』というのは、ニムロデの都市国家を含意していると捉えると、その墓としての象徴的意味に解せる。⇒『ゴグとマゴグに惑わされた民は地に広がり、聖なる者たちの宿営と愛される都市を囲む』Rev20:8-9

『その日、わたしはイスラエルのうちに、墓地をゴグに与える』の『墓地』はシェオルでなくケベル[ קֶ֜בֶר]になっている。通常の墓の意ではなく「埋葬地」となるけれども、「死体置き場」に近い。

 

 

 

メモの集積

-逆方向へ-

 

・滅ぼされたのはソドムとゴモラだけでないJr50:40

・「あなたの知恵と知識があなた(バビロン)を誘いだした」Isa47:10

・例年ペサハを行っているところにキリストが『主の晩餐』を始め、贖いと解放を示した。キリストの実体の前表であった晩餐そのものも前表であり続け、それはやがてキリストの臨在を知らせるものとなり得る。従って、それを推し進める聖徒ではない者が誰か居なくてはならない。忠賢者が主の到着の時期と深く関連付けられているので『シオンを嘆く者』が居なくてはならない。

・Isa60は聖徒ではない者たちについて長く述べている。

・神の裁きに於いて試されるのは何か?アダムとエヴァの場合には「決定」であった。だが、その子孫の場合には個人の内奥の倫理的傾向であるようだ。それは社会的道徳性には現れない。その例として、ダヴィド王の悪行と神の評価には人が理解に苦しむ程のアンバランスが見られるし、それはアハブ王でも変わらない。アハブやマナセJudに限らず、生涯の結論的評価が人の間では低いにも関わらず復活して神の裁きを受けるのであれば、神は人の表層ではなくかなり深く内面を見ると言える。従って、裁かれるのは個人の道徳の程度にはならない、特定の悪行によってその人が相対的に裁かれると考えられがちだが、そのように捉える人々にとって、ダヴィドへの神の処遇が上手く説明できないことになる。『彼(DVD)は、わたしの法と掟とを守ったからである』1King11:34  ⇒「子は必ず死ぬ」ダヴィドの贖いとされている「ダヴィドの子」か?

 

・救いへの願望がもたらす経綸理解

神の救いにすがりたいと願っているところで、聖書の断片的言葉にすがりつき、本来の神の言葉の意図を歪めて捉えてしまう。

 

・『また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。』口語

[οἴδαμεν ὅτι ἐκ τοῦ θεοῦ ἐσμεν καὶ ὁ κόσμος ὅλος ἐν τῷ πονηρῷ κεῖται]

『知っている なぜかを のものである 神の そして この世は すべてもの 悪いもの  横たわっている』

”We know that whoever is born of God does not sin; but he who has been born of God keeps himself, and the wicked one does not touch him.”NKJV

前の節

『すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。』

19節は聖徒について述べている。また、[κειμαι](原)は「操られる」ではなく、「横たわる、定まる」である。キリストに言ったように『属している』という以上の意味はない。

 

・あの動画(ハーベスト系)の欠陥は、テサロニケに書かれた「背教」を終末に来るものとは捉えず、いまだにローマ・カトリックに同定しているところにある。彼らには「終末の背教」という概念が欠けており、これはアメリカ系の新興キリスト教によく見られる。カトリックを踏み台とすることで自分たちの正しさを感じたいのだろうが、ダニエル書の理解が短絡的で、終末に関わる聖書の情報の総合が幼稚な段階に留まっている。

・神殿が再建された当時、ペサハは14日に行われていることがエズラ6:19-22で分かる。続けて七日間の無酵母パンの祭りを行っている。セデルの15日への移動はその後に時代のもので、おそらくはタナイームが元凶ではないだろうか。あらゆる聖句を絶対的に見做す以外に動機が見当たらない。

 

・『わたしたちは皆、一時は肉の欲に従って生活し、生まれながらに憤りの子であったものを・・』Eph2:3

-この世を推動しているものは貪欲である--この世に属するすべての人は(信者も含めて)憤りの子のままである-

 

・『神は天のものも地のものも、キリストに在って一つにする』[οικονομια]というパウロ論議から創世記を見ると、人が『地を治める』とは、地上の「管理」というだけでなく、「一つのオイコノミアにまとめる」という意味があるのかもしれない。それならば、先史時代、化石時代の自然界が弱肉強食であっても辻褄が合う。そこで人の特質は「愛」であると言えることになる。失楽園の時に自然界は以前の状態に戻ったと言い得る。

 

・『今この時期に百倍を』は、既にイスラエル同朋であった弟子らが、別の同朋を得ることを言われる。これは後の『同朋の兄弟全体』を指していたと思われる。どうして以前の同朋関係から離れたかと云えば『福音のため』とされており、メシア到来による『神の王国』の接近のために、弟子らとユダヤ体制との間に信仰を巡る異なりが出ていたことを言うのであろう。(Mk10/Lk18はより詳しい)

またルカは違った場面で『(永遠の)命を得る』ことについて記し、イエスは律法中最大の掟に関してこれを述べている。Lk10 ヨハネは愛と永遠の命を関連付けたイエスの発言を記録し、それは書簡とも一致する。Jh3

また、なぜ富者に主要な律法を守る事と『完全であるために』追随者となるよう求めたのかは、五旬節前であったので、律法体制下での要求がされたと見做せる。これは『義人はその義によって生きる』に代弁されている。従って、『信仰による義』が示されたのは、早くはキリストの死からであり、五旬節の奇跡に預かった人々はその信仰の義に達したと言える。

この件で問題となるのは、永遠の命が従順と関係しているかのように見えることだが、律法体制下に在った人々に語られた言葉をそのまま五旬節以降に適用するのは間違っている。特に使徒パウロ論議とは真っ向から衝突することになる。加えて、人は失楽園以来、支配されなければ秩序を保てない存在となり、その次の世代から神への崇拝が始まっている。この件が崇拝と支配とを混同し易いものとしているのかも知れない。

<「永遠の命が従順から来る」と教えるキリスト教の教師が居るなら、その者は信者を支配する陥穽に堕ち、支配原理は必ず恐怖となる。1Jh4:18>

 

・信仰の自発性

この点を考えてゆくと、『罪』有る人間にどこまで自由があるかという「あの二人の論争」が関わって来る。だが、究極的に『信仰』という一事に神が人の判断を委ねる以上、これは人間が論争するまでもない。むしろ、それが「見えてしまう」事の方が裁きを無効にしてしまうことになる。パウロ自身が自分について嘆いているように、罪人とはいえ、その罪を自覚することはできる。それはキリストの傍らで処刑された一人を通しても明らかにされている。

それであれば、どんな人も自分の信仰について「安心」するべきでもないし、不安に駆られる必要もない。裁きは己から離れたところで為される。それでも不安に思うなら、それは病的な利己心が働いているのであり、本来「裁き」とは自分の制御不能なものであり、その恐れは『愛』が欠けている証拠とも言える。愛は自分の処遇がどうかを主に考えることを「忘れる」。自発心からの「忠節」は他者の益を図るが「忠実」はそうではない。神を宥めて保身しようと自分に関心向いているのであり、実は利己的な動機の余地が大きい。全能の神が人にロボットのようになって欲しいわけもない。神にとっても人にとっても『命に勝るもの』がある。

従って「信仰」には「愛」が関わるもので、単に「信ずる者は救われる」という定式的理解にしがみ付いていると、神の御前には逆の姿勢を、利己的精神を募らせることになりかねない。多くのキリスト教は、この点で「信仰」をただ教会への所属のように見做して、利己心を培養してしまってはいないか。

 

・二世信者への影響は その宗教の質を試す

神は善悪の知識に木も二人も監視していないが、強制すればそもそも二本の木の意味がない。親の立場に在った神にとって二人に死んで欲しいわけもない。それでも強いなかったのは、譲ることのできない彼らの自由意志の選択にあった。彼らも『神の象り』であり、それを尊重するのは神自らの尊厳を守ることであり、彼らの神に似た特質もその不干渉によって守られている。

そこで信者に永遠の命を約束する宗教は、二世に対してジレンマを避けられない。どれほど親が子に永遠の命を得させようと努めても、そうするほどに神でさえ侵犯し得ない神性、また個人の尊厳を踏みにじってしまう。しかも、実際には命から遠ざけていることになる。蛇を用いたサタンが二人の前に誘惑を置いたように、親が子に命を得させようとして、サタンとは逆方向に誘うのであり、結果は同じく神の意向に逆らい、裁きを無効化しようという目論見に向かってしまう。当然、信仰の自発性は窒息させられる。もちろん命を与えるなどという事は人を超えたことである。

その宗教の前提として、自分たちだけが正しく「永遠の命」(或いは来世)の道を教えていると思うところが全く間違っている。だから、神の意志とは反対の行動をする。

また、これは精神的牢獄に子らを押し込んでしまうので、間断の無い「命懸けの緊張」が精神疾患をも与えかねないが、実際に「ものみの塔」には端的にそれが見える。この宗派が伝道を「命を救う業」としているのは、創造神を差し置いた傲慢な主張であるばかりか、圧政国家のような人間性への冒涜でもある。

 

・Act24:5によれば、すくなくともエルサレムでイエスの弟子らは『ナザレ派』と呼ばれていた。そういえば福音書中でキリストが「エシュア」なり「イエス」なりと人から呼ばれている場面をほとんど見ない。『あの方』『あの男』と呼ばれることが多い。エシュアがよくある名であったせいか?むしろその名は異邦諸国で広められる素地があったのか?

 

・Act12:24で「エホバ」を挿入するのはまったく支離滅裂なことになる。

・18-9世紀英米キリスト教には、異様な「取り繕い」を感じる。清教徒の影響らしく、非常に閉鎖的で外面的善人を気取るところが強い。人間の道徳的実際から遊離した潔癖性を特徴とするが、同じ人間であるところは変わらないので、それがあちこちから邪悪さとなって漏れ出てしまう。それを「取り繕う」のがキリスト教の働きになってしまっている。アメリカのWAPS主義は現在もその延長線上を生きており、戒律的また階層的でもある、あの国は人間をどう見做すかに於いて、そう優れてもいない。思想信条は自由とされながら、特に中西部では偏狭な新教キリスト教主義がむせ返っている。加えて安直にユダヤ教に共感している。あれでは宗教合同に向かい兼ねないうねりが既に存在している。(やはり二本の角の獣か) 聞くところでは、日本の精神風土の方がまだ自由に、あるがままに人を見ることができる。

<もっとも日本は、異教徒に理解があるわけでもないのだが、古来二つの宗教を同時に信奉してきたからか、「偏り」を避ける気構えができている。外部の偏ったものは偏ったものとして眺めていられる。しかし、公共の無宗教には程遠く、宗教を公平に見てはいないし、公明正大というわけでもない。この点でいずれ何かが有るだろうと思う。>

 

預言者の限界

預言者でさえ夜中にようにつまずくHos4:9預言者にはその道に罠がある Hos9:8 預言者は愚かな者となるHos9:7 敵愾心が大きいために狂気する。神はわたし(エリシャ)に隠してお告げにならない2King4:27⇔Ams3:7

 

・キリストが木に架けられた目的は、『アブラハムの祝福がキリストを通して諸国民に及び、そうしてわたしたちが信仰によって約束の聖霊を受けるためであった。』Ga3:13-14

 

・世相

武器や基地に反対することが平和を招くと思う人は少なくもないらしい。だが、争いは常に人間自身から起るのであり、武器や基地や軍隊や核兵器を無くすることが平和を招きはしない。

そこで『この世』というものを見切る必要がある。神の見方はそのようであろう。「神がいるなら、どうして悪の存在を許しているか」との問いは的外れであり、人間自身での解決を目指すことも同様である。

人間に倫理上の欠陥がある限り、人間が自ら争いを無くすことは全く不可能なことであり、権力を必須とする。

従って個人としては『この世』に対して一定の距離を置こうと努めることのほかにできることがなく、『この世』に居る限り、また倫理上の欠陥を持つ限り、権力の効用を受けながら生きる以外に方法はない。

権力と権力が衝突するのは、個人と個人が衝突することの反映であり、これを抑制しようと努めることはできても根絶することは絶対的に無理である。

加えて、権力と権力とが分立しているのは、必ずしも災いとなってはいない。

全球的絶対強権が防がれてきたからである。

今日のこの世で最大の強権集団は隣国であり、そこは実際には存立し得ない絶対正義が支配している。しかも国民の大多数の人々さえも、それが絶対正義に程遠いことを知っている。

では、なぜ絶対正義が説かれるかと云えば、極端な利己主義の横暴がそこに在るに過ぎない。この利己主義の究極的象徴は更に極まった形で終末に現れることになろう。それは隣国さえ遥かに超える超強権であり世界支配に近付く。

なんと恐るべきことか、これを公表するとなると

 

 

・仮説

エレミヤの諸国への糾弾とその後に集めるという繰り返しは、「北からの敵」が介在している。この北というのは十本の角の事であり、大いなるバビロンに含まれる諸宗教ではないのか?なので「集める」というのは、シオンに流れて来ることを指すのでは?そこでエドムだけが例外となる理由が生じる。

 

・復活について

『彼の復活と似た様になって彼を結ばれる』Rm6:5

『死人を生かし、無い者を在るかのように呼ばれる』Rm4:17

『働く者にとって報酬は賜物ではなく当然である』Rm4:4

Joh5:28はJoh11:25と同じものである。

1Cor15:13の『復活が無いとすればキリストの復活も無かった』というのは、キリストに復活が他のすべての復活の根拠であり基礎となったから 

 

・Isa11:13 どれほどユダとイスラエルが不和であったか

・神は高ぶる人を赦すことはない Isa2:12

 

 ・律法は契約としては終わったが、律法そのものが示した義の基準はキリストが満たすことを通し、その犠牲の完全性を永久に証しするものとなっている。従って一点一画も廃れてはならない。

 

・『愛を通して働く信仰』Ga5:6

・神殿再建時のレヴィが用いたのは『ダヴィドの楽器』であった。2Chr29:25 ダヴィドは楽器の考案から用法を指導し、自らの詩篇歌を自ら組織したレヴィの合唱隊に歌わせ、それはソロモンの代に神殿祭祀として定式化されている。銀製のラッパはモーセ以来使われていたが、音律の調整がされた可能性は高い。十弦の楽器はペンタトニックであったか?

 

・祈り

Joh16:24「わたしの名のよって求めたことがないが、これからは求めよ」-大祭司職への任命を含意か、祭司職の罪祭の浄めが可能となった-

2Chr7:14 祈って謙るなら祝福を得、心を整える作用が生じる。

祈りは自己正当化の根拠にならないし、そうすべきではない。

 

・ルカの例え

Lk14:25-18:34が一場面で語られる。あるいは14章からずっと続くイエスの講話集として書かれたかもしれない。この間の例えは相互に関連性を持っている可能性は無視できない。

 

・ディオグネートスへの手紙3-4

ユダヤ人たちはいわば不足を感じている神に自分たちがそれを満たしていると考えることによってエウセベイアではなく、むしろ愚かなことを考えているというべきだろう。・・EX20:11・・血や薫香や燔祭を神に捧げ、それらの表敬の品々によって神に畏敬を表していると考えている人々は、唖であるものに同じ表敬を示している人々と何一つ違わないようにわたしには思われる。後者は表敬の品を受けるこのできないものに向かってそうするのであり、前者は何一つ必要としていない方に供えていると考える。

食物に関しての彼らの小心さ、安息日に関しての彼らのエウセベイア、割礼に関しての彼らの自慢、断食と新月の祭りに関しての彼らの芝居じみた行動、これらは笑うべきものであり、言葉を費やすに値しないものであり、わたしはあなたがそれらについてわたしからお聞きになる必要のないものと考える。

 教祖や団体に個人の時間や労力を捧げて、本来の隣人である身近な人々への世話を減らす口実にしている信者たちは、上記のようであり、コルバンを理由に神を第一にしているつもりで、身近な人々を自己義認の犠牲にしているあらゆる信者の悪行をユダヤ教徒を例にして教えるところがある。

 

 *ああ、そういうことか・・ゼカリヤの仮庵が見えた  3.29.19夕

 

 ・『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。』

” if anyone hears My words and does not believe, I do not judge him;”

『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。』Jh12:48

[ὁ ἀθετῶν ἐμὲ καὶ μὴ λαμβάνων τὰ ῥήματά μου ἔχει τὸν κρίνοντα αὐτόν· ὁ λόγος ὃν ἐλάλησα ἐκεῖνος κρινεῖ αὐτὸν ἐν τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.]

[ἐλάλησα](動)直アオ能1単 「話す」原[λαλέω])

 "He who rejects Me, and does not receive My words, has that which judges him-the word that I have spoken will judge him in the last day.

 

 

・「彼が最初に努力するのは自己保存であるが、それへの心配をすませてしまうと、直ちにおこなう次の努力は、端的にいって種族の繁栄である。
人間は単なる自然状態の存在であるかぎり、努力できるのはせいぜいそれくらいのことであろう」
(ショーペン「意志と表象としての世界・正編」第六十節。西尾幹二訳・中央公論社

 

 ・バプテスマが祭司の水の浄めと関連するのであれば、祭司の崇拝奉仕に備えさせるという意味があったかも知れない。これはキリストに名によるものがそう言える。だが、地上での彼らの奉仕は神殿のものとは言えず、それは第二神殿再建以前の祭司らの立場に似ている。彼らが神殿定礎につき『身を清めていた』とされるところは、常供の犠牲を捧げることに於いてのみ、仮の奉仕であった。これは地上での聖徒の働きに準じるものではある。

あるいは、無意味な整合ではないのかも知れないが、もしそうなら、ヨハネバプテスマは信徒へのものとも言えることになる。その受浸者らからキリストの受浸者が現れて、その者らに聖霊が注がれている。そうなると、ヨハネバプテスマは祭司の水の浄めではなかったことになるが、それは何に相当するものか?

また、キリスト自身はヨハネバプテスマを受けて聖霊を授かることに於いては例外であった。これはアロンの何かを表すものだろうか?

それでもエチオピアの宦官はイエスの名による浸礼を受けながら聖霊は降っていなかった。これはコルネリウス以前であったためだろうか?これはエチオピア教会のユダヤ的特殊性と幾らか関係があるのかも知れない。それでも伝承によれば、使徒マタイはエチオピアで殉教しているので、これが正しければコルネリウス以後、この地にも聖霊を及ばせる働きであったのかも知れない。

 

 

・夜 Lk17:22 一日でも見たいと思いながら・・見よここに

光を必要とせず夜もないIsa60

⇒ 

⇒ 待たれるべき

⇒ 昼と夜

 

・pιστος には能動的に「本人が信仰を働かせている」意味と、受動的に「忠実な者」として第三者から評価されているふたつの意味があり、文脈によって判断される必要がある。(岩波委員脚注から)

<これなども翻訳者を試みる要因のひとつとなっている>

 

 

・神殿の緞帳

神殿の宮は、長さ90フィート(27メートル43センチ)、幅30フィート(9メートル14センチ)、高さ90フィート(27メートル43センチ)と告げられている・・・その宮は二つに分けられ、最初の60フィート(18メートル28センチ)は、聖なる聖地で・・・大いなるカーテンが、その聖なる建物のもう一方の三分の一の部分を隔てている(Dr. John R. Rice, The King of the Jews: A Commentary on Matthew, Sword of the Lord, 1955, p. 479)。

“その地震は、物理的素地を提供したかもしれないが、神殿の幕の引き裂きは疑いもなく、神の御手でもってなされた”(Alfred Edersheim, The Life and Times of Jesus the Messiah, Eerdmans, 1945, volume II, p. 611)。 エダーシェイムは、その幕の厚さは、ひとの手の甲(2.5インチ=6.3センチ)の厚さであった、と指摘しました。 “もしその幕がタルムードの中で書かれているようにつくられているならば、単なる地震によって二つに引き裂かれることはない”(同著)。

幕が引き裂さかれたのはちょうど、“晩の犠牲を捧げる時、すなわち、その執行祭司が、焼香を焚くか、あるいは、他の儀式を行うために聖所に入った、その時に”(同著)、やってきました。 幕が引き裂かれたそのことは、これらのユダヤの祭司たちに、非常な衝撃を与えました。 チャールズ・ライリー博士は、“この超自然的に幕が引き裂された、ある結果は、使徒の働き第6章7節の中に記録されており、そこでは、‘そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った’と書かれている”(参照、Ryrie Study Bible, note on Matthew 27:51)と言いました。

キリストが亡くなられた時、その幕は二つに引き裂かれました。 そうして、キリストは仲介者ですので、あなた方は神に来ることができます。 あなた方と神との間を隔てる幕はもうありません。 イエスがあなた方と神との間にいるのです。 イエスに来なさい、そうすれば、彼はあなた方を、神のもとへ直接連れていくでしょう。

引用;https://www.rlhymersjr.com/Online_Sermons_Japanese/2014/041314PM_TheDayJesusDied.html

 

 

 

 

 

クリスチャンと称する人々の信仰

-LF-

 

概して「クリスチャン」と称する人々の信仰の特徴

・「信仰」を持てば「赦された罪人」である

 キリストが癒しに際し『あなたの罪は許された [αφιενται]直現受3複 』Mt9:2

・「信仰」持つのは神の奇跡でその人はこの世の前から選ばれていた

 エデンの『女の裔』の予告Eph1:4を誤解

・自分の中にキリストは聖霊によって住んでいる

 聖霊を注がれる聖徒が神とキリストと結びつく事を誤解 Jh14:23

・信仰ある自分は死後に天に召される

 契約にある聖徒への処遇を自分に向け経綸の目的を喪失(利己心へ)

・神に従順であれば敬虔な言行により神に近づける

 自分を敬虔な義人とする事に関心が向いている

 

幸福感の俗化

まず、神の意図するところが、信者を中心とした人々のこの世で幸福であると説き、その後は天国や楽園での至福に入れることであると信じる。

他方で、信仰を持たない人々は、その神の意図に入れず、人生で真の成功を収めず、死後は地獄、または滅びなどの神の裁きによって処断されるとも教えられている。

この教えは、宣教する側からすれば、信者獲得のためのアメとムチの便法ではあっても、キリスト教に限らず、この種の教理を受け入れた信者は、排他的にならざるを得なくなり、自然と優越感と蔑視を惹き起こされることになる。

これは、神を差別主義者であるとしてしまうばかりか、キリストに激しく反対したパリサイ人の精紳を懐くことでもある。

そこで「クリスチャン」やその指導者らは、この教えは聖書に基いていると唱えることだろうが、そこで聖書の字面を追って、そこに書いてあればそれがそのまま真理であると思い込む「聖書の偶像化」が起っている。

この手の「聖書への忠実」は、聖書がまったく神からの親切な指導の書であり、その通りにしていれば、神の是認に入れるという仮定に基づいている。

だが、キリストを葬り去ったのは、まさしく当時の聖書に精通し、その言葉を厳密に守ろうとしたユダヤ教の指導層であった。

もちろん、ユダヤ教徒は聖書の律法に口頭伝承の付け加えを行ってはいたが、律法そのものを一字一句守ることを目的としてのことであった。

だが、聖書そのものには、単に神の善意が語られてばかりではなく、人を糾弾する言葉も多く、むしろそのように厳しい内容の方が多いほどである。

それは、神の言葉が語られたのが、ほとんど神との契約関係に入った民に向けられたものであったことが原因している。

それは新約聖書でも変わらず、キリストを通して『新しい契約』に入った『神のイスラエル』への祝福と戒めがその内容であり、水のバプテスマによってメシア信仰を表した人々が選ばれ、聖霊を注がれて『聖なる者』として任命された以上、『多くを委ねた者には普通以上が求められる』ので、新約聖書にも多くの戒めが書かれているのである。

そこで神の意図というものが、ただ「信仰を持った人を祝福し恵む」ということを超えていることに気付くべきなのであるが、人は短絡的にまず自分に益があるかないかというところで信者になろうとするものである。

これは嘆かわしくも、人に普遍的な利己心の表れでもある。しかし、キリスト教というものは、キリストが自己犠牲の死を遂げたように、利他性を教えるものである。(コリント第二5:15)

特に『この世は始まる前から選ばれていた』という本来は聖徒に向けた言葉を信者一般に摘要してしまうことは「おめでとうございます!あなたが選ばれました」と射幸心を煽る不埒な商法と性質は変わらない、下劣な欲を引き出す人権を卑しめる教えである。どれほど聖書にその句があろうとも、適用が間違っているだけでなく、その教えによって信者にどのような悪を為すかを弁えていない。

 

自己義認

自分が「クリスチャン」であることにより、そうでない人々に対して高一等の誇りを持っている。それは敬虔さと品性を備えており、言動に節度と賢さがあって、神に通じているという自負心が見られる。十字架を身に帯び、また体の正面で印を結ぶことにより、神であるキリストへの帰依と献身と服従を誇りのうちに自認する。しかし、その正義感は自身のものであり、本人の良心の働きがキリスト教的常識に影響されることによる。その正義感は時に他者を圧迫し、また実力行使を辞さないこともある。その理由づけは、自分たちが神の側に立っているとの思い込みによる。

特にプロテスタント新宗教系に自己義認の傾向が強く、他の派を批判するところで自らの正統を唱えやすい。カトリック東方正教会は伝統と儀礼に重きを置くので、義化の方式が神秘主義的ではあるが、教理の合理性は弱く、そこに新興の宗派の拠って立つ場を与える結果となっている。

西欧では19世紀後半ころから「科学信仰」が勃興してキリスト教的伝統は、ほぼ好まれていない。積極的なキリスト教の中心は清教徒の植民した北米に移っている。現在ではアメリカ合衆国が自己義認の強いプロテスタント的国家であり、宗教の自由を標榜しながらも、政治までが極めてキリスト教的な慣行を持っている。対して中南米でのキリスト教は教会組織を通して政治に影響を与えることがあっても強くはなく、個人や家族親族の共通認識を形造り、信者は義認感よりは赦しを求める立場に置かれる。

 

聖書の見方

よく言われるのが「神からのラブ・レター」<これは軽率、いや、まったく軽薄>

聖書を自分を導いてくれる神との接点のように見ている。

また集団としては、聖書に従った教理を教え、崇拝を組み立て、自派の正統を確立できると捉える。聖書は正しく従う者に神の是認やさらに義をもたらすと信じる。だが、これはパリサイの轍を踏んでいる。

大前提として、自分や教団は神の是認に在ると思い込んでいる。その根拠は自分が信仰を持っていると考えるところにある。却って、神は自分を尊重し、救いを施すべき存在として見ており、自分が祈るとき必ず聴かれ、信仰ない人、また異教徒や異端者らと異なり神の前に高一等の立場を得ていると思い込む。

神との親密さを自分は得られていると思い込むが、それは教導者の差別的な教えに原因するところが大きい。

そのため『新しい契約』がどのようなものかを理解できず、むしろ自分たちが契約に預かっていると思い込んでいる。

そこで、神は自分に善意を懐いているに違いないから、自分は天国行きなり楽園行きにされるものとの決め付けが最初から置かれている。(ヨハネ5:39-40)

そのため自分の目的や都合に合わせた解釈をしようとはするが、神の真意を汲むことは二の次になり、聖書理解が荒唐無稽になる。混乱が明らかになると教師は「神の事柄は理解できない」と逃げる。それでは聖書の存在意義な何なのか?

しかし、聖書はそのような書物ではなく、悠久の時代に亘る神の経綸が収められており、これまでの神の行動からその意志を探り出すべきであるのに、自分が祝福など益を得られると思い込む願望が先行してしまい、古色蒼然たる神と人との交渉の積み重ねを単なるスピリチャルのように自分の利益に読み替えようとしている。

そこで重い教訓を得ることなく、生き方や生活上の決定や困難への対処法を得ようとして聖書に向かう。

そのため、このような信者は、自分に関する戒律や細々したことへの指導に迎合し、自分で判断し責任を持って行動することから逃れようとする。

<これは投資やギャンブルで失敗しない方法を知ろうとする動機と非常によく似ている。背景にあるのはこの世への対処の難しさであり、人格の未熟さも関係する可能性が高い。つまり、安直に従うことで間違いのない方法を得ようとしているのである>

 

 

ユダヤ教への接近

近年では、プロテスタント系の諸宗派がユダヤ教に接近しつつあり、ユダヤ人が依然として神の経綸を担う民であるとの信仰が強まりつつある。一部のプロテスタント派は、ファウンダメンタリストと結びつき、イスラエルキブツユダヤ人と共に過ごし、その仕事を手伝うなどまでしている。彼らはパレスチナ人の置かれた苦境に同情しているようには見えない。

カトリックユダヤ教への接近を見せているとは聞いている。アメリカ国内でのユダヤ教の崇拝はカトリックに似たものとなりつつもある。但し、イスラエル本国のユダヤ教は正統派が多く、こうした折衷を好んでいない。

また、ユダヤ教側からナザレのイエスをマシアハとして信じる「メシアニック・ジュー」が現れたことを歓迎する宗派もキリスト教側から出てきているが、メシアニック・ジューは律法を順守する事に於いて明らかにユダヤ教徒であり、人間の原罪とキリストの贖いについての理解に到達していない。だが、もしメシアニック・ジューに接近するキリスト教の宗派が、律法順守を容認するのであれば、キリストの犠牲の重さを知らず、キリスト教を保持しているとは強い難い。イスラエル本国でメシアニック・ジューは立つ瀬も無く、ほぼ存在しないと言うに等しく、その分彼らは他の国々に浸透することを主にしている。

米国ではメシアニック・ジュー以上に、ユダヤ教そのものに改宗するキリスト教徒が女性を中心に少なくない。まず、夫がユダヤ人であるためのケースがかなり多いが、男性での改宗者が然程多くないのは「割礼」が影響しているのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エホバの証人の排他性の由来

 

エホバの証人の排他性は、その「生き残り」願望を煽る教理に由来する。 

本来の所属動機は自己義認を得た少数者となっての「永遠の命」の獲得にある

彼らの聖書理解の優越性は、常にキリスト諸教会の中世的な解釈に比較する場合に限られており、聖書との整合性や論理性では未だ蒙昧の域にあり、突き詰めようとすれば会話を止め、ほとんどの場合、考慮することそのものを拒絶してしまう。

その原因は、自らが与えられるつもりの永遠の命が危険に曝されると妄想するからであり、その点では真理を愛するよりはよほど「ご利益信仰」であって、「神の経路」を称する「ものみの塔」は実質「見える偶像」とされ、その教理にも命令にも逆らうことは許されていないのであり、信者である「エホバの証人」は「ものみの塔」に対して重要な信仰内容の個人判断は差し控える。これは彼らの「信仰」が組織的に規定されたもののコピーであることを証している。

その自己判断の放棄も、個人で抱く信仰の体裁をとってカムフラージュされているが、実のところ、永遠の命を質に取られた教団組織への隷属となっている。他者との関係に於いては、神の是認を持つと妄想しているために、外面はともかくも軽蔑的であり、社会一般の権威を認めず、ごく一般的な人々と変わらぬ仲間を過大に評価し過ぎており、「兄弟」と呼び合いながらも厳格な身分階層が存在している。即ち、実質的に「現代のパリサイ人」として古代と同じ轍を踏んでいる。

彼らは、輸血や兵役の拒否など一般社会の人々との差別化により、自分たちには神の是認があり、また自分たちだけが永遠の命に値するとし、「ものみの塔組織信仰」に無い外部の人々を内心で蔑視しつつ伝道するので、基本的に利己的ではあるが、これについては不信者は皆「地獄行き」とする諸教会とも変わるものではなく、欧州キリスト教の価値観から出てはいない。特にプロテスタント諸派に同じく「聖書に厳格に従うことから神の是認を得られる」という前提を共にしているところでは根本的に同じパリサイ的精神構造を持っているが、その差別化が激しいために、諸教会ばかりか社会一般までをも見下し、信仰を別にした自然な人間評価というものを想定していない。その不自然な視野の狭さ、また周囲への隔絶性が彼らの排他的行動を形成している。

⇒ quartodecimani blog : 利己主義という一神教の盲点

 

 

◆概説

最重要視されるのは「命」であって、神や他者との関わり「愛」ではない。

この逆転は、「命」の機会を与えることが「愛」になっており、「愛」が「命」を生み出すとは教えられていない。「命」の由来は「愛」ではなく「従順」にあり、これが人間の組織からの搾取を許している。

エホバの証人に「人にとって最重要なものは永遠の命ではない」と言えば、理解できないと思われる。

しかし、全能の神がそう意図すれば、あらゆる人に永遠の命をすぐにも与えることは不可能でないに違いないが、そうでないからには理由があるはずであり、その理由こそが「神との関係性」に由来する重大事である。

しかし、エホバの証人の場合には、神との関係を超えて「命を得る」ことが優先され、本末転倒に至っている。これは利己性を根幹としており、信者の内面で他者との関係性が後退させられている。神との関係性も歪められ、神の全能性とキリストの犠牲の価値に依拠するよりは「自らの業によって神に救いの代価を支払うこと」に信頼を置いている。

それを煽っているのが「ものみの塔聖書冊子協会」であり、精神的にも労力的にもエホバの証人を強い支配下に置いているが、これは聖書の神の性質に反する圧制と隷属に他ならない。その隷属の代価は人間には保証不能の「永遠の命」になっている。そこで証拠として聖書の記述を持ち出すのだが、そこに書かれた事柄といえども単なる人の解釈を経ていることは黙殺され、かつてユダヤ人らが聖書に書かれた事柄に硬直的であったために神の意志から逸れ、メシアを見誤り殺害にまで至った件は自分たちに無縁であると考え、同じく頑迷固陋に当時に事情を考慮するよりは、ただ文面に従うことで神との関係を結ぼうとしており、これは典型的なパリサイ主義と言える。

その原因は、神の意志を「時」という行動予定に置き換えてしまった非人格性にあり、唱道者のC.T.ラッセルの信仰のアプローチに起因しているのであり、これを改めるとすれば、初代の指導者の教理から放棄しなければならないことになる。

ラッセルの信仰のアプローチは彼から始まったものではなく、英米の覚醒運動の影響から始まっており、C.T.ラッセルはその年代を訂正した教理を説いた一人の素人研究者に過ぎず、1914年に主の来臨と自分たちの携挙とを主要な教理としていた。『七つの時』と2520年とするところは英国のJ.A.ブラウンに起源があり、そこからミラー派の系統樹に分類され、借用された信仰の型はアドヴェンチスト派のものであって、ラッセルがただ年代を訂正したところではなおアドヴェンチストの一派であった。⇒ ミラー派の系譜

予告した1914年に主張していた事は発生せず、世界大戦が勃発したため、本来予告した事柄は廃棄して、キリストの終末預言の災厄に同年のキリストの臨在の根拠を結び付けたのは、ラッセル派を再興させたラザフォードであった。以後、年代を何度か予告しては唱えた事柄が起きない度に、教理を訂正し続けてきているので、この宗派は未だにミラー派の範疇にあると言える。即ち「年代信仰の宗教」であり、今では年代主張を留め土曜安息にシフトしたアドヴェンチスト(SDA)以上にミラー的信仰にある。

従って、生き残りを懸けた純然たる「ご利益信仰」であり、自己利益の確保がその主題であることは「人生の成功」を謳うところに如実に露見している。『永遠の命』を自分たちが占有するかのように信じるところでは、神の意志が閉鎖的であるとの宣伝を行い、結果的に神を中傷することになり、その利己性はキリストの犠牲の精神に胡坐をかいている。

これはユダヤ教パリサイ派の轍を踏む愚行であり、キリストの裁きを恐れぬ異様なまでの蒙昧にあることを表している。(ヨハネ5:39-42)

端的に言って、「エホバの証人」とはハルマゲドンの恐怖に脅されて屈した人々であり、「楽園での永生」の確約を願望して、間違えもする単なる人間に操作されている人々である。これをどう評価するかは本人次第であるとしても、この事実は揺らがない。

その恐怖への焦りから、関心の中心は自分たちの生き残りにあるために「義」を求めつつも、人の内奥の倫理性に基いて裁こうとする神の意志ではなく、裁きの要諦が外面的な個人の行動による道徳性(業)であると考える結果、排他性が避けられないばかりか、その排他性がむしろ「救いの証拠」として錯覚させられている。そこで宣教が他の人々の「命を救う業」と称しながら、実は保身のための義認への誘いとなってしまっている。

このような業による救いは、既にユダヤ教とメシアとの対立の中で否定されていることはエホバの証人たちも承知はしているが、神の裁きの時の来ていない現状で、救いを先取りしたい願望から、業と道徳性の基準を作りあげ、救いの条件としているところで、本来の「信仰による救い」から外れ、ユダヤ教の「業による義」の原理に戻ってしまう指導層の教理の歪曲に賛同してしまった。

この歪曲は「神に関わる時の認知」を主な信仰の要件とする場合に避けられない。ものみの塔の信仰要件は構造的に誤謬を免れない「時への信仰」の形にラッセルを土台として初めから形成されていた。だが、これはキリスト教の本旨から逸脱している。神の裁きに関する「時の認知」は、自己保存本能の刺激を避けられるものではない。『あなたがたは、けっしてその時を知らない』とのキリストの言葉には、神の裁きにおいて人が善人の仮面を着けることを許さないことを意味する道理がある。だが、彼らの信仰はその逆で、聖霊もなく自ら『新しい人格を身に着ける』ことができ、その結果として救われると勘違いしている。

また、その誘因は、救われる者が少数であるに違いないから、その少数者に含まれるからには、社会一般とは異なっているはずであるという仮定から来ている。この根拠としてルカ13:24などが用いられる。この信条の基礎を成すのはノアやソドムの裁きのモデルであり、キリストの初臨に於けるユダヤの裁きのモデルではない。(マラキ3:2/マタイ3:12)

そこで「救われる少数者」の条件を聖書に求め、聖霊を注がれて「新しい契約」に預かった聖徒たちへの「聖なる者となるように」との訓戒を、一般信者にまで要求し、それを基準として教団が更に設けた基準に従う人々に「救われた実感」のような錯覚を与えることになっている。この自己義認を錯覚させる点で、伝道活動への強制は信者が義であるために社会的に孤立していることを印象付け、同時に新たな信者獲得にもつながるので、指導者側からすればメリットが大きい。

 

◆知ったつもりで知らない聖書

その原因の一つには、聖書への無知が挙げられる。個人的で自由な研鑽が許されず、多くの時間を非効率で無関係な事柄に消耗させられているからである。

これは「永遠の命」があたかもこの教団との関わりのみによってもたらされるかのように誤解させるところにまで本来のキリスト教が歪められた結果であり、宗教上の理由により行動の違いが出ることで、周囲から目立つところに自らの義認を再認識し、且つ組織は信者自身への操作、また周囲への義の誇示や宣伝を目的としてはいるが、行動基準に従うところでキリスト教との関係性は無く、このヒステリックな強制の犠牲者は主に子供や学生となっている。やはり、こうした排他的行動の本人や親たちの動機はやはり滅びへの恐怖である。

だが、キリストに続く者として厳しく試され吟味されるのは『聖徒』であって信徒にはならない。むしろ信徒の集団は聖徒の試みの期間を含めて保護を受ける。(黙示12:14/イザヤ26:20)

『入ろうとしても入れない者は多い』とは彼らではなく、『新しい契約』を全うし、神の王国を相続するまでにキリストに従う『聖徒』は多くなく、聖霊を注がれながらも脱落する者があることを指している。彼らには聖霊の罪が生じ、赦されることはない。(ルカ13:24/ヘブライ6:4-6)

しかし、ものみの塔は神の裁きに対する恐怖を強調し、その組織の下に人々を集めて操作し、支配を実行してきた。それがキリストの支配であり、その支配がものみの塔を通して地上で始まっているという主張ではあるが、その原理はやはり恐怖である。バプテスマを受ける時には、楽園か滅びかの選択を行う動機が働いており、教団もそれを請け負っている。もちろん「無条件の献身」とさえ言えない。献身先は神でもキリストでもなく、救いをもたらすはずの教団になっている。

「楽園」への生き残りの代価として、個々の信者は「エホバの証人」であることが何にも勝って強調されるため、あらゆる生来の個性を抑えて「エホバの証人」という人格を強要され、生活の細部にまで統制を受けることを許してしまっている。そのように命惜しさの偽人格が形成されているのを『新しい人格』として永遠の命に不可欠なありがたいものとして受け容れている。もちろん、それは聖徒が聖霊の内に得る人格を指しており、この教団の信者には単なる集団の心理作用である。

 

◆単なる一時逃れ

彼らの宗教を例えると

「対向車がパッシングする」のに似ている

「この先でネズミ捕りをしているから速度を落せ」というサインを受け、普段の自分らしくもない模範的行動によって「ハルマゲドン」という「取り締まり」を逃れようとはするが、本人の内面は「アダムの罪」に於いて何も変わらない。

つまり、今エホバの証人であっても、その場で模範を装って逃れようというだけの伝道奉仕であり言動である。それは表面的「業」の義であって、その「義」も一つの宗教組織を支持する行動を取るかどうかに置き換えられたことに気付いていない。集会という集団圧力に屈し流されている。

しかし、人間が『義』とされる方法は『信仰』という内心の価値観によるもの以外にない。それは自分の『罪』が人の努力の及ばないほどに改善できないものであるので、一重にキリストの犠牲の適用されることを願うことである。その『信仰』は、『聖霊』の現れである印を信じるところから生じる。

聖書に書かれたところは、かつての信仰の例ではあっても、読者個人を決定的な『信仰』に至らさせることはない。

 

 

◆教理の特徴

・1914年からキリストの臨在が始まっており、世界は「終りの日」に入っている。黙示録に描かれる『ハルマゲドン』が起るとき、『この世』は裁かれて滅びることになるが、エホバの証人は救われて、「楽園での永遠の命」に入る。<聖霊が注がれ、既に(仮の)救いに入った『聖徒』への言葉が誤用されている>

 

・組織の指導層はキリストの予告した『忠実で思慮深い奴隷』であり、信者たちに定めの食事である霊的な糧を備えている。

<キリストの支配が自分たちによって既に地上に到来していると唱えることに於いて、彼らは主人が到着していないのに仲間を叩いて強制し、宴会を始めてしまった家令に相当するばかりか近年その糧の質が劣化し続けている>

 

エホバの証人の宗教組織である「ものみの塔」は「ノアの箱舟」と見做すべきもので、エホバの証人として水の浸礼を受け、この組織に加入した信者は、世界の終りを生きて通過できる。したがって「ものみの塔」だけが神の救いを占有している。<キリストの救いの原理は、贖いの犠牲の提出によってノアの箱舟とは内面的に異なっている。ここから様々な強制が生じている>

 

・滅ぼされる『この世』は悪魔の支配下にあるが、エホバの証人は『神から出ている』(1Jo5:19)

 この違いは、ものみの塔を代表する『忠実で思慮深い奴隷』に従い、毎月伝道することで、『キリストの兄弟たち』を支持し、善を行っているかどうか、また、『この世』とは異なり『清い行状と敬虔な専心』を表しているところからくる。<マタイ25章の聖句の適用は歪曲されており、ヨハネ書簡も聖なる者らについて『世から選び出された』ことを述べている>

 

・『ハルマゲドン』を生き残って救われるためには、滅ぼされる『この世』とは異なっていなければならない。そこで聖書に生き残るための条件を求める。

 これは『この世』に見られる偽宗教(大いなるバビロン)的、また政治的、闘争的な慣習を離れ、不道徳な汚れを避けている必要があり、そうして神に嫌われる行いを避け、神の是認に入り、滅ぼされることなく救われる。

<聖徒たちへの契約に関わる道徳規準が他の人々の救いの要件ではない。またハルマゲドンの戦いで世の裁きが完了するわけではない⇒四騎士

 

・信者であっても、指導者層(統治体)を代表する「組織」に従順でない傾向を示すなら、神の是認は薄らぎ、新約聖書に書かれた道徳律の規準から逸脱しているなら神の是認は無い。だから聖書に従う自分たちは絶対に正しい。

<聖書にさえ従えば神の是認があるという仮定でパリサイ派の轍を踏んでいる>

 

・以前には信者であったが、後に通告して辞めた「断絶者」、また、組織の定めた規準を著しく犯した「排斥者」とは、家族信者を含む一切の交流や会話も断つことが強制されている。そうしないなら信者であっても同罪と見做される。

パウロは聖徒の清さの保持について、ヨハネは異教分子(グノーシス派)の混入を警告している、一般信者らへの忌避ではない。まして実害ある忌避が『自分にして欲しい』ところだろうか>

 

・『ハルマゲドン』が何時になるかは分からないにしても、1914年から百年以上の年月が「世代が重なる」ほど経過しているため、世界が滅ぼされる時は日々ますます近づいている。更に時が経過するに従い、いよいよ緊急感を抱いて熱心にならなくてはいけない。

<神は人の内面を裁くのであり、第一世紀のユダヤに同じく準備し善良を装って逃れられるものではない。イエスの終末預言は世代が去る以前の37年後に一度成就した> 

 

 

◆これらの教理が信者とその周辺にもたらす影響

概要     ギャンブラーに似た精神構造 

・代償としての救い

人間は交換社会に依存して生きているため、優れたものを提供する相手に代償を支払うことで救いや恵みまでも所有、または領有して安心したい性質を強く持っている。エホバの証人の場合、永遠の命や煩いない社会を希求する余りに、役に立ちそうな代償の提出を求められれば応じてしまう。

その代償も、信者らに納得し易いものでなくてはならないので、品性のある言動であったり、間違いのない真理であるものみの塔の教えの伝道であったり、寄付を寄せることでもある。

そこで信者の時間や労力が無駄に消費され、前時代的非効率の結果、指導に服するよう馴らされることになる。しかし、まるで無報酬でも熱意を削ぐので、称賛や「特権」という名義と権威が、より多くの努力を積んだ者に下賜される。ここに『救い』を得たと思う傲慢の源がある。そこで欲望のままの人が、生存の次に求めるものが地位と支配であることを露呈する。<これが指導層の相貌を暗示している。特権保持者はその「象り」となっている>

一般の社会生活では、支払を済ませた者には当然の権利があると思うのが、「この世」の交換社会の大前提であるので、エホバの証人は自らの払った労力や犠牲が大きいほどに、その利権を確保したいと自然に願うので、それが「永遠の命の確保」となり、その大損害を認められないために強硬で頑迷な排他性を発揮することになる(埋没費用効果)。それが永遠の命という最大利益を請合った組織を擁護する最大の動機であり、また懸案願望ともなっている。

彼らの「信仰」というものは、この「利権に対する信用」を言うのであり、神との関係性がどうこうということではない。それが証拠に、彼らに神を崇拝する理由、また宣教する理由を尋ねるなら「楽園での永遠の命の希望」を間違いなく挙げる。

だが、聖書を貫通する神の求めは何等かの「支払」ではなく、個々の人の「倫理の決定」即ち「信仰」にある。それは決して個々の人の道徳性の程度を云々するものでないことはキリストの犠牲に明らかであるが、ものみの塔は律法主義に後退してまで、エホバの証人に「支払」を要求してきた。人々は神に代価を支払っているつもりで、実際には組織を拡大させ肥えさせるために身を挺して仕えてきた。Rm4:4-5

例えエホバの証人が組織の指導の欺瞞に気付いたとしても、永遠の命は人間同士の需給関係を超えているため、支払った代償に見合う酬いが無くても指導層を訴え出て何等かの処置や制裁や賠償を求めることができない。組織側は信者たちが自発的な信仰を懐いて行動したことに於いて自己責任を唱えて逃れることができる。

その点では、神が何時ものみの塔エホバの証人と契約を締結したか、といえば、そのような契約が存在した客観的証拠は無く、ただ1914年の「預言の成就」に信頼を置くほどでしかない。

どれほど聖書に従うとしても『新しい契約』とは聖霊を注がれた『聖なる者』『キリストの兄弟ら』だけのことであり、それ以外の一切の人々には関わりのないことである。むしろ聖書記述に従うなら、依然としてすべての人は、その思想信条や道徳性に関わりなくアダムの罪を免れず「神の裁き」の以前に居る。

しかし、そこに宗教家の旨味がある。人は死を恐れて自分という存在を虚無に過ぎ去らせたいとは思わないので、「神はこう言っている」と脅すことが可能であり、彼らには驚くほど多くの人々が簡単に従ってしまうのを目にしているであろう。

疑う者が出るなら「信仰が足りない」あるいは「霊性が下がった」ということで処分を下せるが、ものみの塔の場合には更に「忌避」という情報遮断の手段を「愛のある行い」として実行し得る態勢が築かれている。しかも、この宗教体制の是非が信者からも決定的に問われる時期が定めなく延長され得るので、「ますます近付いている」と言っては逐次言い逃れができる状況が続いている。

 この責任感のない体制の存続を許しているのは、他ならぬ信者「エホバの証人」という以外に有り得ない。したがって、個々の信者がどれほど清廉潔白に言動を慎んでも、却って自ら盲点を突くことを指導者に許し、まさしく彼ら「エホバの証人」こそが様々な巨悪の原因となってしまっている。そこで彼らの中にも良い人は居ると言うのは的外れなことであり、むしろ良心ある人こそが、彼ら自身の救いや恵みへの貪欲によって、どれほどの悪を自分と周囲とにもたらしているのかを内外で気付いた人々が信者に知らせるべきと言える。

ただ、確信を留めるエホバの証人は現実を知ることが自分たちの将来を危うくすると勘違いするので、やはり、あらんかぎりの方法と力とを使って、その現実を拒絶し、実際には信者より貪欲な指導層の与える夢の中に留まろうとするところでこの人々に実態を気付かせるには大きな障碍を残している。彼らのその拒否感の強さは、ほぼ例外なく論理を超えて偏執的感情にまで膨らんでおり、情報を拒絶することが「正義」と置き換えられている。これが排他性の原動力である。

これは投資詐欺に遭っている被害者や「次は当てる」と思い込むギャンブラーが抱くほかの可能性を考えに入れない精神に似ている。だが、他の情報を遮断しようと、それが現存しているのであるから、考慮に入れないことは自ら危険に身を曝すだけのことになる。

<この辺りは洗脳のこれ以上ないほどの成功例の域に達している>

 

◆差別化による自己義認

即ち、信者たちは神に受け入れられているが、そうでない人々は神の不興を買っており、意図しなくても裁かれて滅ぼされる悪魔の側に組みしていると信じ込んでいる。そこで世間一般の人々と異なる習慣を多くする必要が生じ、幾つもの戒律でエホバの証人である規準を作り、周囲との差別化を図ることによってのみ、自らの義認を自覚することができる。

特に輸血の拒否は、この差別化において命をかけるまでの自己義認の方策となっている。この差別化がエホバの証人たちに、神の是認を得て永遠の命の規準に達したとの思い込みと、一般人に対する優越感を惹き起こさせ、他者への憐れみから伝道する誘因を形成している。これは自らが既に神の是認にあると見做すところで、隣人愛というよりは、かつてパリサイ人が懐いた自己義認を伴う傲慢さを基本としている。

この輸血拒絶を組織側から見ると、ものみの塔の指導への従順が一命を賭すところにまで極まり洗脳が完成する。また組織は健康問題と血の禁忌との違いをリンクさせて語り神からの実際的な知恵であると語るところが少なくない。

使徒15章の適用は、当時のユダヤ教会堂の習慣を見落としている)

 

◆模範性

自らの命の存否が、神の規準を越えて感覚的好き嫌いにかかっていることになり、それはこの宗教組織である「ものみの塔」また、その代表である「統治体」への従順の度合に左右されることになり、実際に「ものみの塔」は神が何を好み、何を嫌うかを代弁し公表しては、信者を掌握しているので、実質的に「ものみの塔」への従順の程度による模範性が終始問われている。

これは組織の外部に対してだけでなく、信者同士にも優劣の区別をもたらし、排他性を強化するものとなっている。実際「模範的」という不明瞭な規準があり、それに達していないと中間幹部(長老)に見做される場合には、組織内の「特権」が付与されない。<ヨブ記の解釈は間違っているというよりは、指導部はよく読んでいないらしい>

 

◆二重の法規

信者となるに向けての指導過程から、集会への定期的出席や伝道への参加、加えて道徳規準を守るよう促し続けられる。これは、既にキリストが地上を支配しており、それに従うことであるとされるところから来ている。

その結果、公の法規に加えてもう一つの法を守るように求められ、信者となると罰則が伴うので重い頸木を負うことになる。それでもこの組織が社会一般より道徳的であるとは言いきれず、どれほど教育を重ね、排斥を行っても人間の本質は変わらないので、組織の法規を守るという義の仮面の下で、却って道徳に悖る不正が行われることがある。

キリストの犠牲は、この変われない人間の悪を赦すためのものであったのだが、ものみの塔エホバの証人を法で縛り、キリスト以前のユダヤ教の原理に戻ってしまっている。したがって、信者は国家の法や条例と共に、二重国籍化したかのようになり、組織の法も負うことになる。ユダヤ教徒が住む国の法規との葛藤に曝されるように、それが時折、公の法と齟齬をきたすこともある。

しかし信者にとって、より重要なのは組織の課す法規であり、『人よりも神に従うべき』との聖書の精神に基づくものであると考えている。これは組織の指導が神の王国の支配であるとの思い込みから惹き起こされた事態であり、神の王国の支配が現に実行されているものであるかのように妄想することを助長するものともなっている。

それにしてはキリストの臨在は長く信者の負担も大きいが、それが救いの要件であると教えられているので、滅ぼされないために生涯にわたる忍耐が必須となっている。そのため信者は重い頸木を負いつつ、中枢の恣意的指導に耐えている。規準から逸れる者に寄り添う姿勢が見られるかと言えば、「組織を清く保つ」ことが第一に意識され、人間の現実の事情に目を背ける傾向が強い。

<これは、滅びへの恐れでも、法順守の業による救いでも本来のキリスト教からは大きく外れている>

 

◆信者への支配

統治体は信者の生活方式や決定事項に介入するが、それが神からの導きのように刷り込んでいる。しかし、その目的は信者が信者として留まるよう細々と指示を与えて依存関係に入れることにある。なぜなら、新約聖書にある道徳規準は契約関係に在る『聖なる者』に向けたものだからであり、それを守るべきは契約関係に在ると主張する者らの方である。指導層が「神はこう感じられる」と主張するとき、それは聖書に根拠が薄弱な上、人々の良心をもてあそんで、自分たちの命令に従わせる動機としているが、信者はそれを神の経路からの指示と信じて畏れて従ってしまう。

この指導層は、その一言によって信者の財産であった集会所や貯金の名義を中央組織に変えさせ、信者の意向を諮ることもなく、彼らの善意の結晶のような大会場を売り払って入手した代価を信者の誰にも還元する様子を見せていない。洗脳された集団の大半は形ばかりの決議に異を唱えることもなく、多額の財産が移管された。

<この神の威を借りた権威の横暴は支配嗜好者の傾向をしめしている。本来、信仰ある立場からすれば、神を代弁するところは悪辣というほかない。これは傍目にも適性な処置とは言えず、所有権というもの、また信者の人格への攻撃に見える>

 

◆間断の無い緊張

道徳性の清さと、宣教への熱心さに生き残りがかかっていることになり、信者が神経質に自らと他の信者とに注意を払うことになり、それは自分への緊張感と周囲の信者への監視を招いている。これは信者の全生活が、一挙手一投足について『言い開きを求められる』かのように、神に見られているという脅迫観念に支配される。しかも、終わりの時は不可逆的に近付いているのは間違いないのであるからと、信者の緊急感を煽り続けている。これに誠実に従おうとする信者自らだけでなく、家族、親戚、友人にも影響するものとなり、少なからぬ対人関係や精神疾患の実害をもたらしている。

会衆では模範性が常に要求され、道徳上の幾つかの種類の懲罰的措置が下されることがあり、その最たるものに忌避がある。それは家族の絆に対して、宗教団体の関係性が勝ることを主張するものであるので、家庭も無条件に憩える場とはならず、そのうえ、実質的に家族の生活方式にまで細かな規約が存在するために互いに監視するような関係を余儀なくされる。

 

◆優越感

様々な犠牲を払って「清い立場を維持している」ために、そうしていない人々に対し優越感は避けられない。また、優越感は自らエホバの証人であることに誇りを持たせ、宣教に邁進する動機を形成している。加えて、信者の中でも幹部となる「特権」が推奨されており、「兄弟」と呼び合いつつも、優越感が増強されるよう、組織内は立場が段階的に細分化されている。これは利己心を助長し、他者の弱さを自らの誇りのために利用することになっている。また、個人の判断は地位の上位者に相談や委託することが相応しいことにされ、個人の自発的判断は抑制される。この集団では「清さ」と「偉さ」の区別が非常に不明瞭になっており、偉くなることが熱心さの燃料となっている。しかも、これがサタン的特質を煽っていることに大半の信者が気付いていない。

 

◆蔑視が避けられない宣教

正義が自分たちにだけは有ると主張すれば、どんなドグマであれ周囲への蔑視は避けられない。エホバの証人の場合、単に、自分たちの聖書解釈が正しいというところを越えて、神の是認と救いが自分たちにだけは有ると信じ込んで他者と接するために、宣教において相手を蔑視していることを悟られることが観察されるが、蔑視していることで相手に反発される理由が自分たちにあるとは感じず、反発する相手に問題があると考える。これはエホバの証人が傲慢を自覚できないほど洗脳されていることに無感覚であることの証拠となっている。

加えて、伝道への貢献度は費やした時間により計測され、物理的な観点から伝道者の間に階級を設け、それによって効果性によらず、時間浪費の労働に信者を駆り立てることに成功している。個人の良心が時間数に対して働くので、奴隷的扱いを可能にさせているのは、それに疑問を呈さない信者も貢献している。時間数への忠実さが信者同士の間に優劣をもたらすだけでなく、伝道される側に対しても優越性を感じさせる特権意識は拭えない。

 

◆情報の閉鎖性

『この世』との異なりを求めることが救いの条件となっているために、外部の広大な領域を悪魔に影響された有害で敵性を持っているものと見做している。そこで「ものみの塔」は信者であるエホバの証人に、外に世界の情報に常に警戒するよう促しており、実際、SNSに参加することから、宗教的題目を検索することまでをも良心的な行いとはしていない。これによって、「ものみの塔」そのものの情報の真偽や価値の程度を自らのリテラシーに照らして判断することを非良心的行動として放棄させ、個人に自責の念を抱かせるよう宗教的指導に於いて操作している。その結果、エホバの証人は、入信以後に自らの判断や決定を避ける習慣が身についており、これは強権国家での人権蹂躙の手法と変わるところがない。

 

◆教育の軽視

情報の閉鎖性の一貫をも成しているが、それは二世以降の信者が情報リテラシーを得ず、ものみの塔の脆弱な学問的基盤に疑いを持たないためである理由がひとつには挙げられる。例えれば進化論やオリエント考古学に触れることで、教理への信頼は揺らぐことになる。なぜなら、その教理でこれらの学問に指導層は自説を唱えてしまっており、宗教の範疇を逸脱しているからである。

子弟に高等教育を避けさせるもうひとつの理由には、組織拡大のための宣教奉仕に駆り立てるためでもある。これは1975年に「ハルマゲドンが来る」(この発想自体が異様)と「預言」してしまったために、大学に行くよりも僅かな猶予期間を宣教に費やすことが「命を救う業」であり、「人生は繰り返せない」と主張したところが大きい。熱狂が去った後には、大学の環境に性的誘惑があるという理由に切り替えられた。

しかし、十代後半から成人してゆく時期は、人格や教養の形成と就職して家庭を安定的に支える能力を得るために最も重要な期間であり、エホバの証人アルバイターが多く、周囲との協調性に問題を抱え、常識はずれな言行がまま見られる原因は排他性と共にこの教育の軽視にも由来する。そのため、この団体を離れた人々には、周囲の社会環境の成熟さに開眼し、それに慣れるまでにしばらくの期間と自己再教育を要する結果となっている。

 

◆幼児教育の偏り

20世紀の終りまで、旧約聖書の律法時代の教訓を現代キリスト教徒に適用し、子らを鞭で叩いて教育するよう指導していた。それは集会に幼児も連れて来るようにとのネヘミヤ記にある、捕囚後に律法再教育が必要であったユダヤ人のパレスチナ帰国の場面を今日に適用したものであった。だがこれは『聴いて理解できる者』に対するものであったが、かつて集会への主婦の参加が多く、乳幼児を伴っていたために、鞭打ち教育がそこで適用され、集会の静粛を守るために利用された。組織が絶対正義を唱えたところで、親は子に対して逃れ難い「絶対の指導者」となって人格形成を妨げる壁と化した。

その結果、子供から「遊びという社会経験」を奪い、「小さな大人」を量産することになり、これは幼児期の自然な発育を阻害することとなった。加えて大人になっても心に傷や社会性の未発達を残すことになり、鬱病ばかりでなくACや自閉症関連の後遺症の事例を少なからず招かざるを得なかった。

だが、組織側は巡回訪問などを通し、精神疾患は世に広く見られるのであり、自分たちが特別ではないと主張した。これは同時に、この宗教が社会一般以上の健全さを持っていないことを証しする。現に、エホバの証人の開業する診療内科系の医院では信者たちが溢れるほどになり、待合室は各自で集会の予習をする受診者たちで占められる光景も見られた。<そこに原因と結果が如実に見えてはいないものか>

 

・極端な忌避の強要

外部への優越感と蔑視は内部においても、信者であることを望まない者、または道徳的に定められた規準を破った信者には、家族であろうと交流を断ち、さらには会話さえしないという「忌避」が現役信者には要求されている。これにより、家庭内にもこの宗教組織が分断の線引きを行うことになり、宗教組織との関係性が家族関係に勝ることを信者に強要している。もちろんこれは家族関係を破壊する以外になく、家庭という本来社会に在って無条件に助け合える場を人々から奪い、異常な緊張感をもたらしているのだが、同時に、この制度によって信者の登録数の維持が促進されている。

ものみの塔」はそれが忌避された者の悔悛をもたらすための「愛ある行い」であるとしている。しかし、聖書の言葉の適用は尽く間違っており、単なる家庭や交友関係の破壊は悪魔的であり、そのうえで組織体制維持を図っている。エホバの証人の排他性は、この忌避制度に於いて最も破壊的な作用を信者とその周囲にもたらしている。

 

◆幹部の堕落と横暴

強権独裁体制が幹部によって維持されるように、「ものみの塔」という宗教体制も「長老」という各集り(会衆)を束ね監視する幹部により広く維持され、これら「長老」たちを定期的に巡回してくる「巡回監督」が組織の意向が反映されているか、また各会衆の資金の動きをも監査し、この教義の矛盾の目立つ宗教組織も維持されている。これら「ものみの塔」の体制を維持してゆくために必須である「長老」や「巡回監督」は特権職とされ、一般信徒らからの支持や援助、尊敬と階級意識が要求されており、そこで独裁体制や他の宗教団体に広く見られるように、幹部が組織的に優遇されるところで、幹部による職権乱用や人格の蹂躙、幹部同士や一般信者への恣意的で不当な扱いの醜聞は絶えない。

その最たる例が幼児性虐待を行った幹部の犯罪を隠匿しているところである。各集りからの貯金の回収と印刷物の退潮に膨大な金額がこれらの裁判に関わって支出されていることは疑いようがないのだが、組織中枢の「統治体」や、宗教法人としての「ものみの塔聖書冊子協会」からこの隠蔽体質が見られる。これは宗教団体によく見られることながら、寄付金の流れや使途が内外に明朗であるとは言い難いうえ、統治体に含まれる各人からの生活や服装などへの神経質なほどの指導、信者一般や被害者らに対する敵対的態度に公正さが見られるとは言えない。

 

◆組織的商行為

ものみの塔は組織を商行為に利用することを信者に戒めてきたが、近年は、組織そのものが寄付の請願に加え、信者たちへの電子機器購入を要請しながら、特定のメーカーに出資もしている。投資については自らの信仰原理と一致しないであろうタバコや武器産業などにも行って信者には秘匿を努めている。

加えて、自前の商標を持った様々な物品の販売をなぜか禁止ぜず、旧来の商売を宗教に持ち込まないと謹んできた方針を自ら通告もなく破り、そのうえ集会所そのものや不動産の販売、集会所備品の有料提供も開始している。

これはキリストの当時の祭司長派が、神殿境内の商売人と癒着していた古代の型に類似する。

<既に、この点でもこの宗教組織の品格は地に落ちた。このような実態を指摘する者を権威を用いて黙らせる横暴は、悪辣な圧制者に共通するものとなっている。すなわち、指導部にその自覚があるということである>

 

◆法律を盾にとる

信教の自由が認められている場合に、彼らはこれを積極的に活用しようとして、善良な宗教を装うが、実質的には彼らは反社会的に外部一般を滅び去るものと蔑視しているのである以上、法に訴えて自分たちの自由を唱えるより以前に、信者たちの脱退の自由を信教の自由として認めるべきである。だが、信仰を既に失っている人々に対するこの団体の懲罰規則は常識を逸脱したもので、家族であっても接触を拒ませるというものである。これこそ法を以って処置すべき野蛮な人権蹂躙である。

加えて、法廷命令により幼児への性虐待の加害者リストの提出を現時点まで拒んでおり、この点では『人よりも神に従う』と弁明しているのだが、そこまで「二人以上の証人」を求める聖句を倫理的に誤用した例も珍しく、実質に於いてまったくお粗末な矛盾を見せている。この指導層の道徳性は信者ではなく、外部や司法によって問われている。だが、彼らはこうした情報を「背教者の嘘」であるとする。

<では裁判所は「背教者」なのだろうか?これでは「この世」の道徳性の方が高いということにならないものか>

 

 

◆問題の根源

 

・唯一の正しい宗教と吹聴

ものみの塔」だけが正しい宗教であり、「統治体」は「神の経路」である

  その根拠には聖書絶対主義がある。しかし、イエスを殺害に追いやったユダヤ教徒が既にこの同じ轍を踏んでいる。

 この前提で、この宗教組織の排他性が方向付けられている。他のあらゆる宗教や宗派を間違いで悪魔のものと否定することで、信者を囲い込んで、そこから出ることへの恐れを植え付け、それを具体的に忌避の制度によって神から否認されることへの強烈な恐れを煽っている。

唯一正当を唱えていながら、教理では旧来の他宗派の研究成果、また各界の識者に立脚しており、「ものみの塔」はそれを選択編集して教理を作ってきた。

年代計算もラッセル独自のものは、『七つの時』と『異邦人の時』を同じものと見做した程度に過ぎない。その教理は今日でもアドヴェンティスト派に近く、「年代計算によるキリストの臨在の察知」、「魂が死ぬ」ことや、預言したことの「天での見えない成就」など、核心的な部分での共通的教理が見られる。

にも関わらず、唯一正当を唱えることで、実は他者から学んだ借り物の特徴ある教理が、様々に選択され、根幹的な部分でも取り入れられていることを信者には知らせず、自分たちから教理が生じたように装うところは少なくない。<その理由は、指導層が『忠実で思慮深い奴隷』を装う必要からのものと思われる>

そのため、情報面で閉鎖的にならざるを得ず、幾らか矛盾を突かれると論理は脆弱であることが露見する。「ものみの塔」が唯一正しいと教えられている信者らは考えることも止めてしまい、質問者を悪魔的背教者として避ける。

本来、存在しない唯一正当を吹聴することにより、他の誰とも変わらない倫理性の普通の人を不当に高めてしまうことになり、そこから「誰がより偉いか」を問う権威主義的体質が育ってしまい、それが組織を腐敗させている。他の誰とも変わらない人同士で、神への序列が生じている。

それが「特権」と名付けられたヒエラルキアであり、秩序のためと主張しつつ、神の威を借りた不公正の温床を形成している。「巡回監督」も「統治体」も聖書に存在しない役職であり、パウロバルナバも巡回監督ではないし仲間に負担を掛けまいと生活費用を自ら工面していた。エルサレム使徒会議は常設ではなく、ヤコブのグループは遅れたユダヤ教理解に留まっていた。しかしエホバの証人であればそれらの権威にも疑念さえ許されない指導が毎週二度ずつ行われている。この指導は「霊的ライフライン」とも呼ばれ、間断の無い洗脳の刷り込みと査察が信者相互に行われる。

 

 

・死への恐れが利用されている

 人の存在は儚く、人生に空しさが拭えない。

人々は、この状態から逃れたいという願望が普遍的に有る。

そこで、実は「楽園での永遠の命」を聖書なり、キリスト教なりが提供していたという教えに、旧来の宗教に無い新鮮な希望を見出すよう教えてきたのがこの「ものみの塔」であり、それを信じた人々が「エホバの証人」となっている。だが、そこから「ものみの塔」の教えに悪質な問題が混入している。

神もキリストもこの「ものみの塔」を通して人々を救うというところに大きな罠がある。

神は『ハルマゲドン』で人類の大半を滅ぼす役割を持ち、「ものみの塔」という宗教団体に加入することが救いであるということになる。だが、人類を救うことは神の意志であるからこそ、キリストを地に遣わしたのであり、それはアブラハムへの契約の言葉にも明らかである。したがって、神もキリストも人類救済のために、終末には自ら行動するに違いなく、救うための証しを人間任せにしたと言うなら、それは神もキリストをも偽り伝えている。(マタイ10:18/イザヤ52:15/ミカ7:15)

全能の神であれば、初めから人類を死の無い、また幸福な状態にできないということは無い。そこで苦難と死の空しさが避けられない現状には、理由が有ってのことである。それが人類に宿る『罪』という、創造の業の意図しなかった欠陥にあることはエホバの証人も認められるところである。したがって、人が創造された当初のように永遠に生きるためには、アダムが試されたように、各個人の倫理的選択が問われるはずであり、これを「ものみの塔」は、結果的にエホバの証人となることがこの選択、つまり裁きの要諦であるとしてしまっている。

これがエホバの証人の閉鎖性を決定付けた。

つまり、神の裁きの要諦が「エホバの証人かどうか」に置き換えられてしまった。エホバの証人になるに当たって行う選択というものは、自分が救われたいか否か、その為に浸礼を受けるか否かになっている。

それでも、実際にはこれは倫理的に良い選択とはなっていない。なぜなら、キリストが言うように『その実によって・・見分ける』なら、上記のようにエホバの証人となることは、基本的に利己的な願望の追求することになり、死の恐れから逃れることを請合う宗教家に絆され、自分たちは「ノアの箱舟」に保護されたつもりになっただけのことである。(教会の信徒席も「ノアの箱舟」を意味するネーヴと呼ばれ救済願望で根本的違いはない)

そこで、エホバの証人の中ではいよいよ人間の『罪』が目立ってくることになる。それが自分の永遠の命が確保された安心感を得た『罪』ある人間の姿であり、神の是認があるつもりで油断することで生じた。それは道徳性の優劣を意識しない一般人をも下回るほどに倫理性の欠如したパリサイ派的に傲慢な姿である。

エホバの証人の熱心さは、死への恐れの裏返しであり、実は創造神の全能性への確信は持っていない。神による人の生死の分かれ目を気にして怯え、神の好意を得ようと腐心していながら、実は、神に関心を向けてはおらず、自分という存在を確保することに熱心なのであり、そのうえ「時の緊急性」が繰り返し唱えられるために伝道に追い立てられ、信者は信仰を得て後に、その教えを熟考し検討する時間を奪われ、聖書の研究を個人で深めることを困難にされている。

したがって、エホバの証人の信仰の目的は何かと問うなら、滅びを免れ「楽園の永遠の命に入ること」なのである。

(これは諸教会の天国行きと同じようでいて、年代予測も相まって、より具体的であるために、教理の日常生活への影響が遥かに大きい。)

 

他方、神の裁きの要諦は命の確保には無い。

なぜなら、神は人類に永遠の命を与えられないのではなく、何者にそれを与えるかが問題なのであり、そこで問われるのは各個人の倫理性であり「エデンの問い」である。

アダムが強烈な試みに遭って、エヴァと命運を共にしたように、罪に堕ちる者は悪魔に倣い利己心の道を行くのであり、神を含む他者とどう生きてゆくかという倫理を弁えないことを選び取る。同じく永遠の命を求めて利己心の道を歩んでいることが、またキリスト言われた「実」としてならせている宗教団体に信を置くことがどうして神の是認をもたらすものか。

まさしく、その閉鎖性、排他性こそが、利己的であることの否定し難い証拠となっている。利己心のままに永遠の命という木の実を求めても、神がそれを与えるものだろうか。むしろ、回転する炎の剣がその行く手を妨げないだろうか。

 エホバの証人の神への賛美というものは、永遠の命という、自分にとっての最大益を与えてくれることへの喜びが基本的な動機であり、死への恐怖を最大限度に消してくれるご利益への賛美となっている。

だが、神の意図はそこになく、神が生かそうとする者の要件は利他的に神を含むすべての他者を愛せるか否かなのであり、来るべき終末の裁きに於いて、それこそが問われなくては『神は愛』ではなく、恐がる者を永遠に生かすということになってしまう。実のところ、その恐れを利用した支配欲が「統治体」の願いではないのだろうか。

 

 

 

神の裁きの要諦については

blog.livedoor.jp
 

ものみの塔指導部は信者の死への恐怖を敢えて利用している

以下のような挿絵の少なからぬ例には、不安を煽る印象だけでなく、巧妙な人々の深層心理への操作が見られる

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サブリミナル効果を意図した例

 不安を煽る配色と構図を持ち、核爆発のような「きのこ雲」を背景ににして不明瞭に随所にドクロや牙をむいた口が描き込まれており、見る人はそれと気付かずに深層心理で死への恐怖を煽られるよう工夫が凝らされている。

地上も暗く描かれ1914年からとされるキリストの巨大な臨在と死の恐れを結び付け、見る人々に意識させずに深層心理に訴える意図が見られる。ページをいっぱいを用いたこれは、単に挿絵という以上の役割を負っている。

その一方で「楽園となる地上」の明るい希望を伝える落差により、保身願望を更に煽ることになる。

こうした図版は、たまたまこのように描かれてしまったというわけではなく、四色カラー版の出版が始められた1984年以降、こうして見る人々に無意識の恐れを懐かせる工夫が凝らされ心理効果を意図したと指摘された図版が散見されてきたが、近年に出版された書籍の図版でもこのように繰り返されている。このようなサブリミナル効果は商用では禁じられて久しい。

私見だが、おそらくこれは教団の意向を端的に示す例、また、指導の方向性を物語るものなのであろう。即ち、深層心理にまで働きかけて人を掌握しようとする意図であり、それが曖昧で、いざとなれば言い逃れできそうな範囲の施策であればこのような手段も躊躇しないということになる。しかし、これが「神の経路」と称する団体の取るべき方法と言えるだろうか?

おそらく指導部は、これが人々に永遠の命をもたらすことであるから、こうした手段も正当化されると念じているのかも知れない。だが、それでは人に知られないところでの行いは何でも許されることになりはしないものか?

ものみの塔は「神の経路」を主張するのだが、このように人に曖昧な仕方で関わるのは神ではなく、別の霊的存在者が人間にアプローチする方法ではないのだろうか。

 

 「神の王国は支配している!」2015年刊 より

 

 

 結論

「神の裁き」というものに対する観念が、結果の生と死に集約され過ぎてしまい、そこから「生き残る」という発想で捉えてしまっていた。

従って、人の利害の観点からキリスト教にアプローチしてしまっている。それが「楽園での永遠の命」を得るという目的意識に結実してしまった。

だが、「神の裁き」の意図は、保身目当ての魂と共に神が生きることにはないと言える理由がある。神を含む他者とどのように関わって生きて行こうとするのかがエデンの「二本の木」の選択以来問われている。これが「倫理」という問題であり、それはエデン以来すべての人に問われるべきものであり、その先に「永遠の命の木」がある。

ゆえに、「神の裁き」には人々のこの種の選択、即ち「倫理」が問われているのであり、その倫理上の選択が「信仰」となって現れることを聖書は再三示している。

しかし、エホバの証人の信仰とは、恐れに動かされて精神的な袋小路の狭隘な奥に追い込まれてしまっており、自然な価値観から遠く離れて、却ってその歪んだ価値観が正しく善良な事と感じるよう平素から慣らされてしまっている。

この人々にとっては、理性的というよりはずっと感覚的にこの組織に属する事が正しく、安全であるという信念に取り込められているのだが、その原動力はつまるところ恐怖であり、生き残ることを目的とするあまりに、自由な選択としての信仰、エデンのアダムとエヴァがそうであったような、監視も障碍もない環境下での選択を許した神の意図を無視しているというべきであろう。

言うまでもないことながら、規則化によって救われる者が分けられるとするなら、それはユダヤ教のものであり、神が本来意図したものとは言えない。律法はキリストが現れるまでの教師であり警護者であり、また神の全き義の精神を映し出し、義なるキリストひとりを指し示したものであったが、キリストの犠牲の実現によって、その役割を十全に果たし終え、そこから信仰による義が到来する事となった。

義をもたらす信仰とは、恐れなく自由な選択ができる状況下でこそ抱けるものにほかならず、脅されるものではけっしてない。神が脅して従順になる人々と共に生きようとすると思えるだろうか。むしろ、自発的に神を敬う人々を望まないのではないか。神は誰にも永遠の命を与えることは不可能ではなく、そうしないのは、共に生きる者すべてが愛で結ばれることを望まれるからである。

この点で、根本的にものみの塔はこれまで「神の裁き」を災害のように生存を脅かすもの、逃れるべきものと教えて来たのであり、この点で神の意図を見誤った。それは天国と地獄を教える「キリスト教世界」のご利益信仰と本質は変わらなかったという他なく、教会員が不信者を地獄行きだと確信しているように、同じく排他的なのである。

では、エホバの証人の方々は、この排他的独善をどうなさるだろうか?

人間に由来するものは間違いを避けられず、聖霊によって神と結ばれた宗教というものは今日存在しない。では、せめてそれを認めて謙虚に振る舞うことくらいはできないものか?そうすれば少なくとも圧制の害は相当程度避けられるのではないか。

 

 

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-LF-

(しかし、長文なので引用に利点あり)

 

 

新世界訳日本語版に見られる原文からの乖離

 

マタイとマルコに於ける日本語重訳の際の付け加えと省略(おそらく新版でも)

 

念のため

(概して新世界訳聖書は大方のキリスト教会が主張するほどの問題ある翻訳とは言えず、自分の見るところ、全般的には日本語の主要な翻訳に比べて原語への忠実性では読者への配慮に優れたところが多く、その点ではむしろ優良と言える。但し、翻訳母体となった「ものみの塔」の教理に影響され、訳が意図的に調整されているところも散見される。それでも、それらを除いたところでは、ある程度の日本語の不自然さもそのままに原語に従う姿勢から、他の翻訳に勝って配慮が為されている。いずれにしても、どのような翻訳も完全無欠なものを作ることは不可能であり、訳者の解釈が避けられるものはない。従って、聖書を探求しようと思うなら、翻訳の比較と原語の照合は必須であり、研究者はその過程を通して各翻訳を評価できるものであり、聖書理解を深めることができる。この頁も、そのような照合によって得た知識であり、いずれかの翻訳聖書を称揚また誹謗する意図をもたない。まして、ヘブライ語本文には母音がないために同定されていない単語、古過ぎて意味不明の単語もあり、ギリシア語本文では多くの異本が存在する以上、「逐語霊感説」のような聖書の捉え方は「偶像化」の危険を冒すばかりであろう)

 

 

◆以下は非常に大きな問題になるけれども、誰も気にも止めないのだろう

 

Mt24:5-9(口語訳)

24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。

 

アンチ・クリストの現れと戦争の噂を並置し『まだ終わり<テロス>ではない』

6節から9節は以下の通り

[6μελλήσετε δὲ ἀκούειν πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων· ὁρᾶτε μὴ θροεῖσθε· δεῖ γὰρ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω ἐστὶν τὸ τέλος.

 7ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπὶ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν καὶ ἔσονται λιμοὶ καὶ σεισμοὶ κατὰ τόπους·

 8πάντα δὲ ταῦτα ἀρχὴ ὠδίνων.]NA28

6節は一文が終わっており、7節には前節を関連付ける単語は存在していない。

 

次いでMk13:6-10(口語訳)

『13:6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
13:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
13:9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。』

[6πολλοὶ ἐλεύσονται ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου λέγοντες ὅτι ἐγώ εἰμι, καὶ πολλοὺς πλανήσουσιν.

7ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκοὰς πολέμων, μὴ θροεῖσθε· δεῖ γενέσθαι, ἀλλ’ οὔπω τὸ τέλος.

 8ἐγερθήσεται γὰρ ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν, ἔσονται σεισμοὶ κατὰ τόπους, ἔσονται λιμοί· ἀρχὴ ὠδίνων ταῦτα.

  9Βλέπετε δὲ ὑμεῖς ἑαυτούς· παραδώσουσιν ὑμᾶς εἰς συνέδρια καὶ εἰς συναγωγὰς δαρήσεσθε καὶ ἐπὶ ἡγεμόνων καὶ βασιλέων σταθήσεσθε ἕνεκεν ἐμοῦ εἰς μαρτύριον αὐτοῖς.

 10καὶ εἰς πάντα τὰ ἔθνη πρῶτον δεῖ κηρυχθῆναι τὸ εὐαγγέλιον.]

 

やはり7節で一文が終わっており、8節には前の節を解説するようには語られていない。

 

Lkの相当部分21:8-13(口語訳)

『 21:8 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。
21:9 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。
21:10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。
21:11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。
21:12 しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。
21:13 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。』

[8ὁ δὲ εἶπεν· βλέπετε μὴ πλανηθῆτε· πολλοὶ γὰρ ἐλεύσονται ἐπὶ τῷ ὀνόματί μου λέγοντες· ἐγώ εἰμι, καί· ὁ καιρὸς ἤγγικεν. μὴ πορευθῆτε ὀπίσω αὐτῶν.

 9ὅταν δὲ ἀκούσητε πολέμους καὶ ἀκαταστασίας, μὴ πτοηθῆτε· δεῖ γὰρ ταῦτα γενέσθαι πρῶτον, ἀλλ’ οὐκ εὐθέως τὸ τέλος.

  10Τότε ἔλεγεν αὐτοῖς· ἐγερθήσεται ἔθνος ἐπ’ ἔθνος καὶ βασιλεία ἐπὶ βασιλείαν,

 11σεισμοί τε μεγάλοι καὶ κατὰ τόπους λιμοὶ καὶ λοιμοὶ ἔσονται, φόβητρά τε καὶ ἀπ’ οὐρανοῦ σημεῖα μεγάλα ἔσται.

  12Πρὸ δὲ τούτων πάντων ἐπιβαλοῦσιν ἐφ’ ὑμᾶς τὰς χεῖρας αὐτῶν καὶ διώξουσιν, παραδιδόντες εἰς τὰς συναγωγὰς καὶ φυλακάς, ἀπαγομένους ἐπὶ βασιλεῖς καὶ ἡγεμόνας ἕνεκεν τοῦ ὀνόματός μου·

 13ἀποβήσεται ὑμῖν εἰς μαρτύριον.]

 

10節は[Τότε ἔλεγεν αὐτοῖς]「それから彼は言った」or「その折に彼は言った」とあり、前の節とは分かたれており、ますます、前の内容を説明してはいない。

そこで『戦争や戦争の噂を聞く』事と、『民は民に、王国は王国に決起し』という相互戦争とが同じものであると確言はできない。

ものみの塔」の新世界訳英語版でマタイの7節の前半は

”For nation will rise against nation,and kingdom against kingdom,”

NKJVでも

”For nation will rise against nation, and kingdom against kingdom.”

違いは節がコンマで終わるかピリオドで終わるかだけである。その前の節の中にも"because"などの句は存在していない。

同節の新世界訳ドイツ語版では

"Den Nation wird Nation sich gegen Nation erheben und Königreich gegen Königreich,"であり、英文のままに踏襲し前の節と関連付ける単語は存在していない。これは中国語版でも守られている。(中国語版には別の箇所に問題を発見:Mr13:10「但是」これを"kαι"の訳語としている日本語訳には新共同があるが共に前節との関連を断っているがこれはNWTの本意とは言えない)

しかし、新世界訳日本語版では

『そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。6 あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。
7 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。8 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
9 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。』

 

Mkでも『7 また,戦争のことや戦争の知らせを聞いても,恐れおののいてはなりません。[これらの事は]必ず起きますが,終わりはまだなのです。 8 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,』

この『というのは』と原語にも翻訳原文にもない一語をマタイとマルコに付け加え、『戦争の噂』と相互戦争とを関連付けているのは、新世界訳でも日本語のスタンドプレーになってしまっている。これが重訳される際には意図的な付け加えであったことは言い逃れできないに違いない。どうしてこのようなことが起ったか。

 

以上の付け加えによって、日本語版での『戦争や戦争の噂』は後の節の相互戦争と同じものであると解釈することが不可避にされたが、ルカ当該部分では

『9 さらに,戦争や無秩序な事態について聞いても,恐れおののいてはなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし,終わりはすぐには[来]ないのです」。

10 それから[イエス]はさらにこう言われた。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がるでしょう。』としており、『それから』”furthermore”という語が前後の節を区切っており、他のふたつの共観福音書との意味の上での整合性を『というのは』の付け加えによって失っている。

日本のエホバの証人にとって、これは気にもならない付け加えなのであろうが、ダニエル書と照合してゆくと、この理解でゆけば、終末期で非常に重要な違いに直面することが分かる。⇒「二度救われるシオンという女」

これはけっして些細な違いとは言えない。

(それでも「というのが」の句が適切に訳されている箇所もあるExp;Joh6:40 文頭の[τοῦτο γάρ ἐστιν]で、これには確かに 「これは即ち」の意であり、このような場でこそ用いるべきものであろう)

 

なぜ問題かを態々悦明すれば・・

『戦争の噂を聞く』のは『まだ終わりは来ない』段階のことである

それに対して『国民は国民に敵対』する事態は別である可能性が原文には存在している

この二つは同じものでないと言えるのは

一方が噂を聞くことで怖れ慄かないよう訓戒しているが

もう一方をルカと比較すると聖都の存亡に関わる戦争について『国民は国民に敵対』としている。それは『噂を聞く』ので『怖れ慄かないようにする』では済まず、『山に逃れる』べき事態の到来を指す。それはユダヤ体制の『終わり』(テロス)を意味しており、ローマの侵攻であって『まだ終わりは来ない』段階のものではない。

第一世紀でも最後のローマ侵攻までに騒擾は何度も起っていたが、終末にはそれに相当する象徴的な南北対立が予告されている。それは諸国の権力の集合が同士討ちをする結果には終わらない以上、それは最終戦争にはならず『まだ終わりは来ない』段階の戦争である。

この『戦争の噂』の語句はヨセフスが戦記で使っており、その場合も実際の戦闘は皇帝カリギュラ崩御によりすんでのところで回避されている。

この違いが分からないなら、これらの事態が発生する終末にも双方の戦争が何かも分からないことになる。これら二つの戦争は範囲も性質も異なっていることを聖書全体は暗示していると言える理由がある。

殊に、ダニエル書の第11章の中に描かれる南北の覇権国家の対立が、ヨエルやゼカリヤなど旧約の預言に予告される同士討ちであるかと言えば、それらを共に『国民は国民に立ち上がり』という当該次節の言葉と同じものを指すかといえば、ほかならぬキリスト自身の『終わりはまだ』との発言がこれを否定している。

 

(思うに「ものみの塔」の解釈では、なんでもかんでもハルマゲドンにテロスを集約し、大患難を単純化し過ぎて、世界が滅ぼされても自分たちは救われることばかり妄想しているので、この辺りがどうでも良くなっているのであろう)

だが、これはどうでも良いことにはならない。ふたつの戦争の間に重要な事態が生じることを聖書が暗示している。なぜなら、聖徒は終末期の三年半が終わると地上の終末の舞台を後にするからであり、テロスを地上で見るのは信徒であるから、キリストの終末預言は聖霊注がれる聖徒の事だけでない事柄が織り交ぜられている。

『北の王』による『南の王』の領域への侵入は、聖徒攻撃を惹き起こすとしても、やはり、聖徒らは脅迫に屈するべきでないことに於いて『恐れてはならない』し、信徒の場合にも、聖徒の滅ぼしに成功したからといって『北の王』の脅迫に恐れるべきではない。そのすぐ後に『北の王』は最後を迎え、信徒らは救われるからであり、ハルマゲドンの戦いに至ってはなおのこと安全に守られる。その点は迫害に消える聖徒とは異なるが、共に脅迫に屈してはならない。

 

 

つまるところ・・「クリスチャン」と称する人々は

おしなべて自分が救われるなら、あとはどうでもよいらしい

そのために教師らには神を信じてやっているのであり寄付もしている

神の意志や計画や想いを探り、その偉大さを畏れるというわけでもないらしい

『人の子が到来する時,地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか』

 利己主義という一神教の盲点

 

 

◆ 終末預言に関しては、もう一か所に英文と整合するとは言えない重要箇所あり

Rev6:4

すると,別の,火のような色の馬が出て来た。そして,それに乗っている者には,人々がむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された。そして大きな剣が彼に与えられた。

問題箇所は「人々がむざんな殺し合いをする」との訳文中に「互いに」の語が省略されている点で英文では

”And another came forth, a fiery-colored horse; and to the one seated upon it there was granted to take peace away from the earth so that they should slaughter one another; and a great sword was given him.”

となっており、これはNKJVの

”Another horse, fiery red, went out. And it was granted to the one who sat on it to take peace from the earth, and that people should kill one another; and there was given to him a great sword.”

とも異なり新世界訳日本語版だけ「互いに」に相当する単語が存在していない。

 

また、新世界訳ドイツ語版

Und ein anderes,ein feuerfarbenes  Pferd kam hervor  und dem,der darauf saß, wurde gewährt, den Frieden von der Erde wegyunehmen, so daß sie einander hin schlachten  würden, und ein großes Schwert wurde ihm gegeben.  

ドイツ語訳では英語に近いこともあってか、この点で寄り添っている。

 

以下、中国語版

有另一匹马出来,是火红色的。骑马的可以夺取大地的和平,叫人互相残死。他还得了一把大剑。

中国語版も英文に忠実であり原語にも適うのだが、日本語版の異なりが目立つ

これは他の日本語翻訳と比較しても言えることで

 

すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。【口語訳】

 

すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。【新改訳】

 

ただ、新共同訳だけが

すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。

として同じく「相互の闘い」であることをぼかしている。

 

この問題点は、ハルマゲドンに集められた軍勢について、「エホシャファトの谷」などの描写を通してネヴィイームの唱える同士討ちによる破滅の概念をこの黙示録の句の理解から遠ざけている点にある。

だが、上記に見るように英語版新世界訳でもそのようにはしていない。

この項で扱った例からすると、日本語版新世界訳の翻訳委員には、ものみの塔の終末解釈を英文新世界訳以上に誇張し、原語にも英文にも無い句を挿入し、また存在している句を省いている。

その翻訳の精神といえば、英文翻訳への忠実性でも、原語本文への配慮でも、少なくともこれらの点で十分とは言い難く、読者にはものみの塔の教理だけを植え付ける強権を感じさせる。

もちろん、どのような翻訳であっても訳者の解釈の影響を受けないものはないのだが、日本語版新世界訳には、英語版への忠実さも欠けたところがないとは言えず、必ずしも良識的かといえば、肯定するには無理がある。

 

日本語版新世界訳では、「というのは」との句が少なくない。

それがJh1:16、3:16など正当な箇所もある、同じMt5:46も有って然るべき箇所ではある。Mt16:26などは、他の翻訳聖書が明らかにそこに有る[γαρ]を省略しているケースが多い中で、はっきりと「というのは」を訳しており、それは原語本文に寄り添う点では新世界英文だけでなく、NKJVなどにも準拠している。

それなので、殊更Mt24:7の怪が深まる。

 

Mt5:46

Mt14:3

Mt16:26

Mt20:1

Mt24:7

Mr6:17

Mr7:3

Mr9:49

Mr13:8

Lk8:29

Lk9:7

Lk22:27

Lk23:31

Jh1:6

Jh3:16

Jh5:21

Jh6:40

ほとんどが節の頭に「というのは」を置いている

「それというのも」は全巻でエステル記一か所のみ

「というのは」が翻訳上の口癖になったらしい

 

・上記の他に、英文NWTそのものに明らかなミスがあったのに

各国語への翻訳者が意義を唱えなかったか、黙殺された句

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